第四話 暗くて甘い、呪いの気配
「申し訳ない。離していただけると助かるのだが――」
「いいから……いいから……」
「自分は少しも良くはないのだがっ!」
錬が多少口を強めようと、陰気そうな先輩は一向に手を離そうとはしない。
ぎちりと軋む手首を人質に取られ、錬はそのまま彼女に無理やり部室棟へと引き摺られていった。
その後ろにぴったりとついてきた陽菜が、彼の身を案じて声をかける。
ただし、先輩には聞かれぬようにひっそりと。
「あははっ、大丈夫ですか錬?」
「これが大丈夫に見えるのか。無理に逃げようとすると手首が千切れてしまいそうで、正直なところ、非常に痛い」
「そうですか。では、仕方ありませんね。今は素直に先輩についていくより他はなさそうです。後に隙をついて離れましょう」
「そのつもりだが、わざわざ君までついてくる必要はないぞ」
「錬のことを心配しているというのに、そんなことを言われると寂しいですね。それに、面白そうですし?」
「……少しは警戒を覚えた方が良いぞ、陽菜は」
そんな会話を交わしながら、二人は部室棟の地下一階、更にその最奥にひっそりと存在する部室へと案内されたのだった。
「うっ。なんだ、この部屋は……」
「あはは、これはまた……」
彼らが入った部屋は、実に異様で雑多な雰囲気の部屋だった。
ペンやノートといったごく一部の小物類を除いて、壁や床、棚や机と言った全体が見慣れぬ装飾品で埋め尽くされている。
壁際にはアフリカの木彫りの儀式用仮面や十字を模した薔薇の紋様が掲げられており、本棚には錬には判別しがたい植物の標本が並んでいる。加えて天井には星々を幾何学的な線で結んだ謎の天体図が、大々的に広げられていた。
部屋の広さ自体は優に十人程度を収められそうなものだが、余りに我の強い品々が並んでいるせいか、錬と陽菜は妙な圧迫感を受けた。
更には何かが焦げたような刺激臭がツンとした鼻をついて、それらが二人に息苦しささえ感じさせる。
「……なんとも個性的なデザインの部屋だ」
「ふふふ……我らが研究室へようこそ」
「元々訪れる気はなかった、と言っても聞く耳を持たないか。それでも自分の足で歩いてきた以上、礼儀として一応お聞きする。ここは何を行っているサークルなのか」
年上へ向ける敬語をすっかり外してしまった錬。
だが、それを気にすることもなく彼女は余裕を持った態度で説明を始めた。
「ここは古今東西の有名な魔術から、マイナーなオカルトまで……色んな秘術を研究しているサークルよ……。あらゆる文献に暗示される世界の終焉を解き明かし、その先に私たちが歩むべき道を見出す、崇高な目的を元に――」
「な、なるほど。だが、生憎と自分はそのようなことには興味はない」
ただでさえ、スティフと言った訳の分からないオカルトチックな存在を抱え込んでいる錬。
これ以上怪しげな何かに関わるなど、彼は死んでもお断りだった。
「え、そんな……嘘でしょう?」
再び彼女は錬の身体に顔を寄せて匂いを嗅ぎ出した。
「貴方からは私たちと同じ、闇の匂いがするというのに……」
「は?」
心当たりのない錬の顔を、彼女はのそりと胸元から見上げる。
「暗くて、どこまでも甘い……それでいて凍り付くような匂い……。一度触れれば、病みつきになってしまいそうな……」
「ほ、ほぅ。つまり錬はキンキンに冷えた清涼飲料だったのですか。これは驚きですね」
「そんなわけないだろう。この雰囲気に当てられて、君までおかしくなられては困る。正気に戻ってくれ、陽菜!」
「私と同じ、強い呪いの力の気配がするわ……濃密でとろけそうな、甘露な雪解け水のような呪力……」
「いや、自分にはそんなオカルトチックな力に心当たりはないっ!」
全く思い当たらないと言えば嘘になるものの、これ以上彼女に関わると危険だと錬の直感が叫ぶ。
「うふふふ……ふふふ……」
笑いながら錬を見つめる彼女の眼が、前髪の隙間から覗く。
その瞳は、どこか蠱惑的で毒々しい。
気のせいか、彼の眼には先輩の背中に薄く立ち昇る靄のような気配すら映り始めており、錬は思わず後ずさる。
そんな彼の心を無視するように、彼女はゆったりとした動作で手を伸ばす。
「貴方には素質があるわ……私と同じ、闇を追い求める……この世界の終焉を導く資格が……。さあ、一緒にこの本を読みましょう。黙示録の先を掴むために……」
「ええい、これ以上構っていられるか! 行くぞ陽菜!」
「え、ええ!」
その指先が錬の身体を掴むより僅かに早く、二人は同時に部室を飛び出した。
階段を数段飛ばして駆け上がり、周囲に怪訝な目を向けられるにも拘らず、急ぎ部室棟の玄関の先へ向かう。
やがて再び日の光に照らされた日常の世界へと戻ってきたところで、彼らは大きく安堵の息を吐いた。
「ふぅ……追ってはこないようですね!」
「呆気に取られているだけかもしれない。一応、もう少し離れて人気の多い所へ向かうぞ」
更に小走りでもう少し進んだあたりで、ちょうど空いていたベンチへと腰掛ける。
幸いにも先輩が追ってくることは無かったようで、二人は傍にあった自販機で買った飲み物に口をつけながら、先ほどの奇妙な出来事について語り始めた。
「あっはっは! 流石は学問の自由……あのようなサークルもあるとは、思ってもみませんでした」
感心するように呟く陽菜に、「勘弁してくれ」と錬は首を振る。
「自分が関係ないからって好き勝手言ってくれるな。内輪で固まっている分にはともかく、外野を無理に引きずり込まないで欲しいものだ」
錬はすっかり疲れたような様子で、ぐびりとペットボトルの中身を口に含む。
しゅわしゅわと、刺激的な炭酸が舌の上で弾けた。
「それで、どうしますか? 今から他のサークルを見に行く余裕、あります?」
「ある、とは言えない。体はまだまだ動くが、精神的に疲れた」
「やっぱり、錬もですか。まあ私もなんですけど」
「この短時間でなにか、色々と削られた気がする」
「そうですね……」
そのまま二人はしばらくの間、ベンチに身を委ねてゆっくりと心を落ち着かせていた。
春の木漏れ日、桜の隙間を流れるそよ風が、心に出来たささくれを撫でるように慈しむ。
「今日はこれ以上は止めておこう。新歓の期間はまだまだ長いからな」
「ふふっ、それで本音は?」
「……今から部活棟に戻るとなると、あの先輩に捕まる可能性が高い。自分は、得体の知れぬ相手に無謀に挑む勇気を持ち合わせていない」
「それは蛮勇なので、持たずとも良いものです。ボスに挑む時には、情報も装備も出来る限り整えていかなければなりません。賢明な判断だと思いますよ。……ところで、一つ良いですか?」
「なんだ」
陽菜が急に神妙な雰囲気を漂わせながら、錬の方へと目を寄せた。
ぱっちりとその眼を開けて、中に秘められた黒曜石がきらきらと輝く。
「錬、貴方は、本当にマジカルな何かを使えちゃったりしないのですか?」
「使えるわけがない。先ほども言ったぞ、心当たりもないとな。そもそも科学全盛の今の時代に、魔法が存在するとまともに主張する人間はいない」
昨日の記憶を頭の片隅に追いやりつつ、錬はむしろ自分に言い聞かせるような強い口調で、陽菜の疑問を否定した。
「ふーん……まあ、当然ですよね。申し訳ありません、変な質問をして。忘れてくれるとありがたいです、あははっ」
「まさか、信じているのか。あのような奇怪な先輩の言ってたことを」
正気を疑がう目を向ける錬に、陽菜はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ! そんなわけないでしょう!」
「そこまで慌てずとも良いだろうに。怖かったのか?」
「……実を言えば。ほんの少しだけ、ですけどね」
大らかで図太いように見えて意外と女の子らしい所を見せる彼女に、錬は不意に苦笑を漏らした。
「ふっ、君にも女の子らしい所があったとはな」
「む、失礼ですね! たった今、私の心は大きく傷つきましたよ!」
「おっと。これは失礼した……ふ、はははっ」
「まったく反省の様子がありませんね! これはお仕置きが必要ですか。今日の晩御飯でも奢っていただきましょうか?」
「分かった、分かったとも。だが、すまない。今日今すぐは無理だ。たぶん、家で夕食の準備が出来てるからな」
なにせ、今日の錬には家で夕食を作って待ってくれているスティフがいるのだから。
家事を任せた初日からご飯を食べて帰ると言った悪行など、出来るはずもない。
「あれ、一人暮らしではありませんでしたか?」
「……実は今、妹が様子を見に来ていてな」
さすがに見た目が幼女の他人が家にいると知られては、犯罪者呼ばわりされかねない。
スティフは角が生えていることを除けば錬に似通っており、万が一姿を見られても家族と言い張れば押し通せるに違いない――そう、錬は適当な言い訳で誤魔化した。
「そうですか。良い妹さんですね」
「そうか?」
「もちろん。家族のことを大切に想ってくれるのですからね……」
どこか寂しそうな顔をする陽菜。
彼女もまた一人暮らしをしていると錬は聞いていた。
やはり、心細くなることがあるのだろうか。
「そちらは誰か来たりしないのか? 女子の一人暮らしなど、親御さんは心配でたまらないだろうに」
「来ませんよ。それほど良い関係を築いてきたとは思いませんから」
これまでにないほど、はっきりと真面目な顔で陽菜は言い切った。
その物言いに、錬は居心地が悪くなって頭を下げる。
「……すまない。余計なことを聞いた」
「別に、聞かれてまずい話でもありませんし、良いですよ。――ただし、その分だけ今度奢っていただけるのなら、という条件が付きますが!」
普段の明るい顔に戻った彼女に、これ以上錬は深堀りすることなく頷いた。
「ああ、任せておいてくれ。たっぷり諭吉先生を下ろしてくるとしよう」
「私を大食漢だと勘違いしていませんか? そちらがそのつもりなら、その勝負、受けて立ちますよ!」
「冗談だ。それでは、もう用事もなくなったことだから、自分は帰宅する。また明日だな」
「ええ、また明日!」
軽く手を振って、錬は陽菜と別れた。
駅へと続く道を歩きながら、錬は頭の中にスティフのことを思い浮かべる。
――昨晩、一通り家の中身を教えておいたものの、果たして本当に家事をこなせているだろうか。
「アカシックレコードで調べるなどと言っていたが、それで本当にうまく行くものなのか……」
――まさか、帰れば全焼した部屋が待っているというオチが待っているのでは。
そんなことを色々と考えているうちに、彼の頭の裏からは先ほどの陽菜の暗い顔のことはすっかりと消えていた。




