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第一話 幼女のレシピ


 空が赤く染まり、カラスが鳴いて妙な寂しさが胸を過ぎる刻限。


「――ただいま、っと……」


 築三十年ともなる安アパートの玄関を開け、低い天井を潜るようにして部屋の主である青年、鍋島錬は帰宅した。


「ふぅ。まだまだ新生活には慣れないな」


 彼が軽く首を回すと、小気味のいい音と共に特徴的な銀髪がさらりと揺れる。

 その下に覗く彫りの深い顔立ちからは、彼が欧州人の血を引いていることが伺える。

 そして、唯一日本人らしい黒の瞳には、薄く疲労の色が映し出されていた。


「大学、これまでの生活とは全く異なる環境がここまで厳しいとはな」


 早々に板張りのリビングへと身体を投げ出して、錬は呟く。

 皺一つのない白いワイシャツの下から、健康的な腹筋が顔を覗かせた。

 ――そう、鍋島錬は三年に及ぶ辛い受験生活を終え、今春から晴れて大学生となった青年だ。

 そんな、入学式を一週間前に終えたばかりの彼は今、

高校生以前と大学生の違いをたっぷりとその身に叩き込まれて、脳にストレスが蓄積していた。


「これでは先が思いやられるな……いや。辛いのは誰もが同じ、自分だけではないか。嘆いていたって仕方ない。ただ行動あるのみ、だな」


 ふぅぅぅ……と悩みを纏めてため息として吐き出すと、途端に間抜けな音が彼の腹から響く。

 ――ぐぅぅ……。


「腹が減っては戦が出来ぬ、だな」


 締まらない自分の空気に苦笑しながら、錬は傍に置かれていたビニール袋の中身を手に取った。

 半額のシールがでかでかと貼られた、質より量を地で行く豚カツ弁当とペットボトルのお茶。

 すっかり慣れてしまった大味の冷や飯に食らいつきながら、一言。


「……これも、飽きたな」


 錬は大学への進学を機に、親元を離れて一人暮らしを始めるようになった。

 それがおよそ二週間前の出来事で、それからというもの、彼の食事は毎食がコンビニかスーパーの半額弁当だった。

 同じものを続けないようにして誤魔化していても、限界はある。

 規格化された濃い味付けが繰り返される食生活に、ここ数日の錬の舌は飽きを訴えていた。


「ごちそうさまでした」


 容器を洗ってゴミ箱に押し込んだのち、錬は勉強机に座りながら一年次の履修計画を考えつつ、いつの間にか惰性でスマートフォンを弄っていた。

 特に考えることもなく表示された文字を追っていると、偶然映しだされたサイトが彼のどこか気だるげな目に留まる。


「……自炊、か」


 動画サイトに上げられた、ごく普通の調理動画。

 手が込んでいる訳でもなく、工程を説明しているのは今流行りのバーチャル配信者だ。

 そんな画面の向こう側でぱちぱちと跳ねる油の様子に、ごくりと錬は喉を鳴らした。

 姿を現したのは奇しくも、先ほど錬が食べた者と同じ豚カツだった。

 しかし、今の錬には妙にその香ばしくきつね色に揚がった豚カツが、まったくの別物に見えて仕方がなかった。

 軽く視線を動かせば、入居したきり、ほとんど手つかずの台所が目に入る。

 父親の勧めで最低限の調理器具は揃えているものの、どれも新品同然だ。


「……ただ行動あるのみ、そうだな」


 錬はふと、今は亡きロシア人の母親の手料理を手伝っていた昔のことを思い出した。

 ――手作りの料理は、どんな人の心も和ませてくれるのよ。――

 その母が交通事故で死んで以降、調理に携わった覚えがない――それでも。


「これも、今の心を晴らす良いきっかけになるかもな」 


 そうと決まれば善は急げと、錬は引っ掴んだ財布を黒いパンツのポケットへと押し込んだ。

 ――その決断が、新たな悩みを呼び込む火種になるとも知らずに。



 ■■■



 ――錬が新たな決意を胸に抱いてから、数日が経過した。

 数年来となる包丁の振るい方も完全に思い出し、簡単な野菜炒めから麻婆豆腐、シチューなどの煮込み料理を作り上げてご満悦の錬はすっかり調子に乗っていた。

 手作りの、一から十まで自分好みに仕上げられる味付け。

 なにより食卓に向かった自分を出迎える、作り立ての特権であるほかほかとした湯気。

 それらが彼の憂鬱だった気分をさっぱりと拭い去ったのだった。


「思っていたよりも自炊というのは楽しいものだな。陽菜(ひな)にも顔色が良いと言われたし、これは良い」


 そうして迎えた金曜日、講義を終えた錬は少しばかり難易度の高い料理に挑戦しようと考えていた。


「せっかくの週末だ、なにか手の込んだ物でも作ってみるか」


 思い立ったのは、思い出の味である母直伝のビーフストロガノフ。

 レシピは半ばうろ覚えだが、手作りと言えば外せない味――それが、錬にとってのビーフストロガノフだった。


「よし、準備しよう」


 記憶の糸を手繰りながら、錬は近所のスーパーで具材を買い揃えていく。

 牛肉に玉ねぎ、それにマッシュルーム。コンソメの素に粉末パセリ。サワークリームはなかったので、代替品としてヨーグルト。レモンに生クリームに粉末パセリ、そしてローリエなどと言った各種スパイス。

 それらを詰め込んだカゴで意気揚々とレジに向かい、忘れていたバターと料理用ワインを慌てて取りに行ったりしながら錬は会計を済ませた。

 そうして彼は、朝早くから仕込みを始めた。

 鼻歌交じりに、皮をむいた野菜と肉をまな板の上に並べて切っていく。


「“切って、切って、滑らかに。雪上を走るソリのように”――痛っ!」


 と、気づけば指を包丁で切っていた。

 慌てて絆創膏を貼るも、野菜には少しだけ血が付着していた。


「……もったいないな」


 錬はわざわざ捨てるよりも、血の付いた野菜を洗ってフライパンに突っ込むことを選んだ。

 一口大に切ったそれらを軽く炒め、肉も入れて色が変わったのを確認してから、お湯に溶かしたスープの素と各種スパイスを入れて保温鍋にぶち込む。


「“くるりくるりと、かき回せ。左に一回、右に一回。左二回に、右三回。更に五回に、次は八回――”」


 母親に教わった通りに鍋肌に沿うようにお玉でかき混ぜ、沸騰すればアクを取り、保温専用の容器に入れて終了だ。

 男らしい雑な調理がところどころ目につくものの、それでも錬はきちんと食べられそうに料理を仕立て上げていった。

 と、ここで錬は一つ、母である鍋島有理(ユーリ)の言葉を更に一つ思い出した。


「“料理は愛情、そしてちょっとの悪戯心”、だったな」


 物は試しと、足りない調味料の代わりとして、錬は大匙二つ分の醤油を鍋に垂らす。

 その際にちょっと溢れた分も、ご愛嬌としてくるくると混ぜ込む。


「これで良いか。あとは待つだけ……図書館にでも行ってこようか」


 そう気楽に考えて、錬は足を弾ませながらキャンパスへと出かけるのだった。

 ――鍵を閉めた家の中で、怪しげな紫色の光がどくん、どくんと脈打っていることも知らずに。

 ――冷蔵庫の横に置かれた保温鍋を中心として発せられる魔性の光は、まるで胎動しているようにも見える。

 されど、その摩訶不思議な光景を止める者は誰もおらず。

 生命を感じさせる光は、静かに部屋の中で瞬いていた。



 ■■■



 やがて閉館時間を迎えて図書館から追い出された錬は、肩に圧し掛かる疲労を振り切って一直線にアパートへと戻ってきた。

 深い紫に染まった夕焼けに浮かぶ、壁に蔦の這ったボロアパート。

 ぎしぎしと音を立てる階段をスキップして昇り、彼は勢いよく玄関を開ける。


「ただいま、っと!」


 一週間前とは比べ物にならないほどうきうきとした声で、台所へと向かう。

 目的はもちろん、今朝仕込んだばかりのビーフストロガノフ。

 濃い茶色の、濃厚な脂と香辛料のハーモニーが鼻をつくことを期待して、錬は胸を弾ませる。

 暗い部屋の電気をつけて、記憶通りに冷蔵庫の横にひっそりと置かれていた水色の保温鍋を開けて――。


「――は?」


 その中に入っていたものを見て、錬は間の抜けた声を上げた。


「いや……え?」


 ぼんやりとした部屋の明かりが、錬の頭の上から鍋の中身を照らし出す。

 彼の瞳に映し出されたのは、期待していた光景とは180度――それどころか、540度、いや900度……ともかく、軽く正気を失う程度には異なる、奇妙なものだった。

 否。それを果たして、もの(・・)と呼称して良いのだろうか。


「……どういう、ことだ?」


 彼が困惑した目線を向ける先にあるのは、まず第一に――綺麗な肌色だった。

 続いて、レース付きのカーテンのように軽やかに広がる、長い長い銀の糸。

 更にはその銀の海の一部から短く存在を主張する、ぐいっと突き出た漆黒の牛角。

 それらが小さな鍋の中に、ぴったりと押し込まれるように収まっている。


「……本当に、訳が分からん。なんだ、父上の悪戯か?」


 そう、彼が咄嗟に言葉につまったのも無理はなかった。

 なにせ、上記の特徴を掛け合わせた結果、錬の視界で像を成したのは――。

 すやすやと安らかな顔で眠る、一人の幼女だったのだから。


「これを、一体自分にどうしろと……?」


 口をぽかんと開けて、錬が現状を今一受け入れられないでいると、もぞりと眼前の肌色が動く。

 思わず錬がびくりと身体を震わせると、幼女の柔らかそうな瞼がぱちりと開いた。

 その中から顔を出したのは、彼と同じ漆黒の瞳。

 ただ、その眼は何処までも光を呑み込む闇色のようで、ハイライトがない。


「――」

「……」


 しばし、無言で二人は眼を合わせる。

 錬としては、この少女にどう声をかけるべきかが分からなかった。

 そもそも彼女が見た目通りの年齢ならば、話すことが出来るのだろうか。

 疑問が頭の中で延々と巡る錬に対し、幼女はのそりと手を伸ばした。


「うおっ……」


 その一挙一動に大げさな反応を示す部屋の主をよそに、ゆっくりとした動きで鍋の中から彼女は姿を現す。

 そうして彼女は、やがてぴしりと見た目にそぐわない規律だった形で直立する。

 本来隠されるべき秘部を晒すことに恥じる様子も見せない。

 もっとも、驚愕しっ放しの錬の心もまた、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 彼に注視される中で、幼女が静かに口を開いた。


魔導兵器(マギアクラフト)戦姫(メイデン)】シリーズ、タイプEX(エクストラ)。起動完了。認証を要請する、我が主」

「――し……」

「し?」

「喋ったぁぁぁあああぁぁぁ!?」


 もはや、錬の現実認識能力は限界だった。

 何処からともなく現れた幼女と、さっぱり理解する事の出来ない単語の羅列。

 こてりと首を傾げる彼女をよそに、オーバーヒートしかけた錬の脳は速やかに最善の解決策を見出した。

 それは「これはきっと夢である」という現実逃避であって――。


「……よし」


 その一言を最後に錬はばたんと後ろへ倒れ、速やかに自らの意識を手放した。

 そんな己の主を前にして、事態の根幹である魔導兵器を名乗った少女は、ぱちくりと目を瞬かせた。



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