第七話 子猫のお守り
「ふぅ、さっぱりした。後は寝るだけ……」
風呂から上がった錬を、スティフは当然のようにベッドの上で待ち構えていた。
「提案。信頼関係の構築には添い寝が効果的との情報を入手した」
「……だろうと思っていた」
だが、錬もこの短い数日の間で彼女の起こす行動がある程度予測できるようになっていた。
彼は狼狽えることもなく、ただ静かに予備のマットレスを敷こうと押し入れを開けた。
――そんな彼の裾を、スティフが小さく引っ張る。
「疑問。やはり当機は不適格……?」
「うぐっ……」
しかしその寂しげな瞳には結局勝てず、仕方なしに彼はスティフと同じ布団に入るのだった。
超えてはいけない一線を意識して悶々としつつも、いつの間にか錬は寝ていてしまったようで、次に意識を覚醒させた時にはすっかり日も昇っている頃合いだった。
果たして本当に何もなかったのか必死に記憶を探りながらも乾燥パスタをベースとした朝食を終え、大学へ行こうと玄関へ向かった錬をスティフが呼び止める。
「献上。昨晩提案した護石の出力が終了した」
「ふむ。これが例のお守りか。どんな代物かと思えば、見た目は案外普通なのだな」
錬は手のひらに乗せて、その全体をジロジロと観察する。
黒い子猫を模した、指先程度の小さな人形だ。くりりとした金色の眼が妙に可愛らしい。
ご丁寧に細い金のチェーンも一緒になっており、これで首にかけろということのようだ。
「説明。子猫の眼の開閉で効果の有無を選択可能。現在は不活性状態」
「分かった。これを閉じれば件の先輩に認識されないのだな」
「肯定」
「それでは、ありがたく頂戴する」
具体的な効果は不明だが、詳細な原理の説明を受けたところで理解できないのは既に承知している。
錬は精々光学迷彩などかと適当に当たりをつけながら、そのお守りを首からシャツの下に隠すようにして下げた。
「では行ってくる。今晩の食事も楽しみにしているぞ、スティフ」
「了承」
ぺこりと頭を下げた彼女を背に、錬はすっかり見慣れた駅へと続く道を歩き出した。
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そして、陽菜と合流して一日の講義を終えた後。
「では、本日の講義は以上で終了です。次回までの課題として、各自提示されたレポートを所定の書式で提出しておくように」
教授が去っていくと同時に、周囲の面子はようやく解放されたと騒めき出す。
優に一時間を超えて拘束される苦痛から逃れた彼らの今日は、今この瞬間からが本番だ。
サークルにアルバイトに恋愛と、華の大学生活は講義の終了と同時に始まると言っても過言ではない。
一方錬はと言えば、そんな呑気な学友たちを傍目にそっと疲れたようにため息を吐いた。
その視線の先にいるのは、この一日ですっかり見慣れてしまった例のあの人だ。
「……またか。ここまで来るともはや、自分の講義予定は完全に把握されていると考えた方が自然だな。まったく、どのようにして入手したのだろうか」
「ここまで徹底してストーキングされると、もはや笑うことも出来ませんね。ふ、あははっ」
「言動が一致していないぞ、陽菜」
「私のことではありませんから」
二人がこそこそと眺めるのは、講義室の出入り口だ。
その脇には、一人の女性がひっそりと佇んでいる。
真っ黒の服装に身を包んだ彼女は通りがかる学生に奇異の眼を向けられながらも、一向にかまうことなく、じぃっと部屋の中を静かに覗き込んでいる。
――なにも、この光景はたった今終了したこの日の最終講義だけではない。
彼女こと例の先輩は、錬と陽菜が受けた本日の講義全てにおいて必ずと言っていいほど部屋の出口を見張るように立っていた。
余りに強いその執着心に、昼休みが終わるころには錬は「顔を見ずに済むだけ、実は休憩時間よりも講義の方が気楽なのではないか」との疑念さえ抱くようになってしまった。
「これまでの大講義室は幸いにも出入り口がいくつも設けられていましたが、この部屋は残念ながら一つだけ。どうしても避けることは叶わないでしょう。……諦めて入部してはどうです?」
「それが出来れば楽なのだがな」
生憎と、スティフによる忠告を受けている錬には陽菜のように気楽に考えることは出来ない。
――今でさえ彼の視界には、先輩の背後に立つ瘴気然とした黒い影が映っているのだから。
直視することを躊躇せざるを得ないほどの正気度を削る光景だ。
それが見えてはいない陽菜にうまく説明出来ない気持ちを抱えながら、錬は一際大きなため息を吐いた。
「では、どうします? そこの窓も一応は出口と言い張れないこともないでしょうが」
「ハリウッドの俳優に憧れたことはあるが、せめて命綱の一つは欲しいものだな。それに自分の記憶が正しければ、ここは三階だぞ。間違って現世からも脱出してしまうわけにはいかない」
「あははっ、昨今の流行に乗れば異世界に転生できるかもしれませんね」
「残念ながら自分にはまだ、現世でやるべきことがあるからな。……下らないことを言っていても仕方がない。いつまでもこの部屋に閉じ籠ることは出来ない以上、行くしかないか」
覚悟を決めるように、錬はがたんと音を立てて勢いよく立ち上がった。
これまでは出来る限り自然な形で逃げてきたが、それもこれまでだ。
ついに錬は、スティフに託された摩訶不思議なお守りを使うことを決意した。
「行くぞ、正面突破だ」
「……本気ですか?」
「無論。そうしなければ、今日もお望みのサークル見学が出来ないからな。そら、そうと決まれば早くテキストを片付けるぞ」
机の上の参考書類を角を揃えて丁寧にしまい込む陽菜をよそに、錬はこっそりと懐へ手を伸ばす。
シャツの下に隠された猫の頭を手探りで見つけ、両の瞼を指先の感覚で――閉じた。
―― かちっ、
かちっ、
かちり……
かちんっ。
「む?」
「どうかしましたか、錬?」
「……いや、なんでもない」
不審な目を向ける陽菜に言葉を返しつつ、錬は今この瞬間に、自分の身体に奔った違和感について考えを巡らせた。
一見して、彼の視界に映る世界には何も変化がない。
――だが、間違いなく。
今の自分には言葉に出来ない何かが、確かに変わったことを錬は感じ取った。
なぜか自分だけ世界が僅かにズレたような、違和感。
妙な肌寒さが、ぞわりと彼の肌を撫でた。
「はい、これで私は準備万端ですよ。って、錬はまったく片付いていないではないですか」
「す、すまない。すぐに片付ける……」
心臓が訴える悪寒を押さえつつ、錬は手早く自身の後始末を終える。
重くなった鞄を背負い、彼は陽菜に先立って教室の出口へと足を進めた。
緊張のあまり、すたすたと硬質の床と靴が擦れる音がやけに大きく聞こえる。
「……」
溢れてきた唾液を舌先で弄んでいる内に、互いの距離は段々と狭まっていく。
錬と先輩の間隔が一歩、また一歩と確かに縮まる。
彼は強張りそうになる身体を強い意志で動かそうとして、無意識の内に足を速めていた。
――そして、擦れ違いざま。
「ん……?」
教室内を窺っていた先輩の瞳が、動いた。
びくりと、錬が体を震わせる。
しかし、その視線が向けられたのは錬ではなかった。
彼女が凝視したのは、その背後を歩く陽菜だった。
そしてすぐに興味を失ったのか、彼女の顔は再び教室内を窺う作業に戻った。
「……」
「……」
「……」
三者一様に無言のまま、その交錯は何事もなしにあっけなく終わったのだった。
錬と陽菜はそのまま校舎の外に出るまで互いに口を開くことはなかった。
ガラス張りの玄関を抜けて、春の陽気をすうっと吸い込んで、ようやく落ち着きを取り戻す。
「……ふぅ。うまく行ったようだな」
「そうですね。よく分かりませんが、捕まらずに済んだようです」
互いに目を丸くしながら、二人は今起こった出来事について顔を見合わせる。
「一体なんだったのでしょう。あれほど執着していた割には、あっさりと逃げられましたね」
「うむ」
首を傾げる彼女に、錬はあまり深く考えないように言葉をかけた。
――下手に疑問を持たれて深くこちら側に関わろうとされては困る、と
「まあ、逃げられたのだからこれで良しとしよう。触らぬ神に祟りなしだ、これ以上は考える必要はない」
「……あはっ、それもそうですね。では行きましょうか! はてさて、ここから近いのはどちらのサークルだったでしょうか?」
「確かここから近いのは、陽菜がお望みのゲームの方だったはずだ。まずはそちらからだな」
「はい! 嫌なことはさっさと忘れて遊びましょう!」
学内パンフレットを睨みながら先導する陽菜の後を追いながら、錬は頭の中で先ほどの光景を思い出す。
――陽菜の言う通り。あれほど自分を探していた先輩が、まさか見失うことなどあるだろうか。
あの時の彼女の様子は、雪花のことはともかくとして、まるで鍋島錬という存在を認識していなかったような――?
「ほらほら、遅いですよ錬……大丈夫ですか? 眉間に皺が寄ってますよ」
「あ、いや。すまない。大したことではないから、忘れてくれ」
と、そこまで考えたところで彼はこっそりとシャツの上から猫の眼を元に戻した。
っちか ――
、っちか
……りちか
。っんちか
再び、錬の世界が歪む――否。
あるべきものが正しく戻ったような感覚と共に、錬の胸に圧し掛かっていた謎の息苦しさが消えていく。
「おや、なにをしているのです? なにやら気分がすぐれないように見えますが」
「気にするな。なんでもない」
「そうですか? ……そのようなしかめっ面をしているから、自然と悪いことを考えてしまうのです。ほら、笑顔を作りましょう。こうやって、私のように。あはははっ!」
安堵の息を吐く錬を、にっこりとした陽菜の顔が覗き込む。
「……なるほど。こうか?」
真似してみるも、彼女は納得せずに直接手を出して錬の頬を吊り上げた。
「違います、こうですよ、こう。苦笑程度では駄目なのです。もっと大きく、ほら!」
「痛い痛い、止めてくれ。死ぬ、自分の口が爬虫類のように裂けてしまう!」
「この程度で割れませんよ、そらっ!」
「ぬおおぉぉっ!?」
そんな、端からは間抜けにもいちゃついているようにも見える光景を繰り広げながら、錬と陽奈は共に部活棟へと足を進めた。




