第十一話 切った手札の向かう先は
襲い来る魔の手からなんとしても逃れるべく、錬は夜の街を疾走する。
狭く入り組んだ住宅街から大通りへ出た彼には、当然のように周囲から好奇の視線が寄せられた。
しかし、その大半はすぐに外れて消えていく。
錬の浮かべる必死な表情に、賢明な人間は彼の抱える事情の重さを自然と察知したからだ。
触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、彼らはそそくさと離れていく。
「――ッ!」
一方、錬にはそのような外野の眼に気を逸らす余裕はなかった。
咄嗟に左前方に身体を投げ出して、受け身を取ってまた走り出す。
何もない場所での彼の動きは一種のパントマイムのようにも見えて、未だ興味本位で遠くから様子を窺っていた本能の鈍い外野はせせら笑った。
だが一瞬の後、彼の足があった地面に不可解な衝撃が走る。
――バシィッ!
何かが弾けたような音と同時に、まるで花火を当てた時のように白く焼け付くコンクリート。
その現象に野次馬は首を傾げるも、すでに興味対象の中心は遠くへと走り去ってしまっていた。
やがて短慮な彼らはどうせ見間違いに過ぎないと、すぐに次の面白いものへと意識を移していった。
「……ふぅーっ、ふーっ!」
大道芸と見間違われ、笑われながらも、その当人は真剣な表情を崩さない。
汗と焦りに塗れながら、全力で歩道を駆け抜けていく。
――曲がりなりにも魔力と呼ばれるものに関わった以上、彼の視界にははっきりと何が起きたのかが映っていた。
先ほどコンクリートを焼いた現象の正体は、後方から飛来する深紅の火球――火炎弾。
【黙示録の集い】の一員による、明確な攻撃だ。
一つも当たってはならない危険な攻撃が、絶え間なしに錬を襲い続けている。
「チィッ……! まさかここまで躊躇しない相手だったとは……っ!」
ビルの壁面から、電線の上から、果ては空の彼方から。
至る所から降り注ぐ呪術の爆撃をジグザグにステップを踏んで避けながら、錬は小さく叫ぶ。
大通りへ出て一般人に紛れ込んでしまえば、相手も攻撃を躊躇するだろう――残念ながら、そのような彼の思惑は外れていた。
彼らは錬を捉えるためならば、平然と風の矢、水の弾丸を打ち込んでくる。
なにせそれらの攻撃手段は一般人には視認不能ゆえに、下手人が判明しない。
それを良いことに彼らは呪術攻撃を連打するため、おかげで錬は周囲にそれらが命中しないように配慮しなければならず、逆に自らの策に溺れることになってしまっていた。
「これならば、いっそのこと――ッ!」
このままでは、やがて錬のスタミナが先に尽きることは自明の理。
打開策を見出さなければ勝機はないと、錬は思考を巡らせる。
「やれっ!」
再び飛来してきた水弾を左に避けつつ、彼はちょうど見かけた街の地図をちらりと流し見る。
「……やはり、こうする他ないか」
一瞬だけ逡巡の表情を見せた後、彼は急に進行方向を転換した。
目標を一点に絞って、腹をくくりながらそちらへと走り出していく。
その背中を上空から追う鷹の眼の役割をしている術者が、報告する。
「対象は……南西へと方向を……転換……」
「分かったわ……総員、そちらへ向かいなさい……」
錬が何を考えて逃げ道を決めているのか、先輩である彼女には分からない――考えようともしなかった。
いくら身体能力は高いとはいえ、錬は未だ魔法のまの字も見せない一般人に過ぎない。
そんな彼がいくら策を張り巡らせようと、超常の力を手にした彼女たちの手から逃げ切れるわけがない。【黙示録の集い】の誰もが、そのように考えていた。
「……どうして逃げるの? どうして……敵わないと、分かっているはずなのに……自らこの狭苦しい現実に、囚われ続けるの?」
優雅に電線の上を這う使い魔の上で、狭く入り組んだ地上を自らの足で歩くしかない一般人の姿を眺めながら、彼女は小さく呟いた。
――出口が開かれている鳥籠の中に留まり続ける鳥がいるだろうか。
――鎖に繋がれずに犬小屋に居座る犬がいるだろうか。
より自由になることが出来る道筋が見えていながら、なお現状に固執する錬は、彼らにとって臆病で憐れむべき対象にしか見えなかった。
■■■
「……鬼ごっこは、もう終わり?」
「こちらにも明日の予定がある故に。先輩方にはいい加減諦めてもらう」
彼らが最後にたどり着いたのは、とある団地の中央に存在する寂れた公園だった。
夜中ということもあってか人気はなく、がらんとした空気の中で蜘蛛の巣の張った遊具だけが空しく存在を主張している。
その入り口には逃げ場を塞ぐように異形の獣を従えた者たちが張っており、錬はまさに窮地に追いやられた鼠だった。
かろうじて奪い取った一振りのナイフを構えるも、超常の力の前には子供の抵抗も同然に違いなかった。
「貴方こそ、諦めたら……? 逃げ場はないわ……これ以上は、痛い目を見るわよ……」
彼女が更に、幾枚の栞を本の隙間から引き抜く。
それを周囲に散らすと、瞬く間に新たな魔獣が生まれ落ちる。
「【火雀】……【水亀】……【金猫】……」
「KuRuuuu!」
「Guxiiii……」
「CxaOooo!」
明るい火を纏った大鳥。
水で出来た小さな城塞のような亀。
表面が滑らかな黄金の光沢を描く猫。
既存の生態系からは明らかに外れている獣たちが、錬へ向けて威嚇する。
「――ふん」
されど、錬は一向に怯む気配を見せない。
「自らの身体惜しさに、他人を害する者の仲間入りをするなど真っ平御免。自分は死力を尽くして抵抗しよう。――むしろ、こちらからも警告させてもらう」
「は……?」
「自分のことは諦めて、そのような怪しげな術から今すぐ手を引け。そうでなければ、今に痛い目を見ることになる」
そんな錬からのお返しの忠告に、周囲を囲う面子からは一様に笑い声が響く。
「ふふっ、あははははっ!」
「ははははっ、ははははははーっ!」
嘲笑が、静かな夜の中に鳴り渡る。
散々呪術による攻撃を浴びせられてもなお彼我の戦力差も理解できない錬の愚かさに、【黙示録の集い】の面々は腹の痛みを抑えきれなかった。
「……」
しかし、集団の指導者として錬と正対している彼女だけは笑っていなかった。
月明かりを背にしながら彼女へと向けられた後輩の視線には、一欠けらの陰りすら見られないから。
自らの劣位性を理解した上で、それでもなお彼の瞳に映る意志は未だ折れる気配を微塵も見せない。
むしろ、そこに浮かんでいるのは――。
「苦悩……後悔……哀れみ……なに?」
錬の浮かべる悲痛な表情にある種の不気味さを感じ取った彼女は、仕方なしに一つの決定を下した。
「そう、分かったわ……今の貴方には、なにを言っても聞きやしない……」
「無論だ」
「なら……これを見ても、同じことを言えるの……?」
彼女は、自分の隠していた手札をもう一枚切った。
彼女が片手を上げて合図すると、後ろから新たな影が姿を現した。
――その正体は、錬も良く知る顔だった。
「陽菜……っ!」
二人の影に両肩を担がれて運ばれてきた彼女は、ぐったりとした様子で目を閉じている。
「……貴様ら、彼女になにをした?」
ことここに至って、ようやく錬は強く自覚した。
目の前の彼らをまともな交渉相手として捉えようとしていた自分が、大きく間違っていたことを。
警戒のレベルを超えて、錬は敵意を剥き出しにしながら低い声で問いかけた。
「ただ……ちょっとだけ眠ってもらっただけよ……。今の貴方相手だと……話も聞いてくれないから……」
「人質のつもりか」
「そう……彼女が傷つくのが嫌なら……ナイフを捨てて、こちらへ来なさい……。そしてこれを読むの……読みさえすれば、きっとこの……崇高な目的を理解してくれるから……」
あくまでも慈しむような声で、先輩は投降を呼びかける。
――だが、その優し気な態度が更に錬の怒りを逆撫でしたことを、彼女たちは知らない。
「そうか、よく理解した」
そっとナイフを下げる錬。
その様子に周囲はやはりか、と言った様子で笑いながら新たな仲間の誕生を受け入れようとする。
「……ありがとう」
「――何を勘違いしている? こちらが理解したのは、お前たちが遠慮する必要のない下種だということだ」
武装を解除すると見せかけて、錬は下ろそうとしていた腕を急に反転。その勢いに手首のスナップを加え、ナイフを変則的な動きで投擲した。
刃が一直線に向かう先は、陽菜を抱える仲間の一人。
そのローブの隙間から覗く、腰に吊られたゴテゴテの装飾が施された本だ。
「むぉっ!?」
深く被ったフードの弊害故か、錬の反撃に僅かに反応が遅れてしまう影。
咄嗟に本を守ろうとして動いたまでは良かったが、代わりにナイフは柄の部分まで深く彼の太腿に突き刺さった。
「ぐっ、ぐあああああっ! き、貴様ぁっ!」
その悲鳴を皮切りに、硬直していた事態は一変する。
ナイフが命中するよりも先に、錬は陽菜の元へと足を踏み出していた。
「――行きなさい! こうなった以上、多少痛い目を見せても……構わないわっ!」
一呼吸遅れて、指導者の指示の下に錬の進路を塞ぐようにして数多の魔獣たちが爪を、牙を研ぎながら殺到する。
見るもおぞましい化け物を前に、されど彼が躊躇することはなかった。
――なぜなら、彼女は常に錬のことを見守っているのだから。
もはや彼女の事態介入を猶予する必要もない。【黙示録の集い】の面々が大人しく引き下がっていればそれで何事もなしに済んでいたのだが、錬の友人にまで手を出した以上、彼は素早く決断を下した。
「出番だスティフ!」
「――待機命令、解除。介入を開始する」
錬の信頼に応えて、突如スティフがずるりと空間を引き裂いて姿を現した。
驚く周囲を気にも留めず、続けて彼女は指を軽く鳴らす。
すると、同時に錬を包囲する獣たちが空中で何かに衝突したかのように弾かれた。
「……なっ!?」
「展開、【天威反照鏡】」
音もなく勢いだけをそのまま跳ね返された魔獣たちの姿に黒衣の一同は驚愕する。
その騒めきをよそに、錬は彼の大切な友人を掴んだままの卑怯者へと拳を握りしめた。
「くそっ、ふざけ――」
迫りくる錬の姿に慌てて懐に手を伸ばそうとするも、陽菜を抱えているために上手く手が届かない。
その隙を狙って、錬は最初から敵の弱点へと打撃を叩き込んだ。
「先に手を出したのはそちらだ、恨んでくれるなッ!」
ゴッ、と鈍い音が響く。
死なない程度には加減された、それでも相手を昏倒させるに足る一撃が相手の鼻へと流星のように着弾する。
思わずのけ反った敵の手からすぐに陽菜を引きはがし、その背と膝裏に手を伸ばし――いわゆるお姫様抱っこの形で抱え上げて、錬はスティフの元へと引き上げる。
「なん……ですって?」
一瞬で事態が逆転した目の前の光景に、彼女は唖然とするほかなかった。
呪術により自分たちが握っていたはずの優位性、それが容易く崩されたうえで人質を奪還される。
それだけでも彼女たちにとっては一大事だというのに、それよりも――それを為した、美しき白銀の存在に誰もが目を奪われる。
「解決。当機の前には些事」
「ああ、助かったスティフ。おかげで無事に陽菜を取り戻せた」
黙示録を手にして以降、彼女たちはこの世ならざる存在を認識できるようになった。
――では、目の前の存在はいったいなんだというのか。
「本来ならば君に荒事を任せたくはなかったが……説得に応じないのならば、もはや自分一人ではどうしようもない。先ほどスマホで送った傍観の指示は今ここにおいて破棄する。助力を頼む、スティフ。敵は十人を超えるが、大丈夫か?」
「愚問。当機の本領を以てすれば、敵は存在しないと同意義」
見かけはただの幼女のようであっても、新たな視界を得た彼女にはまた異なる姿が映る。
例えるならば、その輝きは夜空に燦然と輝く月に等しい。
一天体の如き膨大な呪力が、幼子の輪郭に収められた上で、あろうことか自分たちという矮小な存在を敵と定めて立っている。
「さて。それでは幕引きの開始だ、先輩方。自分のみならず、陽菜にまで魔の手を伸ばしておいて……ただで終わらせるわけにはいかない」
そして、その恐るべき輝きを従えるのは普通の人間だったはずの鍋島錬。
謎の存在が放つ重厚なプレッシャーに圧し潰されそうになりながら、彼女はここにきてようやく余裕綽々といった表情を崩した。




