マッドジンクス 4
初恋の相手は、保健室の先生だった。
「───まーたズル休みかね。この非行娘~。」
「……成績は落としてないんだから、いいでしょう。」
特別、美人でもスタイルが良いわけでもない、どこにでもいる平均的な29歳独身女性。
強いて特徴を挙げるとしたら、漫画みたいなドでかい眼鏡をかけていることと、仮にも保健医のくせをして喫煙者であることくらい。
「───おーい。おーい。」
「……なんですか。ほっといてくださいよ。」
「コーヒー入れたんだけど、君もどうだい?」
「いりません。」
「あれま。お子ちゃまの口には合わないか。」
「チッ。うっせーな。」
「じゃあコーヒー牛乳にしようか。お砂糖たっぷり入れてさ。
頂きもんのドーナツもあるぜ?」
「だからいらねーって。」
「お茶の方が良かった?ほうじ茶と玄米茶ならどっちが───」
「アー!!わかったよ飲みます!飲めばいいんでしょ!」
最初はむしろ、邪魔な存在だった。
私が保健室を訪れるたびに不良だなんだと揶揄しやがるし、休みたい時に限って絡んでくる。
"ウザい"と形容するのが適切だったと思う。
「───お、来たね~。」
「今日のオヤツなんすか。」
「今日はね~……、じゃーん!ごま煎餅だあ!」
「シケてんな。」
「なんだと!?
市販では一等ウマいやつなんだぞ!」
ただ、追い返されたことは一度もなかった。
サボる目的で出入りしていると承知の上で、いつも当たり前に迎えてくれた。
それがだんだん、心地好くなって。
気付けば、保健室を訪れる理由が変わった。
あの人に会いたい。
あの人とくだらないお喋りをしたい。
あの人の煎れてくれるお茶やコーヒーを飲みたい。
我が家のように寛ぐな、と怒られた日は、ごま煎餅がお茶請けに出されたのを覚えている。
「───いつにも増して静かだね。」
「べつに。」
「顔色も良くない。」
「ふつう。」
「なにかあった?」
「なにも。」
「話してみてよ。
私の経験則から、アドバイスしてやれることもあるかもしれない。」
「絶対ないと思います。」
「じゃあ、純粋に興味あるから、話してみてよ。
ほら、チョコパイあげる。」
「あんたマジしつけーよな。」
実際の我が家には、ロクでもないのが二匹いた。
アルコールで豹変するケダモノと、バグを拗らせたアンドロイド。
悲しいかな、私の実の両親だ。
会社勤めの父は、営業部長として同僚から信頼を置かれる一方、プライベートでは酷く酒癖の悪い男だった。
酔いが回るに従って、下品を極めた罵詈雑言を吐くようになり、最終的に私と母を殴る蹴る。
営業用の自分と素の自分とで生じたギャップをコントロールできず、溜まった鬱憤を酒の力で発散させていたのだろう。
専業主婦の母は、父には絶対服従の一方、私にはいつも勝ち気な姿勢だった。
父と三人でいる時は寡黙に徹し、私と二人になった途端に、お前はああしろこうしろと強要してくる。
絶対服従とはいえ父にも家庭にも不満は多かったはずなので、私を捌け口にすることで尊厳を保とうとしたのだろう。
朝早くから母の干渉と小言に苛まれ、夜遅くまで父の怒号と暴力に苦しめられる。
生き地獄の只中で、唯一見付けた逃げ場所こそが、学校の保健室だった。
我が家で疲弊しきった体を癒すため、保健室のベッドでゆっくり眠るために、当時の私は学校に通っていたようなものだった。
「なるほど。
どうりで、君みたいに優秀な子が、しょっちゅうエスケープなんかキめてたわけだ。」
「すいません、いつもベッド占領して。」
「構わないよ。だいたいの子は、元気になったら出ていくから。
君も、元気になるまで、ここをシェルター代わりに使うといい。」
「いいんですか?」
「もちろん、条件つきで。」
「条件?」
「しんどくない時でいいから、わたしの話し相手になってくれること。」
「条件になってないですよ、それ。」
私の家庭環境を知っても、先生は哀れまなかった。
辛くなったらいつでも逃げておいでと、漫画みたいな眼鏡の向こうで笑っていた。
後から聞いた話、学年主任に色々と掛け合ってくれていたらしい。
あの子はしょっちゅう授業をサボるけど、悪気があってやっているワケじゃないから、どうか許してやってほしいと。
先生には、随分前から見破られていたのだ。
不良の体でいるだけで、私は煙草も酒も飲まないことを。
学生としての本分は、決して忘れていないことを。
「───アア~、煙草吸いてェ~。」
「アンタこそよっぽど不良じゃん。」
「不良じゃないデース。
ちゃんと公序良俗に則って喫煙してマース。」
「そんな辛いもんなの?禁断症状ってやつ?」
「そこまで侵されちゃあいないけど、ね。
やっぱりこう、口淋しいっていうか、ね。」
「ふーん……。
口淋しいのが紛れればいいの?」
「お。なに、なんかあんの?」
「うん。いいやつ。」
「なになに?飴?ガム?」
「もっといいやつ。」
一年目の終業式を終えた放課後、私は先生に告白した。
禁煙のストレスで饒舌さを増した口にキスをして、恋人になってほしいと頼んだ。
なぜ同性の、一回りも年上の相手を口説いてしまったのかは、自分でも分からない。
分からないくらい、好きだった。
この人と、これからの人生を生きていきたかった。
「物好きなヤツだなぁ。」
「そうですよ。私って変わり者なんです。」
「まだ16だろ?
これからが楽しいって時に、安売りすんなよ。」
「なら高値で買ってください。」
「言うようになったねぇ〜。」
「あなたに出会って、やっと学校が楽しくなったんです。
毎日の楽しみが出来たのなんて、生まれて初めてなんですよ。」
「ほう。」
「だから、責任取ってください。私を普通の人間にした責任。」
「取らなかったら?」
「私が廃人になるか、誰かを灰にしてやります。」
「八つ当たりじゃないか。」
先生は一瞬呆けた後、いつもの調子に戻って、こう言った。
"向こう二年、その気持ちが変わらなかったら。
女子高生の皮を脱いでも、自分を好きでいられたなら、その時に返事をしてやる"と。
思春期の恋は風邪と同じで、喉元を過ぎれば冷めるに違いない。
なんて軽んじたのだろう。
あいにくと、たった二年で冷めてくれる熱ではなかったので、私は望むところと請け負った。
「───ほら、ちゃんと好きでいましたよ。約束。」
「うーん……。
キミ、わたしの言ったこと、正しく理解してなかったね?」
「は?なんで。
あなたを好きでいられたらって───」
「"あなた"じゃない。"自分"を好きでいられたら、って言ったの。
自分っていうのは、キミにとっての自分。キミがキミを好きになれたらって意味だよ。」
「なぞなぞかよ……。」
「残念だけど、自分を大嫌いな子の面倒を、管轄外まで見てやるつもりはない。
わたしもそんなに暇じゃないし、わたしはキミのお母さんでもないからね。」
「………。」
「どうなの?
"樫村志帆"のこと、前より少しは、好きになれた?」
高校三年の卒業式。
改めて告白をした私に、先生も改めて返事をしてくれた。
「自分のことは、相変わらず、好きにはなれないですけど。
あなたと一緒にいる時の自分は、嫌いじゃないです。
───っていうのじゃ、駄目ですか?」
「……しゃーない。
赤点回避ってことで、許してあげよう。」
初恋の人が、恋人になった。
生まれて初めての喜びを噛み締めると同時に、私はひとつの答えを得た。
この二年間。
片思いの期間も含めれば、約三年間。
自分でも意外なほど、先生だけを好きでいられた。
クラスで人気のイケメンくんや、前途有望な生徒会長くんに迫られて、やっぱり気持ちは動かなかった。
男の人に、興味を持てなかった。
なるほど。
私の対象は、異性じゃなかったのか。
先生への淡い恋心が、本来のセクシャルを自覚するきっかけにもなった。
「───念願のキャンパスライフはどーですか?楽しい?」
「ぜんぜん。
保健室行っても、アンタいないし。」
「まあまあ、そう言わずに。
せっかく大学まで行かせてもらえたんだから、周りの人への感謝を忘れずにね。」
「……金銭面に限っては、感謝しないこともないですけど。」
「よろしい。」
「でもイマイチ張り合いないんだよなぁ。」
「張り合いを探すための学校なのさ。
たまには憂さ晴らしに付き合ってやらんこともないよ?」
「ほんと!?どっか連れてってくれんの?」
「ジャスコとか?」
「またぁ~?」
幸せだった。
恐ろしかった夜が、忌まわしかった朝が、愛おしくなった。
何気ない日常にワクワクして、未来を更新していくのが楽しみになった。
手を繋いでデートできなくても、恋人だと周りに紹介できなくてもいい。
私を想って、認めてくれる人が、確かに世界にいる。
先生が生きているだけで、私は生まれて良かったと、心から思えた。
『───ごめん、遅いのに。ちょっといいかな。』
カウントダウンは、突然始まった。
『聞こえなかった。もっかい言って。』
『だーから、癌だよ癌。ガーン。』
『なんで。』
『なんでも何も、なんでかよく分かんないのが癌でしょ。』
『ちょっと待って。待って待って待って。まって。
いっかい冷静になる。』
『そうして。』
『前の時は見付かんなかったんだよね?なんでこんな急に?』
『一年でモリモリ増殖しちゃったんじゃない?
それだけ、わたしの体が居心地いいってことね~。』
『子宮系の癌って、いきなり癌にはならなくて、なんとか異形成?ってのを経て、徐々にって聞いたことあるけど。』
『よく知ってるね。』
『……治るんだよね?』
『んー。
ま、なるようになるっしょ。』
"病気になっちゃった"。
口ぶりは他人事のようでも、必死に嗚咽を堪えているのが、スピーカー越しにも分かった。
ステージ1の子宮頸がん。
昨年の検診には居なかったはずの"そいつ"は、着々と先生の体を蝕んでいった。
「───てんい、」
「する前に、元を取っちゃうの。」
「他に……、方法ないの?」
「なくはないけど、後手後手になっちゃうから。
どっちみち進行は止められないし。」
「だからって……。
なくなるんでしょ。体の一部。消えちゃうんでしょ。怖いでしょ。」
「怖くても、命なくなるよりかマシってね。
いやー、結婚してなくて良かった。」
「………。」
「そういうわけで、別れてください。」
「ふざけんな。絶対やだ。」
「こっちのセリフ。
子宮頸がんの主な原因、調べたんでしょ?
残念ながら、わたしは清廉潔白じゃあないのよ。」
「30年も生きてりゃそんくらいあるでしょ。
前は普通に彼氏いたってのも聞いた。」
「それともなーに?
カラッカラのミイラになってく様をお披露目しろっての?」
「そうだよ。」
「今より益々しんどくなるんだよ、お互いに。」
「分かってる。」
「分かってない。」
「分かってないのはアンタの方。
病気の恋人捨ててくなんて、私に十字架背負わせるつもり?
下の世話でも何でも、させてよ。」
「……ほんとに、言うようになったなぁ。」
ステージ1だから。
早期の範疇だから。
前向きでいられたのは、最初のうちだけ。
癌とは、血気盛んな若者こそ抑えるのが難しい病。
先生の場合も例外ではなく、あっという間にステージ1から2、2から3へと移行し、子宮の全摘出を余儀なくされた。
「───そんな泣かないでよ。目腫れるよ?」
「代わってあげたい。」
「断固拒否。」
「アンタばっかりこんな、かわいそう。」
「女じゃなくても愛してくれるかい?なんちゃって。」
「当たり前でしょ。
ミイラになってもババアになってもキスしてやるよ。」
「ミイラからババアなの?ふつう逆じゃない?」
"女じゃなくなっちゃった"。
また他人事のように笑った先生は、子宮どころかおっぱいの肉も削げ落ちて、本当に性別を失くしたみたいだった。
私はなんと言葉をかけて良いか分からず、どんな姿になっても貴方を好きだと伝えることしか出来なかった。
「───ほんとに誰も来ない?」
「当分はね。
で、どうやって持って来たの?」
「これ。」
「水筒じゃないか。小学生の遠足みたいだ。」
「中身は大人の飲みモンだけどね。はい。」
「ありがとう。キミも。」
「ん。」
「改めて、ハタチの誕生日おめでとう。」
「ありがと。
80まで祝ってね。」
「おや、あと60年ぽっちでいいのかい?」
「じゃあ100まで。」
「その頃には……、わたしは114かぁ。」
「イイヨー、の年じゃん。」
「イーヨー。
あはは、ほんとだ。」
宣告から一年後の秋。
闘病も虚しく、先生は天国へと旅立った。
私の成人祝いとして、周りの目を盗んで酌み交わした、三日後のことだった。
「───まさか、気付かれていなかったとでも?」
「え……。」
「僕が許可を出したんです。
まだ味覚がハッキリしているうちにと、ご本人から要望があったので。
だから特別に、目をつむったんですよ。」
「そうだったんですか……。」
「……喜んでおられましたか?」
「……はい。とても。」
直前にお酒を飲ませたせいに違いないと、私は担当医に白状した。
担当医は飲酒との因果関係を否定し、いつ息を引き取ってもおかしくない状態にあったと付け加えた。
もしかしたら、あなたが大人になるのを待っていてくれたのかもと、看護師さん達には慰められた。
「───志帆ちゃん。」
「あ……。おばあちゃん。」
葬儀は密葬。
先生の親族と、先生と親しかった一部の友人のみで、内々に執り行われた。
そこで私は、先生の生い立ちを知った。
「てことは、先生のご両親がお見舞いに来なかったのって───」
「連絡はしたんだけどね。何度も。結局、返事はこなかった。」
「入れ違い、なんだと思ってました。私とは時間帯が別なだけで、私のいない時に、ご両親と会ってるものとばかり……。」
「そう……。
話してなかったのね、あなたには。」
「どうして、言ってくれなかったんでしょう。
実は疎まれていたんでしょうか。」
「逆ね。大切だったのよ。
だから変に心配されたり、同情されたくなかったんだわ。」
「心配、させてほしかったのに。」
「ありがとう。
あの子を支えてくれて、あの子を好きだと言ってくれて。
本当に、ありがとうね。」
先生の父親は、彼女が生まれて直ぐ出奔。
母親もシングルマザーとしては生きられず、実家に先生を押し付けたらしい。
おじいちゃん・おばあちゃんに育てられたとは聞いていたが、仕事で忙しい両親に代わってなんだと解釈していた。
両親の存在自体が抜け落ちていたとは、想像もしなかった。
だって、そんな素振り皆無だった。
底抜けに明るくて、なんとかなるさが口癖だった先生が、実は深い悲しみを抱えていただなんて。
「いかないで、」
子供っぽいと、この人には私が付いていてやらないと駄目なんだと、思っていた。
違った。
先生はとても大人で、私が先生を必要としていたんだ。
「もえないで、」
碌にお礼も、生意気に接してきた詫びも出来なかった。
先生と出会えたおかげで私の人生は始まったことを、ちゃんと伝えられなかった。
「きえないで、」
もっと堂々と、イチャイチャしておけば良かった。
誰に後ろ指を差されようと、恋人なんだと皆に自慢して、真昼でも手を繋いで歩けば良かった。
もっと、何度でも、一生分を前倒しにするくらい、愛していると言えば良かった。
「やっぱり、お酒は嫌いだ。」
抜け殻のようにして迎えた49日。
先生と最期に酌み交わした日本酒は、一人で飲むと味がしなかった。
***
先生が亡くなった翌年の春。
まるで後を追うように、私の父が急逝した。
アルコール過多による動脈硬化が招いた脳卒中。
平たく言うと、お酒の飲み過ぎが祟って、頭の血管ブチ切れて死んだ。
病院へ運ばれた頃には、既に手遅れだったそうだ。
「───これからは、私とお前の二人きり。
あの人のいない分まで、支え合って生きていきましょう。」
「……はい、母さん。」
不思議なほど、なんの感情も湧かなかった。
ずっと死ねばいいと、殺してやりたいとさえ願っていたのに。
現実には嬉しくも悲しくもならなかった。
先生の死から間もなかったこともあるので、こっちにまで気持ちが回らなかったのかもしれない。
「───急なことで、さぞ大変だったでしょう。」
「ええ。
でも娘がいてくれますし、遺産も少しはあるので。」
「そうね。
せめて娘さんが成人した後だったのが、不幸中の幸いね。」
「ええ。
本当によく出来た子で、頼りにしています。」
どうせ死ぬなら、先生の分も引き受けてほしかった。
先生の分まで、お前が二回死んでくれたなら、誰も不幸にならずに済んだのに。
父方の親戚に香典返しへ伺った際にも、そんな不埒を考えていた私は、とんだ欠陥人間だ。
「───"アルコールが齎す人体への影響"……。
これはまた、下世話なテーマを持ってきたな。」
「下世話だからこそ、切っても切れないと思ったので。」
「なるほど。
うちの学部では扱った例が少ないし、悪くないんじゃないか?」
「ありがとうございます。」
「にしても、なんで酒について書こうと思ったんだ?
好きなの?」
「逆です。
大嫌いだから、正体を暴いてやりたいんです。」
立て続けの不祝儀を経て、ようやく日常が戻ってきた大学四回期。
卒論のテーマをどうするか迫られた私は、お酒と人の付き合い方について考察することにした。
飲まないと居られなかった父と、好みはするが呑まれることはなかった先生。
同じ酒好きにして、ああも差が生じたのは何故か。
精神と肉体の両面にスポットを当て、"お酒とは何ぞや"を私なりに突き詰めた。
父を狂わせた元凶を解き明かせば、少しは赦してやる気になるかもしれないと、淡く期待して。
「───卒論ってもっと、地球とか宇宙とか、夢のある大っきなテーマを掲げるもんだと思ってたよ。
あ、悪い意味じゃなくてね。身近な問題を攻めてやろうなんて、なかなかシブいことするなーってさ。」
期待は見事に打ち砕かれた。
父は、お酒のせいで狂ったのではなかった。
元から狂っていた父を暴いてくれたのが、お酒だった。
「───ウチは一応、大正の頃から続いてますから。
先輩方にしてみれば、それでもヒヨッコの部類なんでしょうが、プライドはありますよ。自分の代で途絶えさせる訳にもいきませんのでね。
良かったら、いくつか試飲していかれます?」
「───もちろん、妙なのも来るには来ますけど。数えてみれば案外、一握りですよ。
大概の人は、こっちが注意しなくても、自分でマナーを守ってくれます。
我々は後者のような、正しく楽しんでくれる人に、楽しい時間と空間を提供するのが役目です。」
老舗酒蔵の当代も、流行りのラウンジオーナーも。
みな、誇りを持って仕事をしていた。
人々の暮らしを豊かにするため、彼らは酒を作り、売っていた。
単に金儲けの場合もあるとして、私が取材した限りには当て嵌まらなかった。
「───本当に出ていくの?
家からだって、通えなくはないんでしょう?」
「通えても、朝帰りすること多いらしいから。
不規則な人間と暮らすのは、そっちのがしんどいよ?」
「私は別にそれくらい───」
「そういうわけだから。元気でね、母さん。」
残念ながら、卒論は及第点に終わったけれど。
先の一件で、私は三つのものを得た。
一つは働き口。
取材先であるバーラウンジにて、オーナーさんにスカウトされた。
お酒に対する暗いイメージは払拭されたし、店の雰囲気にも惹かれたので、口約束ながら了承した。
二つは恋人。
別の取材先である酒蔵にて、跡取り娘にアプローチされた。
当面は恋愛をしない気でいたが、あまりに熱心に迫ってくるので、白旗を上げざるを得なかった。
三つはパーソナルスペース。
自立するに伴って、生家を出た。
母からは相当に渋られたが、絶縁するわけでなし、たまには様子を見に来るし電話もしてやる。
親離れ子離れをするには、丁度いい機会だった。
「───志帆ちゃん、これ。」
「なんですか?」
「ラブレター。
今週入って三度目ね。」
「相手は?」
「30代半ばくらいの、OLさん風のお姉さん。」
「夜の魔法は恐ろしいですね。」
「またまた謙遜しちゃって~。
おかげ様で売上も好調だし、すっかり招き猫ちゃんだ。」
「招いてもネコはやらないですよ。」
「おっと、そうだった。
ま、ぼちぼち対応してやって。」
仕事は順調。
真面目な働きぶりを評価され、一介のスタッフからバーテンダーへの転身を奨められた。
腰かけ同然に始めた水商売は、まさかの天職だった。
「───しーいちゃん、みてみて。」
「メガネ?」
「そう!ダテなんだけどね、友達に貰ったんだー。
アラレちゃんみたいで可愛いでしょ?」
「うん。かわいい。」
「……もしかして、先生と重なっちゃう?」
「………ごめん。」
「謝んないで。こっちこそ、無神経でごめんね。
やっぱりこれ、しいちゃんの前では掛けないようにするから。」
「そんなこと言わないで。よく似合ってる。」
「でも────」
「今の私は、君が好きだから。」
「……うん。
あたしも、今のしいちゃんが好きだよ。」
恋愛の方も存外、順調だった。
跡取りのお嬢さんは色んな意味で真っすぐで、その純粋さと力強さが私の傷を癒してくれた。
先生の手前、罪悪感がなくはなかったけれど。
すべてを引っくるめて、お嬢さんは私を愛してくれた。
「───どうしたのよ、それ。」
「ピアス?開けた。」
「どうして。」
「なんとなく。」
「"なんとなく"で親から貰った体に───」
「タトゥー入れるよりマシでしょ。これ今月分。」
「ちょっと待ちなさい志帆。
こないだも突然、髪染めたりして、一体なんだっていうのよ。
私への当て付け?」
「来月からはまた振り込みにしておくから。」
「志帆!!」
変わりたかった。
変わる努力をした。
コンペに出るためバーテンの腕を磨き、お嬢さんともデートを重ねた。
以前の私と逆をいけば間違いないだろうと、信じていた。
「───それって、いつ頃から始まったの?」
「たぶん先月。
厄年でもないのに、ほんとヤんなっちゃうよ~。」
カウントダウンは、また突然始まった。
「───てなわけで、じゃん。ニューモバイル。」
「おおー。CMのやつ?」
「あたり!」
「使いやすい?」
「まあまあかな。
問題はデータよ。しいちゃんとの思い出、ほとんど消えちゃった。
こんなことなら、まめにバックアップ取っとけば良かったぁ。」
「……また、増やしていけばいいじゃない。
消えないように、今度はちゃんとしたカメラでも撮ってさ。」
「だね。
思い出自体が無くなるより、よっぽどマシだよね。」
"聞いて、またアンラッキーがね"。
いつからか恒例となった、お嬢さんのトラブル報告。
何もないところで転びやすくなったり、手回り品を紛失しやすくなったり。
ある時から不運の連鎖が始まり、日に日にエスカレートしているという。
私は俄に胸騒ぎを覚えながらも、埋め合わせの利かないことはないからと、お嬢さんを励ました。
励ますしか、しなかった。
『───志帆ちゃん?』
コンペを控えた週末。
毎日欠かさなかったお嬢さんとのメールが、途絶えた。
手隙もないほど忙しいのだろうと配慮して、その場では催促せずに返信を待った。
『いつも、娘がお世話になっています。
今日は、娘に代わって、お伝えしなければならないことがあって。
私の方から、ご連絡させて頂きました。』
三日後。
知らない番号から、私の携帯に電話があった。
娘が交通事故に遭い、亡くなったと。震える声の主は、お嬢さんのお母様だった。
メールが途絶えた当日に、お嬢さんは酒気帯びの車に轢かれて、死んだ。
搬送するまでもなく、即死だったそうだ。
「───毎日毎日、今日はシイちゃんとこんなことをした、こんな話をしたって、そればっかり。
私たちが笑って、ハイハイってあしらうまでがお決まりだった。」
「はい。」
「過去にお付き合いしていた、どんな男の子より、あなたに夢中だった。
あの子が選んだ相手ならって、私たちも納得できた。」
「はい。」
「いつか、日本でも同性婚が認められたら、シイちゃんと二人で、一番キレイでゴージャスなドレスを着るんだって。
さすがに気が早いんじゃないって、また皆で笑って、なんだかんだ皆で、楽しみだった。」
「はい。」
「人って、本当に、いきなり死ぬのね。」
「………。」
「あなたのおかげで、あの子は幸せだったわ。」
「いいえ。」
「ありがとう、志帆ちゃん。
あなただけでも、どうか、健康に、長生きしてね。」
死んだ。また死んだ。
知り合って二年、付き合って一年。
恋人が、また、死んだ。
お嬢さんは、先生とは真反対のタイプだった。
髪型は先生と違って短髪で、体型は先生と違って小柄で、顔立ちは先生と違って可愛い系で。
年齢も先生と違って、私より年下だった。
先生とはやらなかったことも、たくさんした。
手を繋いでデートにも行ったし、ご両親へ挨拶にも伺ったし、"大好き"も"愛してる"も伝え合った。
なのに死んだ。
先生みたいに、恋人になって一年で死んだ。
さすがに二人連続となれば、ただの偶然とは言い難い。
もともと死ぬ運命にあった人を私が選んでいるのか、私が選んだせいで死ぬ運命を辿ってしまうのか。
かなり際どい二択だが、重要なのはそこじゃない。
「───気持ちは分かるけど、でも……。
あんなに頑張ってきたのに……。」
「いいんです。
こんな状態で臨んでも、お店の評判潰すような結果しか、出せないですから。」
お祓いをした。
オカルト雑誌を読み漁った。
祖先や生家のルーツを洗った。
なにが原因なのか、調べて調べて調べ尽くした。
なにも分からなかった。
私が悪いとも、相手が悪いとも、確証はどこにもなかった。
改善のしようがなかった。
樫村志帆の恋人だった女性が、死んだ。
耳を塞ぎたくなる事実だけが、残った。
***
三十路を目の前にした転換期。
私は自分の店を持つことを決めた。
ラウンジの環境にもオーナーの人柄にも不満はなかったが、ここでは私の夢を叶えられないからだ。
ビアンバー。
お酒の有無に拘わらず、男性は決して立ち入れない、秘密の花園。
女同士、気兼ねせず寛げる場所を作ることが、いつからか私の夢になった。
「───あーん、まだ実感わかないよ~。」
「せっかく仲良くなれたのにぃー。」
「ありがとう。
これからも時々遊んだりしようね。」
「絶対だよ!」
「今の台詞、オーナーにも言ったげてね。」
「オーナー?
プライベートで遊んだことないけど……。」
「そーれーでーも!
物分かりいいフリしちゃって、なんだかんだ一番寂しがってんの、あの人だから。」
「見初めた張本人だもんね~。」
資金調達も、円満退社までのシナリオも、とんとん拍子の滑り出しだった。
店名をどうするかという、いの一番に立ちはだかった壁を、なかなか越えられなかった以外は。
「───聞いたよ。自分の店持つんだって?」
「ええ。
今年いっぱいで卒業させてもらうつもりです。」
「そっかー、寂しいなぁ。
みんな、志帆ちゃんに課金しに来てたようなもんだったのに。」
「買い被りですよ。
私に関係なく、いい店ですから、ここは。」
「ちなみに、もう決まってるの?」
「なにがですか?」
「名前。自分のお店の。」
「あー……。
いいえ。考えてはいるんですけど、なかなかね。」
せっかく自分の城を持つからには、晩年にも恥ずかしくない程度には拘りたい。
かといって拘りすぎると、一見さんが寄り付きにくくなる。
個性的で、かつ親しみを感じられるような、良きフレーズはないものか。
頭を抱えていたところ、ある女性がヒントを与えてくれた。
「じゃさ、ワタシも一緒に考えていい?」
「名前を?」
「そ。採用するかどうかは、そっちにお任せするからさ。
ほら、こう見えて一応、コピーライターですし。」
「それは有り難い。是非お願いします。」
彼女はラウンジの常連客で、私と同い年のコピーライター。
あくまでビジネスと割り切った上では、5年の付き合いになる人だった。
私を目当てに通っていたので、独立するなら今度はそっちを贔屓にする、と言ってくれていた。
「"フロムニキータ"……。由来は?」
「ニキータってフランス映画、知ってる?」
「知ってますよ。好きな映画です。レオン派ではありますけど。」
「私もレオン好きよ。どちらかと言えばニキータ派だけど。」
「なるほど。"フロム"は?」
「映画のラストでさ、ニキータがボブ宛てに手紙を残すじゃない?」
「ええ。」
「その手紙がどんな内容だったかって、ファンの間でいろいろ考察されてるじゃない?」
「ですね。」
「だから、そういう多様性?みたいのも含めて、手紙にかけて、フロム。」
「なるほど……。」
「あと……。
まだ不良だった頃の、ニキータの雰囲気がさ。ちょっと似てる気する。」
「私がですか?アンヌ・パリロー?」
「そうそう。」
「あー……、髪型だけは近いかな?」
「全体的に近いって!」
"フロムニキータ"。
彼女が好きだというフランス映画のタイトル、および主人公の通称から拝借した名前。
私の好きな"レオン"では何かと既出が多そうだったので、有り難く彼女のセンスに肖ることにした。
「───みて!ローストビーフ~!美味しそうでしょ!」
「ええ。
肉系被っちゃいました。」
「そうなの?なに?」
「燻製ベーコン。
自分じゃ滅多に食べないなって。」
「いいじゃんいいじゃん!今夜はお肉パーティーだ!
で、お酒の方は?なに作ってくれんの?」
「出来てからのお楽しみ。」
「フウ~!
独立して一発目なわけでしょ?"腕が鳴るぜ"?」
「お口に合えば。」
独立表明の一年後。
ラウンジを退社した夜に、私は彼女と祝杯を上げた。
門出を祝うためと、彼女が私を自宅へ招き。
世話になったお礼がしたいと、私が彼女へお酒を振る舞った。
プライベートでカクテルを贈った相手は、彼女が初めてだった。
「失礼な質問かも、だけどさ。」
「うん?」
「同性愛の……。
レズビアンの人たちって、どうやって知り合うもんなの?」
「それこそビアンバーとか、特定のコミュニティーに集まったり……。
最近だと、SNSで繋がる例も増えてきたって聞きますね。」
「出会い系ってこと?」
「ざっくり言えば。」
「志帆ちゃんは?
歴代の彼女さん達とは、どうやって?」
「私は……。
普通に、なんでもないとこで知り合って、最終的にそうなったって感じ、でしたね。」
「たまたまレズビアン同士、出会えたの?」
「の、人もいれば、もとは男性が対象だった人もいましたよ。」
「やっぱり。」
「やっぱり?」
「だって志帆ちゃん、魔性だもの。
彼氏や旦那さんがいた、いるって人でも、思わずクラッときちゃうものを持ってる。
ワタシなんか正にそう。」
うすうす、予感はしていた。
彼女が私に、好意を持ってくれていること。
意を決して、自宅へ招いてくれただろうこと。
こういう展開になるかもしれないことも含めて、お招きに預かった。
「遊び人だって、知ってますよね?」
「知ってるよ。
そういうポーズ取って、バリア張ってるってことも。」
「例外はありません。
たとえ好ましい相手でも、深い関係にはならないしなれない。
貴女のこともです。」
「うん。知ってる。」
彼女は知っていた。私が教えた。
私の恋愛遍歴と、犯した罪と、消えない傷を。
だから、誰に言い寄られても拒み続けた。
当分は根無し草でいるなどと、予防線を張っていた。
もう、なにひとつ失いたくないし、背負いたくないから。
先生の時のように焦がれたくないし、お嬢さんの時のように求められてもいけないから。
「けど、好きだって気持ちは、やめたくてやめられるものじゃあない。」
「私は────」
「分かってる。……わかってる。
付き合ってほしいなんて言わない。ただ、分かってほしいの、あなたにも。
ワタシが、あなたを好きなこと。
あなたは、自分で言うような、冷たい人間じゃないってこと。」
「買い被りなんですよ、ずっと。」
「通うから。お店。」
「遠いですよ?」
「遠くても、通うから。
志帆ちゃんの顔を一目見て、志帆ちゃんの作ってくれた一杯だけ引っ掛けるために、バス乗って、通うから。」
「貴女という人は───」
「"物好きなんだから"?」
「取らないでくださいよ、もう。」
それでも好きなんだと歌う唇は、ブルドックの味がした。
痛々しく笑う顔が、今際の先生と重なった。
「───樫村志帆さん、でいらっしゃいますか?」
ラウンジ退社三日後。
私の自宅に警察が訪ねて来た。
事情徴取にご協力をと、前口上に次いだ台詞は、彼女の名前と死因だった。
『───女性は一年ほど前からストーカー被害に悩まされており、警察にもたびたび相談に行っていたと。』
『どうしてこう、若い女性ばっかり狙われるんでしょうかね。』
『"若い女性"だからじゃないですか?』
『この前も20代の子が襲われて、前の前は女子高生だったでしょ。
遡ったらキリないくらい、みんな若くて、将来のある子たちで……。』
『好きだったとか何とか、加害者側の言い分も、同じようなのばっかりでしたよね。
好きなら何で殺すのって、まぁ、そんな常識あればね、そもそもストーカーなんてしないでしょうけど。』
『そうですね。
若い女性を狙った犯罪は、年々増加傾向にありまして───』
包丁でメッタ刺しにされた末の失血死。
犯人は彼女の元彼で、捨てられた腹いせで犯行に及んだらしい。
ニュースでは連日、彼女の事件が取り扱われた。
彼女に縁があるとしてラウンジも取材され、オーナーやスタッフがインタビューに応えた。
私にも同様のオファーがあったが、メディアへの出演は一切断った。
共通の知人友人からの連絡も、一切無視した。
"───別れたっていっても、もう三年以上前の話よ?
しかも向こうの浮気が原因で"。
"時間が経って、冷静になってみてやっぱり、貴女が大切だと気付いたとか?"。
"遅いってぇーの。
今さら復縁求められても応えるわけないし"。
"心配ですね。
しばらく、ウチ来るの控えた方が……"。
"イヤよ。
志帆ちゃんと飲んでお喋りするのが、ワタシの数少ない生き甲斐なんだから"。
"なら、ちょっとでも不安に感じることあったら、すぐSOS出すんですよ。
お友達でも、同僚でも、私にでも"。
"SOSしたら、助けに来てくれる?"。
"もちろん"。
"うれしい───"。
"まえ付き合ってたカレに粘着されてるのよね"。
何度か彼女に相談されたことがあった。
自分の不義理を棚に上げて、逆恨みでもしているのだろうと、彼女は呆れながらも怯えていた。
私は彼女と対策を講じた。
ケータイ番号を変えるためショップへ同行し、家を越すため荷造りを手伝い、タイミングが合えば送り迎えを買って出た。
おかげで無言電話や付き纏いの回数が減ったと、胸を撫で下ろした矢先に死んだ。
殺された。
失血死ということは、限界まで血を失って漸く、息絶えたということ。
息絶える瞬間まで彼女は恐怖し、激しい痛み苦しみに悶えたということだ。
"───樫村"。
報せがあったのは三日後でも、事件が起きたのは翌日。
私が帰って間もなくに、私と飲んだ痕跡のある部屋で、彼女は殺された。
かつて愛した人物に、どの家庭にもある包丁を使って、繰り返し刺された。
きっと、直前の記憶や長年の走馬灯、私の顔なんかも、脳裏に浮かべながら。
"───しいちゃん"。
やっぱり、私のせい、なのか。
先生とお嬢さんは恋人で、恋仲にさえならなければ回避できると。
なにか起きるにしても、きっかけから一年は猶予があると、思っていたのに。
関係性に関係ないなら、彼女はどうして死んだのか。
三人はどこに共通点がある。
"───志帆ちゃん"。
もしかして、好きになったからか。
彼女とは発展こそしなかったが、私も彼女を好いていた。
だとしたら、私と恋仲になった人ではなく、私に愛された人は死ぬ、のか。
「呼ぶな。」
先生と、お嬢さんと、彼女。
結末は異なれど、魔の手を誘ったのは私。
彼女たちに突き付けられたリボルバーの、引き金を引いたのが私。
私が、みんなを殺したんだ。
「私の名前を呼ぶな。」
ごめんなさい。ごめんなさい。
謝って赦されることじゃないけれど、生涯愛さないと誓うから。
寂しくても辛くても、空いた穴を埋めないから。
「お願いだから、」
神様、どうか。
どんな罰でも受けるから、私にかけられた呪いを解いて。
私を、死神にしないで。