62 嫌だ。
ざあ、と滝のように降り始めた豪雨がシェリアの全身を濡らしていく。こんなに濡れたらまた熱が上がってしまうのに、そんなことはどうでもいいと思ってしまうほど強い気持ちが、シェリアの胸を占めていた。
「やだ」
「シェリア、抑えて!」
フィデルにもう会えないなんて嫌だ。忘れてしまうなんて、忘れられてしまうなんて嫌だ。前世の記憶なんて、欲しかった訳じゃないのに。要らなかったのに。『転生者』なんて肩書き、要らない。『聖女』になんて、なりたくない。暗い感情ばかりがシェリアの中で渦巻く。頭痛はもう意識なんて保てなくなりそうなくらいにひどいけれど、それすらも気にならないくらい、「嫌だ」という感情だけがシェリアを支配していた。
「命令が、効かない......?」
クリューが焦りを感じながら呟いた、そのとき。
「リア、しっかりしろ!」
聞こえるはずのない声にシェリアはぴくりと体を揺らす。虚ろな瞳で、木に片手をついて肩で息をする彼を辛うじて捉えた。
「フ、ィー?」
「リア、ちゃんと聞こえるな?」
フィデルの確認にシェリアはこくっとうなずいた。シェリアの光が少し弱まる。しかし聞こえてはいるけれど、何が起こっているのかわからなかった。なぜシェリアから光が出ているのか、なぜフィデルは追い付けたのか。
「とりあえず落ち着け。ほら、深呼吸」
シェリアは言われた通りに深呼吸しようとするが、いろんな感情が溢れてきて呼吸がうまく整わない。フィデルは小さく舌打ちしてクリューを睨み付けると、口を開いた。
「クリュー、リアの魔力食べられるだろ」
「......え、あ、うん!」
パニックになっていたらしいクリューは、フィデルの言葉に慌てて頷いた。シェリアに駆け寄ると手をつかんで魔力を食べ始める。けれど、シェリアの光が弱まることはなかった。
「クリュー、お前、今度こそリアに何吹き込んだんだ!?」
「フ、フィデルがシェリアのことを忘れるかもって」
「また面倒なことを」
フィデルは思わずそう呟くと、シェリアに向き直る。
「リア!俺はリアのこと忘れたりしないから、大丈夫だ。落ち着け」
すー、はー、と深呼吸を繰り返すと、少し感情が落ち着く。それと共に光も弱まった。
「リア、それくらいなら制御できそうか?」
「わからない」
シェリアは自分でも驚くほどか細い声で答えた。『制御』といっても、シェリアはこんな状態に陥ったことがないので、どうすれば制御できるのかわからないのだ。
「自分の中の魔力を意識しろ。何か巡ってるものがあるのがわかるか?」
巡ってるもの、と言われてシェリアは目をつむって考えた。血液のようなものだろうか。そう思って想像してみると、血液とは違う温かさをもつ何かがシェリアの体を巡っているような───気がしなくもない。それを認識したとたん、シェリアの光が消えた。示し合わせたようにどしゃ降りだった雨も弱まる。そのとたん、足元がくらりとしてシェリアの体から力が抜けた。
「お、おい、リア?」
突然倒れかけたシェリアをフィデルが慌てて支える。
「凄い熱......体を鍛えてるわけでもない令嬢がこんな雨に打たれ続けてたら、当然か」
「シェリアの熱は、昨日からだよ。無理して動かしたのもあるから......」
「リア?リア、しっかりしろ」
シェリアを拐ったのが嘘のように、クリューはしゅんと項垂れて言った。その言葉に慌てたフィデルがシェリアの赤くなった頬をペチペチと叩く。フィデルに連れていってもらった夜会の時もこんな状態になってしまったので、そのときを思い出しているのかもしれない。
最近のシェリアは、というよりもシェリアの体はどこかおかしい、と自分でも思っていた。いくら箱入りの令嬢だからって、こんなに簡単に倒れたりするほどでは───。その考えも白く塗りつぶされて、フィデルの焦った声が遠くなる。
「─い、───りしろ!──、───────」
「おい、しっかりしろ!リア、リア」
フィデルは腕の中のシェリアに必死に呼び掛けた。この熱の高さを考えれば、寝かせておいた方がいいのはわかる。しかしそれは『普段なら』の話で、『普段』に当てはまらないときもある。例えば、魔力を使いすぎた後、とか。
魔法は普通に自分が使える階級のものを、適度に使うのなら何の問題もない。けれどそれ以外の使い方をすれば、命に関わる。実際、自分より高ランクの魔物を倒そうと大魔法を無理に使って死んでしまう魔法使いなども少なくない。一発の大魔法でもそんなことがあるくらいなのだから、本人の意思で制御できないほどの────地を揺らしたり、天候を変えたりしてしまうほど魔力を放ったシェリアは、最悪のことも考えられる。
そう思って引き留めたフィデルの思いとは反対に、シェリアのまぶたは固く閉じられてしまった。
「リア?」
雨音にかきけされて寝息さえ聞こえないシェリアに不安になって、フィデルは彼女の口元に耳を寄せる。すると、今にも消えてしまいそうなほど細い呼吸が聞こえた。
「我らを望む場所に───」
「ちょっと待って、フィデル!」
何も告げることなく転移魔法の詠唱を始めたフィデルをクリューが引き留めた。
「俺もクリューには言いたいことが山ほどあるが、リアが優先だ。『聖獣さま』たちだって、『聖女様』を殺したいわけじゃないんだろ」
フィデルが冷たい瞳で一瞥して言うと、クリューは押し黙った。
「我らを望む場所に運べ」
次の瞬間にはフィデルたちは消えていて、その場に残ったのはクリューだけだった。
「クリューは失敗、かぁ。やっぱり、彼女を拐うのは僕じゃないとね」
闇に紛れて誰に気づかれることもなく笑う、一人を除いて。




