蒼い糸 4
黒石のお見合いのキャンセルが効く、最終日の午後。
私と黒石は手を取り合って、黒石の実家を訪ねた。
「───もしかしてだけど。
30人ぐらいで住んでたりする?」
「まさか。4人だけだよ。
実質で言うなら、1人と1匹。」
「1匹……。
ああ、例のワンコくん?」
「うん。
尾田さんと彼がいてくれなかったら、今のわたしはいない。」
「……そっか。
会いたかったな、その子にも。」
「きっと仲良しになったろうね。ありがとう。」
白い外壁と青い玄関扉が目印の、庭つき三階建ての一軒家。
かつては年老いたラブラドールも暮らしていたという、10代までの黒石が生まれ育った場所。
当時の黒石とは親しくなかったので、私がここに来るのは初めてだけれど。
黒石の家が立派であることは、ご両親の知名度も含め、同級生の間で周知されていた。
まさか、実物がこれほどの大豪邸とは。
飼い犬と二人きりで過ごすには、むしろ居心地の悪い家かもしれない。
「来ました。開けてください。」
塀に備え付けのブザーを押し、黒石が来訪の旨を伝える。
しばらくして、玄関扉が解錠される音が聞こえてきた。
返事はない。出迎えもない。
在宅中であるというお父さんもお母さんも、姿どころか気配さえ窺わせない。
用があるならそっちから来い、というわけか。
上客相手にこんな対応はしないだろうから、娘の黒石を軽んじているのか、黒石の連れてきた私を舐めているのか。
どちらにせよ、感じの悪いことだ。
「いくよ、黒石。」
「いこう、尾田さん。」
いざ、決戦の場へ。
私と黒石は、繋いだ手をギュッと握って、そっと離した。
「───まあまあ、いらっしゃい。遠いところを、よく来てくれたわね。
こちらが、お友達の尾田さん?」
玄関扉を抜けると、お母さんが待ち構えていた。
定年間近とは思えない若々しい容姿と、貼り付けたような笑顔が印象的な人だった。
「はじめまして、尾田晴子といいます。
これ、お好きだと伺ったので、買ってきました。
良ければ召し上がってください。」
「まあまあ、ご丁寧に。どうもありがとう。
狭いところですけど、ゆっくりなさってくださいね。」
明るくて、物腰が柔らかくて、理想の母親像を体現したようで。
先日の口論の件と、黒石からのレクチャーがなければ、私も騙されていただろう。
実際は、優しそうに見えるだけ。
急に押し黙った黒石の息遣いが、それを念押ししてくれている。
「あなた、真咲のお友達がいらっしゃったわよ。」
お母さんに連れられてリビングへ向かうと、年配の男性の姿があった。
大きなソファーの上で足を組んだ男性は、小難しそうな英字新聞を読んでいた。
「ああ、もうそんな時間か。出迎えもせず、すまなかったね。
ようこそ、尾田さん。私が、真咲の父です。」
立ち上がって挨拶してくれた彼こそ、黒石のお父さん。
こちらも既に還暦を過ぎたとは思えない容姿をしていて、お母さんと並ぶと芸能人の夫婦のようである。
そういえば、主婦層を中心に人気があるとか、議員時代にも持て栄やされていたっけ。
両親とも美男美女なら、黒石が美しく成長したのも納得だ。
「はじめまして。尾田晴子と申します。
お忙しい時期にお邪魔してしまって、すいません。」
「気にしないで。
真咲がお友達を連れてくることなんて、滅多にありませんから。
こちらとしては、いつでも大歓迎ですよ。」
第一印象はひとまず、問題なしと思っていいだろう。
なんてったって、この日のために他所行きの服を買い、伸ばしっぱなしだった毛先を整え、黒石に礼儀作法を仕込んでもらったのだから。
挨拶の時点でヘマをこくようでは、私がここへ来た意味がない。
「せっかくだから、持ってきてもらったお菓子を、みんなで頂きましょうか。
あなた、これ好きだったでしょう?」
「おお、大好きだよ、ここのクッキー。
わざわざ用意してくれたのかい?」
「真咲さんから、よく召し上がってらっしゃると、伺ったので……。」
「最近はご無沙汰だけどね。
我が家では、3時のオヤツといえば、これだったんだ。」
「お飲み物はどうします?
今度のお茶会用にって取り寄せた茶葉がありますが、開けますか?」
「そうだね。
尾田さんの口にも合うといいんだけど。」
「あ、お、お構いなく……。」
「遠慮をしないで。
自分の家だと思って、もっと気楽にしてくれていいのよ。」
「さあさあ、上座へどうぞ。
真咲はあまり自分の話をしない子だから、二人でどういうところに遊びに行くとか、いろいろ聴かせてくれると嬉しいよ。」
競うように私を遇するご両親。
これも、一見には気さくだけれど。
私はなんだか、却って息苦しさを覚えてしまった。
たぶん、私の存在は二の次で、自分たちの威厳を誇示するのが目的なんだ。
あれをどうぞ、これをどうぞと、絶え間なくアプローチをかけることで、私の行動を制御したいんだ。
この人たちの視線の先にいるのは、私でも黒石でもないんだ。
「ほら、真咲。」
「ねえ、真咲。」
黒石は、こんな。
重力が五割増しくらいに感じられる家で、無駄口のひとつも利かせてくれない親に挟まれながら、何年も暮らしてきたのか。
そう考えると、諦めることが癖になってしまったという黒石を、むしろ褒めてやりたくなった。
「父さん、母さん。
今日、尾田さんに来てもらったのは、二人に紹介するため、だけじゃないの。
話したいことがあるから、母さんも、こっち来て。ちゃんと聴いて。」
戸惑う私に気付いてか、黒石がご両親の前に出た。
途端に空気が一変する。
にこやかだったご両親の顔から、貼り付けた笑みが消えてなくなる。
「(怯むな、ワタシ。)」
この肩にはもう、私一人分じゃない。
私と黒石と、二人分の未来がかかっているんだ。
弱音を吐いている暇はない。
たとえ、望む通りの結末にはならなかったとしても。
黒石の手足に錆び付いた、固くて重い鎖だけは、なんとしてでも断ち切ってみせる。
地獄の果てだって、私はあんたと一緒に行くよ。
"約束ね"。
はじめよう、黒石。
なにがあっても、私は絶対に、あんたの味方だからね。
**
「───床に座るの?ソファーがあるのに。」
「いいから。」
「お客様にそんな……、待って。せめて座布団を───」
「いいから。
はやく、すわって。」
「………。」
玄関側のソファーにご両親、ローテーブルを挟んだ向かい側に私と黒石が腰を下ろし、四人全員での話し合いが始まった。
「この前、縁談について話した時。
無理に決められたくなかったら、自分たちも納得できる相手を連れて来なさい、って。
言ったよね、母さん。」
「ちょっと……。今その話は───」
「そういうの。いいから、ぜんぶ。
聴いて、ただ。聴いたことだけに答えて。」
「………。」
「父さんも。
相応しい相手がいるなら、そっちを選んでもいいって、言ったよね。」
「……ああ。」
テーブルには、私が持ってきたクッキーと、もっとずっと高そうな焼き菓子の盛り合わせと、お茶会で楽しむ予定だったという紅茶がそれぞれ並んでいる。
だが、口を付けようとする者はいない。
振り子時計が時を刻む音だけが、静かにリビングに響いている。
「残念だけど、二人に認めてもらえそうな人は、見付からなかった。
どうにか、今日までに探そうとしたけど、無理だった。」
「じゃあ───」
「だから。
認めてもらえるかは抜きにして、わたしが心底大切だと思える人を今日、連れて来たの。」
お母さんの言葉を遮って、黒石は続けた。
ご両親は揃って、息を呑んだ。
「尾田晴子さん。
わたしの人生を変えてくれた恩人で、他の誰にも替えが利かない、わたしの、一番の友達。」
黒石の声が、指先が、微かに震えている。
気丈に振る舞ってはいるけれど、内心に渦巻く緊張は隠しきれないようだ。
私はテーブルの下から腕を伸ばし、正座の上で強張っている黒石の手に触れた。
すると黒石も、ご両親に悟られないよう私の手に触れ、指を絡めてきた。
氷みたいに冷たくて、少し汗ばんだ、黒石の掌。
ああ、戦っているんだ。
牢獄にも似たこの家と、独裁者のようなご両親と。
今にも泣き崩れてしまいそうな、自分の中の弱虫と。
私は私の体温を分けるつもりで、先程より強く黒石の手を握った。
「わたしは、彼女と一緒に、これからの人生を生きていきたい。
誰か一人を選べと言うなら、わたしは、彼女を伴侶に選びます。」
黒石が宣言し、ご両親が再び沈黙する。
冷静な応酬が続いたのはここまで。
ここからは、黒石一族による舌戦の火蓋が切られた。
「な、に……。なんなの?ちょっと。
こんな時に、なん、おかしなことを、言わないでちょうだい。
あなた、この前から変よ。」
「わたしはどこも変じゃない。
おかしなことを言うのは母さんのほう。」
「真咲。
お前、自分の言っていることを、ちゃんと理解しているのか?
伴侶っていうのは、人生のパートナーのことだ。夫婦と同義ってことなんだぞ。」
「分かってるよ。ぜんぶ分かってる。
分かった上で、わたしは今、ここにいるの。
彼女と、尾田さんと一緒に。」
眉を寄せて唸るお父さん。
挙動不審に声を上擦らせるお母さん。
分かりやすく狼狽している。
はっきり言って客人の前で見せる姿じゃないが、取り繕うことも出来ないほどの衝撃なんだろう。
仮に、私の母に同じことをしても、驚きはするはずだ。
逆を言えば、このご両親と違って、驚くだけで済ませてくれそうだけど。
「じゃあ、なに?
あなた達は、恋人同士ってことなの?」
「そうだよ。」
「なん───っ!
あなた、高校生の時には普通に、ボーイフレンドもいたじゃない!
いつから同性愛者なんかになったのよ!」
「勘違いしてるみたいだけど、わたしは別に、同性が好きなわけじゃない。
好きになった人が、たまたま同性だったの。
法律的なことならともかく、誰かを好きになる気持ちまで否定される筋合いはないわ。」
なにやら考え込むお父さんとは対照的に、お母さんはボルテージが上がってきたようだった。
表情は険しく、語尾は荒っぽくなり、声色もキンキンとした甲高さを帯びてきている。
それに今、"同性愛者なんか"と言ったな。
本人は無意識かもしれないが、その無意識にこそ本意が表れていると、確かめるまでもない。
なるほど。
"偏見の塊のような人たちだ"という真咲の弁は、誇張じゃなかったわけだ。
「……まって。
待って待って待って。だめよそんなの。絶対に駄目。」
「なにが駄目なの。」
「全部に決まってるでしょう!?
相手を連れて来たら考えるとは言ったけど、同性愛者を連れて来いとは言ってないわ!」
「尾田さんに失礼な言い方しないで!」
「真咲、いいから。」
じわじわと剥がれていく、お母さんの化けの皮。
当初の笑顔はどこへやら、今の形相はまるで般若だ。
黒石も黒石で、いつになく声を荒げている。
お母さんに対しては、殴り合いも辞さない雰囲気だ。
「(黒石の怒鳴る声、初めて聞いた。)」
私は、一言も口を挟めなかった。
自分の喧嘩を戦うのと、他人様の喧嘩に加勢するのとでは大違いだと、初めて知った。
「……分かってない。
ぜんぜん分かってないわよ。」
「なにが。」
「女と女が一緒になっても、生産性は向上されないのよ。
結婚は出来ないし、子供も産めない。ご近所さんにだって後ろ指を差されるわ。」
「そう思ってるのは母さんだけよ。
今の時代、同性愛者はそこまで差別されてない。
夫婦のように扱ってくれる制度も出来たし、子供だって産もうと思えば産めるわ。
後ろ指を差すようなやつのが恥ずかしいんだって、平成に生まれた人間ならほとんど知ってることよ。」
お母さんの発言は小さく、真咲の返事は勇ましく。
ご両親から私たちへ、主導権が移っていく。
このご両親は、正攻法で太刀打ちできる相手ではない。
弱ったところを畳み掛けるくらいの非情さがなければ、こっちが飲み込まれてしまう。
だから私も黒石も、ご両親に寄り添うことはしない。
無理に大団円を目指さない。
「(もう一息。
がんばれ、黒石。)」
私たちの間には、揺るがない絆があること。
少なくとも、自分たちで決定する以外に、私たちが別れるつもりはないこと。
そこだけ理解してくれれば、目下はいい。
最初から、周りの理解も共感も、期待などしていないのだから。
**
「───尾田さん、といったね。」
長らく沈黙していたお父さんが、重い口を開けた。
話し掛けられたのは、言い争っていた黒石でもお母さんでもなく、私だった。
「君は、真咲とのことを、真剣に考えているんだね?」
「はい。」
「本気で、真咲のことが好きなんだね?」
「はい。」
幼子に絵本を読み聞かせるかのような、やさしい声。
私の胸に真っすぐ入ってきたのと同時に、黒石の掌からも温もりが伝わってきた。
さすが、議員を任されていただけのことはある。
感情的なお母さんと比べて、お父さんの方は幾ぶん話が通じるかもしれない。
「だったら。
真咲にとって、なにが本当の幸せか、わかるよね?」
安堵しかけた、次の瞬間。
やさしかった声に、棘が生えた。
既に私の胸に入っていたそれは、私の心臓すれすれで弾けた。
"わかるよね"。
やばい。
やばいやばいやばい。
いたい。
胸がいたい、喉がいたい、頭がいたい。
動いたら、涙が落ちてしまう。
喋ったら、悲鳴が出てしまう。
そうしなくても、そうだと分かってしまう。
この人は、私を見ていない。
否、私を見る気がない。
この人の目には、ただの女の姿だけが映っている。
清らな娘をたぶらかそうとする、得体の知れない同性愛者の女という、記号化された輪郭ばかりが映っている。
こちらを向いた瞳の奥で、黒光りした銃口が、今か今かと撃鉄を待っている。
「……どういう意味、でしょうか。」
「おや。
君のように育ちの良さそうなお嬢さんなら、言わずとも分かってくれると思ったんだが。」
「お父さ───」
「お前は黙ってなさい。」
助け舟を出そうとした黒石を、お父さんが直ぐさま撥ね付ける。
お母さんとは口論できても、お父さんには意見さえままならない。
どうやら黒石にとっても、真に相性の悪い相手はお父さんのようだ。
「尾田さん。
友人なら知っていると思うが、真咲はとても優秀な子なんだ。
頑張り次第では、後世に名を残せるくらいにね。」
「……そう、ですね。ワタシもそう思います。」
「だからね。
私たちは、愛する娘の将来を、潰すようなことをしたくないんだよ。
いい女性は、いい男性と結婚をして、子供を産んで母親になるのが、一番の幸せなんだから。ね?」
「それ、は……。」
「私も妻も、なにも君を悪者にしようというのではない。
ただ真咲にも、人並みの幸せというものを、知ってもらいたいだけなんだ。ね?」
どんなに気難しい人でも、差別意識を持った人でも。
根気強く訴えれば、いつかは分かってくれるはずだと信じていた。
私を金で買った男たちにさえ、娼婦という生業に理解を示してくれる人がいたのだから。
けれど、この人は。
この人のこれは、世間一般の差別とは違う。
この人は私を、"程度の低い人間"と見定めているのではない。
"人間"として、見做していないのだ。
こわい。
こんなやつがいるのか。
こんな、上っ面の言葉だけでも、絶望を突き付けることの出来るやつが。
「よく考えてごらん。
君だって、パートナーにするなら異性の方がいいだろう?
どういう事情があって、真咲と一緒にいるかは知らないが、真咲と同じくらい信頼できる男性に出会ったなら、そっちを選びたいと思うはずだ。」
「君たちのそれは、所詮は友情の延長。
単にご縁が少ないのを、互いしか居ないことにしたいだけだ。
きっともっと沢山のことを経験すれば、本当の運命の相手を見付けられるはずだよ。」
悔しいことに、お父さんの言い分は、的外れではない。
事実、私たちは本当の恋人じゃない。
イイ男に巡り会えたらその時は、という考えも無くはない。
それでも。
いつか誰かに、別のイイ人に巡り会ったとしても。
私たちの間にあるものは、絆なんかじゃなく、凝り固まった排他主義なんだとしても。
私は真咲と、離れたくない。
真咲と恋人ごっこをしている今日を、後悔はしない。
「分かったら、尾田さん。
貴重な20代が無駄にならない内に、不毛な行為に耽るのはやめなさい。
自分のせいで友人が傷つくのは、君だって本意じゃないだろう?」
「そうよ。その通り。
あなた達はまだ、本物の愛を知らないだけ。
友達だというなら、尚更そう。潔く身を引いてやるのも、相手のためだとは思わなくて?」
わけわかんなくなってきた。
ご両親を説得しようって、息巻いてたのは覚えてるのに。
なんの説得に来たかが、思い出せなくなっちゃった。
黒石のため。
私が身を引いた方が、黒石のためになる?
黒石の幸せを願うなら、私の存在は不要?
でも黒石は、そんなことないって言ってくれた。
私を必要だって言ってくれた。
でもご両親は、私がいない方がいいって言ってて。
自分たちの方が、黒石のことを思ってるって言ってて。
だから私は、黒石の。
黒石は私の、だから。
そういえば私って、黒石のなんなんだっけ。
「……そう、ですね。
お二人の言う、ことは、正しいと、思います。」
"尾田さん"。
私の名前が聞こえる。
"尾田さん"。
耳元で何度も、私を呼ぶ声がする。
目の前にいるご両親が?
記憶の中の友達や同僚が?
くらくらする。
だれなんだ、さっきから、私を呼んでいるのは。
「よかったよ、分かってもらえて。」
「やっぱり、教養のあるお嬢さんは違うわね。
前に纏わり付いてた不良の子だったら、きっとこうは───」
"ならなかった"。
お母さんが言い終える前に、私の視界が茶色で埋まった。
クッキーに、カヌレに、マドレーヌ。
四方に飛び散る焼き菓子の群れと、意表を突かれたご両親の顔が、やけにスローモーションに流れていく。
自然発生した現象、のわけがない。
飛び散った焼き菓子も、ご両親の反応も、人の手によって仕掛けられたものだ。
仕掛けたのは、私の隣にいる、一人の女。
**
「いい加減にしてよ。
二人の漬物石みたいな価値観押し付けられんのは、もううんざり。」
いつの間にか黒石は、私の手を離していた。
テーブルを飛び越えそうな勢いで、ご両親に向かって身を乗り出していた。
あの、黒石が。
いつもどんな時も、品があって落ち着いていて、私の名前を呼び捨てにさえしない黒石が。
怒っている。
憎しみを感じさせるまでに激しく、怒っている。
黒石のこんな姿を、私は一度でも見たことがあっただろうか。
「な───、ん、なのよ急に!?
親に向かって、なんて口を利くの!!」
「親?なにが親よ。
今まで家族らしいこと何もしてくれなかったくせに、偉そうなこと言わないで。」
「……ッあんた!いい学校通わせてやった恩を忘れたの!?
さんざん世話になったんだから、そのぶん親孝行するのが子供の役目ってもんでしょう!!」
先程以上の金切り声で騒ぐお母さん。
床に落ちた焼き菓子を黙々と拾い上げていくお父さん。
対極の反応を示す二人に、黒石は鼻で笑って返した。
「いい学校に通わせることが親の務めだって、本気で思ってるわけ?笑わせないでよ。」
「ま─────」
「親っていうのは何より、子供のためを思ってくれるものでしょう?子供の味方をしてくれるものでしょう?
今まで一度だって、わたしの我が儘を聴いてくれたことがあった?わたしに何かを選ばせてくれたことがあった?
いつもいつも、わたしを一人にして、わたしの好きな映画も知らないくせに、なにが親孝行よ子供の役目よ。
熱出して寝込んだ我が子を二日も放置するような親に、そんなこと言う資格はこれっぽっちもないんだよ!!」
黒石は、自分語りは滅多にしない。
私の辛い話には、代わりに泣いてくれるほどなのに。
自分の辛かった話には、もう過ぎたことだと笑ったりする。
学校ではクラスメイトに苛められて、家では血の繋がった両親に蔑まれて。
行き場のない孤独と、終わりの知れない苦難に晒されて尚、私の前では笑顔でいたんだ。
そんなの、あんたの方がよっぽど、ヒーローじゃんかよ。
「真咲、冷静になりなさい。お客さんの前だぞ。」
「お客さん?そのお客さんに凄んでたのは誰よ。
よくも尾田さんに無礼を働いてくれたわね。これ以上彼女を貶めることを言ったら許さないわ。」
言い負かされたお母さんと交代で、今度はお父さんが黒石と対峙する。
黒石が怯む気配は、もうない。
むしろ強気に食ってかかり、主導権を奪い返そうとしている。
「お前、誰に楯突いているか、分かってるのか。
俺は一家の大黒柱だぞ。」
「ほら出た。都合が悪くなると、そうやって立場を強調する。
力づくで黙らせようとするほど、却って自分の浅ましさを証明することになるんだって、お父さんこそまだ分からない?」
お父さんと黒石がいがみ合う傍ら、お母さんがしくしくと泣き始めた。
黒石いわく反抗期はなかったそうなので、娘に怒られたのがショックだったのだろう。
「はあ……。真咲。お前は反抗をしたいだけだ。
私や母さんに文句を言いたい気持ちばかりが先走って、我を見失っている。」
「そうね。確かに今は、ありったけ文句を言ってやりたい気分だわ。
それで?父さんにとってのわたしは、我を見失っていない時のわたしは、こんな時なんて言うのかしら?」
「……少なくとも、以前までのお前であれば、そんなあくどい顔はしなかった。
忘れたわけじゃないだろう。お前の将来のためにと高い習い事に通わせ、大学の学費だって全額負担してやった。
それはお前一人の力では決して叶わなかったことだ。」
「ええそうね。金銭面では感謝してるわ。
けど、だからってその恩返しに、好きでもない男と結婚なんか出来ない。
どうしても返せと言うなら、一生かけて返済するわよ。金銭面でね。」
真咲の見事な意趣返し。
理屈っぽいお父さんのことだから、更に意趣返しを重ねてくるかと思いきや。
「───ッ生意気を言うのも大概にしろ!!
自分がいかに愚かな道を進もうとしているかが分からんのか!!」
腹の底から叫んだお父さんは、せっかく器に盛り直した焼き菓子を、自分の手でぶち撒けた。
凄まじい剣幕だ。
眉の吊り上がり方も、声のボリュームもボルテージも、お母さんの比ではない。
「ひ─────」
さすがの黒石も、これには怯んだらしい。
悲鳴に近い声を漏らすなり、口をつぐんでしまった。
「お前は女だ。女は男に三つ指をついて奉公するのが一番の幸せなんだ。
それを教えてやろうという俺の真心をなぜ否定する。」
矢継ぎ早に捲し立てながら、お父さんがソファーから立ち上がる。
「女なんてな、どう足掻いたところで、男の力には及ばないんだよ!!」
とうとう本性が出た、と思った。
"黒石に人並みの幸せを経験させてやりたい"。
聞こえのいい甘言も、元は本意だったのかもしれないけれど。
今の発言で、確信した。
この人の心が訴えたいのは、こっちだ。
女なんて。
強烈な女性蔑視が、この人の核に根を張っている。
先程まで同調していたお母さんでさえ、今では信じられないものを見る目つきで、お父さんの顔を見上げている。
そしてそれは、黒石も。
**
「結婚結婚、って───」
一気に涙を浮かべた黒石もまた、勢いをつけてその場に立ち上がった。
「結婚することだけが幸せなんて、ふざけたこと言わないでよ!!
父さんも母さんも、自分は幸せだなんて、一度も言ったことないくせに!
毎日毎日目も合わさずに生活して、この結婚は失敗だったって、お互いにぼやいてたくせに!
そのくせ、わたしにも同じことをしろっていうの!?いつか産まれるわたしの子供にも、わたしと同じ思いをさせろっていうの!?」
「知った風な口を利くな!!」
「知らないのはそっちでしょ!?
姉さんが出てったからって、わたしに全部背負わせようとしないでよ!!」
黒石の涙が、手入れの行き届いたペルシャ絨毯に滴り落ちていく。
「なっ……。
実波のことは関係ないだろう!」
「あるよ!姉さんが思う通りにいかなくて、だからわたしで補おうとしてるのよ!
今なら、姉さんが出てった理由がよく分かるわ。こんな最低な両親に挟まれてたら、頭がおかしくなるでしょうからね!」
実波。
あまり話題に上がってこなかった、黒石の四つ歳上のお姉さんの名前。
黒石いわく、三年ほど前に出奔したきり、ほぼ消息不明の状態が続いているという。
原因は言わずもがな、ご両親だ。
お姉さんには学生時代からの彼氏がおり、その彼氏との仲をご両親が引き裂こうとした。
今まさに、私と黒石にしているように。
つまりお姉さんの出奔は、彼氏との駆け落ちが目的だったわけだ。
『───大輔さんとは、どう?上手くいってるの?』
『大丈夫。仲良くやってるよ。
……それより、真咲のことよ。そっちこそ大丈夫なの?』
『なにが?』
『父さんと母さんのこと。
私がいなくなったら、次は真咲が、その役目を負わされるんじゃないかって……。』
『……大丈夫だよ。
わたしには、そこまで期待してないみたいだし。
大輔さんみたいな、彼氏とかも、わたしは、いないし。』
『……頼りないお姉ちゃんかもしれないけど。
困った時は、絶対、力になるから。』
『あはは、大げさ〜。』
『一人で背負いこまないで、相談してね。
真咲も人生、自分の人生、好きに生きていいんだからね。』
『……うん。
ありがとう、お姉ちゃん。』
予想外の展開に、ご両親は怒髪天。
二度と黒石家に寄り付けなくなったお姉さんだが、妹の黒石とは時おり連絡をとっているらしい。
それによると、件の彼氏と本州へ移り住み、近頃は入籍の話も出ているとのこと。
故にこそ黒石は、是が非でもご両親を説得しようと、今日に臨んだのだ。
こっちも心配いらないと背中を押してやらなければ、お姉さんはいつまでも自分の幸せを掴めないから。
「ッよくも───!」
かっと目を見開いたお父さんが、こちらに詰め寄ってくる。
お父さんの腕が、黒石に振りかぶられる。
殴られる。
悟るより先に、私の体は動き出していた。
「おだ─────」
お父さんの腕が振り下ろされる直前、私は黒石に抱きつく形で覆いかぶさった。
"尾田さん"と、ようやく黒石の声で聞き取れた名前は、最後までは聞こえなかった。
「な………!」
背後からお父さんの視線を感じる。
テーブルの向こうでは、お母さんも唖然としていることだろう。
黒石だって、どうしてって、困惑しているかもしれない。
親子の対話に水差してごめん、黒石。
ほとぼりが冷めるまでは、控えていたかったんだけど。
なんか、我慢できなかった。
自分が痛いのより、黒石が痛いかもって方が、我慢できなかったよ。
"───尾田さん、といったね"。
黒石を抱いたまま、首だけでお父さんの方に振り返る。
私と目が合ったお父さんは、困惑から
屈辱、やがては畏怖の表情へと変わっていった。
"君のように育ちの良さそうなお嬢さんなら"。
そう言ってもらえたことは、お世辞でも皮肉だとしても、嬉しかった。
出来れば最後まで行儀よく、人並みに思ってもらえる女でいたかった。
"真咲にとって、なにが本当の幸せか、わかるよね───?"。
すいません、お父さん。
ここまでされて、取り澄ましていられるほど、私は賢くないし、落ちぶれてもいないんです。
「……もういい。
お前など、私の娘ではない。どこへ行くなり勝手にしろ。」
我に返ったのか、お父さんは襟を正した。
踵を返して、リビングを出ていこうとする。
「まっ、あなた……!」
お母さんが慌てて呼び止めるも、お父さんは立ち止まらない。
誰の声にも聴く耳持たずで、ドアに向かって歩みを進めていく。
娘ではない。
捨て台詞の内容から察するに、お父さんは黒石を勘当するつもりなんだろう。
ただの脅しやブラフでないことは、今までの言動が裏付けしている。
縁を切る。関係を解消する。
関わらなければ、巻き込まれない。
結婚を急がされることも、親孝行を強いられることもない。
もう一度、黒石を見る。
どこか安堵したような、憑き物のとれたような、安らかな顔をしている。
それでいて、最早どうにもならないと、諦めに身を委ねた姿がそこにある。
腐っても本懐は遂げた、かもしれない。
私たちの目的は、縁談の件を白紙に戻すことだったのだから。
無理にご両親を説き伏せる必要はなく、いっそ絶縁するくらいで良しという考えも、見方によっては有る。
「待ってください。」
でも、違う。
私は、黒石と二人で話すのが好きなだけ。
私以外に話し相手のいない黒石を、望んでいるわけじゃない。
私は黒石を、一人にさせたいんじゃない。
「もう少し、もう少しだけ、聞いてください。」
「いいよ、尾田さん。」
「お願いします。もう少しだけでいいんです。
どうか、ワタシの話を聞いてください。」
黒石の制止を無視して、お父さんの背中に呼び掛ける。
すると、ドアノブに手をかけようとしたところで、お父さんがこちらに振り向いてくれた。
冷ややかな無言と無表情。
留まってはくれたものの、戻ってきてくれる様子はない。
続きを話したいなら其処で言え、此処で聞く、というわけか。
いいさ。なんでも。
応じてもらえるなら、どんな態度だろうと構わない。
犬のように這って床を移動し、テーブルの傍から離れる。
腕も足も、隠せるものは何もない。
ここからは、私の直感だけが頼りだ。
「先程、いつか、理想の男性と出会ったなら、真咲さんとの関係を後悔するだろうと、仰られた時。少し考えました。」
「確かに、ワタシたちは、夫婦にはなれません。子供も作れません。
生粋の同性愛者でない以上、互いよりも心惹かれる異性に、いつの日か出会うこともあるかもしれません。」
「でも、ワタシは、彼女と関係を持ったことを、きっと後悔しません。
同性だから惹かれたんじゃなく、真咲さんだから、好きになったんです。」
前に何を言ったか、次に何を言えばいいか。
霞がかった頭から湯水のように感情が湧き、引きつった唇が自動的に言語化していく。
思考停止と饒舌多弁が両立している。
アスリートでいうゾーンとやらが、私の中で燃えている。
「もし彼女が、心から愛する男性と出会ったなら。
その時は、潔く身を引きます。絶対に邪魔したりしません。
ご両親が望むのであれば、二度と彼女の前に現れない覚悟もします。」
「ですから今は。
せめて、心から愛する男性と、まだ出会えていない今は。
彼女の思うまま、息をさせてあげてください。
ワタシに、彼女を支える許しをください。彼女と一緒に生きることを、許してください。」
「そのためなら、ワタシは、どんな努力もします。辛いことも耐えます。」
「だから、どうか、お願いします。
せめて、今は。今だけは─────」
床に手を突き、深々と頭を垂れる。
瞼を閉じ、息を殺し、神経を研ぎ澄ませる。
「私たちの手を、無理に離すことだけは、しないでください。」
"───だったらさ"。
芝居を打っていたはずだった。
恋人のフリをするのが、私の役目のはずだった。
"ワタシを仮の恋人にすんのって、どう?"。
何気ない提案のつもりだった。
失敗したらしたで、すぐに切り替えられるつもりでいた。
"できれば、もう少しだけ。あともう少しだけでいいから。
わたしに、騙されたままでいて。
クリスマスの延長を、もう少しだけ、させて"。
本音と建前が逆転していく。
"育ちの良さそうなお嬢さん像"が崩壊していく。
"1時間でも、30分でもいいから、ここにいて。
わたしは、貴女に興味がある。貴女の話を聴いてみたいんです。
どうか、わたしとお喋りを、してくれませんか?"。
だって私、馬鹿だもん。
借り物の台本を覚えられるほど、とっさのアドリブでカバーできるほど、場慣れしてないもん。
ユリアじゃなくなった私が、大事な友達の前で、上手に嘘をつけるわけないんだもん。
"きゃらめるしんどろーむのユリア、さん───?"
やっと、気付いた。
芝居じゃない。
黒石のためじゃない。
私が、そうしたかった。
私が、それを望んだんだ。
『───正直言うと、すごい憂鬱だよ。
こんなことでもなければ、滅多に顔出さないしね。
途中で気持ち悪くなったり、しないといいけど。』
黒石の愚痴を聴くのは私がいい。
『───ごめん。またみっともないとこ、見せちゃったね。
だめだなー、わたし。尾田さんの前では、ちゃんとしていたいのに。
尾田さんの前だと、逆に、カッコつかないみたい。』
黒石の醜態を見るのは私がいい。
『───いつもありがとう、尾田さん。
こんなに優しくて綺麗で、たのしい人、わたしが男だったら絶対、ほっとかないのにな。』
黒石の涙を拭うのも、黒石の肌に触れるのも、黒石と熱を分け合うのも。
ぜんぶぜんぶ、私がいい。
"ユリアちゃん"。
"尾田さん"。
黒石が眠れない時、疲れた時、誰かに縋りたくて堪らない時。
一番に駆け付けるのが私がいい。
手持ち無沙汰でいる黒石や、気詰りになった黒石が、ぼんやりと空でも眺めた時。
あの人はどうしているかと、ふと思い浮かべるのが私がいい。
黒石の隣は、私がいい。
今までも、これからもずっと。
いつか黒石が、私を好きじゃなくなるまで。
私は、黒石と一緒にいたい。
彼女と一緒に、生きていきたい。
借り物なんかじゃ足りないくらい、私はもう、黒石のことが。
「───尾田さんっ………!!」
あのあと、私たちはどうなったのか。
今となってはもう、ほとんど覚えていない。
ただ、気付いた時には、大泣きした黒石に抱きしめられていて。
黒石を抱きしめ返した私も、負けじと大泣きしていたことだけは、深く印象に残っている。