第十五話 閑話:ファミリア・ティータイム
――それはまだ錬が【黙示録の集い】の先輩に追われていた、ある日のこと。
教授が新発見された古代ギリシャの海底遺跡探索に出かけたために午後の講義が休講となった彼は、早々に帰宅して青臭さがこなれたインクの匂いに身を任せていた。
流石に新遺跡の出現までは先輩も把握できるわけもなく、【揺れる子猫の気まぐれ】のもたらす奇妙な肌寒さを覚える必要がなかった彼の気分は上々だった。
ゆったりと居間の畳に足を伸ばし、木目調の壁に背中を預けて、図書館で借りてきた暖かいハードカバーを左手に乗せて。
悠々自適に、錬は世界的に有名なとある魔法使いの物語をゆっくりと捲り進めていく。
そんな彼が唐突に、ぱたんと本を閉じた。
「……かぼちゃパイが食べたい」
いたって真面目な顔で呟いた錬に、目前にいたスティフが反応する。
かちゃかちゃと何らかの家電を――錬の理性は砲台のついた家電などどこの家庭にあるものかと叫んでいるが――いじる手はそのままに、彼女は顔を上げた。
「受諾。今日の夕食後の甘味はかぼちゃパイに決定する。貴方の希望に従い、メニューの変更を申請する」
だが、そんな主の気分一つによるカロリーの再計算を済ませた彼女のことを裏切るように、錬は大げさに首を振った。
「否、違うぞスティフ。自分は今まさに、この瞬間にかぼちゃパイを食べたくて仕方がないんだ。この気持ちは今だからこそのもの、夕食まで待っていれば部屋の隅に忘れられたミカンのように萎びてしまうだろう」
とはいえ、そんな馬鹿げたことをのたまう彼にも良心の呵責はあったようで、のそりと腰を上げて台所へと向かった。
「なに、君の予定を害するつもりはない。自分で作るゆえにな」
「……否定。当機の処理機能には未だ余裕が存在する。製菓作業の並行も可能」
「いや、それでも今は自分が作りたいのだ。君に任せて以降、包丁すら触っていないからな。……とはいえ魔術的ななんやこんやが出てくるのは困るから、監視くらいはしてもらいたいが」
「……了承」
「やけに含みのある言い方だな。なんだ、自分の領域が侵されて憂鬱になったのか?」
「否定。当機に貴方に悪感情を抱く機能は搭載されていない」
「嫌なら嫌だと、はっきり言ってくれて良いからな?」
「当機に嫌なことは存在しない」
「そうか」
そこまで言うのならば躊躇うこともあるまいと、錬は台所にある材料を念のために確認しようと冷蔵庫を開けた。
彼がその中を確認している中で、スティフは何故自分の主が突然にこのようなことを言い出したのかを確かめようと、机の上に置きっぱなしにされた本の表紙を覗いた。
丁寧に磨かれたテーブルの上の表紙には、満月に照らされた古城の上で自由気ままに箒を駆る、トンガリ帽子の少年の姿が映っていた。
■■■
「さて、それでは料理を始める」
腰にエプロンを巻いた錬は、腕を捲って調理台の上に並べた食材を一瞥した。
冷蔵庫から取り出したものと改めて買い込んできたものを分類し、調理過程を頭の中で簡単に整理する。
なにも一から全てを作るわけではなく、レシピは検索した省略版のものだ。
錬は気楽に、まず既にカットされたかぼちゃに手を伸ばそうとして――背後からの強い視線に、振り返った。
「……なんだ? なにか不足している具材でもあったか?」
「否定。何もない」
見張りにしてはやけに強い視線がぐさぐさと突き刺さることに違和感を感じながら、錬はかぼちゃを水と共にレンジに入れた。
それが柔らかくなるまでの間に砂糖、バター、牛乳といったお菓子作りにおける三銃士を手早く計量し、冷凍パイシートの封を切る。
それと同時に、再びスティフからの謎の圧迫感が錬の背中に負担をかける。
「……」
「……」
錬が振り向くと、彼女はなんでもないように止めていた機械工作を再開する。
首を傾げながら、彼もまた作業に戻った。
以前にキッシュ用に買ってきた型にバターを塗ってパイシートを敷き詰め、フォークでぶすぶすと穴を開けていく。
失敗したときに生地がどうなるかは、錬が参考用に再生していた動画のキャラクターが可愛らしく説明していた。
「これで良し、と。それで次は……かぼちゃか」
加熱の終わったかぼちゃを取り出して、いざ潰そうとしたところで錬は一つの壁にぶつかった。
「皮をどうするかまでは考えていなかったな」
動画を見ても、いざ皮をどうしたのかといった点はカットされていた。
もしかすれば捨てていたのかもしれないが、錬には食材を無駄にするつもりはない。
母親には皮と身の間に栄養が詰まっていると言われたこともあり、どうしようと悩み始める。
「提案。皮は細断し、生地底に埋設する。上部をかぼちゃのペーストで隠蔽することで、外見を取り繕うことが可能となる」
「なるほど、その手があったか。人聞きの悪い言い方はともかく、助かった」
不意に投げかけられた彼女の妙案に感謝しつつ、錬は手を動かしていく。
外した皮を千切って底に敷き、かぼちゃを潰しながらバターなどを少しずつ入れてはへらで潰しながらかき混ぜていく。
そこでまた背後からの視線を感じたが、気のせいだろうと彼は作業を押し進める。
やがて完成した詰め物を流しいれ、表面を滑らかに整えた後に、切り落としたパイシートの端で作った様式美の格子をそっと重ねる。
最後に卵黄を表面に塗って、予熱したオーブンに入れてタイマーを40分にセットした。
額の汗を腕で拭いながら、錬は一息つく。
「ふぅ、こんなものか。それで……」
調理器具でごっちゃりとしたシンクを見て、錬は苦笑いしながら蛇口へと手を伸ばした。
そう、料理とは最後の器具洗浄までがワンセットなのだ。
特に多くの器具を使う菓子作りの場合は、必然的に使う洗剤の量も増えていく。
もう一仕事頑張ろうと奮起する錬の手を、そっと近くに来ていたスティフが差し止めた。
「仕事。洗浄は当機の役割」
「いや、自分がやろう。自分の気まぐれで使ったものだ、自分で片付けるのが筋というものだ」
「再提言。当機が行動する」
「しかし君は君でやっていることがあるだろう。そちらを優先して――」
錬がスティフのいたところを見やれば、自動でドライバーやはんだごてが動いている。
「当機の処理機能に不足はない。食器の洗浄は当機には片手間以下の処理である。貴方は貴方の時間を有効に活用すべきと提案する」
「……そこまでいうのなら、君の言葉に甘えさせてもらうが」
やたらと押しの強いスティフに根負けし、錬は素直に身を引くよりなかった。
なぜ彼女がそこまで真剣に迫ったのかを疑問に思いながら、錬はレンジの前に持ってきた椅子の上で膝を組み、読書を再開する。
時折オーブンの中の焼け具合を確認しながら、時が過ぎるのを待つ。
やがて漂う甘く香ばしい匂いに錬の腹の虫が小さく鳴いたと同時に、オーブンは軽快な音を立てて火を止めた。
「良し。さて、出来栄えはどのようなものか」
分厚い手袋を嵌めた錬の両手が、中から天板ごと食欲を掻き立てる匂いの正体を引き出す。
「おお、初めてにしてはうまく行ったものだな……」
艶やかに輝くパイ生地と、その中にのっぺりと顔を見せる黄金色のかぼちゃの海。
決して虹色に輝くわけでも、得体のしれない怪物が這い出てくる気配もない。
ましてや新たな幼女が姿を見せることもない、真っ当なパイの完成に錬は密かに胸を撫でおろした。
多少の焦げは見られるものの、その程度は家庭で作るお菓子の御愛嬌だろう。
「よし、よし……」
ゆっくりと型枠を取り外して、そっと取り出したナイフで切り分ける。
本来ならば冷めてから食べるとレシピには書かれていたものの、暖かい内に食べるのもまた一興と錬は心の中で言い訳した。
ましてやこの匂いを前にして我慢するなどと言った愚行は、彼の舌が許さなかった。
「と、そう言えば飲み物を準備していなかったな」
ここは舞台に従って紅茶といきたい錬だったが、それを今から淹れるとなるとせっかくのパイが冷めてしまう。
せっかくの優雅なティータイムの気分が画竜点睛を欠くことに落ち込んでいると、なぜかほのかな紅茶の良い香りが漂ってきた。
その源を見れば、ポットを高く掲げたスティフがちょうど最後の一滴を搾り取っていた。
「準備完了」
「……本当に、君には驚かされる。ここまで息を合わせられるとはな」
感嘆の息をもらしつつ、錬は切り分けたパイを机へと運んだ。
そして二つあるうちの一つを彼女に差し出し、自分はその対面に腰を下ろす。
「いただきます」
さっそく彼はお行儀悪くパイを手で持って、あちあちと上手く指の上で転がしながら先端にかじりついた。
「うむ、完璧だな。かぼちゃのほくほくとした甘さがじんわりと残る、実に紅茶に合いそうだ」
間に挟んだ皮の部分も程よく全体を引き締めるアクセントとなっており、錬は満足げに頷きながら紅茶で口の中に残る甘みを雪ぐ。
その正面では、スティフが目の前に置かれたパイと錬の間で視線を右往左往させていた。
「困惑。当機には甘味を欲求した記録はない」
「それはそうだが。こういうのは家族の分まで作るのが当然だからな。それに、いくらなんでも俺一人であの大きさを消化するのは不可能だ。せっかく作ったのだから、暖かい内に食べてくれ」
そう錬が勧めるのを断るのも失礼だと思ったのか、スティフは同じように両手でパイを持ち、かぷりとその小さい口で噛みついた。
そして、しばらく口の中で味わって――こくん。
「……?」
「どうだ。自分一人ならば様々な工夫を凝らしてみるものだがな、今日は君がいるためになるべくレシピ通りに進めたからな。高評価も多かったから、悪い味にはなっていないと思う」
「美味」
その味を確かめるように、スティフはすぐさま二口目を頬張った。
もっきゅもっきゅと口全体で味わうようにしながら、彼女はさらに三口目、四口目とパイを体の中に収めていく。
だが、その顔は言葉とは裏腹に混乱の表情を浮かべていた。
「疑問」
「おお、どうした。まさかそこだけ生焼けだったか、それとも種が入っていたか?」
「否定。このパイは非常に美味。当機の味覚も納得した。しかし、当機の思考回路が一つの疑問を獲得した。何故、このパイは当機の想定以上に当機を納得させるのか」
「ふむ?」
「説明。貴方の製菓の過程には多数の粗が存在した。加熱時間の余剰、レシピに記載された分量の差異。菓子の製造では計量及び時間の厳守が絶対の規則であるが故に、このパイは製菓店の既製品と比較して劣化品である」
忌憚なく自分の意見を述べるスティフに、錬はひくひくと頬をひくつかせた。
達人の腕前を機械的に再現することが可能な彼女からしてみれば、錬の調理の手際はさぞ苛立たしいものに見えたに違いない。
道理でところどころ強く睨まれたのだと、彼はここで彼女の視線の意図を理解した。
それはまるで嫌味のように聞こえたが、次に放たれた一言に、錬は一転して目を丸くして頬を綻ばせた。
「しかし、当機の舌は至上の満足感を獲得した。思考領域で再現した既製品の味以上に、このパイの方が美味であると当機の味覚は告知する。不可解」
「……ふっ、そういうことか。簡単な話だ」
万能の知識を検索することが出来る彼女にも分からなかった解答を、錬にはすぐさま導き出した。
そんな彼の表情は、自分の作品が劣化品と貶されたにも関わらずご満悦な様子だ。
「何故?」
「それは、相手のことを思い浮かべて作ったからだ。大切な相手への想いを込めて作ったものの方が、パティシエが顔も知らない客を相手に作ったものより美味しく感じるのは世の摂理だとも」
「貴方の手作りだからこそ、当機は歓喜したと?」
「そうだ。自分も昔は、家族が買ってきたケーキよりも母親が休日に作るクッキーの方が好きだった。あの手作りの味はいつまで経っても、自分の中では最高のものとして残り続けるだろうな」
遥か過去の記憶に想いを馳せる錬に、スティフは納得したように小さく頷いた。
「理解。当機はまた一つ、新規の知識を学習した」
気づけばいつの間にか、味を分析していた彼女の皿は空っぽになっていた。
見ようによっては食い意地が張っているとも見える光景に、錬は笑う。
「食べたかったら残りも食べていいぞ。君の美味しいという一言に、自分は満足させられたからな」
「……感謝」
もう一切れを切り出して持ってきた彼女の愛らしく食べる様子を眺めながら、錬は閉じていた本を再び開いた。
その中では主人公も、新しく出来た友人と食事を楽しみながら友誼を結んでいた。
――これでまた、自分と彼女も少しは距離を縮められただろうか。
そんなことを想いながら、彼は少しだけ華やかになった午後のひと時に、くすりと頬を緩めるのだった。
なお後日、同じように早退して退屈にしているであろう陽菜に少しでも良い気分を味わってもらおうと善意で写真を送ったところ、わざわざ「嫌味ですか、自慢ですか!」と通話で文句を言われて錬は首を傾げていた。




