プロローグ『夜』
「────っはぁ、はぁっ」
荒い息遣い。
街頭もない夜道に一人、少女の姿があった。足を止める暇もなく、闇を駆ける。縺れた足で、必死に、
「はっ……くっ、はぁっはぁ、誰か、誰か助けてぇっ……!」
何かから逃げるように、もがいて。手を伸ばした、瞬間。
「ぅ、ぃっ! やああああああああああっ」
弩に弾かれでもしたかのように、少女は叫び声を上げ、その場に膝を折った。そして、少女と、その上に重なる影が月明かりにくっきりと照らされていた。
爛々と輝く黄金の瞳、鋭く、その白肌に食い込んだ牙、月光下に現れたのは、紛れもなく──吸血鬼だった。夜の色に溶け込むような長いマントが、少女までも覆い隠していく。
「っぢぃ……っあぉっ、ご、っあじ、ぅあ」
吸いきれない赤が妖しく、鬼の首を滴り落ちた。
年若い青年は、欲望のままに生娘の血液を貪っている。彼の頬は悦びに歪み、紅潮し、そして。
「──ご、ぉっ!? ……っあ、ああ!」
──弾け飛んだ。
少女の肩に噛み付いたまま、彼の顔面がいきなり、爆ぜたのだ。その頭があった場所には、紅い大輪が咲き、煌めくソレには彼の血や皮膚が、べっとりとこびりついている。
「ぃぎぃっ、ゔがっ……!?」
頭を失くした鬼は、言葉にならない叫びを上げて、べちゃりと崩れた。
あっけなく。
「くふっ、あは、あっははははははは」
そして、闇の中には場違いなまでに明るい声が響いていた。
乾いて冷え切った嗤い声が。
一人の少女の嗤い声が。
血を吸われていた少女の、醜い嗤い声だけが。
眼前の光景に少女は狂ったように嗤っていた。怯えるなんてことは無い。
ただ見下すように。
彼女は、笑い続けていた。
なにせ彼の頭を爆ぜたのは、あの少女だったのだから。深紅の結晶は少女の首から出ている。ちょうど血を吸われた部分から、刃のようにそれが突き出していたのだ。 彼女を赤く染めるのは血なのか、それとも恍惚なのか。ともなく、少女は立ち上がった。
「あはっ、楽しいねっ、悲しいねっ! 寂しいっ!? 淋しいねっ」
その踵は、弾む度に転がる肉片を踏みつける。
満たされることの無かった腹を。
────踏みつける。
色を失った目玉を。
────踏みつぶす。
ご自慢の並んだ牙を。
────砕き割る。
彼の人生を、全て否定するように。
────踏み壊す。
今までしてきた何もかもを、嘲笑うように。
────踏みにじる。
────踏みにじる。
────踏みにじる。
────踏みにじって。
そこまでして少女は、その脚を一層に高く上げ、
「ねえ、どんな感じ?」
物言わぬ肉片に問いかける。至って真剣な眼差しで。その脚を、
「自分の大好物にっ! 殺されるってのはさあっ!」
無慈悲に、無干渉に、無感情に、真っ直ぐに。振り下ろしたのだった。
「あァ……お疲れ様でした」
皮肉にも、皮も肉も飛び散り、完全に塵と化した吸血鬼青年に。少女は手を合わせたのだった。