星を目ざすもの、海より来たるもの 3
翌日、早朝。
珍しく早起きをしたアドアストラは、寝間着のまま日傘だけを差した状態で、ニアの池へと赴いた。
一歩近づくごとに大きくなる水音は、そこで何が起きているかをアドアストラに予感させた。
「………いる。」
ユタ。
昨夜にアドアストラが助けた人魚は、何事もなかったかのように湖を泳ぎ回っていた。
呆れつつも胸を撫でおろしたアドアストラは、しばらく遠目に眺めたのち、ユタの前に姿を現した。
「あっ、昨日の赤髪さん!
今日もいらしてくれたのね!」
アドアストラの姿を視認したユタは、大喜びで湖畔へと身を寄せていった。
同じく湖畔に集まっていた鳥たちは、ユタの起こした波紋に驚いて飛び立っていった。
「おはよう!今朝はいいお天気ね!」
「……お前こそ、いいご身分だな。
"頭のぼんやり"とやらは、もう治まったのか?」
「おかげさまで!」
湖畔に半身を預け、元気に返事をするユタ。
その髪と瞳は、昨夜とは微妙に異なる色合いをしていた。
あざやかな青色から、くすんだ緑色へ。
色素そのものが変わったというよりは、光の加減で見え方が変わるようだった。
「(こっちの気も知らないで、暢気な魚め。)」
ユタの額を小突いてやりたいのを堪えて、アドアストラは浅く溜め息を吐いた。
というのも、昨夜の邂逅から今まで、アドアストラは一時も気が休まらなかったのだ。
"───ああ、ごめんなさい。
とりあえずお礼のキスでも、と思ったのだけど。
まだ頭がぼんやりして、落ち着いて話はできないみたい。"
"は?"
"本当にごめんなさい。
ワタシは少し眠るから、アナタもどうぞ家に帰って。
このご恩は一生忘れない。運が良ければ、また会いましょう───。"
アドアストラが湖に連れ帰ったおかげで、ユタは息を吹き返した。
しかし全快には至らず、もう少し休む必要があると告げたユタは、水底へと潜っていってしまった。
それからアドアストラは、自分のベッドをたびたび抜け出しては、ニアの池へと赴いた。
湖面からは姿を窺えない代わりに、微かな息遣いや身動ぎの音に耳を澄ませて、ユタが生きていることを確認するために。
「それにしても、ここ、いいところね!
空気は澄んでるし、水質も池にしては悪くない。
強いて言うなら、ワタシが泳ぐには狭いのと、ワタシの食べられる魚が少ないことかしら。」
そんなこととは露知らず、当のユタはあっけらかんとした様子。
余計な拾い物をしてしまっただろうかと、自らの行動をアドアストラは後悔しかけた。
「"食べられる"とは、選り好みをするという意味か?
それとも、ここに生息する魚の、絶対数が少ないという意味か?」
「後者ね。
生きている物なら、ワタシは何でも食べられるから。
人間以外は、だけど。」
「見かけの割に、悍しいことを言う女だ。」
「そう?
例えば、ほら。あそこに成っている、木の実かしら?
ああいうのだって、並の人魚なら口にしないでしょうけど、ワタシくらいの食通になれば───」
"あそこに成っている木の実"、とユタが近くの茂みを指差した瞬間。
ユタの腹の虫が、ユタ自身の声を掻き消すほどに激しく鳴いた。
「……腹、空いてるのか。
あれから何も、食ってないのか。」
短い沈黙を挟んで、アドアストラは気まずそうに尋ねた。
ユタはもっと気まずそうに、顔の下半分を湖畔に隠した。
「たべたわ、おさかな、ちょっとだけ。」
「何匹?」
「……2匹。」
「2匹?それしか居なかったのか?」
「居るには居るわ、もっとたくさん。
でも、ほとんどがその、一口で終わってしまうような、可愛らしい子ばかりで……。」
「なんだ、気が引けたのか?そもそも主食にしているくせに?」
「む、イジワルな言い方をするのね。
仮にもワタシは、ここに置いてもらっている立場なのよ?
ワタシの無体が原因で、生態系を崩すわけにもいかないし……。遠慮するのは当然でしょう。」
腹は空いているが、腹を満たす手段がない。
食べられるものは有るが、食べていいものが無い。
意外にも慎ましいユタの態度に、アドアストラは少し前のやり取りを引き合いに出した。
「"何でも食べられる"、と言ったな。」
「え?ええ……。
生き物に限れば、ですけど。」
「元が生き物なら、今は生きていなくてもいいんだな?
例えば海以外の、それこそ、人間の食う物でも構わないんだな?」
「うーん……?
人間そのものは無理だけど、人間が食べている物なら、それもだいたいは生き物でなくて?」
「要するに、いいんだな?」
「まあ、食べられないことはないでしょうね。」
よし、と呟いたアドアストラは、踵を返して去っていった。
残されたユタは首を傾げつつ、件の木の実を食べるか否かで一人、頭を悩ませたのだった。
**
「───あら、おかえりなさい。もう戻ってこないかと思った。」
ローガン邸に戻ったアドアストラは、身嗜みを整えるついでに、あるものをニアの池へと持ち寄った。
「それは?」
アドアストラが両手に提げたあるものに、ユタがさっそく興味を示す。
一見にはバスケットとハンカチーフに隠れたそれだが、明らかに自然物ではない匂いを放っている。
「食い物だ。人間のな。」
「人間の……。」
パンにチーズ。
ソーセージにベーコン。
野菜に果物に嗜好品。
そして、アドアストラ自身が食べる分の、取れたての鶏卵に牛乳。
あるものとは即ち、人間用の食料品。
身嗜みを整えるついでに、朝食の準備も済ませるため、アドアストラはローガン邸に戻っていたのだ。
「口に合うかは別として、腹の足しくらいにはなるだろ。
少なくとも、そこの木の実よりはな。」
ユタが食べようか悩んでいた木の実を一瞥して、アドアストラは鼻で笑った。
ユタは木の実とアドアストラとバスケットを順に見て、アドアストラの意図をようやく察した。
「あ……。
もしかして、ワタシの分も?」
「自分だけで、こんなに食うわけないだろ。」
「それでわざわざ、取ってきてくれたの?」
「どのみち、私も朝食にするところだったんだ。
一人分も二人分も変わらないってだけだ。」
話しながら、アドアストラは湖畔にどっかりと胡座をかいた。
先程より目線の近くなったアドアストラの顔を、ユタはまじまじと見詰めた。
「なんだよ?」
「あ、いえ。
こういうこともあるんだなって。」
「どういうことだよ?」
「ワタシたちは……。
人魚という種族は、基本的に穏やかで、優しげな個体が多いとされているの。
人魚の誘いに乗ってはいけないと、どんなに固く言いつけられても、守れない人間が後を絶たないように。」
「それが人魚ってもんだからな。」
「そうね。」
卑下のような物言いをするユタを、アドアストラは否定しなかった。
ユタは寂しそうな笑みを零して、尚も話し続けた。
「でも、それは上辺での話。
多くの人魚は、優しそうに見えて、優しくない。
実際は卑劣で陰険で、敵対する相手にも、仲間内でも、心を開かないことが殆どよ。
だから、すぐには分からなかったのだけど───」
ユタが身を乗り出す。
湖畔に肘をつき、アドアストラの顔に自分の顔を近づける。
瑠璃色と翡翠色が渦巻く瞳。
昨夜とは異なる輝きを前に、昨夜とは異なる衝撃がアドアストラを襲った。
「アナタは逆なのね。」
「逆?」
「陰険そうに見えて、実は優しいのねってこと。」
今度は照れ臭そうな笑みを零して、ユタは勢いよく仰け反った。
ばしゃん。
ユタの半身を受け止めた湖から、今日一番の水音と水飛沫が舞う。
水中に潜んでしまったのは、決まりが悪いのを誤魔化すため。
人間でいうところの、頭を冷やしたり、お茶を濁すためだった。
「知った風な口を。」
頬に跳ねた水飛沫を拭いながら、アドアストラはまた鼻で笑った。
口ぶりこそ不機嫌だが、その顔はユタに次いで上機嫌な笑みを浮かべていた。
**
「───これ知ってるわ!林檎ね!」
「なんで知ってる?」
「昔、姉さま達と食べたことがあるの!
行きずりの漁師から、恵んでもらった?とか、盗んできたとかで、欠けた分を頂いたのよ。」
「恵んでもらうのと盗むのとでは大違いだと思うが。」
「詳しいことはワタシも知らないのよ。
姉さま達と違って、ワタシは人間と関わったこと、ないから。」
「……食い方は分かるか?」
「作法があるの?」
「人間の作法は知らん。
ただ私は、林檎を食う時はこうやると決めている。」
「……まあ、豪快ね!
小さな顔で、大きな一口ですこと!」
「お前もやってみろ。」
「わかったわ!
───んぐ、こうかしら!」
「私の一口より大きいな……。
人魚の歯って、人間と比べてどうなんだ?」
「普段は変わらないって聞いたわ。なにせ半身は、人間の姿ですもの。
───ほら。」
「確かに……。
歯の前に、顎が丈夫なんだな。
吸血鬼に勝るとも劣らない、といったところか。」
「あら、咬合力で人魚に並べるとでも?
その気になれば、骨だって岩だって噛み砕いてあげるわよ。ぼりぼり。」
「節操のない食通だな。」
「───パン……。これが?」
「おかしいか?」
「ワタシの知ってるパンとは、見た目も手触りも違うみたい。」
「また"姉さま達"に分けてもらった話か?」
「いいえ。あの時はワタシが、自分で取ったの。
海辺に集まる人間の団体を、たまたま見かけてね。その内の一人が、岩場に置いていったのよ。
もしかしたら、忘れていったのかもしれないけど。」
「そいつらは何をしていたんだ?」
「釣り、ってやつじゃないかしら。
誰も彼もが、長い棒を振り回して、魚を引っ掛けていたから。」
「なるほど。
そのパンは、魚用の釣り餌だったというわけか。」
「魚用……。」
「……食ったのか?」
「うん。
海鳥たちがせっせと啄んでいたから、美味しいのかなって……。」
「実際は?」
「あんまり……。
もそもそパサパサして、火事場の空気を粉にしたみたいだったわ。」
「火事場の空気か。独特な表現だな。
こっちのパンは、なんの空気に似てるんだ?」
「……わ、フカフカしてるわ!
舌触りも滑らかで、食感も……。白身魚と、ちょっと似てるわね。
香りは……、前のと近いけど、もっと甘くて上品な……。」
「食いながら喋ると咽るぞ。」
「───ヤッ、なにそれ!クサイ!」
「塩漬けの豚を燻したものだ。
本当は火を入れた方が食い出があるんだが……。」
「燻す?漬ける?何故そんなことをするの?
野菜も果物も、どれも裸ん坊で食べたわ。
豚だって、新鮮なまま、丸かじりした方が早いんじゃなくて?」
「色々と事情があるんだよ。
人間が生肉を食ったら最悪死ぬし、塩漬けにした方が味も日持ちもいい。
お前が喜んで食ったパンだって、元はただの粉だ。
ただの粉を舐めるより、パンになったそれを食う方が、よほど美味いし嬉しかったろ?」
「まあ……。」
「人間の手を加えない方が良いものも確かにあるが、加えた方が良くなるものも確かにある。
少なくとも塩漬け肉は、生きた豚を丸かじりするより、私は好きだ。」
「理屈は分かったわ。
それはそれとして、漬けた匂いか燻した匂いか、どっちかにしてほしいわね……。」
「というか、お前の方が身近じゃないんだな?」
「え?」
「一昔前まで、塩漬け肉といえば海賊だった。
長い船旅では、まず傷みにくいこと、壊れにくいことが、衣食の大前提だからな。」
「海賊……。」
「会ったことないか?」
「ワタシはね。
ワタシより前の世代は、だいたい知ってるって話だった。」
「……その様子だと、あまりいい話ではなさそうだな。」
「そうね。海賊は嫌い。
同じ海を生きていても、漁師の方が百倍マシだわ。」
「漁師が百倍かは疑問だが、海賊が厄介なのは同意見だな。
酒と脂の汚臭を撒き散らして、よくもロマンだのプライドだのと唄えるもんだ。」
「アハハッ。
辛辣だけど、その通り!」
「……で、食うの?食わんの?」
「………美味しいの?」
「私はな。」
「じゃあ食べる。」
「───そっちのはくれないの?」
「これは私の分だ。」
「ふーん……。」
「………ちょっとだけだぞ。」
「ヤッター!
ニワトリの卵って小さいのね!」
「殻ごといくなバカ!」
アドアストラとユタ。
2匹揃っての朝食会。
アドアストラの持ち寄った食料品を、ユタは喜んで平らげた。
元より雑食である人魚にとっては、馴染みがないだけで、人間の食べ物も糧と成りうるようだった。
「───ふー、おなかいっぱい。ゴチソウサマ!」
「本当によく食ったな……。
これもうわばみの片鱗か……。」
「食通と言ってちょうだいな!」
あれよあれよという間に空になった、二つのバスケット。
中でも大きめを選んだはずなのに、とアドアストラは驚きを超えて若干引いた。
対してユタは、今回はお腹が減っていたからだと言い張った。
食いっぷりを評されるのは良くとも、意地汚いと蔑まれるのは心外らしい。
「でも、確かに食べ過ぎたかもしれないわ。
ごめんなさい、元はアナタの食料なのに……。」
「別にいい。私の供給源は他にもある。
一度は助けたからには、区切りのつくまでは、世話を焼いてやるさ。」
アドアストラの親切に、ユタの表情は更に曇ってしまった。
一体どうしたのかと訝るアドアストラに、ユタは恐る恐ると尋ねた。
「そのことなんだけど……。
ここって、アナタの領地なのよね?」
「領地───、ではない。ここは誰のものでもない。
森に棲まう全ての命が、借りていい場所だ。
人間社会では、その限りではないかもしれんがな。」
「じゃあ、誰に許可をもらったらいいかしら?
もうしばらく、ワタシを、ここに置いてもらえるようにって。」
「海に帰るんじゃないのか?」
「そうしたいのは山々なんだけど……。」
風が吹く。
靡いて乱れたユタの髪を、日傘を持っていない方の手で、アドアストラは梳かしてやった。
ユタは赤面しながらも身を委ね、次はこちらの番とばかりに、今度はアドアストラの髪を梳いてやった。
「海には、帰れないの、ワタシ。」
「なぜ?故郷なんじゃないのか?」
「故郷よ。大切な故郷。
海で生まれ育ったし、海自体は今でも好き。
なんだけど……。」
「………。」
「………。」
海に帰りたくても帰れない。
何故なら、の続きを、何故かユタは言わなかった。
アドアストラも、追求はしなかった。
森で出会ったことも、川で溺れていたことも。
当時には無かったはずのエラが、今の彼女には備わっていることも。
次々に湧く疑問点を、敢えて言葉にはしなかった。
何故なら、人魚が警戒心の強い種族であることを知っているから。
逆に自分が、正体を明かせと迫られる側でも、きっと白状はしないだろうと思うから。
「それに、気持ちが帰りたいとしても、物理的にまず無理。」
「陸路だからか?」
「の前に、体の調子がね。
昨日と比べたら随分いいけど、まだ万全とは言えなくて。
だからせめて、これからどうするにしても、もう少しだけここで休ませてほしいと、お願いしたいんだけど……。」
要するにユタは、時間がほしいのだ。
海へ帰るにしても、帰らないにしても、覚悟が決まるまでは、ここで考えさせてほしいと。
アドアストラは悩むまでもなく、ユタの代わりに答えを出した。
「居ればいいだろ。」
「え?」
「私が心配したのは、海で生まれた人魚が、湖で生きられるかどうかだ。
お前自身が平気だというなら、なにも問題はない。」
「えっと……。
でも、ここはみんなの場所、なんでしょう?
ワタシのような余所者が、みんなの場所に居座ったりしたら、迷惑じゃない?」
「水辺に魚は付き物だ。
お前だって、ちょっとデカイが、魚は魚だ。
なんかデカイのが居るな、くらいで、皆さして気に留めないさ。」
「その理屈は、さすがに無理があると思うのだけど……。」
「みんなには、私の方から伝えておく。
お前はとにかく、お前の調子が戻るまで、食って寝ることに専念しろ。
これからどうするかを考えるのは、その後でも遅くはない。」
アドアストラが立ち上がる。
アドアストラの差す日傘の影が、薄く広がってユタをも包む。
「どこへ行くの?」
「家に戻る。
仕事があるからな。いつまでも、ここで遊んではおれん。」
「そう……。」
「心配せんでも、夜にはまた様子を見にくる。
夜が明ければ明日の朝に、そしてまた夜に。
次来るまでに、次に食いたいものを決めておけ。」
立ち去ろうとしたアドアストラの足を、ユタがとっさに掴む。
履き物越しに伝わる体温は、アドアストラには酷く冷たく感じられた。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「理由が必要か?」
「だって、アナタには何の得もないでしょう?
ワタシを助けても、金銀財宝が手に入ったりしない。
ましてや、種族さえ違うのに───」
「種族が違うからこそ、かもな。」
「……どういうこと?」
不安に揺れるユタの瞳に、アドアストラの紅が交じる。
かつて触れた友のぬくもりが、アドアストラの脳裏に過ぎる。
「ただの真似っこだよ。
変わり者の友達の、な。」
何気ない会話の内容は、一言一句覚えているのに。
彼と交わした最後の約束だけが、どうしても、アドアストラには思い出せなかった。




