愛煙家
*あらすじ
塚原未知は片想いをしていた。
その相手もまた、別の誰かに片想いをしていた。
一方的な恋に身を焦がす日々は、時に苦しく、悩ましいものであった。
しかしながら、確かに幸せであったことを、叶わなかった今こそ強く感じる。
ほろ苦い煙を胸いっぱいに含み、未知は過去を追想する。
好きな人がいる。
その人は、私が生まれた時から知っている人で、私が生まれた時を知っている人。
私の、名付け親だ。
「意外と平気そうね」
「え?」
「確かに。ぜったい泣くと思った」
「ね。どうやって慰めようかって、二人で相談したくらいよ」
元々は、私の両親の友人だった。
父と母と、その人と、同い年の幼馴染み。
実家が近所ということもあって、家族ぐるみのお付き合いをしてきたそうだ。
「ああ、だから。やけに視線感じると思った」
「あら、クールでいらしゃる」
「昔はあんなに泣き虫だったのにねぇ」
「いつの話してんのよ」
幼稚園が一緒、小学校が一緒、中学校が一緒。
クラスも毎年必ず一緒と、自他ともに認める腐れ縁がバラけたのは、高校生になってから。
父と母が地元の公立校に進学したのに対し、その人だけが本州にある全寮制の私立校に進学した。
父と母も馬鹿ではないが、その人はもっと頭が良かったのだ。
「昔は喧嘩ばっかだったよねー、アタシら」
「アタシらってか、姉さん達がでしょ」
「そうそう。ここがワーワー口論になった時とか、未知だけ蚊帳の外でね。
いつもポカーンとしてたよね」
「で、最終的に泣いてた」
「何が何だか分からないけど、何故だか悲しいよ~って感じでね」
「悲しいっていうか怖かった。
ゴ○ラVSキング○ドラがそこにあった」
「言ったなコノヤロ」
「あはは、子供の目にはそうだったかもね」
三人としての友情は、変わらず続いていた。
週に一度は電話、月に一度は手紙でやり取りし、長期休みに入れば三人で遊びに出掛けた。
しかし、どんなに尊重し合ったとて、離れ離れは障るもの。
父と母の仲が深まっていく一方で、その人だけが段々と疎遠になっていった。
「昔といえばさ、こんなこともあったよね」
「なに?」
「誕生日。未知の5歳のお祝い」
「あー、その話」
「いいかげん聞き飽きた」
「飽きるほどは話してないでしょー」
高校を卒業した三人は、大学生になった。
母が隣町の福祉専門学校、父が市外の医科大学、その人が本州の教育大学。
三人ともにバラけたのは、この時が最初で最後。
そして、この時には既に、父と母は恋仲だった。
「最後にケーキ食べるってなってさ、みんなで切り分けたじゃん、ショートケーキのホールケーキ」
「そうそう」
「で、さすがに5歳児には多いよねって、未知のだけ小っちゃく切られたじゃん」
「そうそう」
「めちゃくちゃ怒ったじゃん。
なんで私だけ!私が偉い日なのに!って」
「そうそう!」
「あの時のアンタさぁ、ほんと怪獣ってか、地団駄すごかったよね」
「そしてこの時も泣いてた」
「泣いてた。大泣き。
して結局、みんなのケーキ分けてあげてさ。
向こう一週間は、晩ごはんの前にお菓子食べていいって約束もさせられた」
「大泣きなのに、そういうとこちゃっかりだったね」
「はいはい、どうせ私は女王様でしたよ」
父と母は、高校二年生の時に恋人になった。
父から母に告白し、母は二つ返事で了承し、とんとん拍子に交際スタート。
もちろん、真っ先にその人に報告した。
妙な気恥ずかしさと遠慮があって、結局は事後報告になってしまったが、その人は祝福してくれたそうだ。
「でも、我が儘エピソードっていったら、逆にそれくらいか?」
「小学校あがってからは、逆に心配になるくらい、大人しくなっちゃってね」
「思えば可哀相だったよねー。
アタシも姉さんも部活やったりで、母さん達いっつも、こっちの用事に付き合わされてさぁー」
「だねぇ。よく一人でお留守番させてた」
やがて三人は、大人になった。
母は職場を転々とし、父は内科医を、その人は教育者を志した。
三人としての友情は、変わらず続いていた。
「本人的には、どう?
やっぱり寂しかったでしょう?」
「んー。まぁ、なくはなかったけど、別に。
母さんも父さんも、姉さん達も、わざと仲間外れにしてやろうってんじゃなかったし」
「それは勿論ですけれども」
「姉さん達は喧嘩ばっかりでも、私は虐められたりとか無かったし」
「そりゃあ、一回りも離れてる子にはねぇ」
「だから、いいよ。謝られるようなことじゃない」
「アタシらより大人なの笑っちゃうんだけど」
「水臭いのよ」
父と母が結婚する頃には、父は内科医が板に付いていた。
結婚式にはその人も出席し、友人代表でスピーチもしてくれた。
幸せいっぱいの時期だった。
幼馴染みから恋仲へ、遂には結婚まで辿り着き、父に至っては夢をも叶えた。
そうそうある幸運ではなく、滅多にない奇跡だろう。
「家族で集まると結局、昔話になっちゃうねー」
「歳かねぇ」
「ちょっとやめてよ!アタシはまだ若いつもりなんだから!」
「末っ子の私でさえ、もうおばさんなんだから。観念なさい」
「ヤメテ!」
「まあまあ、年齢の話は置いといて」
「言い出しっぺでしょうよ」
「今日くらいは、いいじゃない。
お決まりの昔話に、花が咲いたって」
「それもそっか。
この歳になると、家族で集まる機会自体、ほぼ無いしね。
この歳になるとね」
「このひと根に持ってるわ」
片やその人は、結婚をせず、恋愛すらせず、教育者になる夢も諦めてしまった。
独身のまま、一般企業のOLとして、慎ましく暮らした。
良く言えばストイック、悪く言えば厭世的な生き方。
両親は時に心配したが、その人自身はいつも穏やかに、どこか嬉しそうに笑っていたという。
「あ、母さんからメール」
「なんて?」
「こっちもう着いたから、先に準備始めちゃうって」
「さすが段取りいいなー」
「そんな急がんでもいいのにね」
「急いでるんじゃなくて、暇になりたくないんでしょ」
「……さすが、鋭いね」
念願の子宝。
両親にとっては第一子、私にとっては一番上の姉。
その人も我がことのように喜び、けれど関わりは少なかった。
「言われてみれば、母さん、ずっと空元気かも」
「むしろ父さんのが普通に落ち込んでるよね」
「性格の問題かね。父さんのが良くも悪くも素直だから」
「そろそろ着くよー。
おたくらも降りる準備してー」
「はいはい」
「長旅ご苦労」
程なくして、次女誕生。
両親にとっては第二子、私にとっては二番目の姉。
その人は我がことのように喜び、以前に輪をかけて、関わりが減った。
「あら、思ったより早かったわね」
「未知が飛ばしました」
「人をスピード狂みたいに……」
「父さんは?」
「あっちで担当の人と話してる。
お前はちょっと休んでなさいって」
「母さんホント働き過ぎだから」
「じゃ、ワタシらで父さんの応援行ってくるわ。
母さんはもう少し、ここで休んでて」
「未知、あと頼んだ」
「え、私も手伝うよ」
「アンタだって運転で疲れたでしょー。
そこに自販機あるし、母さんとジュースでも飲んでな」
「人を子供みたいに……」
滑り止めの職種といえど、優秀な人材には違いない。
上司からも部下からも慕われ、会社からも世間からも求められる立場にあったその人は、すっかり仕事人間になっていた。
久しぶりに会おうよ。
たまにはご飯でも行こうよ。
何度とない両親からのアプローチに、断る文句は決まって"仕事"。
やり甲斐があったのも確かだろうが、忙殺を口実に避けられていたのかもしれないと、母は云う。
「はい、お茶」
「ありがとう。
未知は?何にしたの?」
「炭酸。眠気覚ましに」
「ああ、それね。
昔から好きね、それ」
「あー、まあ、そうかな?」
次女誕生から9年後。
両親にとっては第三子、塚原家の末娘こと私誕生。
どういう訳か私の時は、その人が駆け付けてくれた。
逆に仕事が入った父の分まで、母の出産に立ち会ってくれた。
ついでに母が名付けをお願いすると、渋々ながらも引き受けてくれた。
命名、"未知"。
フルネームをして、"塚原 未知"。
未知との遭遇、未知の生き物、などの意味からとって、この名前になったらしい。
安直も甚だしいが、飾らないその人らしくて、私は気に入っている。
「ふふ」
「なに?」
「ちょっと思い出しちゃって」
「なにを?」
「それ。元々は彼女が好きだったから」
「……そうだっけ?」
「そうよ。彼女が飲んでるのを見て、あなたが真似したんだから」
「覚えてない」
「わたしが出産した時もね?あの人、それ買って持ってきてて」
「私の時?」
「そう。
でも、大慌てで駆け付けたものだから、買ったこと自体忘れちゃったらしくて」
「……爆発した?」
「そう。
病室に入ろうとした、まさにその時にね。
ブランド物のバッグの中で、バーンって弾ける音がして。
助産師さんもお医者さんも驚いて、彼女は平謝りで。
幸い、外に零れたりすることはなかったから、彼女は濡れた上着だけ脱いで、でもバッグの中はぐちゃぐちゃで」
「あーあ」
「わたしも大層驚いたけど、おかげで一瞬、痛いのを忘れられた。
ふふ。あの時の、あの人の顔ったら。今思い出しても可笑しい」
これまたどういう訳か、その人は私を特別に可愛がってくれた。
姉達のお下がりばかり与えられる私を見兼ねて、新品の服や玩具を買ってくれたり。
姉達のイベントで忙しい両親に代わって、私を動物園や水族館に連れて行ってくれたり。
学校の参観日や運動会にも、可能な限り出向いてくれた。
どうしてなのかは、定かでない。
自分が名付けたという愛着があったからか、ひときわ幼くて可哀相だったからか。
ただ、我が事のように、我が子のように、その人は私に優しかった。
「やっぱり、こういう時って、出てくるものね、色々と」
「思い出?」
「うん。
それも、取り留めのない、他愛のない、ね」
「車の中でも、そんな話になったよ。
昔は色々あったよねって」
「彼女とのエピソード?」
「も、含めて」
「そっかぁ。そうだよねぇ。
特に未知なんて、わたしより彼女の方が母親みたいだった」
「母親って感覚はなかったけど……。
姉さん達よりは、一緒に過ごさせてもらえたかな?」
「あの子らはいつも、未知に嫉妬してばかりだったわね。
未知だけお姉さんと遊べてずるいーって」
「姉妹全員の憧れだったもんね」
「わたしは、複雑だったわ。
助かる反面、本当にこのまま、彼女が未知の母親になっちゃうんじゃないかって」
「……取られると思った?」
「そんな風には思わなかったけど、あなた達は、なんだか……。二人だけの世界、みたいな空気があって。
未知には勿論、彼女に対しても、わたしより未知に構ってばかりで、って……」
「両方に嫉妬、ってこと?」
「あはは、そうかも」
いつかに私は、その人に尋ねた。
本当の子供を作る気はないのか、どうして自分は結婚をしないのかと。
今思えば酷な質問だけれど、当時の私に他意はなかった。
純粋に疑問に感じたこと、両親も実は不審がっていたことの真相を、知りたかっただけだった。
「どうして、あんなに、可愛がってくれたのかな」
「どうしてって?」
「だって、私だけの理由がない。
父さん母さんの子供だからってことなら、三人ともそうだし。
姉さん達の時は忙殺されてって言っても、私の時だって、忙しくないわけじゃなかったろうし」
「………。」
「一番、面影を感じたのかな?二人の」
「いいえ、未知が一番、わたし達に似てないわ。
悪い意味じゃなく、父さんからも母さんからも、あなたは遠い」
「じゃあ、なんで」
「本人には聞いてみたの?」
「何度かね。話しやすいからって言ってた」
「他には?」
「他には───、あ。
昔の自分と似てるから、みたいなことも、言ってたな、確か。
そんなわけないでしょと思って、適当にはぐらかされたんだと思って、気に留めてなかったけど……」
「なるほど」
好きな人がいるんだと、その人は答えた。
だったら好きな人と結婚すればいいと、私は尋ねた。
好きな人とは結婚できないんだと、その人は答えた。
どうして好きな人とは結婚できないのかと、私は尋ねた。
好きな人は、もう結婚しているからと、その人は答えた。
それ以上は、何をどう尋ねても、はっきりとは答えてくれなかった。
「"なるほど"?何がなるほど?」
「確かに、未知と彼女は、似てるとこある」
「ええー?全然でしょ。共通点いっこもないよ」
「あるよ。なんとなくだけど。
それこそ、こっちの血が繋がってるって言われた方が、違和感ないくらい」
「例えば?」
「例えば……。
責任感が強いところとか、年下に好かれるところとか」
「ほんとになんとなくね」
「あと、こうと決めたら貫くところ。自分の信じたものを信じるところ」
「あー……。そこはまぁ、そうかも」
「でしょ?
比べたら、たぶん、彼女の方が三倍は頑固だろうけどね、実際」
質問の答え。
幼年期の私には難解だったそれが、思春期の私には理解できた。
あの人はきっと、私の父が好きなのだ。
子供の頃からの付き合いなら、あの人だって、父を好きになっても不思議じゃない。
たまたま母が先だったから譲ってあげただけで、父への気持ちは、あの人の方が強かったのではないか。
勝手に推量して、疑問も残った。
今も父が好きなら、抜け駆けした母が疎ましいはず。
なのにあの人は、父とはもちろん、母とも友人関係のまま。
なんなら父以上に、母と私たち、子供たちを大事にしている。
残った疑問は燻り続け、完全に消化できたのは、私も大人になった頃だった。
「わたしからも、聞いていい?」
「なに改まって?」
「彼女は、お父さんのことが好きだったと思う?」
「……なんで私に聞くの?」
「一番、彼女に近かったから」
「なんで今聞くの?」
「ずっと、聞こうと思って、聞けなかったから」
「ふーん……。
残念だけと、私にも分からないよ。
近いって言っても、同じ人間じゃないし。親子ほど歳も離れているんだし」
「そっか。そうよね。
話しやすいってくらいだから、わたしにも内緒にしてるようなこと、あなたにだけは教えてたりしないかなーって。
ちょっとだけ、期待しちゃった」
「だったとしても、本人が隠し通したことを、私の口から明かすわけにはいかないよ」
「……そうね。
やっぱり未知は、彼女に似てるわ」
あなたは私の母が好きなのですかと、私は尋ねた。
ごめんねと、その人は答えた。
どうして謝るのですかと、私は困った。
だって気持ち悪いでしょうと、その人は申し訳なさそうに笑った。
気持ち悪いわけないと、私は怒った。
優しいねと、その人は申し訳なさそうに笑った。
あなたならもっと他にいい人がいたはずと、私は歎いた。
彼女以上の人はいないと、その人は申し訳なさそうに笑った。
せめて気持ちだけでも伝えないのかと、私は迫った。
知らない方がいいこともあると、その人は俯いた。
ずっと片思いで辛くないのかと、私は泣いた。
こんなに幸せなことはないと、その人は笑った。
「父さんの方は?実は母さんとの間で揺れたりしなかったの?」
「みたいよ?」
「えっ」
「中学までは彼女を好きだったんだって、付き合い始めてからカミングアウトされた」
「冗談のつもりだったのに……。
てか、付き合った後でカミングアウトって、必要なくない?」
「どうせバレると思ったんじゃない?
現に、ここまで付き合い続いたし」
「初めて知った」
「わたしも、初めて言った」
「あ、もしかして、それで?
向こうも父さんのこと好きだったか、って?」
「だって、もしそうなら、わたし、酷いことしちゃったなって」
「いや……。こういうのは仕方ないってか、成り行きでしょ」
「成り行きではあったけど、知らんぷりしたのも事実なの」
「知らんぷり?」
「お父さんに、付き合おうって言われた時ね。
彼女も彼を好きかもしれない、まずは彼女の気持ちを確かめた方がいいって、思ったのよ。
その上で、すぐに返事をした」
「……取られると。思ったから?」
「そう。そうなの。わたしってやつは、昔からずっと」
その人は、私の母が好きだった。
父が母を好きになる前から、ずっとずっと母を好きだった。
だから、父と母が交際しても、結婚して子供を作っても、祝福した。
三人での友情を絶やさなかった。
自分では駄目なのかと、悲しみはあっただろう。
自分ばかりが除け者にと、怒りもあったかもしれない。
それでも、祝福をした。
その人にとっては父も大切で、大切な人同士が一緒になってくれるならと、諦めがついたらしい。
「劣等感があったのよ。
彼女と彼は勉強ができて、見た目も華やかで、人気者で。
わたしだけが、いつも、何をやってもドベだった。
三人組のくせに、お前だけハズレだよなって、よくクラスの子たちに馬鹿にされた」
「……辛かった?」
「からかわれるのは平気だった。
ただ、堂々と二人に並べない自分が恥ずかしくて、こんな自分に優しくしてくれる二人が、苦しかった」
「……それで?」
「だから、お父さんに告白された時、好きな人に好きになってもらえたって、嬉しかった。
同時に、さっきの。もし彼女もお父さんを好きだったら、わたしは太刀打ちできないって焦って、二つ返事でいいよって、答えてしまった」
「それは……」
「後で、前は彼女を好きだったんだって、お父さんから言われた時、確信したわ。
あそこで、わたしが、二つ返事なんてしていなければ、彼女がお父さんと結ばれていたかもしれないって」
「それとこれとは───」
「別だとしても、無関係じゃない。
お父さんがわたしを選んでくれたのは、わたしの方が長く一緒にいたからだもの。
高校で別れていなければ、わたしが彼女に勝てる理由はなかった」
「勝ち負けの問題じゃないでしょう。
初恋がどうあれ、最後に選んだのは母さん。
仮にあの人を選んでいたとして、あの人も応えるとは限らない」
「分かってる。ええ。分かってるわ。
今更こんなこと、考えたって、意味ない」
「だったら───」
「わたしの問題なの。わたし個人の。
取られたくなかったのよ。お父さんのことも、お前のことも。
おかしいでしょ。彼女はそんなことしないのに。わたしは、彼女を大好きで、親友だったはずなのに」
「………。」
「勝手に気に病んで、自分が悪いとか、彼女に申し訳ないとか。
決まったわけでもないのに、そんな妄想ばっかり。
そういうとこが、わたしは自分で、嫌いなとこなのよ」
理屈としては、理解はできた。
納得は、どうしてもできなかった。
父と母の両方とも大切で、だから祝福したのは分かる。
だけど、やっぱり、自分が結ばれたかったはずだ。
恋愛に於いて最も幸せな形は、最も望ましい結末は、自分と想い人とが成就することに決まっている。
片想いこそ至福、なんて。
所詮その人は、強がっているだけ。
自分の気持ちに折り合いをつけたいがために、美しい言葉で装っているに過ぎないと。
「あの人の気持ちは、あの人にしか分からないことだけど」
「うん」
「あの人と父さんが一緒になる可能性も、ゼロではなかったかもしれないけど」
「うん」
「祝福したのは、本心からだったと思うよ」
「……そう思う?」
「うん。
だって、あの人いつも、私といる時、父さん母さんの話ばっかりしてた」
「そういえば、そんなこと言ってたね」
「二人のここが素晴らしいとか、二人とはこんな思い出があるとか。
上辺だけの人に出来る話し方じゃなかった。
ましてや私みたいな、子ども相手にさ」
「子供が相手だから、親の悪口は控えてあげようってことじゃなく?」
「それもあったかもだけど、だったら、嫌いなやつの子供に構ったりしないでしょ、そもそも。
二人を好きだから、二人の子供の私にも、優しくしてくれたんだよ」
「……そうだと、いいけど」
「それに、さっきの」
「なに?」
「大好きな親友だって。
それが一番、あの人には嬉しいことだったと、私は思うよ」
「……そうだと、いいな」
私が貴方だったら父を許せないと、私は言った。
そういうこともあるかもねと、その人は言った。
私が貴方だったら子供となんか仲良くしないと、私は言った。
そういう人もいるかもねと、その人は言った。
貴方のそれは自己満足で、貴方はただ臆病なだけだと、私は言った。
そうかもしれないねと、その人は言った。
どうして私を可愛がってくれたんですかと、私は尋ねた。
やっと心が追い付いたからと、その人は答えた。
いつか私の心も追い付いてくれますかと、私は尋ねた。
その日は来ると、その人は言った。
この人に恋をして良かったと、心から思える日が必ず来ると、その人は言った。
「───あ、なーによ結局泣いてんじゃない」
「これ、茶化さないの」
「ふふ。最後の最後まで賑やかだこと」
「いいんじゃないか?
湿っぽいのは苦手だから、こいつ」
「それもそうね」
「見れば見るほど、綺麗な顔ね」
「ほんとに。
……本当に、眠ってるようにしか、見えないのにね」
泣き腫らした瞼に、冷たい風が当たる。
ぼやけた視界に、ぼやけた景色が映る。
あの人だった煙が、天高く昇っていく。
あの人だった空気を、胸いっぱいに吸い込む。
ほろ苦くて、息苦しくて、でも意外と嫌じゃなくて。
さっさと終わらせてしまいたいのに、永遠に続いてほしくもある、二律背反の匂いがする。
「───母さんと、なに話したんだ?」
「うん?ちょっと」
「ちょっとか。
母さんの"ちょっと"は、けっこう長い」
「言えてる」
「俺な、昔、あいつのこと好きだったんだ」
「あ、それ自分で言うんだ」
「やっぱり。母さんだろ」
「さっきね。聞いた」
「だと思ったよ」
「なんで母さんに乗り換えたの?」
「乗り換えたって、人聞き悪いな」
「じゃあ純粋に、母さんの方が好きになった?」
「………。」
「あ や し い」
「そんな目で見るな。疚しいことはない。
ただ────」
「"ただ"?」
「こいつは絶対に俺を好きにならないだろうって、気付いた。
から、諦めたのも事実だ」
「なんでそう思ったの?」
「好きな人がいるんだって、言われた」
「え、告白したの?」
「告白はしてない。
なんとなく、話の流れで、お前は彼氏とか作らんのかって聞いたら、そう返された」
「……その話、母さんには?」
「してない」
「なんで?」
「ここからは、俺の憶測だが……。
あいつの好きな人って、母さんだったんじゃないかって、思うんだ」
「……なんで」
「見てたらな、分かるもんなんだよ、好きな人の好きな人って。
当の母さんは、自分のことなんか好きになってくれる人いないって、全く鈍感だったけど」
「後ろ向きに全力疾走な人だからね」
「そうそう。
……あと、女同士で恋愛とか、当時はな。
想像できなかったのもあるんだろう」
「ああ……」
「だから、だったんだろうな。
あんたら二人で結婚してよって、冗談めかして言われたり」
「付き合い始めてから?」
「間もなく、だな。
彼氏作る作らないの延長で、自分は一生結婚とかしないから、あんたらが代わりにしてよって。
俺になら、安心して母さん任せられるって」
「へえ……」
「あ、誤解するなよ?母さんのことは、昔も今も、ちゃんと愛してる。
昔は悩んだりもした、って話だ」
「知ってるよ」
「……お前には、何か言ったりしてなかったか?」
「母さん?」
「あいつがだよ。お前ら仲良かったろ」
「幸せだって言ってたよ」
「本当か?」
「疑うの?」
「いや……。
あいつ、宣言通り一生、結婚も恋愛もしなかったからさ。
もし、ずっと母さんを好きで、それを押し殺して、俺たちに接してたんだとしたら……」
「母さんと同じこと言ってら」
「あ、おま、さては何か知ってるな?」
「その話、やっぱ母さんにしてあげてよ。
同じことで引っ掛かってるなら共有した方がいいし、当人同士で話し合う分には、私は不義理を働いたことにはならないし」
「なんだよ、なにを知ってるんだよ、お前は。
ずるいぞ、俺たちのが付き合い長いのに」
「じゃー、ちょびっとだけ教えてあげますか」
「おう、なんだ」
長い長い、片想い。
あの人は母に伝えず、私もあの人に伝えないまま、終わってしまった恋だけど。
今なら、あの人の言葉の本当の意味が、私にも。
「父さんと母さんはお似合いで、あの人が応援して祝福したのは本当」
「お、おう?」
「あと、幸せだったのも本当」
「……そんだけ?」
「私から言えるのは、そんだけ」
「本人の口から聞いたことか?お前が想像して思ったことか?」
「どっちも。
本人からも聞いたし、私も想像して思ったから、そこは間違いない」
「うん……?
なんでお前の思ったことが、"間違いない"になるんだ?」
「だって、よく似てるんでしょ、私たち」
好きな人がいた。
その人は、私が生まれた時から知っていた人で、私が生まれた時を知っていた人。
私の、初恋だった。
「幸せだったよ。あの人も、私も」
こんなに幸せなことはない。
その通りだね、お姉さん。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




