マッドジンクス 5
彼女の死後、私はしばらく立ち直れなかった。
入浴は三日に一度。
食事は出来合いが中心。
並には気を遣っていたはずのファッションも、物欲が全く湧かないせいで、着古した服をローテーションした。
何もしたくない。
誰とも会いたくない。
平日も休日も自室に閉じこもり、たまに外出をしても茫然と空を眺めて終わり。
彼女を殺した犯人にどう復讐しようかと、恨みつらみを糧としたライフワークも、長くは続かなかった。
ナントカって元彼は、法が罰してくれるけれど。
私のことは、罪に問うてさえもらえない。
だったら、私が私の罪を罰するしかない。
およそ人間らしさを断絶して、せめてもの償いとしたかった。
「───もう充分だろう。
彼女が死んだのは、君のせいじゃないんだ。
弔ってやるのは良いとして、君が殺したみたいに思い詰めるのは違うよ。」
「はい。」
「お店持つこと、彼女も楽しみにしてたんでしょ?
だったら彼女のためにも、彼女の分まで、夢叶えてあげようよ。」
「はい。」
「どうしても辛かったら、またいつでも、戻ってきていい。いつでも、なんでも相談に乗る。
命日にはこうして、ね。みんなで飲んだりしてさ。思い出してあげればいいじゃない。
君がずっと、そんな顔をしてることは、彼女を含めて誰一人、望んでいないんだからね。」
「……はい。」
築城を再開したのは、31歳の時。
ラウンジ時代の仲間を筆頭に、たくさんの人たちに励まされて、やっと重い腰を上げた。
「───帰省かぁ。」
「けどまー、会いたかったら会える距離じゃん?」
「だね。
旭川なら、バス一本で行けるしね。」
「ずっと心配してたから、ひとまずは、ね。良かったよね。」
「ね。」
「ありがとうございます。ご心配おかけしました。」
「たまには、こっちにも遊びおいでよ。オーナーも喜ぶしさ。」
「そういや、今日なんでオーナーいないの?」
「悲しくなるから、別れの瞬間には立ち会いたくないって。」
「それ前も聞いたな。」
「元気でね、志帆ちゃん。」
「……はい。
改めて、お世話になりました。
皆さんにも、よろしくお伝えください。」
札幌を拠点とする計画は改め、地元の旭川でイチから物件探し。
地元に愛着があって、ではなかった。
札幌に当てがなくて、でもなかった。
仮にも飲食店を営むならば、都会の方が有利ということも、重々承知していた。
「バイバイ。」
「さよなら。」
「またね。」
「いってらっしゃい。」
同じ景色に、留まっていられなかった。
お嬢さんと彼女と、共に過ごした思い出が、札幌の町にはあり過ぎる。
ここにいる限り、自力で殻を破るのは無理だと悟った。
だから環境を変えて、無理矢理にでも割り切ることにしたのだ。
生きた彼女の夢でもあった、独立を実現させるために。
死んだ彼女の幻を、置き去りにして。
「───こんにちは。」
「お姉さん。いらっしゃい。いつもの?」
「いつもので。」
「頑張るね~。
さすがに耳ばっかりじゃ飽きないかい?」
「揚げたり煮たりして、色々バリエーション変えてやってます。」
「良かったら、今度レシピ書いてあげよっか?
ちゃんと食事っぽくなる食べ方も出来るんだよ。」
「お気遣いすいません。
今日は奮発して、ドーナツも買っちゃいますかね。」
「まいどあり。」
二年間も引きこもっていた上に、急遽の移転で予定外の支出。
独立資金はみるみるうちに減っていき、生活費を切り詰めて凌いだ。
不便だった。
でも不満はなかった。不幸じゃなかった。
たとえ貧しくても、人間関係にだけは恵まれていたからだ。
「───そうだ、樫村さん。預かりものがあるんですよ。」
「私にですか?」
「あった。
これ、例のマスターさんから。」
「これは……。」
「自分とこで出してたメニューの、レシピだそうです。
畑は違うけど、同じ飲食なわけだし、なにかの役に立てばって。」
「………。」
「……ご迷惑でした?」
「まさか。嬉しいです。
ただ、通ってるパン屋さんでも、このあいだレシピを頂いたので。」
「へー。なんのレシピです?」
「私がパンの耳ばっかり買っていくものだから、少しでも美味しく食べられるようにってことで。」
「なーるほど。
節約中だって仰ってましたもんね。」
「ええ。
本当に有り難いんですけど……。
そんなにひもじく見えますかね、私。」
「いやいや、ひとえに人徳でしょう。
頑張ってることが伝わるから、皆さん応援したくなるんですよ、きっと。」
物件探しに付き合ってくれた周旋業者。
居抜きを薦めてくれたイタリアンオーナー。
各種手続きで応対してくれた事務員さんに職員さん。
見切り品などを融通してくれたパン屋さんに惣菜屋さん。
たまたま道で擦れ違っただけの人にさえ、私は親切にしてもらえた。
こんな、疫病神みたいな、公害同然のヤツなんかに。
もしかしたら、彼女らが余していった幸運を、私が勝手に回収してしまったのかもしれない。
「───やっとか。長かったね。」
「うん。ご心配をおかけしました。」
「こーんな爆イケ姐さんが一人でお店~、なんてなったら、絶対みんな放っとかないよ。
どうすんの?客から求められたら。」
「仮にそうなったとしても、上辺だけ応えて終わりだよ。
名前の変わる関係にはならない。」
「ワタシみたいに?」
「キミは最初から、私を求めてるわけじゃないでしょ。
そっちこそ、例の彼女とはどうなったの?」
「順当にいけば、離婚かな。」
「やったじゃん。略奪愛だ。」
「略奪なもんか。
体よく捨てられたところを颯爽と迎えに行く王子様がワタシよ。」
「そうなるといいね。」
「師匠も。」
「うん?」
「孤高主義も結構だけど、人との繋がりは途絶えさせないようにしなよ。
深い関係じゃなくても、友達同士、気兼ねなくご飯食べたり、お喋りしたりしてさ。
そういう時間が、人間には必要なんだから。」
「ユウちゃん……、」
「ん。」
「大人になったねぇ。」
「いくつだと思ってんのよ!」
33歳。念願の城が完成した。
店名は"from/NiKiTa"。
彼女のアイデアを尊重し、他の候補は選ばなかった。
「───すいませーん。」
「いらっしゃい。何名様?」
「アッ、あー……。
あの、わたし達……。そっちの人ってわけじゃないんですけど、それでもいいですか……?」
「もちろん。女性は誰でも大歓迎です。
お好きな席へどうぞ。」
大した宣伝もしなかった割に、客入りはまずまず。
毎日毎晩、馬車馬のように働いた。
過労で倒れることがあったとしても、本望だった。
"───約束してほしいことがあるんだ"。
先生。
あなたと出会った故郷の地で、私はお店を開きました。
みんなにも良き出会いがありますようにと、願いを込めて作ったお店です。
"一人ぼっちでいないで。
わたしに義理を立てようとしないで"。
あれから約10年。
あなたの他に、私は二人の女性と恋をしました。
一人は老舗酒蔵の跡取り娘で、私の暗さを吹き飛ばすほどに、明るい子でした。
二人は駆け出しのコピーライターで、私の悲しみに寄り添ってくれる、落ち着いた人でした。
二人とも、先生とは異なるタイプで、どこか先生と似ていました。
二人とも、先生とは異なる理由で、先生のように若くして亡くなりました。
"たまにはお寿司たべたり、旅行いったり。
みんなが楽しいって言うようなことを、君も素直に楽しんで"。
先生。
あなたは病で、天国へと旅立っていかれましたね。
残された私はとても辛かったけれど、見送る猶予があったおかげで、受け止められました。
他の二人は違うのです。
彼女らは旅立ったのではなく、奪われた。
彼女らを見送る猶予を、私は与えてもらえなかったのです。
"いいかい。
君には、幸せになる権利があるんだ"。
先生。
私は酷いやつでしょう。
あなたのことは、過去にできました。
あなたと過ごした青春を思い出しても、泣かずに笑えるようになりました。
他の二人は違うのです。
私は故郷に帰ってきたのではなく、逃げてきたのです。
彼女らの喪失は、未だに受け止めきれずにいるのです。
"いつかきっと、心から愛せる人に出会える。
初めて付き合った相手は保健の先生だったんだぜ、なんて。
いつか、笑って話せる日が来るよ"。
生憎と、私はまだ死ねません。
病に罹ってくれないし、車が轢いてくれないし、誰も殺してくれません。
天寿を全うする以外には無い気がします。
早く終わらせるには、自分で選ぶしかないのでしょうが、そうはしたくありません。
生きている以上、生きていきます。
死に物狂いで、生きます。
"志帆。わたしの天使。
君の存在が、わたしの人生で最も素晴らしい出来事だった"。
そうして、たくさん徳を積んで、いつか最期を迎えたら。
一度だけ、一目だけでいいから、会ってくれませんか。
私が地獄へ堕ちるまでの一瞬だけ、天国から降りてきてくれませんか。
"生きて"。
"生まれて良かったって、笑えるようになるように"。
先生。
どうすれば私は、人間になれますか。
***
店が軌道に乗り始めた一年後。
暴風がやって来た。
「───これを機にぜひ仲良くなりたいので、良ければアダ名の"音ちゃん"って呼んでください。」
"音ちゃん"。
そう名乗った彼女は、大別して私と同じ人種だった。
背は高め、声は低め。
中性的かつ男性的な装いや振る舞いを好むトランスジェンダー。
頭にバリのつくタチであることも含め、初見で気付いた。
恐らくは、互いに。
「───志帆さん!また来ちゃいました!」
にも拘わらず、音ちゃんは私を口説いてきた。
タチ同士ではタイマンになると分かっていて、本来の好みから全く外れた私を。
「───今日はー……、と。
あ、アイ・オープナー?ってやつください。」
「───えっと、えー……。
あれだ、スクリュードライバーください!」
「───アプリコットフィズって出来ますか?」
自分で言うのは烏滸がましいが、私は割とモテる方だ。
バーテンダーの職業性も相俟って、やれクールだのミステリアスだのと、便宜的なイメージを持たれやすい。
一目惚れだとかって告白してくる人も少なくない。
「(アイ・オープナー、ブルーラグーン、スクリュードライバー、キャロル、アプリコットフィズ───。
もしかして、意味わかって頼んでる……?)」
きっと音ちゃんも、夜の空気に当てられた被害者なんだ。
何度か顔を合わせるうちに、幻想だったと悟るに違いない。
だって私は、君の言うような、綺麗でカッコイイお姉さんなんかじゃないから。
「───先に志帆さんがいると分かっていれば、私は手足を失くしても前へ進みますよ。」
音ちゃんが店に通い始めて、更に一ヶ月後。
暴風が嵐になった。
「試してみましょう。
どんな形なら平穏無事に済むのか、私と実験しましょう。」
"恋人ごっこの体ならどうですか"。
そう提案してきた彼女は、悟るどころか、ますますヒートアップした様子だった。
もしかしたら、私が余計な火種を撒いてしまったのかもしれない。
「どうせ上手くいかないからって、ずっと一人きりでいるなんて、寂しいじゃないですか。」
遊蕩は良くて、真剣交際は無理。
嫌いじゃないけど、愛してはやれない。
どっち付かずな私のスタンスを、そんなんじゃ納得できないと、音ちゃんは一蹴した。
今までの子達はみんな、愛してもらえないなら形だけでもと、最後には引き下がってくれた。
私も私で、体の関係に限るならと、不誠実なりに真心を以って報いてきた。
音ちゃんは、私との思い出よりも、私自身が欲しいのだと断じた。
せめて納得できる答えが得られるまでは、引くに引けないと。
「初めてついでに、最初で最後の四人目になってやりますよ。」
恋人ごっこ。恋愛ごっこ。
いい年をして子供じみていると呆れる反面、小田切音々という人物に些かの興味が湧いた。
ここまで執着されたのも初めてだし、初めて記念に一つくらいは要求を呑んでやろうじゃないか。
私が飽きるのが先か、音ちゃんが冷めるのが先か。
最初は火遊びのつもりで、くだらないお誘いに乗ってやった。
「───おっ、あのコ可愛い~。」
「どのコ?」
「あそこの。ふわふわした茶髪のコ。」
「水色のワンピース?」
「それそれ!」
「なるほど。
キミの言う可愛い系ってのは、ああいうタイプを指すんだ。」
「アレェ、もしかしてヤキモチですかぁ?」
「そうだね。
私とは正反対だから。」
「だから尚更なんじゃないですか。」
「え?」
「本来のタイプとは違う人を好きになった時が、本物の恋だって言うでしょ。
だから、私の志帆さんへの好きは、かつてないほど好きってことなんですよ。」
形勢逆転。
終始押せ押せな音ちゃんに、私のほうが防戦一方に追いやられた。
「───今日はそうだなぁ……。
よし。ブランデー・クラス───」
「"時間よ止まれ"。」
「へ、」
「それ。
自分から頼む時、いっつもスマホ見てるけど。
カクテル言葉の意味、確認してるんでしょ。」
「ば、バレました、か。」
「さすがにね。」
「ア!?分かってて態と惚けてたんすか!」
「まあね。」
「ぐぬぅ……。
やっぱりブランデー・クラスタは今度にして、志帆さんが良さげなの見繕ってください。」
「オッケー。カンパリソーダね。」
「"カンパリソーダ"……、」
「カンニング禁止。」
音ちゃんは、派手な見かけ以上に、中身が魅力的な子だった。
フットワークは軽いくせに、一度決めたことは梃子でも曲げない。
優しさや思いやりは人一倍のくせに、ここぞの我儘は遠慮がない。
先生とも、お嬢さんとも、彼女とも違う。
まさに陰と陽、毒と薬を併せ持つ。
今まで出会った誰より容易く、誰より手強い相手。
「───忘れるわけないでしょ。忘れたいだけ。」
いや、違う。
違うのが違う。
先生とも、お嬢さんとも、彼女とも、通ずるところがある。
お嬢さんみたいに明るくて、彼女みたいに芯があって、先生みたいに闇を抱えてる。
お嬢さんと彼女が先生に似ていたとするならば、音ちゃんは三人を足して割った集合体だ。
三人ともに近くて遠い、馴染み深くて目新しい存在なんだ。
「ね。気持ちいい。」
本気になっちゃいけないのに。
自制が追い付かないほど、惹かれていった。
音ちゃんの温かい手で、背中の傷に触れられたのが、駄目押しになった。
「絶対死なないから。
少なくとも10年、いや20年は、志帆さんの目の黒いうちは、絶対死なないから。」
証明してやると、音ちゃんは言ってくれた。
死なないからと、約束してくれた。
「いいかげん聞き分けろって、樫村志帆。」
信じていいのかな。
先生とも、お嬢さんとも、彼女とも、違って似ている音ちゃんなら、大丈夫かな。
音ちゃんとなら、私も普通の人間みたいに、愛して愛されてもらえるかな。
「この大馬鹿者、」
真正面から受け止めた体温。
懐かしくて、柔らかくて、温ったかくて。
少し、痛かった。
***
恋人ごっこの"ごっこ"が抜けた、一ヶ月後。
私と音ちゃんは、二人で飲むことになった。
音ちゃんに近況報告をしてもらうため、音ちゃんの行き付けであるというラウンジで。
「───前に勤めてたとこと比べて、どうすか?こっちのが格下?」
「そんなことはないけど、まぁ、そうだね。広さは、あっちのが余裕あったかな。
あとカクテルメニューの数も。」
「やっぱり。
どんなとこだったのかな~って、実はこっそりチェックしてたんですよ。」
「ほう。ご感想は?」
「めっちゃイイ感じのお店でした。さすが都会って感じの。」
「ここだって十分モダンだよ。
飲む時は居酒屋が多いって言ってたから、ラウンジの行き付けもあるって意外だった。」
「エヘヘ。
元は司のご贔屓だったのをパクっただけなんすけどね。」
まずは乾杯。
からの、当たり障りない世間話。
二つ目のおつまみが運ばれてきたところで、件の近況報告を促した。
「ないない。なーんにも。」
「ほんとに?無理してない?」
「してないしてない。
言ったでしょ、なにかあったら報告するって。」
「言ったけど……。」
「約束は守りますから、どうか心配しないで。」
「うん……。」
「あ。
ちなみにですけど、風邪引いたくらいはノーカンにしてくださいね。
タンスの角に指ぶつけたとかも。」
「ふふ。わかってるよ。
その時は普通に心配させてもらう。」
どの角度で攻めてみても、音ちゃんは"平穏無事"の一点張りだった。
本当は何かしら影響が出ていて、心配をかけまいと嘘をついているのか。
まだ交際し始めて日が浅いから、本当に何も起きていないのか。
今のところは顔色も悪くないし、体を壊した様子もないから、本人の申告を信じてやりたいけれど。
念には念だ。
今度それとなく、司くんにも探りを入れておこう。
「じゃー今度は、志帆さんの番。」
「近況報告?」
「じゃなくて、えーと、経歴報告……、遍歴報告?
昔の彼女さん達の話です。」
「こないだしたじゃない。」
「要点だけチョーざっくりね。」
「普通、詳しく知りたいものかね?元カレ元カノの話なんか。」
「私はぜんぜん知りたいですし、聞けるタイプですよ?」
「……こりゃあ長丁場になりそうだ。」
音ちゃんからの反撃。
出先でとは想定外だが、いつかはしなければならなかった話だ。
畏まった機会を設けるより、こういう雑多な空間に乗じた方が、話し手も聞き手も楽かもしれない。
「まずは、そうだな……。
初恋について、になるかな。」
拍子抜けなくらい、抵抗がなかった。
私の半生はどういったもので、私は何を思って生きてきたか。
自然と曝け出せた。
目の前にいるのが、音ちゃんだから。
私と近しいルーツを持つ、音ちゃんが相手だからこそ、変に意地を張ったりせずに済んだ。
「───どうりで、敏感になるわけですね。」
とりわけ三人目は犯罪臭が強いし、普通だったら引かれるだろう。
しかし音ちゃんは、驚きも疑いもせず、黙って耳を傾けてくれた。
本人いわく、普通じゃないのは自分も一緒だから、だそうだ。
「亡くなられた人達のことは、いくら自分には関わりがなかったといっても、辛いです。言葉にならないくらい。
ただ───」
「なに?」
「そのお三人には申し訳ないですけど。
私は正直、志帆さんの方が心配です。」
「私?」
「───失礼します。」
絶妙なタイミングで現れた店員が、空いた皿を片付けていく。
店員がいなくなると、音ちゃんは自分のニコラシカを一口飲んで、仕切り直した。
「私が志帆さんの立場だったら、耐えられる気がしませんし、最悪───……。
首吊ってるかもって、漠然と思いました。」
音ちゃんの所感は、あながち的外れじゃない。
浴室にカミソリを持ち込んだり、ドラッグストアで大量の睡眠薬を買い込んだりした前科が、実際にあるのだ。
一応は未遂に終わっただけで、彼女の言う"首吊ってるかも"と同じ結末を、私は否定できない。
「そうだね。
死ねるもんなら、死ぬべきなんだろうけど───」
「"べき"じゃありません。志帆さんは死んじゃ駄目。」
「ありがとう。
まぁ、なんだ。現状こんな感じで、なんだかんだと、生きてしまったよ。」
「"しまった"じゃありません。生きててくれて嬉しいです。」
「ありがとう。」
軽く流してしまいたいのに。
音ちゃんが前のめり過ぎるせいで、流しきれない。
居た堪れなくなって、グラスの氷を噛み砕いた。
知覚過敏には辛い。
「志帆さん。」
「うん?」
「何度でも言いますけど、当事者じゃなかったくせにですけど。
志帆さんのせいじゃないですからね。」
「……うん。」
「同情とか慰めでってんじゃなくて、事実として。
お三方が立て続けに亡くなられたのは、悲しいかな、偶然が重なっただけです。
もし志帆さんに超常的な、非科学的な力があるんだとしたら、それは相手を不幸にする力ではなく、自分自身を不幸にする力です。
愛する人を失って、それでも生きなきゃならないなんて、下手すりゃ死ぬより辛いことですよ。」
優しい音ちゃん。
きっと庇ってくれるんだろうなって、分かってた。
同時に、悲しい気持ちにさせるんだろうなってことも。
こんなやつを好きにならせてしまって、ごめんね。
こんなやつを好きになってくれて、ありがとう。
君のくれる言葉は、どんな偉人の金言より胸を打つ。
君が言うならそうなのかもって、一瞬でも肩の荷が下りるよ。
愛してしまって、ごめんね。
愛させてくれて、ありがとう。
「とりあえずは、一年ですね。」
「リミットのこと?」
「だいたい一年後にリミットを迎えるんなら、一年を凌げば一安心ってわけですもんね?」
「うーん。だといいけど。」
「歯切れ悪くね?病は気からですよ!」
必ずしも一年が期限とは限らないが、目安にはなる。
これから一年間、音ちゃんが五体満足でいられるように。
音ちゃん自身に注意してもらう傍ら、私は私で目を光らせよう。
「四度目の正直!四度目に仏の顔!」
「めちゃくちゃな造語だなぁ。」
「なんとでも!
よーし、景気付けにもう一杯───」
「今夜は、そのへんにしておこうね。」
「エエー?まだ全然イケるのにぃ?」
「健康。気を付けてくれるんでしょ?」
「はぁーい……。」
深酒になる前に、一次会はお開き。
二次会はスナックでも行こうかと相談して、私たちはラウンジを出た。
「───フー、すずしー。もうすぐ秋ですね~。」
「だんだん日、短くなってるもんね。」
「それ毎年言ってる気しますわ。」
「同感。」
初秋の風に吹かれながら、商業ビルのある方角へと足を延ばす。
「志帆さん、」
「うん?」
「手、握んのはアウト?」
ふと覗き込んできた音ちゃんに、お伺いを立てられる。
あんまり愛らしい"おねだり"に、私は吹き出してしまった。
「ベッドを共にして駄目なわけないでしょ。いいよ。」
「やったー。」
触れた手に指を絡める。
「わ、志帆さん手つめたー。」
「音ちゃんは温ったかいね。」
懐かしい感触。
腕を組ませてあげたのは何人かいたが、手を繋いだのはお嬢さんが最後だった。
10年単位でご無沙汰となれば、緊張するのも無理はない。
「(罰当たりかな。)」
今度があるなら、今度こそ私に皺寄せを。
隣にいる子には、指一本触れないでくれ。
「(尻軽だって、怒るかな。)」
節操なしと、罪作りだと、謗りを受けてもいい。
病気になって、車に轢かれて、殺人犯に狙われてもいい。
私が対象になるなら、なんでもいい。
「───志帆さん、」
この子を、私から取り上げないで。
贖罪の支えに、彼女を必要としてしまう弱さを、赦して。
「志帆さん。」
「うん?」
二度目の呼び掛けで振り向くと、音ちゃんは二度目のお伺いを立てなかった。
静かに近付いてくる顔に察した私は、繋いでいない方の手で互いを隔てた。
「キスはまだ駄目。ね。」
「はぁーい……。」
露骨にガッカリする音ちゃんがまた可愛くて、頬にチュッとすることで手打ちとさせてもらった。
音ちゃんの勤め先が潰れるのは、この三日後のことだった。
***
"───お伝えしなければならないことがあります"。
珍しく司くんから送られてきた、断りのメール。
まさかと電話に応じると、"本当は口止めされてるんですけど"、と前置きされた。
『───それで容態は!?本人どうなったの!?』
『ちょと、ちょっ、落ち着いて志帆さん。無事、本人無事ですから。
意識ありますし、普通に会話もできます。
後遺症とかも残らないって、先生言ってましたから。』
『そう……。
仕事の方は?具体的にいつの話?』
『二ヶ月くらい前でしたかね。
最近になって急に、契約切られたりなんだりが続いたらしくて。』
『二ヶ月……。』
『志帆さん?』
『うん。ごめん。話してくれてありがとう。
ちなみに、費用はどうしてるか分かる?
期間中は家賃とかも、なんとかしなきゃでしょ?』
『そこは心配ないです。
例のおっさんが、慰謝料も込みで負担してくれるってなったんで。
就職活動は、しばらくお休みになっちゃいますけど。』
表情が乏しかったり、声に覇気がなかったり。
兆候らしきものは、ふつふつと顕れていた。
でも音ちゃんは、約束を守ると約束してくれた。
本人が大丈夫と言うなら大丈夫なんだと、信じたかった。
『あの、志帆さん。』
『なに?』
『……二人のこと、私はよく知りませんし、あえて詮索もしませんけど。
別に、あなたを信用してないとか、悪気があって黙ってたわけじゃないですからね。
心配させたくないって、その一心で───』
『大丈夫。わかってるよ。
音ちゃんの気持ちも、君の気持ちも。』
『……すいません。差し出がましいことを。』
『とんでもない。
君っていう友達がいてくれるおかげで、私も心強いよ。』
『"私も"……?』
烏にフンを落とされて、ガムを踏んで免許証を失くして、あげくの果てには無職になった。
そして、死にかけた。
見知らぬおじさんの巻き添えで階段から転げ落ち、頭を強く打って即入院。
命に別状がなかったとはいえ、偶然が重なっただけの訳がない。
「───嘘、ついたんだね。」
先生とお嬢さんは、交際開始の一年後。
彼女は、キスをした三日後。
それぞれに何が影響したのかは、未だに分からないけれど。
"一年以内"に"キス"をしなければ、当面は大丈夫だろうと油断していた。
少なくとも、恋人"ごっこ"の時点では、何事もなくいられたのだから。
「いや、いい。分かってる。
そりゃ言えないよね。心配させたくなかったんだもんね。」
先生とお嬢さんの場合だって、身の危険を感じるほどの不幸は終盤だった。
彼女の場合と照らし合わせてみても、引き金となり得るキスは一度もしていない。
関係を他言したり、"音々"と本名で呼ぶことも控えていた。
考えられる要因は、片っ端から避けてきた。
「でも、もういいよ。もう嘘つかなくていい。
答えは出たから。」
私が本気になったから?
音ちゃんを好きかもしれないと自覚したことが、最大の要因?
"彼女"とはキスをする以前に、一年以上の片思い期間があったのに?
音ちゃんへの好きは、まだ好き"かもしれない"の範疇なのに?
「今までありがとう。
短い間だったけど、好きな人と過ごす時間は幸せだった。」
いいや。どうでも。そんなこと。
どうあれ、音ちゃんは傷付いた。
天職を失い、命からがらの怪我をした。
いずれも彼女の人生を大きく左右するものだ。
私の勝手な思い込みだろうが、事実は事実。
私は私の意思に反して、私の愛した人を傷付けてしまう。
"この人なら大丈夫"は、誰にも該当しないんだ。
「交際期間は今日で終わり。
明日からは店のオーナーとお客さん、もしくは他人だ。」
音ちゃん。
私のせいで、いっぱい苦労させた。
痛い思いをさせたね。
せめてお友達でいたかったけれど、私はきっと割り切れない。
近くにいれば、君への気持ちを抑え切れない。
だから、今日で終わりだ。
明日より私たちは没交渉。
街中で擦れ違って挨拶して、店で酌み交わすことがあったりしても、顔見知りの域を出ない。
樫村志帆、小田切音々。
個人として接することは、二度とないだろう。
「バイバイ、音ちゃん。」
一方的な別れを告げて以来。
音ちゃんは、店に来なくなった。