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合わせ鏡 3


三ヶ月に及ぶ調停の末、すずと晃平の離婚が成立。

晃平は固定資産を譲らない代わりに、破格の慰謝料をすずに支払った。


住家を追われたすずは、宝くじ同然で得た大金を手に、函館へと身を寄せた。

何故ならそこには、幼馴染みにして親友、此度の一件に於いては恩人でもある、唯一無二の存在がいるから。




「───いやー、めでたい!実に!」




4月某日。

北海道ではまだ衣更えに至れない、初春の夜。

函館市内のとある居酒屋にて、すずとユウは祝杯を上げた。




「思ったよりは時間かかっちゃったけどね。」


「でも晃平さんとは早い段階で纏まってたんでしょ?

外野がうるさくて混乱したってだけで。」


「うん。

あの時のお義母さんの顔、色んな意味ですごかった。」


「どんな?どんな?」


「魔女っていうか般若っていうか……。

晃平さんに非があるとは、最後まで認めたくない感じ?

最後の最後には、その晃平さんに諭されて、やっと大人しくなったけど。」


「目に浮かぶようだわ~。

ワタシもクソババアの泡吹く姿拝んでやりたかったぁーッハッハッハ!」


「ユウ、声大きい。」


「いーってこんくらい!

あっこの席見てみ?こっちの3倍ドンチャンしてっから!」


「まあ、居酒屋だもんね。」




離婚間もない割にすずはケロリとしており、そんなすずをユウは笑い飛ばした。


本来であれば祝杯どころか、傷心する一方を、もう一方が慰めたり励ましたりが妥当な場面。


実際そうならないのは、この二人だから。

誰より深く互いを理解し、夫婦の馴れ初めをも共有した仲だからこそ、腹の探り合いも傷の舐め合いも不要なのだ。




「意外なのは晃平さんの方よね。

てっきり、"俺は絶対別れないからなぁ!"とかって駄々こねるもんとばかり……。」


「最初に離婚切り出した時は、そんなような顔してたよ。

むしろわたしの方が、"別れたくない"、"不倫されても変わらず好き"、とかって縋り付くと思ったんじゃない?」


「子供のこともあんのに、ンな都合よく一途なワケねーだろってな。」


「本当にね。

いくら他人って言っても、自分より若い子に堕胎の経験させるなんてだったし、よかったよ。」


「もう籍入れ直したのかね?」


「わかんない。

ただ、向こうさんが結構グイグイらしいから、今年中にはじゃない?」


「もう尻に敷かれてんのかよ。先が思いやられるねぇ。」


「彼には、そのくらい強気な奥さんがいいのかも。

子供できたら変わることもあるだろうしね。」


「………。」


「コラコラ、そんな顔すんなぁ。

終わり良くって良かったなーって、未練ないなーって意味だから、深読みすんなぁ。」


「アハハだよねー。ささ、もう一杯。」


「ありがとー、くるしゅうないー。」




"可哀相"でも、"大変だったね"でもなく。

"めでたい"と喜ぶあたりが、なんとも彼女らしい。


珍しく酔ったユウの赤ら顔を見詰めながら、すずは感慨に耽った。




「ほんとは仕事の方も区切りついて、纏めてお祝いしたかったんだけどねー。」


「まだそっちも上手くいくとは決まってないでしょ。」


「決まったも同然よ。

すずの最高のポテンシャルをワタシという最高の美女が猛烈プッシュしてやったんだから。

これで落とされたら本社で大暴れしちゃう。」


「またそういう……。

気持ちは嬉しいけど、ほどほどにね?

わたしのせいでユウの立場悪くなったりしたらだからね?」


「大丈夫ダイジョーブ。さっきのは半分ジョーダン。

ワタシごときのプッシュで左右されるほど、ウチ甘くないから。

ちゃあーんとアンタの実力なにょよーん。」


「だいぶ酔ってきたね。」


「ワタシ酔いたい時に酔える女だから。」


「はいはい。

変な残り方しないといいね。」




そもそも、なぜ二人はここにいるのか。

すずは函館へ来ることになったのか。



"───ここはひとつ、ワタシに賭けてみちゃもらえんかね?"。



実は、離婚の件をすずが相談した時。慰謝料の相場(とう)を教えるついでに、ユウはこんな提案をしていたのだ。

せっかく独身に戻るなら、一度は諦めた夢を掴み直してみるのはどうかと。


詳しく尋ねるすずに、ユウは続けた。

自分の勤める化粧品会社で、デザイナーの定員を増やす話が出ている。

条件はさほど厳しくなく、才能があれば経歴度外視だそうなので、外部の人間にも十分チャンスがある。

すずさえ良ければ、自分が代わりにエントリーしておくので、試してみる気はないかと。


離婚後の進退を気にしていた手前、新しい人生の第一歩となるなら、願ったり叶ったり。

すずは二つ返事で了承し、調停の傍らデザインの技術を磨いた。


そして現在。

一次選考を無事突破し、残すは本人面接を含めた最終選考にて、合否を競うのみとなった。

仮に落選しても、貴重な経験をさせてもらえただけで収穫だと、すずは言う。




「───いい時間になってきたね。」


「ゲッ。ほんとだ。あンだよつまんねー。」


「口調戻ったね。」


「ああ、酔い覚めたから。」


「もう?」


「ワタシ酔い覚ましたい時に酔い覚ませる女だから。」


「引くわ。」




深夜0時、5分前。

久々に手放しで酌み交わせるのが、語り合えるのが楽しくて、気付けば二人は3時間あまりも居酒屋に留まっていた。


店じまいにはまだ猶予があるが、タイミング的には丁度いい。

ハシゴをするにも解散するにも一息(ひといき)いれようと、会計を済ませて外へ出ることに。




「グッヘー、さみぃ。春うらら早よ~。」


「この後どうする?帰る?」


「ええー、帰んのぉ?」


「じゃあ二軒目いく?」


「そうしよ!なんならオールでもいいし!」


「明日予定は?」


「なーんにも。

すずと会う前後にスケジュール詰めるほど馬鹿じゃないって。」


「ふーん……。」




肌寒いビル風に吹かれながら、大通りを並んで彷徨い歩く。


さすが花の金曜日だけあって、往来は深夜に拘らない賑わいを見せている。

酒類を提供する飲食店は、のきなみ満員御礼だ。


こんな風に夜遅くまで遊んだことも、身内の悪口で盛り上がったことも、すずにはない。

あの鳥籠のような家を出なければきっと、これからもなかっただろう。




「明るいね。」


「ワタシが?」


「うん。あと街が。」


「アー……。

まあ、こんなもんじゃない?地方にしては活気ある方かな?」


「夜の街ってあんまり知らなかったから、体感できて良かった。」


「なに今生最後みたいな言い方してんの。

これからいくらでも、楽しんでいいんだよ。」


「うん。」


「ワタシがすず専用の食べログになったげるから。

アッシーでもメッシーでも喜んで?」


「うん。ありがとうネッシー。」


「未確認生物?」




迎えたい朝があること、明けてほしくない夜があること。

孤独でなければ、どんな痛みも苦しみも乗り越えていけること。


すべてはユウが教えてくれた。

ユウがいなければ、自分は今ここにいない。


見慣れたはずの顔に、聞き慣れたはずの声に、すずの中でじわじわと愛おしさが増していく。

少し飲み過ぎただろうかと、もはや言い訳も立たないほどに。




「で、どうする?

多分どこも混んでるけど、スマホで調べりゃなんとか───」


「あのさ。」


「うん?」


「わたしが行ってみたいとこ、でもいいの?」


「いいよ。どこがいい?」




ひらけた十字路の真ん中で、すずは立ち止まった。




「こっち、行ってみたい。」




すずが指し示したのは、ディープもディープなネオン街。

明確な目的がなければ近寄ることさえ憚られる、ラブホテル通りだった。


またまた~、とユウはからかおうとして、やめた。

この時のすずの顔が、声が、あまりに真剣で、いつもとは別人のようだったから。




「本気?」


「本気。」


「本気と書いて?」


「マジ。」


「でじま……。」




すずはぐっと息を呑み、ユウはごくりと生唾を飲んだ。






**


繰り返すが、今日は花の金曜日。

飲食店がどこも混雑しているように、ラブホテルもまた例外ではない。


学生風の浮ついた若者たち、酸いも甘いも噛み分けていそうな大人たち。

客層は様々で、関係性も人間性も千差万別。


誰がなんの目的で訪れたにしても、一般常識さえ弁えていれば、漏れなく歓迎される。

それがラブホテルという場所で、歓楽街に於ける暗黙の了解だ。


そう。

一般常識さえ弁えていれば、誰であれ拒まれはしないのだ。

たとえ酔った勢いだろうと、恋仲に満たない女同士であろうとも。




「───うわー、えっぐ。

マジで鏡だらけじゃん。ダンス教室くらいならここでひらけんじゃね?」


「……そうだね。」




ユウとすずがお邪魔したのは、空間一面が鏡張りという、特殊なコンセプトの部屋だった。

わざわざ選んだのではなく、たまたまここしか空いていなかったのだ。




「まー、そこそこ広いし、いっか。

確かカラオケ付いてる、ってあったよねー。」




さっさと部屋の中に入っていくユウと、怖ず怖ずとユウの後ろを付いていくすず。


コンセプトルームどころか、ラブホテル自体が嬉し恥ずかし初体験なのだ。

少なくとも、すずにとっては。




「ねえ、ユウ。」


「んー?」


「こういうとこ、前にも来たことあるの……?」




やけに慣れた様子のユウに、すずは不躾を承知で尋ねた。




「……あるよ。

こことは違うとこだけど。」




ユウは即答こそしなかったが、嘘はつかなかった。




「まだなんか聞きたい?」


「……いや、いい。」




すずが真摯に尋ねれば、ユウも真摯に答えるだろう。

だが、すずは詳細を求めなかった。



"───ワタシは結婚歴がなければ、男とまともに付き合った経験もないから"。



男性とは、交際したことがない。

なのに、ラブホテルへ来たことはある。

イコール、男性ではない連れを供にしていた可能性が高い。


女性か、元女性か、現女性か。

いずれにせよ、こんな際どい場所に同行するほどの、親密な間柄であったのは間違いない。


ただの友達、ただの知り合い?

性的なあれそれ(・・・・)も込みの、友達か知り合い?

わたしには内緒にしていただけで、実は過去に恋人と呼べる存在がいた?



"───したくないって言われたら、そういうの一切ない関係でも構わない。

逆にしてもいいって言われたら、遠慮しない"。



すずが唯一、腹を割って話せる相手がユウだった。

血を分けた家族以上に、ユウはすずを知っている。


故にこそ、喉から手が出るほど気になっても、すずはユウの深層を掘り下げられなかった。




「(そうか。

驕っていたのか、わたしは。)」




自分の知っているユウはあくまで、彼女の一側面に過ぎないのかもしれない。

ユウにとって自分は一番でも、唯一ではないのかもしれない。

ふと胸を刺したぎりは、無意識ながらも確かな慢心。


10年待ってくれたからといって、11年目があるとは限らない。

ハッとした瞬間、すずは肌が粟立つような恐怖と焦燥を覚えた。




「お、ここハニートーストあんじゃん!

せっかくだから頼むか。お祝いのケーキの代用で。」




なんだよ。遠慮しないって言ったくせに。

わたしから誘った時点で、いいよって意味なのに。

わかった上でわざとやってるなら、わたしのため?

それとも、わたしには性的な魅力がないから、催してくれないの?




「ユウ。」




晃平さんとする時でさえ、ここまで照れ臭くはなかった。

勇気を振り絞ったすずは、とうとう切り出した。




「しないの?」


「え?」




ルームサービスのメニュー表をひらいたまま、ユウは一時停止した。


まだ惚けるか。

すずは半ばやけくそに続けた。




「セックス。」


「………なんて?」




呆けるユウに向かって、すずは二歩三歩と詰め寄っていく。




「だから!ラブホテルに来るってのは、そういうことじゃないのって!」


「行ったことないからどんなもんかってさっき───」


「うそ!ただの言い訳!建て前あんなの!」




急展開に思考が追い付かず、ユウはすずをぼんやりと見詰めた。

つい本心を誤魔化してしまった30分前の自分を、すずは呪った。




「本当はそういうつもりで誘ったの!

ユウならいいと思って、でも本当のこと言ったら引かれるかなと思って言えなかったの!」




まさか本来の用途も込みでのお誘いだったとは。

道中のすずが妙に大人しかった理由を、ユウは悟った。




「好きになっちゃったの、ユウのこと。

友達以上に、ユウがわたしを、好きって言ってくれるみたいに。」




みるみる火照りだした顔を、すずは俯かせた。


祝杯のアルコールが残っているのでも、外気との寒暖差に血が騒いでいるのでもない。


真っすぐな感情が齎した熱。

市販のファンデーションなどでは、とても隠しきれない。




「お仲間が分かるんなら、分かってよ。」




最後に八つ当たりの一言を吐いて、すずは口を閉ざした。


二人の間に気まずい沈黙が流れる。

ユウは無言でベッドへ近付き、端に深く腰かけた。




「すず。」


「?」


「おいで。」




名前を呼ばれてすずが顔を上げると、ユウが手を差し延べていた。


シャワーは浴びなくていいのか。

当たり前の疑問すら湧かないまま、すずはユウの導きに吸い寄せられていった。




「ここ、座って。」




ユウが自分の隣を手で叩く。

言われた通りにすずが従うと、二人分の体重を受けたベッドが、ぎしりと音を立てた。




「(おちつけ。)」




男女での行為は心得ている。

でも同性の、女性同士のやり方は、人づての俄か知識がせいぜい。


だって、こんなことになるなんて。

こんなことを仕出かしてしまうだなんて、自分でも予想しなかった。

思いがけず、ぶっつけ本番となったのだ。




「(おちつけ。)」




男役と女役に分かれるのがスタンダード、だったか?

となると、この場合はユウが男役、でいいのか?


でも確定してるわけじゃないし、同い年の幼馴染みなら、対等でいくべきじゃないのか?

でもでも、こういう時の対等って、何を以て対等なんだ?


右も左もサッパリなわたしに、大先輩のユウをリードできるのか?




「(おちつけ。)」




再び流れた沈黙に反して、すずの胸中は早くもお祭り騒ぎ。

動揺と緊張と期待とで、あられもないモノローグを繰り返す。




「すず。」




ユウの指が、すずの頬にそっと触れる。




「(きた、)」




すずはぎゅっと目を閉じ、肩を強張らせた。






「しないよ。」




3秒のを置いて、すずは目を開けた。

視界いっぱいに映ったユウは、穏やかに微笑んでいた。




「しないの?」


「うん。しない。」


「なんで?」


「さすがに、破局して間もない人に手出すのは、ズルいでしょ。」


「わたしはいいって言ってるのに?」


「それでも。」




私はこんなにドキドキして、心待ちにしているのに、ユウは違うのか。

膨らませたイメージのことごとくを打ち砕かれ、すずは肩を落とした。




「やっぱり、わたしとは、したくない?」


「まさか。

許してくれるなら遠慮しないって、言ったでしょ。」




悔しい。寂しい。恥ずかしい。

自己嫌悪で涙が零れてしまいそうなのを、すずは奥歯を噛んで堪えた。




「なんなの、それ。

言ってることとやってることが違いすぎるよ。」


「かもね。」




本当は、勢いに任せてしまいたい。

正直になりたい。


おあずけを食らい続けた10年分、埋めさせてほしい。

取り戻させてほしい。


先に進みたいと望む気持ちは、ユウの方が強かった。

同時にユウは、"今夜ではない"ことも理解していた。

すずを愛しているからこそ、この日が待ち遠しかったからこそ、近道を選んではならないと自制できた。




「すず、聴いて。」




すずの左手に、ユウは自分の右手を重ねた。

すずは項垂れたまま、ユウと指を絡めた。




「ワタシは正真正銘、アンタに惚れてる。

本能の赴くまま行動していいんなら、不二子ちゃんを前にしたルパンみたいに飛び込んでいきたい。」


「飛び込んでいいよ。」


「だめ。少なくとも今日は。」


「理由は?」


「さっきも言ったけど、アンタはまだ、晃平さんと別れて間もない。人生かけた一大事を乗り越えたばっかなの。

どんなに平気なフリしても、受けた傷は一生残るだろうし、今の内にちゃんと治しておかないと、何度だってその時の痛みがぶり返す。

普通なら、立ち直るのに最低一年はかかるところよ。知らんけど。」


「知らんのかい。

わたしそんな思い詰めてないよ。」


「だとしても、アンタは自覚以上に弱ってる。

そんな矢先に、付け込むような真似はしたくない。」


「わたしが誘ったのに。」


「聞いたよ。

誘われて余計に、そう思ったんだよ。」




ユウの低い声が、だだっ広い空間に響く。

すずは不機嫌に鼻を鳴らし、ユウの肩に凭れかかった。




「さっき、好きって言ってくれたのも、もちろん嬉しかったけど。

それも本心かどうか分からない。」



聞き捨てならない台詞にすずは飛び起き、ユウを睨みつけた。




「疑ってんの?」


「疑ってはないよ。ただ、自信がない。

一番しんどい時に、傍にいた相手だもん。情が移るのは必然でしょ。」


「吊り橋効果だって言いたいの?わたしの好きは気まぐれだって───」


「そうじゃないってこと。

証明したいからこそ、急ぎたくないんだよ。」




すずのユウに対する"好き"は本物。

友人としての信頼や尊敬に加え、恋愛対象としての羞恥や欲求が着々と芽生えている。




「(そうやって、ユウはいつも───)」




ただ、片想いに忍んできたユウの言い分も、わからないでもない。

すずは反論するのをやめた。




「本当にぜんぶ落ち着いて、それでもワタシを好きだって、言ってくれるなら。

その時に応えるよ。必ず。」




ユウはいっそう優しく微笑み、すずは切なさに眉を顰めた。




「ユウはいいの?それで。」


「いいよ。」


「10年待ったんだよ?」


「10年待ったんだもん。これからだって待てるよ。」


「本当に?」


「ほんとう。」


「本当に、わたしを好き?」


「好きだよ。世界で一等。」




すずは堪えきれず泣いた。

ユウはすずを抱き寄せ、すずの震える背中を撫でてやった。






**


すずの昂ぶりが収まった頃。

すずの顔面は、自分の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。




「───ぶっ。ひっでー顔。」


「誰のせいだと思ってんのよぉ。」


「お~、よちよち。

かわいいベビたんでちゅね~。」


「うう……。

ごめん、コート、よごしちゃった。」


「いーよぜんぜん。アンタのなら、鼻水もゲロもぜんぜんきたなくない。

なんなら食べちゃおっかな、アー───」


「やめい!!」


「うそだって。」




一張羅のコートをよごされても、ユウは全く怒らなかった。

それどころか、自前のポケットティッシュで、すずの顔を真っ先に拭き始めた。




「今キレイにしちゃるから、動かんでね。」


「コート、染みになるよ、」


「動くなって。」


「む……。」




すずと会う時、ユウは必ずオシャレをしてくる。

服も靴も鞄も、持ち合わせの中で一番上等なものを選ぶ。

アクセサリーに至っては、"すず専用"なんてラックが存在するほど。


今着ているコートだって、本当は下ろしたてのブランド品。

こだわりの強い人であれば、雨に濡れることさえ嫌がるだろう。


実際ユウも、天気が崩れそうな日には着てこない。

すずと会う場合を除いて。


たとえ汗の一滴でも、他人に汚されるのは嫌がる。

相手がすずの場合を除いて。


とどのつまりユウは、"優しい人間"なのではなく、"すずに優しい人間"なのだ。




「透明なんだよなぁ。」


「へ?」


「涙。

ワタシが泣いたら墨汁かぶったみたいになりそうだなって。」


「ああ、アイライン……。

ウォータープルーフのやつなら大丈夫じゃないの?」


「モノに依るかな。あと泣き方の程度に依る。」


「ユウ泣くとき激しいもんね。」




からかいながらも丁寧に、すずの顔を整えていくユウ。

すずは抵抗をせず、ユウの介抱にうっとりと身を委ねた。




「そだ。ちょうどいいや。」




ふと思い立ったユウは、サイドチェストに置いていた鞄を漁った。


取り出したのは、本人いわく営業用のメイクポーチ。

試供品や非売品を含め、自社製のメイク道具がパンパンに詰まっている。




「なに?お直しすんの?」


「そ。」




確かにアイシャドウもリップも落ちてしまったが、元来すずはナチュラル派。

メイク前も後もさして(・・・)変わらないので、わざわざお直しする必要はない。




「どうせあと帰るだけだし、このままでも平気だよ?」


「いーから、いーから。

アンタの顔、一回イジってみたかったんだよね~。」




あまりにユウが楽しそうなので、すずは気乗りせずも、全面的に任せてみることにした。




「うひょ~、肌すべすべ~い。陶器みたいだ。」




自前のヘアクリッブですずの前髪を纏めたユウは、下地から施し始めた。




「ユウだってキレイじゃん。」


「ワタシは金かけてっから当然なの。

アンタなんかエステ知らずで安もんの化粧水しか使ったことないくせにコレでしょ?腹立つわマジで。」


「褒めてんの怒ってんの?」


「愛でてんのよ。」


「哲学だなぁ。」




不安定なベッドの隅、縒れたシーツの上で、前のめりに二人、向かい合う。


とても化粧に適した環境とは言えないが、そこは専門家。

プロのアーティストに匹敵する手早さで、ユウはすずを仕立てていった。




「───できた!」



10分後。

完了の合図を出したユウは、メイク道具をポーチに仕舞った。




けていい?」


「まーだ。

閉じたまんま、ほら立って。こっち。」




出来映えを確認したがるすずを制止し、ユウはすずを立ち上がらせた。




「手鏡あるのに。」


「せっかくだから。」




遮られた視界。覚束ない足取り。

ユウの宥める声と、引いてくれる腕だけを頼りに、すずが連れて来られたのは、壁一面の鏡の前。




「いいよ。あけて。」




お許しが出た。

すずは恐る恐ると目を開けた。

そこに立っていたのは、華やかに変身した自分だった。


凛々しい眉、したたかそうな目元、独立心を象徴する唇。

男性ウケとは程遠い、大和撫子とは似ても似つかない、型に嵌まった世間に物申すアラサー独身女の姿。


普段のメイクとどちらがいかを聞いて回れば、大多数が前者を選ぶだろう。

だが、すず自身は今の姿が最も美しいと感じた。

ユウの手で生まれ変わった今こそが、自分史上最高であると。




「もとの顔立ちがいいから、リップとアイブロウだけで本当は充分なんだけど……。

こういう、いかにも"やってます感"出るのも、案外似合いそうだなと思って、やってみました。

どう?」




後ろに控えていたユウが、すずの隣に立つ。

こうして見ると、まるで二卵性の双子のよう。




「すてき。すごく。」




すずは鏡に映る自分に触れた。

ユウは塗り立てのすずの頬にキスをした。






**


注文したハニートーストを食べ、簡易カラオケで歌って踊り、あっという間に丑三つ時。

満足した二人はラブホテルを出て、今度こそ帰路につくことに。




「───たまに来ると楽しいよなぁ、ラブホ。」


「女子会プランは聞いたことあったけど、男子会もオッケーなのは流石に知らなかった。」


「オッケーでも野郎同士で誰が来んだよって話だけどな。」


「ちょっと勇気いりそうだよね。」




二人を含め、西へ向かうのは皆、タクシー通りを目指す者たちだ。


楽しく飲んで騒いで充電して、家に帰ってとこに入って、きたる月曜日に備えて心身を休める。

ありきたりな日常風景。


ただし、誰しもがそんな週末を迎えられるわけではない。

望んでいるわけでもない。


飲む時間がない人、騒ぐ気力がない人、余裕があっても付き合ってくれる相手がいない人。

形をなぞっておきながら、人生の喜びとは何ぞやと迷い続けている人もいる。




「見えないねえ、星。」


「さすがに街中まちなかじゃあね。

山とか行けば見えんでしょ。」


「見に行く?こんど。」


「天体観測?」


「うん。道具ないけど。」


「いらんよそんなん。

肉眼でも見える場所、探しにいこ。」


「やった。」




幸せの在り方もまた千差万別で、全員に該当する答えはない。


それでも、この夜空を見る者は、きっと幸せだ。

学校や仕事が辛くても、彼氏や彼女と上手くいかなくても。

ふと空を仰いで、泣いたり笑ったり、虚しくなったりする。

それだけで、きっと幸せだ。


不幸とは何かを知っていれば、その人は必ず幸せになれるし、すでに幸せなんだ。




「わ、見てあそこ。吐いてる。」


「あーあー、いい歳で無茶して。」


「ユウって本当に吐いたことないの?」


「あるよ。二回くらい。」


「どんな時?」


「すっげー疲れてる時とか、具合悪い時とか。

どっちにしても、人前では吐かんけどね絶対。」


「気持ちは分かるけど、仕方ないこともあるんじゃないの?」


「だとしてもなの。

どうでもいいヤツに弱み握られたくないし。」


「ふーん……。

わたしにはいいんだ?」


「アンタはアンタで、みっともないとこ晒したくないからイヤ。」


「なにを今更。

遠足のバスでゲロ処理してやったの忘れた?」


「いにしえの黒歴史を掘り返すな。」




よりにもよって親友を好きになるなんて、タチの悪い冗談だと絶望しかけたこともあったけれど。


結果として、良かったのかもしれない。

心底好きな人に出会うより、出会った人を心底好きになる方が、幸運なのかもしれない。




「酒に酔う酔わないもそうだけどさ。

20年以上一緒にいて、まだ知らないとこって有るもんだね。」


「お互い様ね。」


「えー、うそだぁ。

ユウはわたしのこと隅々まで知ってるじゃん。」


「そんなことないよ。

初めてな一面いちめん、毎日みつける。」


「たとえば?」


「ナイショ。」


「ええー?なに、気になるじゃん。

自覚してない悪い癖とかだったら───」


「癖もあるけど、悪くないから心配すんな。」


「どういう意味?」


「毎日好きになるって意味だよ。」




私は、この人を好きなんだな。

すずへの愛情を再認して、ユウは溜まりに溜まった息を吐き出した。




「───どうした?」




突然、すずが立ち止まった。

ユウが振り返ると、すずはユウとの距離を一気に詰めた。


迫る黒。揺らぐ空気。

柔らかい衝撃。仄かな温もり。

すずにキスをされたと、ユウの頭が理解したのは三秒後。




「え……、あ、すず?」




突然迫ってきたかと思えば、すずはヘナヘナと力を失って、ユウの胸に縋り付いた。

先程の一撃で知能が退行したユウは、すずが倒れないよう支えてやることしか出来なかった。




「───じゃない、」


「えっ?」




すずがユウを見上げる。

潤んだ瞳にかつてない色が差したのは、かつてない感情が生まれた瞬間だから。




「イヤじゃない。」




私が男だったら、出るもん出ちゃってんな。

思考停止した主人格のユウに代わり、一時的に派生した別人格のユウが脳内で呟いた。




「これからユウん、行ってもいい?」


「い───、けど……。

そういうのは普通、やめとくでしょ。」


「どうして?」


「どうしてって……。

仮にもアンタを好きって言ってるやつの───」


「襲ってもいいよ?」


「だから─────」


「でもユウはしてくれないんだよね。知ってる。」




すずがユウから離れる。

ユウは思わず捕まえたくなる衝動を抑えて、すずの二の句を待った。




「ねえ、ユウ。」


「なん、なに。」


「賭けようか。」


「賭け?」




狼狽えるユウとは対照的に、すずはどんどん調子を上げていった。




「さっき、ぜんぶ落ち着いて、それでもユウを好きだってわたしが言えたら、応えてくれるって言ったよね。」


「うん。」


「わたしは、その時が来ても必ず、ユウを好きな自信がある。」


「う、うん?」


「つまり時間の問題なわけだから、あとは"落ち着く"の基準がどうかって話よね。

デザイナーの件が通るにせよ通らないにせよ、わたしの就職が決まったらひと区切り、って考えていい?」


「まあ……。

そこが目安になるだろうね。」


「決まり。」




すずは口元に人差し指を宛がい、上目がちにユウに笑いかけた。




「それまでユウが我慢できたら、ユウの勝ち。できなかったら、わたしの勝ち。

丁か半か、勝負してみる?」




ガンガンに均衡を崩すつもりでいるくせに、丁も半もないだろう。

勝負にならないと分かっていながら、ユウはすずを一蹴できなかった。




「(そうだ。

コイツは昔から、こういうヤツだ。)」




人畜無害なフリをして、存外に腹黒。

なんでも柔軟に受け入れるようでいて、線引きはしっかり定めている。


上辺には決して表れない、すずの本性。

逆鱗に触れたら最後、本人の気が済むまで止まらない。


知っているユウだからこそ、この勝負、もはや受ける他になかった。




「上等。」




今宵を境に約一年、ユウの長くて辛い我慢大会が始まったのだった。



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