幽霊少女と悪魔少年
セミの声がうるさく吹く。心地の良い風が鳴いている。教科書が数ページめくれ、カーテンと夏が広がった。まだ少し眠たい気もするが、もう寝ることはできないのだろう。面倒だが目を開けようか、僕しかいない面白みもない教室で。
「こんにちは。少年」
声の先に目を向けると、クラスメイトがいた。夏休みに、律儀に制服を着たクラスメイト……ただその姿は冬用の制服だが。僕は広がるカーテンを束ねてから返事をした。
「こんにちは。少女」
ここ四階の、教室の窓の、先の空に、浮いていたクラスメイトに返事をした。
「あまり驚かないのね」
いいや、驚いている。人が宙に浮いているのだ、誰だって驚く。しかも冬服なのは一番驚くべきポイントだろう。夏に冬服を着るなど自殺行為だ。
「僕も空を飛べるのかな」
「おすすめはしない。それにこれは、飛びたくて飛べたのではなく、飛びたくなかったが飛ぶしかなかったのだよ。青い空の中を羨むより、青い空の下にいることを幸せに思うべきだ少年」
それから僕は彼女と同じ夏を過ごした。僕は誰もいない教室に、彼女は誰もいない空の中に。各々違う場所ではあるが、窓という二人の壁を取っ払って延々と話していた。
これが夢なのか現実なのか、しかし僕にとってそれは重要ではなかった。彼女がどうして空にいるのかも、特に気にならない。
気にならないのは、気に入ってしまったからだろう。彼女との他愛のない会話を。だが、その日はなぜか他愛のないこともない質問をしてしまったようで、この日から、道を選ばなければいけなくなった気がした。
「宙に浮かぶ君にも欲しいものとかあるの?」
「もちろん、あるよ」
「お金で買えるもの?」
「いいや、買えないね」
「この世界にあるもの?」
「どうかな」
「わかんないや。何か教えてもらえるかな」
彼女は少し考えたように上を見て、それから口を開いた。
「それは……、ラプラスの悪魔だよ」
そう彼女は空の中で言った。まるでシャーロックホームズのように、さも答えかのように、この世界の真理に辿り着いたかのごとく、淡々と言った。しかし僕はそれを知らない。
「ラプラスの悪魔って?」
「世界に存在する原子の位置と運動量を知ることのできるような知性が存在すれば、その優れた計算能力により未来も知ることができるはず。言わば未来を知る力」
「原子って、全部の?」
「全部の」
ふむなるほど不可能だ。それはたしかに悪魔だな。
それにしても彼女は自分で言って、まだ気づいていないのだろうか。
「宙に浮く君に、原子は存在するのかな」
彼女は僕に背を向けた。そして無言のまま、手を後ろで組んで指をいじっている。いじけて、いじっている。
「君に、未来は必要かな」
「……いじわる」
それから僕は何かをするたびにルーティンのようなものを思いつく限りやってみた。例えば、マグカップに珈琲を淹れる時は右耳たぶに触れてから。珈琲を飲む時はマグカップを一度左手で持ってから右手に持ち変えて飲む。
数日経って、いや数週間経ったかな。数ヶ月かな。静止した時の中を延々と彼女と過ごしていたから正確にはわからないが、いつの日か僕は、右手に持ち変えたマグカップを机に置いて彼女の目を見た。
彼女もキョとんとした間抜けな顔で見つめ返してくれる。
「君は、僕が持ち変えることを知っていたね。なんだったらマグカップに珈琲を淹れる前から淹れることを知っていた」
「え、どうしたの急に」
「君は未来を知っていたんだ。原子を把握していたわけでもないだろうに。ラプラスの悪魔なんて必要のない未来視」
「何が言いたいの?」
彼女は少し怒った表情で、僕に質問をする。
「僕は思うんだ。原子の全てを把握しても未来を知ることは叶わない。そんなにも世界は単純じゃないし、そして難しくもないって」
退屈そうに欠伸をする幽霊は、それでも視線は僕に向いていることから、少なくとも話は聞いてくれているみたいだ。だから話を続ける。
「すべての選択だと思うんだよ。今日僕は鳩を見た。それは僕がいつもの道を歩くという選択、空を見上げたという選択、鳩がその空を飛ぶという選択、それらが重なっているんだよ。だから僕は」
…………君を救いたい。そういう選択をしたい。
鐘の音。
冷たい風。
そのどちらか、もしくは両方のせいで僕は目を覚ました。そして違和感、たくさんのクラスメイトが教室にいたのだ。いや、この字面の方が違和感を覚えるべきか。教室にクラスメイトがいる方が自然というものだろう。
しかし僕はずっと、誰もいない教室の方が見慣れている。それにみんな冬服なのも違和感が、ん、あれ、僕もいつの間にか冬服に着替えていたようだ。
「さ、ホームルームを始めるぞ」
教師はそう言った。
真面目にみんな席についている中、一つの空席を残して。欠けているにも関わらず気づかないフリをしている。まるで、一人の女の子を突き放すかのように、空に突き落とすかのように。
「まだ……、まだ一人足りないだろうが!」
気付けば僕は怒鳴っていた。人生で初めての怒鳴り。
「ど、どうした急に」
教室は騒がしくなる。
だが僕は、その言葉一つ一つを聞くことはおろか、心配してくる教師の声すら届いてこない。両の掌には4箇所の爪の跡が、怒りとともに握りしめていたことが後でわかった。
僕は今、時間を無駄にしている。
そう思ったときには僕は走っていた。
勢いよく教室を出て、『走るな』と書かれた紙が貼ってある廊下を全速力で走り、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。彼女が空に溶けてしまわぬように。
「こんにちは。少年」
屋上のフェンスを越えた場所に、それでもしっかりと地に足をつけて立つ彼女が、僕の登場に驚きながらも挨拶をしてみせた。頬に冷や汗が伝っているくせに平気な顔で、平然とした顔で。
「……」
「どうしたの少年」
僕は言葉が詰まってしまっていた。言いたいことはいっぱいあるのに、後悔したくないのに、なんて声をかければ良いか分からなかった。
「あ、そっか。そりゃクラスメイトが屋上で、それもフェンスを越えて立っていたら動揺してしまうか。失敬失敬〜」
「……ラプラスの悪魔」
「っ」
どうしてだろう。僕は言いたいことが沢山あるはずなのに、よりにもよって特に言いたかったわけでもないことを言ってしまったのだろうか。いや、その言葉に彼女は少しでも興味を示した。これで良かったのかもしれない。
「ラプラスの悪魔は君が欲したものだよね。未来を視ることができればって、欲しかったものだよね」
本当はもっと、死にたいなんて言うなよとか、生きていれば良いことがあるとか、そういうありふれたことを言うつもりだったんだけど。もう、いいや。僕はそこまで善人というわけではない。自分の為に、自分の未来の為に、自分勝手に言葉を並べる。
僕は悪党でいい。
「そんなラプラスの悪魔はどうやら僕だったようだ。君が死んでしまい、幽霊になってしまう未来を視たから、ここへ来た」
「はぁなるほど確かに。死後の私に対する反応が気になると言えば気になる。まぁ予想はつくが。それでも私はやはりラプラスの悪魔を欲していたのか……。それで? 死なないでくれーって叫んでみるかい? 必死に生きろって? 生きていれば良いことがある? 少年は何しに来たの?」
そんなもの言ってあげるか。そんな善意に満ちたナイフを刺してあげるか。必死に生きたって疲れるだけだ。生きていれば良いことがあるなんて他人にわかるか。
善意のナイフを刺すぐらいなら僕は、最悪で残酷な手を差し伸べる。
「別に。ただ、僕は友達が少ないんだ」
「だから?」
「だからさ、青い空の下にいることを一緒に幸せに思おうよ。僕の話し相手になるために、僕の友達になるために、飛ばないでくれないかな」
「あはは、なるほど、最低だ」
「……でしょ?」
「だけど、素敵だね」
こうして僕は幽霊少女の存在を消し、一人の友達を得た。こんなにも非現実的な未来視をしておきながらも、僕はこう言い続けるだろう。
『これは僕らの、選択の物語』と。