61 そんなの
シェリアの熱が落ち着いたのは、翌朝のことだった。その頃にはロゼッタは先に行くと言って、いなくなってしまっていた。落ち着いたといっても高熱が微熱程度に下がっただけなのだが、これ以上立ち止まっているわけにもいかない。少しでも早く聖域にいかないと大量の魔力を取り戻したフィデルに追いつかれてしまうだろう。クリューとしては面倒事はできる限り避けたい。
一方シェリアはというと、なぜクリューが急ぐのかわからず、走る彼の背に乗ったまま半分寝ているような状態で呟いた。
「フィーのところに、帰りたい」
言うなり頭痛を感じて、思わず白狼の姿に戻ったクリューの体にしがみつく。
「そうなるってわかってるんだから、考えなければいいのに」
クリューがどこか独り言めいた響きを含んで言った。けれど、それは違う。
「それでも、考えたいの」
今頃、フィデルはどうしているだろうか。きっと心配しているだろうけど、シェリアを追いかけるために危ないことをしていないといい。そんな風に思ってしまう気持ちは、なくそうと思って消せるものではない。どうしても、考えてしまう。
「よくわかんないけど、それなら忘れさせた方がよかったかな?」
「え?」
クリューは無邪気に呟いたが、この話の流れなら明らかにフィデルのことだろう。シェリアはまだ熱があるくらいだった体温が、一気に下がるのを感じた。もし、今クリューが一言言えば、シェリアはフィデルを忘れてしまうのだろうか。あの、呆れたような表情も、泣き虫なシェリアの頭を撫でてくれた手も、幾度となく元気をもらった言葉も、優しい声も、大好きな笑顔も。
「そ、んな、の」
「まあ、いっか。もうすぐフィデルの方は忘れるわけだし」
クリューが今度こそ独り言だろうという小さな声で言った。けれどシェリアがいるのは彼の背中───つまり真上なのだから、しっかりと聞こえる。嫌だ、と駄々をこねる子供のように言いかけた言葉すら、シェリアは声に出すことができなかった。
「さ、もうすぐ聖域に着くよ。ここなら人間は入ってこれないから」
クリューは気分を変えるように明るく言った。しかしその声はシェリアの耳を右から左へ通り抜けていく。
「フィーが、忘れ、ちゃう?」
そんなのは嫌だ、とシェリアの心が悲鳴をあげる。だってそんなの、フィデルがまた一人になってしまう。
「ううん」
忘れられたく、ない。フィデルの瞳に、自分がどんな存在として映っていたかはわからないけれど。
「......助けて」
「シェリア?」
シェリアの異変に気づいたクリューが思わず足を止めた。
「助けて、フィー」
そう呟くシェリアの体から、溢れ出した光が漏れていた。
ふと、フィデルは書物のページをめくる手を止めた。耳に馴染んだ、彼女の声が。「助けて」と、聞こえた気がした。ただの空耳かもしれないし、シェリアはフィデルに頼っているようで、肝心なところは自分一人で抱え込もうとする癖がある。だから、シェリアから「助けて」なんて言われたことはほとんどなかった。それでも彼女が助けを求めているなら、手を差しのべたいのに。
今すぐにでもシェリアの元に駆けつけたいと思う反面、シェリアたちの居場所も、彼女を連れたクリューがどこに向かっているのかもわからない。そして何でシェリアは拐われてしまったのかも。だからフィデルは公爵家に残された書物を調べるしかない。元々レヴィン家は古くから聖獣に関わりのある家系だ。彼らに関する書物は希少なので多くはないが、ないわけではない。
「せい、いき?」
フィデルは古い言葉で書かれた書物の文字をなぞる。そういえば、クリューもそんなことを言っていた気がする。そのあとの内容が衝撃的すぎたのでよく聞いていなかったが。古文はあまり得意ではないので現代語ほど早くは読めないが、これがシェリアの行方の手がかりかもしれないと思うと指は自然と先の文をなぞっていた。
「聖獣たちが、暮らす場所。人間は、魔力の質の違いで、弾かれ、入ることができない?」
少しずつ声に出して読むうちにフィデルの胸に困惑が広がった。クリューがシェリアを聖獣のすみかに連れていこうとしているのは、この際いいとしよう。問題は『人間は入れない』という部分だ。もしこれが本当なら、シェリアも入ることはできないはずである。しかし、クリューもそれくらいはわかっているだろう。なのに連れていこうとするのは、何らかの方法で人間も入れるようになるということなのか。
「待て、リアは......何で拐われた?」
嫌な予感がする。『シェリアが拐われた』ということ以上に嫌なことなんてそうないはずなのに。そのとき、書物の解読と同時にかけていた探索魔法が解けた。皮肉なことに、シェリアと引き換えにフィデルの代償は消えたので、魔力が尽きたわけでもない。どうして解けたのかと不思議に思ったとき、ぐらりと足元が揺れた。
「地震?」
フィデルは机にしがみついて揺れが収まるのを待った。震動はしばらく続いて、ようやくおさまったと思えば、外からざあっと雨の振り込める音が聞こえる。先程まで晴れていたはずなのにどうしたのかと、不信に思いながら窓から眺めていると一点が白く光った。雷かと思うが、その光は消えない。まるで空を支える柱のように、まっすぐ上へ伸びていた。
「まさか......」
フィデルは息を飲む。これほどの規模のものではないが、この現象には少し覚えがあった。幼い頃、フィデルが魔力を制御できなくなったときに。
「リア?」
彼女にこんな魔力はないはずだ。それでも、婚約の儀のことを思い出せば絶対にシェリアでないなんて言いきれない。むしろこのタイミングなのだから、シェリアの可能性が高いとすらいえる。そう思うと、フィデルは部屋を飛び出していた。




