4-016. クリスタのダメ出し
朝霧の街道をランタンを灯しながら二両の馬車が走る。
先頭を走る馬車には、ネフラが一人で乗っている。
あの子なら一人でも退屈せずに馬車の旅を過ごせるだろう。
なぜなら、彼女のリュックには何冊もの写本が詰まっているからだ。
一方で、後方を走る馬車には俺とクリスタが同乗している。
狭い客室の中で俺は息が詰まる思いだった。
なぜなら、向かいの魔女に刺すような視線を向けられているからだ。
「どうしたの? さっきから黙ってしまって」
妖艶な笑みをたたえたまま、クリスタが口を開いた。
「……いい眺めだなぁと思って」
「この景観の悪い丘陵地帯が? 本気で言っているの?」
「冗談だよ」
「私は冗談は好かないわ」
「……」
「無視だなんて感心しないわね」
チラリとクリスタを見やると、彼女はわざとらしくケープをはだけさせ、露になった両肩をこれでもかと見せつけてきた。
肩からうなじにかけての肌から、にわかに汗が滲んでいる。
体は前屈みになり、両腕で胸を押さえつけて深い谷間が。
足を組んでいるせいで、短いスカートのスリットからは太ももが。
それぞれ俺の視覚を刺激する。
……正直、目のやり場に困る。
「あなた、煙草は吸わなかったわね」
「ああ」
俺が答えるなり、クリスタが胸の谷間に指を突っ込んで煙管を取り出した。
よりによってそんなところから取り出すとは、どんな手品だ……。
「私は好きよ」
「知っているよ」
クリスタは煙管の先端で宙に円を描くようにくるりと回した。
すると、空中に小さな赤い魔法陣が現れた。
彼女の持つ煙管には宝石があしらわれている。
それによって、魔法陣から火を起こすことが可能なのだ。
「……ふぅ。煙草にはね、緊張をほぐす効果があるのよ」
甘い香りが俺の鼻先にまで漂ってくる。
すると突然、煙管から吸い込んだ煙を俺へと吹きかけてきた。
「ごほっ、ごほっ! 何するんだっ!!」
「ふふふ。今のうちに煙管の煙には慣れておきなさい」
「はぁ? 何を言っているんだ」
クリスタは背もたれに寄りかかると、足を組み替えた。
その所作を前に思わず目線が下に落ちてしまう。
「うわっ」
俺の顔に再び煙が吹きかけられた。
咳き込みながら煙を払うと、クリスタが肩を揺らしている。
「視線の動き、バレバレよ」
「くっ……。だからって、人の顔に煙を吹きかけるのはやめてくれ!」
俺の注意などクリスタは絶対に聞いてくれない。
現に、今も俺の不満などまったく意に介さずに煙管を楽しんでいる。
「最近、ネフラと二人きりで旅をすることが多いようね」
「人手が足りないんでね」
「あの子、私の誘いには乗らないのにあなたにはついていくのね」
「ネフラを脅かすようなことばかりしているからだろう」
「脅かすなんてとんでもない――」
またクリスタが足を組み替える。
……やっぱり見てしまうんだよなぁ、俺は。くそっ!
「――シャイな子をからかうのは面白くてね」
「それが悪いんだよ」
「前から思っていたけれど、あなた年下に好かれるわよね」
「突然、何を言いだすんだ」
「ネフラといい、アンといい、トリフェンといい、勇者もそうだったわね」
今クリスタがあげた名前は、確かにみんな俺より年下だ。
だけど、それがどうしたというんだ?
「あなたのどこにそんな魅力があるのかしらね」
唐突なディスりに、俺は思わず固まってしまった。
「よくそんなことが面と向かって言えるな……」
「私が〈ジンカイト〉に入って五年余り。その間あなたのことを見てきたけれど、ジェットが後釜にあなたを選んだことには驚いたわ」
それを言われて俺は内心ギクリとした。
実のところ、なぜ後任に指名されたのか俺自身よくわかっていないのだ。
ギルドマスターは見込んだだの、信頼しているだの、ふわっとした理由しか言ってくれないまま旅に出てしまうし……。
俺なりに今まで次期ギルドマスターとして頑張ってきたつもりだが、心のどこかに不安や迷いがあるのも事実なんだよな。
クリスタには、そんな俺の心を見透かされているのだろうか。
「……俺じゃダメだと思うか?」
今まで口に出すまいと思っていた言葉を、恐る恐る吐き出してみた。
直後、三度クリスタに煙を吹きかけられた。
「言葉は力を持つ。責任ある人間が、責任を放棄するような発言は控えなさい」
「ごほっ、ごほっ! なんだよいきなり……っ」
この女、なんでこんな嫌がらせをしてくるわけ?
サディストなのか?
俺をいびるのが楽しいのか!?
「でも、とっさの機転でクロードを倒しているし、あなたも凡夫なりに実力を示してきたことは認めるわ。あなたの底力を見抜いた上での人事だったのかもね」
一瞬、クリスタの発言に違和感を覚えた。
奥歯に物が引っかかるような、この気持ち悪い感じはなんだ……?
「……お褒めに預かり光栄だな」
「それでも……どうしてあなたが、という思いが拭えないのよね」
「悪かったな。俺自身、ギルドマスターの器には至っていない自覚くらいあるさ」
「それもそうだけれど。私にはもうひとつ、懸案があるのよ」
「それって俺に何か関係あるのか?」
「あるわ」
「なんだよ」
「あなた、私のことを抱きたいと思ったことある?」
俺は言葉を失った。
なぜ急にそんな話題を持ち出したのか理解に苦しむ。
「もしかして酒でも飲んできたのか?」
「私が飲んでも酔わないこと知っているでしょう。そんなことより、今の質問に答えてくれないかしら」
「なんなんだよ……」
今のクリスタからはいつもと違う怖さを感じる。
ここは素直に彼女の問いかけに答えた方が身のためだろう。
贔屓目抜きで、クリスタは美人で蠱惑的な女性だと思う。
だが、俺の目にはそれ以上に恐ろしい魔女として映っている。
正直、彼女をそういう対象として見たことはなかったが、それを素直に答えて怒りを買ったりしないだろうな?
「……ない」
「一度も?」
「ない」
「本当に?」
「本当だ」
「それはそれで気に入らないわね」
どうしろってんだ、この女!
「でも、やっぱりそうよね。私もあなたに男性的な魅力を感じないし――」
そういうことを面と向かって言うのはあんまりじゃないかな。
少しは俺の自尊心も気にかけてくれよ。
「――それが、どうしてあんなことになるのかしら」
「あんなことって?」
「気にしなくていいわ。どうせあんなもの、胡蝶の夢のようなものだから」
なんだなんだ、なんなんだ?
さっきから何が言いたいのか、まるでわからない。
「クリスタ。きみが何を言っているのか理解できない」
「クリスタリオスよ。クリスタと呼ばないで」
ギロリ、と鋭い眼光が俺を睨む。
たった一言ミスしただけで、客車の空気がピンと張り詰めてしまった。
頼むから少しは寛容さも身につけてくれ。
お前に一番足りないのはそういうところだぞ。
……とは言えない。
「今の話は忘れてちょうだい。だけれど〈ジンカイト〉のギルドマスターになるのなら、あなたも早く等級Sくらいになってもらわないと困るわ」
「そんな簡単に言うなよ」
「せめて私と肩を並べてもらわなければね――」
クリスタは首から下げた冒険者タグを、これ見よがしにつまみ上げた。
タグには美しいダイヤモンドが輝いている。
しかし、俺が最初に凝視したのはその虹色の輝きではなく、その後ろにある蠱惑的な谷間だったけど。
「――さすがに譲り受けたタグで、等級Sの冒険者を名乗るなんて恥知らずな真似はしないでしょうけれど」
「……!」
……ああ。そうか、そういうことか。
今のクリスタの言葉を聞いて、さっき引っかかった違和感の正体がわかった。
「クリスタリオス」
「何?」
「どうしてクロードが生きていることを知っている?」
「……何のこと?」
「とぼけるなよ。今もさっきも、あいつが生きている前提で話していただろう」
クリスタが押し黙った。
後ろめたいことがなければ、口達者な彼女が口論で黙るなんてことはない。
そういう性格の女だと俺は嫌というほど知っているからな。
「教皇庁にはクロードは死んだと伝えてある。そこからクロードの一件が漏れたとしても、あいつが生きていることを知る者はいない……俺とネフラ以外には」
クリスタがプイッと俺から目を逸らした。
そんなこと、ますますクリスタらしくない。
「きみは何を隠しているんだ?」
「なんだか暑くなってきたわね」
いくらなんでも話題の切り替え方が強引すぎる。
彼女の態度から、どうしても答えられない事情があると見た。
この場にフローラがいれば、看破の奇跡で真実をあぶりだせるのだが――
「まぁ、答えたくないなら答えなくてもいいさ」
――俺自身、解雇通告を黙っているので無理強いはできない。
とはいえ、やはりこの魔女には気を許せないことだけは確かだ。
「そろそろ高原地帯だわ」
窓の外を眺めながらクリスタは首回りの襟を掴んで煽ぎ始めた。
それによって、たわわな胸がゆさゆさと揺れ動く。
俺はそれを少し凝視した後、クリスタと同じ方向に顔を向けた。
窓の外には、ちらほらとサボテンの姿が見えてきていた。
すでにゲイル丘陵を越えて、シルフィード高原へと入ったらしい。
「あまり男の前でそういう恰好は……見せない方がいい」
「あら、ジルコ。紳士ぶっても、その皮の下の狼は隠せていないわよ」
狼とはなんだ、狼とは。
ああいうところをついつい見入ってしまうのは、男としての本能なんだから仕方ないだろう。
不可抗力である以上、俺が罪悪感を抱く必要はない。
……ん。誰への、罪悪感だ?
◇
しばらくして、馬の交換に街道沿いの町へと馬車が停まった。
数時間ぶりに客車から降りた俺は、不思議と外の空気を美味しく感じた。
「この町には三十分ほど停車いたします」
御者が馬車馬の馬具を外しながら言った。
「ジルコくん、大丈夫だった?」
前の馬車から降りてきたネフラが、心配そうな顔で尋ねてきた。
俺のことをずっと心配してくれていたのだろう。
なんていい子なんだネフラ。
「別に心配するようなことはなかったよ」
俺がネフラの頭を撫でようとすると、本でガードされてしまった。
最近、撫でさせてくれないな……。
「クリスタリオス! 俺とネフラは水を買いに行くが、きみはどうする?」
「間に合っているわ。いってらっしゃい」
クリスタは客車に留まったまま、じっと窓の外を見つめていた。
本当に足並みを揃えるってことをしないな、この女。
俺はクリスタを馬車に放置して、ネフラと商店街に向かった。
「……本当に何もなかったの?」
「なんで?」
「クリスタリオスの機嫌が悪そうだったから」
俺の目にはいつも通りの澄ました顔をしているように見えたのだが、ネフラには違って見えたのだろうか。
俺の観察眼もまだまだと言わざるを得ないな……。
◇
水分を補給して町の入り口に戻ると、クリスタを乗せた客車は扉が閉められていた。
御者からは、ネフラと一緒に先頭の馬車に乗るようにうながされる。
それはクリスタの意向ということだった。
「まぁ、そういうことなら遠慮なく」
「よかった。ブリッジまでずっと一人は嫌だったから」
その後、俺はネフラと先頭の馬車に。
クリスタは後方の馬車に乗ったまま、ブリッジを目指すこととなった。
警戒していた賊の襲撃もなく、街道の旅は滞りなく進んだ。
それからさらに数日。
走行する馬車に、塩の臭いが届いてくるようになった。
高原の彼方から海のように大きな塩湖――グランソルト海が見えてきて、いよいよ海峡都市ブリッジが近づいてきたことを実感する。
王都からブリッジへの長旅も、もうすぐ終わりを迎えるのだ。