第二十話 彼/彼女との僅かで難解な相席
振り向いた錬の眼にまず映ったのは、春先には珍しい厚手のコーデだった。
足元のタイツから腕全体を覆う長い白手袋、そして首を完全に隠したハイネック。
この遊園地で過ごすには暑苦しく感じるであろう格好だ。
そのようなもの好きな相手はいったいどんな顔をしているのかと見てみれば、地肌を完全に塗り潰した白化粧に、濃い紫色のド派手なマスカラが際立っている。
更に付け加えて、日本人には珍しい香水の匂いが錬の鼻を強く刺激した。
「申し訳ありまセーン。盗み聞きするつもりはなかったのデス。他に席が空いていないカ探していたトコロ、こちらが空いていたノデ、相席をお願いしようトしたラ、ナンとも面白いオ話をしていたものデ。ツイツイ聞き入っテしまいまシタ。ごめんなサイ」
いっそわざとらしく感じられるほどに砕けた発音と共に、その相手はスカートの端を摘まんで軽く頭を下げた。
「それデよろしけれバ、ここに座らせテもらえませんカ?」
「回答。当機は判断の権利を保有しない」
ちらり、とスティフは横に座る錬に視線を向けた。
この珍妙な客の扱いの如何は、己の主に委ねるようだ。
「別に、聞かれても大して問題はない話でしたから。そちらの謝罪を受け入れます。どうぞそちらへ」
もしこの相手が何らかの害意を以て二人に近づいた場合、スティフは迷うことなく忠告したに違いない。
それがないということはつまり、彼女は外見を除けば問題がないことを意味する。
なれば席を分け与えることを躊躇う必要はないと、錬は余っていた座席の一つをそっと丁重に手で指し示した。
「ありがとうございマス。それデハ、失礼いたしマス」
しゃんと背筋を伸ばして座った彼女は、色鮮やかな鳥の羽根をあしらった帽子を外してから改めて一礼した。
「ワタシはアルフレッド・アンブローズ。ウェールズからの留学生デス。あの、ウェールズは御存じデスカ?」
「既知。ウェールズとはグレートブリテン島の南西部に位置する、英国を構成する国家群の一つ。現在の国土面積は20,761平方キロメートル、人口は昨年度の総計は……」
「知っています。アーサー王伝説に纏わる、赤き竜に縁のある土地だったと記憶しています」
放っておけば延々と説明を続けそうなスティフの言葉を遮って、錬は自身の知識の程度を端的に述べた。
「おお、知っていましたカ。ワタシのクラスメイトは誰一人として知りまセンでしたガ、よくゾご存じデ。そう、ワタシはそのウェールズからこの近くの命成大学に来ましタ。よろしくなのデス。Ah、それと敬語はいらないデス。ワタシは日本語を勉強中の身、自然な日本語を体験したいのデス。気楽にお話しまショウ」
「ふむ。そちらがそれで良いのならば、こちらも普段通りに話させてもらおう。自分は鍋島錬という。こちらこそよろしく」
「挨拶。当機はスティフ。我が主の妹」
「レンにスティフですネ。メモメモしまシタ。……トコロで、お二人ハ驚かないのデスカ?」
言われた通りに普通の挨拶を述べた錬とスティフに、何故かアルフレッドが目をぱちくりとさせる。
「驚くとはなんのことだ?」
「ワタシの名前デス。アレ、気づきまセンでしたカ? アルフレッドは男性の名前、女の子ガ男性の名前を使うト、皆がビックリするのデスガ」
「そういうことか。とはいえ、君は男性だろう。男が男の名前を名乗るのに、なにか不都合があるのか」
錬のその言葉に、彼女――否、彼の方が驚いた素振りを見せた。
「……よく分かりましたネ」
「そこまで厚化粧をされていると、逆に疑えと言っているようなものだ。よく見れば、肩や腰の形が女性とは違っているのが分かる。なにより、その喉仏が証拠だ」
「素晴らしい観察眼をお持ちデスネ。もしかして妹サンも?」
「肯定。必要ならば、当機の分析結果を口述する」
「止めておいた方が良い。スティフのことだ、余計なプライバシーまで駄々洩れになりかねないからな。それで、つまるところ自分たちは君のことをどちらとして扱えば良い? 申し訳ないが、君のような人と話すのは初めてでな。ちょうど良い塩梅の距離が分からない」
間違っても失礼のないように真面目な顔で問いかける錬に、当の本人はカラカラと笑いながら簡単に答えた。
「ンー、どちらでも結構なのデスヨ。性自認は男性ですガ、女性扱いガ基本でしたノデ。ワタシ自身、どちらなのかマダよく分かっていナイのデス」
なんとも対応に困る返答に、錬の表情が僅かに崩れた。
男性か、女性か、それともいわゆるLGBTなのか。ただでさえ対人関係の経験が浅いというのに、更に悩むべき選択肢を与えられて、彼の頭は混乱状態に陥ることを余儀なくされていた。
「ンフフ、ダイジョーブですヨ」
一方、当事者のアルフレッドはこの問題を気楽に流していた。
「気味悪がらズにお話してくれるダケで十分なのデス。同席をスグにお断りされるヨリ、ずーっとネ」
アルフレッドの浮かべた儚げな微笑みに、錬は息を呑んだ。
その表情の隙間から一瞬だけ伝わった彼の深い諦観に、出会ったばかりの錬の悩みなどは風の前の塵のように一蹴されてしまった。
「そんなことヨリ、ワタシはさっきのお話をしたイのデス」
錬の深読みを吹き飛ばすように明るい表情を浮かべて、ずずいっとアルフレッドは先ほど口頭で色々と論じていたスティフの方へ身体を寄せた。
「チャイナの風水と経済学。オカルトと科学が、やがて同じ結論ニ至る。……果たして、本当にソウなのでショウカ?」
「というと?」
彼なりの気遣いに、錬は空気を読んで会話が円滑になるよう言葉を挟んだ。
「例えバ、ドルイド。自然を愛すル彼らにとっテ、自然ノ破壊を誘発する科学は嫌悪すベキ対象デス。もしくはトーマス・エジソン。彼は電気による文明の灯を尊びましたガ、静かな闇を好む魔女たちの夜を崩壊させマシタ。ホラ、この二つは相反するモノだと思いませんカ?」
挑戦状を叩きつけるように、アルフレッドは指を立てながら幾つかの具体例を挙げる。
それらは一見して、確かに彼の主張の通りにオカルトと科学が相反する事例として見て取れる。
だが、スティフはその問題に迷うことなく答えた。
「否定。いずれの事例も、共通した正当な目的を保有しないが故に異なる結論を導き出したに過ぎない。どちらも失敗を積み重ねることで方向性は修正され、やがて同じ結論に終着する」
「……続けてくだサイ」
「人類の前進は直線ではない。紆余曲折し、時には後退も在り得る。しかし、最後には直線上に存在する正しい未来の近似値に辿り着く。科学は自然保全の重要性を理解し、既存の植生の保護を行う。ドルイドは量産化されたナイフでルーンを刻む。過度な電力消費で昼夜逆転した人間は身体を壊し、健康のために正しい生活リズムを自ずと取り戻す」
「なるホド、貴女の言うことは正しいデショウ。ですガ、間違ってもいマス」
険しい顔をしたアルフレッドに、スティフは尋ねる。
「疑問。アルフレッドの発言は矛盾している」
「No, 矛盾していまセン。なぜナラバ、その失敗の過程ニは脱落者が存在するからデス。いずれ正しく収束する道の途中デ振り落とさレル人も、世の中には大勢いるのデス」
錬は、その振り落とされる人間というのがアルフレッド自身のことを指しているのだと直感した。
「回答。人間は完璧な存在でなく、数多の失敗の上に成功を成立させる生物。脱落者、零落する人間が出現するのは当然」
「エエ。端から見れバ、そうでしょうネ。その論理は正しいト、世間ハ評価するデショウ。ですが、成功に辿り着くコトの出来ナイ当人たちハ、そう言われテ素直にYesと受け入れられナイのデス。決しテ」
彼は力強く首を振ると、自身の経験を話し始めた。
「ワタシは地元デモそこそこの家に生まれまシタ。ですが、その家でハ男性は女性らしく、女性は男性らしく育てルというルールがありましタ。他の人にハ信じられナイような、オカルトチックで馬鹿げた理由デ。両親から見れバ正しくテモ、世間一般では間違いデス。日本語デハ、これを虐待というのでショウ」
「……」
「今のワタシは、男性らしく生きたかッタ。でも、女性らしい生き方も捨てられナイのデス。身に染みた生き方は、ちょっとやそっとじゃ変えられまセン。周りの人ハ皆、やりたいことをやれば良いと安直ニ言いマス。でも、それが簡単にハ出来ないのデス……きっと、死ぬマデ。そんなワタシの存在が、苦悩が、当然の一言デ終わルはずがないのデス。科学溢れる世間ではジェンダーがどうのと正しそうナことを言っていテモ、未だにこんなオカルトの弊害は残っていマス。それでも、失敗は成功のモトだから仕方がナイと言えマスカ? ワタシが本当に異を唱えたカッタのは、そこなのデス」
――現代において、奴隷制度はアメリカの南米戦争を切っ掛けにほぼ根絶されたと考えられている。
今では黒人のアーティストも自然と受け入れられるほどに、人々は肌の色での区別を明確な差別として意識しない。
しかし、誰がその現代の光景を、奇妙な果実と歌われた当時の黒人奴隷に面と向かって言えるだろう。
彼か、それとも彼女か、当時の私刑に晒された人々はこう思うだろう――なぜその結論が、私たちの生きていた時に訪れなかったのか、と。
彼らに対して「貴方たちは尊い犠牲だったのだ」と、誰が言えるのか。
「……初対面ノ貴方たちニ、差し出がましいことを申したようデスネ。こんな楽しイ所で話すことではなかったデショウ。ただ、覚えてイテ欲しいのデス。やがては同じ平和な結論に至るものデモ、その過程の差異で悩まされるワタシのような人間もいるというコトを」
「……ああ、深く心に刻んでおこう」
「難解。……現状の当機では理解不可能。だが、いずれ理解に至るために思考を継続する」
明るく楽し気なフードコートの中で、今のアルフレッドの話を聞いていた錬たちの座るテーブルだけが異様に重苦しい雰囲気を醸し出している。
その後しばらく、互いに話すこともなく。
ただ静かに彼らが座って時間を消費していた所で、ようやく陽菜が帰還した。
なにやら焦った様子の彼女は、重い雰囲気に一瞬首を傾げたものの、すぐに持ち前の明るさで見慣れぬ同席者のことを錬に質問した。
「錬、ちょっと――こちらの方は?」
「アルフレッドという。偶然が空いていなかったので、座ってもらっただけだ」
「なるほど、それはよろしく。こちらの錬の友人の日守陽菜です。って、そうではなくてですね! 二人とも、ちょっと来てください!」
「なんだ、急に。ここでは駄目なのか?」
ちらりとアルフレッドに視線を向けて、気まずそうな表情を浮かべる陽菜。
どうやら初見の彼には話せない内容のようだ。
「イエ、ワタシのことハお気になさラズ。ちょットお話しタだけデスから」
「む、あれだけのことを話しておいて、ちょっとなどとは――」
「少しだけワタシのことを知ってくれタ、それだけデ十分なのデス。すみませんネ、ヒナ。デートの最中に恋人をお借りシテ」
「こここ、恋人などではありません! 錬はただの友人、そう、ただの同級生です!」
慌てて訂正を要求する陽菜。
そこには、アルフレッドに対する遠慮や敬遠というものが微塵も見受けられない。
「デハ、お気をつけテ」
「すまない。言い忘れていたが、自分もそこの大学の学部生だ。また顔を合わせた時にでも、ゆっくりと話をしよう」
「エエ。ではまた、その時が訪れたラ」
「ミスター、もしくはミス・アルフレッド、また私ともぜひ今度! ではこちらへ来てください、早く!」
陽菜にぐいぐいと引っ張られながら、錬とスティフは席を立つ。
手を振ってお互いに別れを告げた後、錬は半ば引きずられるようにしてフードコートを去っていった。
その背中を見届けたアルフレッドは、一言。
「あの女の子も、レンと一緒でワタシと対等ニ接してくれマシタ。モット早くニ出会えていれば、良かったのデスがネ……」
しかし、その言葉は誰にも届くことなく、賑やかな周囲の声にかき消されていった。
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錬とスティフが陽菜に連れてこられた先は、周囲が高い外壁に囲まれた薄暗い一角だった。
近くにはかつては喫煙所だった場所があり、ひらひらと使用禁止の張り紙がはためいている。
そんな周囲に誰もいない寂れた場所で、念入りに人気がないことを確認して、陽菜がひっそりと呟く。
「私は聞いてしまったのですよ、錬。とてもとっても、大事なお話を」
「わざわざこんな所まで来て話すようなことがあるとは思わないが、一応聞くだけ聞こう。それで、その大事なお話とはなんだ?」
「実はですね……なにを隠そう、この遊園地には今、爆弾が仕掛けられているのですよ!」
そんな、先ほどまでの真剣な空気とは真逆の馬鹿げた話を大真面目で言い切った彼女に、錬は思わず「食べ過ぎが頭に響いたか?」と心の中で呟いた。




