第三十六話 冷徹なる霧都を、青年は困惑と共に彷徨う
「アルフレッドにはああ断言したものの……さて。ここから自分はどう動くべきか」
ぎしりと古びた椅子に背中を寄せて、錬は顎に手を当てながら今後のこの世界での行動方針に頭を悩ませる。
アルフレッドの助けを求める声に応えてやりたい――それが彼のやりたいこと。
だがしかし、それを成し遂げるために必要なピースが錬には不足している。
彼の抱える心の闇を知ることは大前提として、その先へ進むには当の本人と直接対面しなければならない。
恐らくはこの世界のどこかで一人苦しんでいるのだろうが、その場所を見つけ出す手がかりが今の錬の手元には一つも存在しない。
錬は産まれてこの方ロンドンを訪れたことが無い。故にこの情景はほぼ全体がアルフレッドの記憶に占められていると考えられる。今の思い悩む彼の様子からして、恐らくはその中に秘めた忌まわしき記憶がこの石の都に表面化しているに違いない。それらの記憶の断片を繋ぎ合わせれば、自然と彼の居場所が見えてくるだろうと彼は推察して――舌打ちした。
「時間が、足らなすぎる……」
錬の目的はアルフレッドを救うことともう一つ、遊園地に仕掛けられた爆弾の脅威を払うことだ。
警察への通報を終えたとはいえ、爆弾処理が直ちに完了するわけではない。
最悪、解除が間に合わない場合のことも考えれば、予告時間である午後4:00までに全てを終わらせる必要がある。
複雑な他人の心の解読をおよそ一時間以内に終わらせなければならない――。
「それも、心理士の資格も持たない素人が。まったく、我ながら無茶なことを引き受けたものだ」
そう自虐した自分を、錬はすぐさま苦笑と共に振り払った。
あれほどの悲痛な叫びを受けて、彼がアルフレッドのことを諦める可能性など毛頭存在しない。
「なんとしてでも見つけ出してみせるとも。そのために、まずはこの広大な街を探索することから始めるか。今はともかく、彼のことを一つでも多く知るべきだ。足は捜査の基本、とは言うようにな」
そんなひとり言を呟いて、勢いよく席を立つ。
錬のいるカフェテラスは周囲を柵で囲われており、出入りするには一度店の中に戻る必要がある。
綺麗とは言い難い煤けた木製の床を歩き、古ぼけたランプに照らされた店内を入り口へ向けて歩く。
「――オイ、あんちゃん」
その肩を、がしりと誰かが掴んだ。
振り向けば、そこには随分と横に体格の良いセイウチのような男性が顔を顰めて立っていた。
茶色がいくつも染みついた年季の入ったエプロンを身に着けているあたり、恐らくは店主だろうかと錬はあたりをつける。
「なんですか? 自分は先を急いでいるのですが」
「まさか、まさかとは思うがな。てめェ、喫茶店に入って何も注文していかねェつもりじゃねェだろうなァ……? そんなふざけた格好しといて、とことん冷やかそうってんならこっちにも考えがあるぜェ……?」
蓄えた髭の隙間から深く底冷えのするような声を出す男性の存在は、錬にとって意外だった。
アルフレッドとはまったく関わりのなさそうな夢の中の住人にこうして話しかけられるとは思ってもみなかったからだ。
それに、ふざけた格好をしていると言われても彼にはとんと心当たりがない。
自分の服装を見下ろしてみても遊園地を訪れた時の姿となんら変化はない。
袖を捲った清潔感のある白のワイシャツに、なんら面白みのない黒のスラックス。小物と言っても祖父譲りの銀時計が精々だ。これでおかしいというのであれば、世の大半の社会人はこの店主にとってイカレているに違いない。
威嚇のために近づけられた店主の顔からは、かなり刺激の強いヤニの匂いがする。
煙草の吸い過ぎで脳がやられているのだろうかと首を傾げながら、錬はひとまず席に戻って表面のベタついたメニュー表を開いた。
そこの文字は錬の記憶と対応しているのか、都合よく日本語に翻訳されていた。
貨幣単位もポンドではなく円に変換されている。
ポケットに入れていた財布を開けば、幸いにも中身は彼の記憶通りだ。
特に茶葉の銘柄にこだわりのない彼は、手っ取り早く見慣れた名前を選択して注文した。
「では、ダージリンを一杯」
「けっ」
客に対して随分と横柄な態度を取るものだと思いながら、錬は手持ち無沙汰に店主の手元を覗き込む。
凹んだやかんに水道の硬水をろ過器もなしにどぼどぼと入れ、がちゃんと一口だけのガスコンロにかけ、湧いたところでこれまた煤けたポットに湯を乱雑に注ぐ。その際にお湯がこぼれることもお構いなしだ。
付け加えるならば、店主はポットに新たな茶葉を入れた様子もない。
その乱暴な手つきに、今度は錬が顔を顰める番だった。
店主は大した時間も待たずに抽出した紅茶を、洗って引っくり返してあったカップに注ぐ。その縁はご丁寧にも、いくつか欠けているという徹底ぶりだ。
「ほらよ、てめェみてぇなのの舌に合うかは知らねェけどな」
「……」
店主の一々鼻につくような口ぶりには無視を決め込んで、錬はカップの中を見る。
そこに映る彼の顔は、眉間に大きく皺を寄せて実に不機嫌にしていた。
それもそのはず、提供された紅茶は白湯と見間違うほどに色が薄く、香りも芳醇などという表現からはほど遠い。
それでも一応は口をつけるが、次の瞬間に錬は更に眉間の皺を一つ増やした。
「これは……」
見た目同様に味はないに等しく、僅かに感じとられたのは喉に引っ掛かるようなえぐみ。
どう考えても使われたのは茶葉の出し殻であり、それが雑な抽出方法を経たものであるが故に、完全に紅茶と呼ぶに値しないものになっている。
ここしばらくの彼の舌は料理人のレシピにどこまでも忠実なスティフの料理に慣らされており、肥えていると言っても良い。しかし、それを踏まえてもなお、彼にはこの液体はひときわ不味いものに思えてならなかった。
「ええい、なんのこれしきッ」
それでも残すよりはと錬は一息にぐいと飲み干して、文句を言うよりも一刻も早くこの雰囲気の悪い店から出ようと席を立った。
そこで気づいたのは、他の客も店主と同様にガラの悪い、嫌悪を剥き出しにした視線を彼に向けてきているということだ。
それに気づいた素振りを見せれば、彼らは慌てて顔を引っ込めていく。
いくらなんでも、ここまで敵視される理由があるのだろうかと彼は思い悩みながらも財布を取り出す。
「店主、ごちそうさま。支払いだ」
表に記載されていた通りに百円玉を二つ差し出すが、店主は首を振って受け取ろうとはしない。
「いいや、足りねェなァ」
「なに? メニューには二百円と書かれていた。他に何かを頼んだ覚えもない。それともここは席料がかかるのか?」
「違ェよ。おめェに入れたのは最高級の茶葉さァ、カップ一杯一万円のなァ! へへッ、その分きっちり払ってもらおうかァ?」
いくらなんでも、三桁と五桁の数字を見紛うわけがない。
ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべて猿でも分かるような嘘を言う店主に対し、錬はきっぱりと断った。
「嘘を吐くな。あの紅茶にそのような価値はない」
「いいや、嘘じゃねェさ。……なんだァ、それとも払うつもりもなく逃げるッてェのか?」
「逃げる逃げないの問題ではない。自分はあらかじめ提示された価格を支払うと言っているだけだ」
「クソ生意気に口だけは回るなァ……けッ、そのふざけた口を閉じさせてやるよッ!」
そう言うと、突如店主は毛むくじゃらな腕を大きく振りかぶった。
分厚い脂肪を纏ったハムのような巨腕が、遠慮なしに錬へと襲い掛かる。
「おっと」
とはいえ、その速さはさほど脅威でもない。
図体故に威圧感こそ人一倍あるものの、文字通りのテレフォンパンチだ。
顔面狙いのそれは、四方八方から襲い掛かる呪術攻撃に比べればはるかに単純。
錬は身体を一歩引くだけで店主の一撃を回避した。
反撃するのは容易かろうが、ここで乱闘になり時間を取られるのは彼にとってよろしくない。
「けっ、逃げんじゃねぇよこのクソッタレがァ!」
手を出すまでもなく逃走を決めた錬に対し、店主は攻撃の手を収めない。
拳を唸らせて、次から次へとパンチを繰り出す。それどころか、腕だけでは足りないと見るや頭突きや蹴りすらも交えて襲い掛かろうとする。
遅いとはいえ質量のある分威力だけは一人前で、外れた拳が偶然にも飾ってあった謎の絵画ごと店の壁を貫いた。
その勢いは徐々に増していき、他の客すら巻き込んでいく。
「むぉっ、なにをするというのかね!?」
「逃げんじャ、ねェッ!」
慌てて席を立って壁際に向かった老紳士のことなど気にもかけず、店主は拳を振るう。
それだけには収まらず、ちょうど老人が食べていたパンケーキのナイフやフォークを引っ掴んで錬へと投げつけ始めた。
「正気か? ……いや、どう見ても正気の沙汰ではないな」
もはや示談で済む域を超えた暴力に、錬は周囲の客に被害が出ないように立ち回りながら逃げ道を模索する。
なぜ店主がこれほどのいちゃもんをつけてくるのかは不明だが、その事情を勘案している暇はない。
彼の巨体によって入り口へと続く道が塞がれている以上、残るのはテラス側だ。
柵の高さは精々が腰程度、飛び越えることは造作もない。
「わき見たァいい度胸だッ、このクソ餓鬼ィ!」
「本当になんだというのだ? それほど拳を振るいたければジムにでも通えばいいものを」
「うるせェ! てめェみてェなヤツを放っとけねェ、それだけだッ!」
まるで理解できない言い分を聞き流し、錬はテラスへと飛び出す機会を計る。
と、ちょうどその先の通りから、黒い警帽を被った男性が彼らの様子を見ていた。
「なにをしている!? そこを動くなっ!」
幸いにもこの様子は見過ごせなかったようで、彼は慌てて入り口から駆け込んでくる。
静止された店主は最初は気に入らない様子を見せたものの、警官が腰に下げた警棒を見て拳を引っ込めた。それでも苛立ちまでは隠せないらしく、踵を床に何度も叩きつけていた。
「これはいったいどういうことだ?」
ぎろりと錬と店主を睥睨しつつ説明を求める彼に、さっそく店主ががなりたてた。
「ああん? んなもん決まッてんだろォ? そこのいけすかねェ野郎が俺の茶ァにケチつけやがったんだ。挙句金は払わねェと、たわけたことをぬかしやがる」
「なんだと?」
じろり、と警察官の青い瞳が錬に向けられる。
決して嘘は許さないという鋭さが込められた視線だが、錬からすればその罪状こそが偽物だ。
自身の潔白に自信があるため、彼は慌てる素振りを見せずに静かな声で否定した。
「不満を述べたことは事実だ。しかし、自分は注文通りに支払うと言っている。メニューにあらかじめ記載された値段から気に入らない分を割り引け、などとは一言も口にしていない」
「それだけじャあねェ。ここを見ろよ、この腕の傷もそいつに殴られて出来たもんだァ」
「なにを馬鹿なことを。それは貴方が先ほどそこの壁に穴をあけた時に自分でつけたものだろうに」
これみよがしに腕のひっかき傷を見せつける店主だが、錬は店主に一度として触れていない。
錬の手から店主の抉れた皮膚細胞が採取出来ないと証明されれば、すぐに嘘だと判明してしまう。
呆れた目線を向けながら、既に思考を今後の動き方に切り替えつつある錬。
「なるほど、ひとまず事情は理解できた」
頷く警官に、錬はようやくこの場から解放されると安堵する。
――しかし、彼が腕を掴んだのは店主ではなく錬の方だった。
「言い訳は結構。留置場で一晩頭を冷やせ、このきちがいめ。行儀が人を作るという言葉は知っているか? そのような奇抜を通り越したファッションをしたお前の証言なぞ、信用できるか」
「なっ、なにを言っている!?」
錬の主張を一考だにせず、彼は店主の言葉を一方的に信用した。
その動きに、さすがに錬は冷静ではいられなくなった。
「さ、こっちへ来い」
そのまま腕を強く引っ張られた錬は、思わずその手を引き剥がした。
留置場で一晩など、それだけの時間を無駄にするわけにはいかない。
抵抗を見せた彼に剣呑な表情を見せる警官をよそに、彼は一目散に駆け出した。
「な、待てッ!」
慌てて警官が腰の手錠に手を掛けるも、その隙に錬は店の入り口を蹴り飛ばして外へと飛び出していた。
「と、忘れていた。店主、代金はきちんと支払わせてもらう!」
間違ってもこのまま食い逃げの冤罪を真実にするわけにはいかないと、錬は振り向きざまに硬貨を投げつける。
二枚の硬貨が店主の額に命中したさまを見届けてから、錬は瞬く間に雑踏の中に姿を紛れ込ませた。
彼のその背中に向けて、取り逃がしたことへの悔しさの篭った警官の叫びが放たれる。
「お前がどこへ行こうと、決して逃げられやしないぞ! 首を洗って待っていろ――この異端者が!」
「異端者……異端だと?」
まるで時代錯誤の差別用語に、錬は驚きを隠せなかった。
確かに錬の家は代々仏教の信徒だが、そんなことをあの警官が知る由もない。
なにより日本人の彼に向けられる蔑称ならば、猿野郎やまっ黄色の方が一般的だ。
なのにどうして、それらを差し置いてまで異端というレッテルが貼られるのだろうか。
あまりにも理不尽な始まり方に疑念を抱きながら、錬はひとまず人気の薄い裏路地へと身を隠すことを選択した。
日の当たらない建物の影からこっそりと顔を出して確認すれば、どうやら警官は追いかけてきていないようだ。
ひとまずなんとかなったことに心を落ち着かせ、ぼそりと一言。
「――このロンドン、どうやら普通の街とはなにかが違う。だが、いったいなにが?」
なんとも前途多難な道のりになりそうだとため息を一つ吐いて気分を切り替え、彼はこれ以上目をつけられないようにこそこそと動き始めた。




