マッドジンクス 3
志帆さんとの恋人ごっこを始めるに当たり、破ってはならない三大原則が設けられた。
ひとつ、"ごっこ"の体を弁えること。
ふたつ、志帆さんから私を"名前"で呼ばないこと。
みっつ、"唇"にキスをしないこと。
志帆さん曰く、過去に"不幸にしてしまった"女性たちの共通点が、前述の通りだったらしい。
ディープだろうがフレンチだろうが"キス"は避け、
いついかなる場面に於いても私を"音々"と正しくは呼ばず、
所詮は"仮初めの関係"であることを心に留めて接する限りは、
取り返しのつかない事態は招かずに済むだろう。
というわけだ。
なんだかややこしいが、要は私が元気でいればいいだけの話。
少しずつ距離を詰めていって、尚も悪い変化が起きなければ、取り越し苦労だったと分かってもらえるはず。
志帆さんを馬鹿げたジンクスから解き放つため。
私自身の恋を成就させるために。
たった三つの原則くらい、守ってみせる。
受け流すこと風のごとし、胸に誓うこと山のごとし。
欲しがりません勝つまでは、だ。
『───志帆さん!今よろしいですか!』
『いいよ。どうしたの?』
『特にどうもしないですが、サシでは初めてだなと思って!』
『そうだね。
グループチャットだと、個別に会話って感じにはならないもんね。』
『二人だけの世界って感じで良いですね!!
やりとり全部スクショしたろかな!!!』
『ところで、えらい返信早くない?前から思ってたけど。』
『張り付いてるんで!
たまに遅くなる時あったら、宅配来たか、うんこしてるかですね!』
『みなまで言わんでよい。』
『質問!次のオフはいつですか!』
『来週の定休日は予定ないかな。なにか用事?』
『デートしましょう!恋人として!』
『(仮)が抜けてるよ。』
『恋人(仮)として!(不本意)』
互いの日常は、これまでと変わらない。
フロムニキータを志帆さんが切り盛りし、私が通う。
お店でする会話の内容も、前とだいたい同じ。
変わったのは、志帆さんとの連絡手段が個別になったこと。
折を見て、プライベートも共有するようになったことだ。
「───お待たせ。いい天気だね。」
「ラ、ライダースーツ志帆さん……!SSRや!」
「なんて?」
「バイクもめっちゃカッケェす!
なんか見たことあっけど、どこのだったかな……。」
「ホンダ。」
「ホンダ!やっぱり!」
「音ちゃんのは?」
「ヤマハで~す。」
「ヤマハか。ヤマハもいいよね。私も昔持ってた。」
「他には?他には?」
「あとはカワサキと、知り合いのお古でハーレーダビッドソンも一時期乗ってたかな。」
「ガチガチのゴリ勢じゃないすか。」
「逆逆。」
ツーリングに行った時は、想像以上に志帆さんが玄人だったと判明して、驚かされた。
「───うお~、マジでお酒ばっか……。」
「そりゃあ酒屋だからね。」
「外観は酒屋ってか、流行りの服屋かと思いましたよ。」
「女の人でも入りやすいモダンな空間を目指したらしいから……。
"服屋みたい"ならまぁ、及第点かな?」
「隠れ家的な。」
「音ちゃんには退屈でしょ。
どっちかって言うと、同業向けのお店だし。」
「これを機に見分を広めます。
好きな人の好きなことはバッチシ押さえるのがポリシーです。」
「なるほど。
じゃあ今度は、私が音ちゃんのテリトリーにお邪魔しようかな。」
「エッ。」
「いけない?」
「い、いけなくないです!是非いらしてください!」
「やった。お洒落してかないとね。」
志帆さんの買い付けに同行した時は、プロ御用達のあれそれを見聞きできて、勉強になった。
「───こんにちは、音琴くん。」
「いらっしゃいませ、志帆さん。本当に来てくれたんですね。」
「うん。
言ってた通り、いつもとぜんぜん雰囲気ちがうね。
知らない人みたいだ。」
「腐っても王子様キャラが売りですから。
お飲み物、なんにいたします?」
「そうだなぁ。
王子様のオススメは?」
「今の時期ですと、フローズンドリンクが人気高いですね。
個人的には、柑橘系のフレーバーがさっぱりして美味しいと思います。」
「じゃあその、フローズンドリンクの、レモンのやつを貰おうかな。」
「かしこまりました。」
「司くんは?今日いるの?」
「いますよ。
あそこで捕まってるのがそうです。」
「ああ、やっぱりアレか。
なかなか離してもらえないんだね。」
「志帆さんも。あんまり長居されると、同じ目に遭いますよ。」
「どうして?」
「自覚ナシですか?
それとも、わざと惚けてます?」
私の職場に招いた時は、私や司に引けを取らないほど志帆さんが注目されてしまって、気が気じゃなかった。
「───お邪魔します。」
「どうぞどうぞ!
───その袋なんですか?」
「食材。
使えそうなの、いろいろ買ってきた。」
「ええ?手ぶらで良いって言ったのに……。」
「私の用事に付き合ってもらうんだから、当然でしょ。
余ったら自炊にでも回して。」
8月某日。
大小合わせて10回のデートを重ねた節目に、志帆さんが我がマンションを訪れた。
店で出すおつまみのレパートリーを増やしたいと志帆さんが言うので、だったら一緒に試作しましょうと私が誘ったのだ。
無論そんなのは口実で、実際はおうちデートを楽しみたかっただけなんだけど。
「へえー、いい部屋だね。綺麗にしてる。」
「頑張ってお掃除したんで!」
「あれは?」
「食材とか調味料とか、私もいろいろ用意したんですよ。
被ってないといいけど……。」
「私のは外国産とか、定番とはちょっと外れたのを多めにしたから。」
「なら大丈夫っすね。」
ウェルカムドリンクをお出ししたら、さっそく試作作業へ。
各々で用意した食材やら調味料やらをキッチンに広げ、志帆さんの求める系統を吟味する。
「お店で出してくれんのって、イタリアンぽいの多いですよね。
前身がレストランだったのと、なんか関係あるんすか?」
「あたり。
そのご主人が、レシピの一部を譲ってくれたんだ。
自分はもうやらないし、出来ないからって。」
「へえ~、気前イイっすね。
これぞ居酒屋ーって感じのよりは、そっちのが雰囲気的に合ってますかね?」
「んー、でもビールとかハイボールしか飲まない子もいるし……。」
「バーまで来てビーしか飲まないヤツってなんなん……?」
「系統うんぬんより、できるだけコストがかからないような……、」
「ふむふむ。」
ヘアバンドで髪を上げ、ギャルソンエプロンを腰に巻いた姿で、玉葱やらソーセージやらを手に取っていく志帆さん。
「(横顔も綺麗なぁ。)」
ああ、志帆さんが我が家にいる。
我が家のキッチンに立っている。
もし同棲したら、こんな感じなのかなぁ。いいなぁ。
もっと関係が深まったら、パジャマ姿とかも見せてもらえるようになるのかなぁ。いいなぁ。
「参考になるか分からんすけど、とりあえず。
私がいつも作ってるやつ、やってみますか?」
「お願いします。」
感動に浸るのは程々にして。
即興できそうなものから調理していく。
志帆さんは下処理などを手伝う傍らメモを取り、私の発案したしょーもないレシピを熱心に学んでくれた。
「───うん、どれも美味しかった。料理上手は伊達じゃないね。」
「ただの生活の知恵ですよ。少しはお役に立てました?」
「もちろん。
なんでも出来て羨ましい限りだよ。」
「な~に言ってだ!鼻血出すぞ!」
「聞いたことない脅し文句だ。」
作っては味見、作っては味見を繰り返し、レパートリーも固まってきた。
時間も時間なので、本日分の目標は達成されたと言っていいだろう。
「すっかり遅くなっちゃいましたね。」
「没頭するとね。
音ちゃんは明日仕事?」
「ありますけど午後からです。
志帆さんはいつも通りですよね?」
「うん。
そろそろお開きにしないとね。」
「ですね。
アア~、夢のような一時だった~。」
「ふふ。」
「なんなら泊まっていきますか!夢の延長!」
"機会があったら、またね"。
なんてサラっと断られるのを承知で、私は本音を零した。
志帆さんは笑顔のまま、想定外の返事をくれた。
「いいよ。」
「え?」
「音ちゃんが構わないなら、朝まで一緒にいようか?」
フリーズ。
今、志帆さんは何と言った?
泊まっていく?朝まで一緒?
普通に考えたらメイクラブのフラグだが、私たちは"仮初め"の恋人だ。
原則を裁定した本人が、自らそれを破るとは考えにくい。
特に深い意味はなく、文字通り寝て起きるだけ?
でも目の奥が笑ってないし、さっきの言い方もニュアンスがアレだったし、もしかして私試されてる?
ここで選択を間違えたらバッドエンド?
「どうする?やっぱり帰る?」
バッドエンド、は怖いけど。
ここで引いたら、漢が廃るぜ。
「帰らないで。
朝まで、一緒にいたいです。」
想定外の想定外までは、頭が回らなかった。
志帆さんが私との交流を優先してくれて、嬉しくて舞い上がってしまった。
のが、間違いだった。
「───聞いてません。」
「あれ?言ったことなかったっけ?」
ご報告します。
"朝まで一緒に"のお誘いは、"メイクラブ"のお誘いでした。
願ったり叶ったりな展開に動揺を隠せない訳は、私がベッドに押し倒されているからです。
「タチだってことは聞きました。けど私もタチなんです。」
「それも言ってたね。」
「こういう場合は、公平に!じゃんけんとかにすべきでは?」
「じゃんけん?今?」
「だって他に公平な勝負ないじゃないですか。
話し合いで決着する問題でもなし。」
「確かに。」
志帆さんがタチであることは知っていた。
それも"ボイ"にして"バリ"のつくタチであると、お仲間ゆえにニオイで分かった。
なんとかなると思ったんだ。
気性的には私が強いし、いつもの調子で迫っていけば、優しい志帆さんが折れてくれると思ったんだ。
まさか、あの優しい志帆さんが、"こっち"に限って頑固だなんて。
ギャップ萌えを通り越して詐欺だ。
「はい勝った。」
「今のは練習です。」
「観念しろって。」
「私の体汚いですし!」
「お風呂入ったじゃない。」
「無駄毛とかありますし!」
「気にしない。」
「あとホラ、あの、私の方が上手い気がします。」
「年の功をナメないでほしいな。」
「いやいや、」
「いやいやいや?」
「いやいやいやいや!」
「はいバンザイして~。」
「ちょっと待っ、マッ、アッー!」
必死の抵抗も虚しく、私はあれよあれよと剥かれていった。
志帆さん本人に腹を立てたのは、初めてだった。
**
「───"ごっこ"の体を弁えるんじゃなかったんですか。」
「恋人じゃなくてもセックスはできるでしょ?」
「こ、この人でなし……。」
「はは。可愛かったよ。」
事後、私は生ける屍になった。
最中の志帆さんはマジで死ぬほどしつこくて、マジで死ぬかと思ったというか何回か死んだ。
ネコ可愛がられる側が、いかに疲弊するかを体感させられた。
高い勉強代だった。
「はい。喉渇いたでしょ。」
「ありがとうございます……。」
「寒くない?」
「いいえ……。」
志帆さんが持ってきてくれたコップの水を一口飲み、志帆さんが整えてくれたタオルケットに全身くるまる。
優しさが胸に沁みて、ついでに腰が痛い。
「北海道の夏はさ、夜だけ夏じゃないよね。」
志帆さんも自分用のコップに口を付け、ベッドの端に腰掛けた。
私と同じシャンプーに、志帆さん特有の甘くほろ苦い体臭が混じって、ふわりと香る。
「まあ、昼夜の寒暖差はエグいっすね。」
薄い背中、細い腰、乱れた髪、縒れたシャツ。
34歳に似つかわしくない瑞々しさと、34歳ならではの風格を前に、得も言われぬ感情が込み上げる。
「志帆さんって脱がないタイプなんですね。」
「うん?
まあ、そうかな。あんまし見せたいものでもないし。
音ちゃんは?」
「私も最中は脱がないですけど、裸でギューすんのは好きですよ。
肌と肌が合わさる感じとか、相手の体温が伝わる感じとか、気持ち良いから。」
「そっか。」
志帆さんは服を脱いでくれなかった。
私もタチる時は脱がない主義だから文句はないけど、志帆さんは主義だけの問題じゃない気がした。
「志帆さん。」
「うん?」
「志帆さんは、男になりたいって思ったこと、ありますか。」
コップをサイドチェストに置き、ベッドに仰向けになる。
「それは、同じタチとしての疑問?」
「タチはタチでも、ボイタチとしての疑問。
男みたいなナリしてる以上、一度はぶつかる壁かなと。」
志帆さんはこちらを一瞥して、頷いた。
「そうだね。
そういう時期も、なくはなかったかな。」
「今は違うんですか?」
「……むしろ、男なんかに生まれなくて良かったと思うよ。今は。」
なげやりに呟くと、志帆さんは残りの水を飲み干した。
「音ちゃんは?
男になりたいと思う?」
すぐに質問で返したのは、掘り下げられたくないからか。
志帆さんへの言及は保留として、自問自答に切り替える。
「なれるもんなら、なりたかったですよ。
男と女なら、結婚できるし、子ども作れるし。
普通以上も以下も、求められずに済みますし。」
「そうだね。」
「セックスだって一緒に気持ち良くなれます。」
「ふふっ。そうだね。」
「ただ、さっきの。
男なんかに生まれなくて良かったってのも、ちょっと、分かります。」
志帆さんがぴくりと反応し、ベッドが軋んだ音を立てる。
「音ちゃんは、いつからだったの?
自分がそういう類の人間だ、って気付いたの。」
私は男ではない。
男に生まれたかったと思うことはあるが、後天的に手術をしてまで男になろうとしたことはない。
女性としての自分を、貶しつつも嫌いになれない。
女性だからこその個性やコミュニティーに、なんだかんだと満足している。
だったらどうして、男みたいな格好をして、男みたいに振る舞うのか。
これという理由はないけれど、そんな風に生きようと思い立ったきっかけは、覚えている。
「レズビアンって───、バイもですけど。男が苦手って人、多いじゃないですか。
ゲイの人たちは、女が嫌いって人もいれば、女友達たくさんいるって人もいるのに。
ビアンの多くは、女が好きの前に、男が嫌いだったりする。
男が無理だからこっちの世界に逃げてきた、って人も少なくない。」
「かもしれないね。
個人差ありきだけど。」
「特に、私たちみたいな、半分男みたいなヤツは、半分男みたいなくせをして、男が大っ嫌いだって話をよく聞きます。
それも、全体的にざっくり嫌いなんじゃなくて、過去に特定のクソ野郎と関わったことがあって、そいつへの当て付けっていうか、反面教師っていうか……。」
「ウチに来る子の大半は、そのタイプが多いね。
なにに対抗してるんだか、自分でも説明が難しいけど。」
寝返りを打ち、暗がりに目を細める。
「私は、その特定のクソ野郎が、父親でした。」
生い立ちを詳しく語るのは、司にも、他の誰にもしていない。
タイミングが巡ってこなかったんじゃなく、私自身で拒んできたからだ。
今現在の"小田切音々"が、どうやって形成されたのか。
知られたくなかった。墓場まで持っていくつもりだった。
隣にいる相手が志帆さんでなければ、たとえ事後だろうと酔った勢いだろうと、決して明かさなかっただろう。
「今まで伏せてましたけど、私ハーフなんですよ。台湾との。」
「へー、台湾。好きな国だよ。行ったことないけど。」
「ありがとうございます。」
「どちらの血?」
「父親が日本人で、母親が台湾人です。」
「言われても、あんま分かんないね。」
「そうなんですよ。
海を跨いでも、アジア圏には違いないんで、見た目だけじゃ分からないもんなんですよ。
生まれも育ちも日本だし、名前も父親のだし。
参観日とかで母が来て、たどたどしい日本語喋って初めてバレるってのが、お決まりのパターン。」
何かを察したらしい志帆さんが、ベッドに乗り上げる。
背後から視線を感じるが、顔を合わせたくないので振り向かない。
「もしかして、ハーフだってことで差別されたりした?」
「……いいえ。」
封じ込めた記憶を今一度、整理する。
シーツにぎゅっと爪を立て、溜まった息をぐっと吐いて。
「クラスのみんなは、ずっと、仲良くしてくれました。
台湾が親日国だってことも手伝って、どういう文化なのかとか、食べ物は何が美味しいとか、純粋に興味を持ってくれました。
親御さん達も、困ったことがあれば相談に乗るよって、言ってくれました。」
「うん。」
「差別したのは、父でした。」
ひとつの季節が終わるたび、必ず夢に出る。
母を蔑む父の顔、父に謝る母の声を。
「母は日本が好きで、中国語の講師になるために、来日しました。
父と出会ったのは、共通の友人を介して、だったそうです。」
「うん。」
「アプローチは、父の方から。
美人な母に一目惚れをしたとかで、母も、父に絆されて結婚まで踏み切ったんだって、言ってました。」
「うん。」
「父の方が、母にぞっこんだったんですよ。
必ず幸せにするって、君の望みは何でも叶えるって言って、そこまで想ってくれる人ならって、母は一緒になったんです。」
母は立派な人だった。
真面目で努力家で、強く逞しくあろうとする。
昔はたどたどしかった日本語も、今や教鞭を振るえるまでになった。
そんな母を、私は心から愛し、尊敬していた。
父も当然、同じ気持ちでいてくれていると、信じていた。
信じたかった。
「なのに、結婚して夫婦になると、もっとそれらしくしろって強要するようになった。
君の個性を尊重するなんて言っておいて、自分から是非にって近付いておいて、母を縛って、否定して、ちょっとでも母が反抗すると、なんでこんなことも出来ないんだって、日本の女はもっとああだこうだって、毎日毎日、ネチネチネチネチ詰るんですよ。」
父はいわゆる、釣った魚に餌をやらない男だった。
恋人でいる間は存分に持て成して、夫婦になった途端に感謝も努力もしなくなる。
外国人の彼女をステータスだと自慢していた口で、異文化の抜けない妻は恥だと罵るのだ。
次第に母は抗う気骨を失い、父の為すがまま応えるようになっていった。
「世間じゃモラハラとかって分類されるんでしょうけど、実際は、そんなんじゃなかった。
そんな、一言で片付けられるようなものじゃなかった。
生まれとか血筋とかに関係なく、あいつは最低な父親で、最低な男で、最低な人間だった。」
"これくらい、人として当たり前だろう"。
"これだから、遅れている国は嫌いなんだ"。
父がぼやくと、ごめんなさいと笑った。
"お前がしっかりしないと、俺まで白い目を向けられる"。
"受けた恩を仇で返すのは、向こうの教えにあるのか"。
父が責めると、次はもっと上手くやりますと謝った。
「父の周りにいた男共だってそう。
どこで捕まえたんだとか、最中はどうやってイクのかとか、そんなことばっかり。
母を一人の人間として見てくれない。女として器として、短い物差しで計ろうとするだけ。」
"ママは悪くないよ"。
"いつも頑張っているよ"。
"大好きだよ"。
私が泣くと、抱きしめてくれた。
私が怒ると、暴れると、黙ると、抱きしめてくれた。
私が強請れば、強請らなくても、抱きしめてくれた。
「ぐちゃぐちゃなんですよ。
母みたいに強い女になりたい反面、母のように、女だからってナメられたくない。
で、気付いたらこのザマ。
なんの解決にもならない、どっち付かずで、フラフラで、バラバラ。
地に足着いたことねえなって、我ながら呆れます。」
男になりたいんじゃない。
男に女として見られるのが嫌だった。だから"男みたい"に擬態するんだ。
女の性を否定したいんじゃない。
女だからと侮られるのが、搾取されるのが嫌だった。
だから"女らしい"をやめたんだ。
そんなことをしても父親を倒せないと、対等にすらなれないと、分かっているくせに。
「そのご両親とは今、どんな感じなの?」
「私が小5の時に離婚して、私が母に、兄が父に引き取られて、それっきりです。」
「そういえば、お兄さんいるって言ってたね。」
「一人ですけどね。今でも連絡とってますよ。
父の方は、兄も愛想尽かしたみたいで、誰も現状知らないですけど。」
「お母様は?」
「私が成人した時に再婚して、旦那さんと札幌で暮らしてます。」
「"小田切"は、再婚の旦那さんの姓なんだ?」
「ええ。
カッコイイ名前になって清々してますよ。」
一通り吐き出して、我に返った。
要点を纏めるつもりが、随分と熱くなってしまった。
「なんか、本筋逸れちゃいましたけど。あくまで、きっかけってだけですからね。
カワイイよりカッコイイがもともと好きだし、女性が対象なのも本心だし。」
「うん。」
「消去法で仕方なく、とかじゃないですからね。
志帆さんに惚れたのも、ガイヤが俺にもっと輝けと囁いたからで、」
「うん。わかってるよ。」
「わかんのかよ……。」
今となっては本能で女を愛するし、友達としてなら男も好きになれる。
自分で自分を表現できない曖昧さも含めて、自分は自分だと胸を張れる。
わざわざ弁明しなくたって、志帆さんなら分かってくれるだろう。
なにを、ダラダラと言い訳なんかしてるんだ、私は。
「音ちゃんは、自分で思うより優しい子で、自分が思うよりずっと、たくさん、傷付いてきたんだよ。」
志帆さんの声が、気配が、私のすぐ傍まで迫る。
志帆さんの指が、掌が、私の傷んだ髪を撫でる。
「お母さんを、守ってあげたかったんだね。」
その瞬間、私の目から同時に、涙が溢れた。
長年苦しめられた憑き物が、志帆さんのたった一言で、いとも容易く落ちてしまった。
そうだ。
私はママを、虐げられる女の人みんなを、守りたかった。
誰も名乗り出てくれないなら、私が代わりに、ヒーローになろうとしたんだ。
渇望し続けた存在に、私が、自分で。
「───じほざんは、」
ずびずびと鼻を啜りながら、志帆さんの方に振り返る。
「志帆さんは、なんでだったんですか。
男に生まれなくて良かったって、思ったの。」
薄く笑った志帆さんは、私の涙を拭ってくれた。
「私も、父親だったよ、クソ野郎。」
「どんな……?」
「お酒で暴れるタイプの人。
酔うと色んな箍が外れて、母と私をビール瓶で叩いた。」
「……離婚は?しなかったんですか?」
「する前に死んだ。
飲み過ぎが祟って、頭の血管ブチ切れて地獄行き。
でなきゃ私が殺してた。」
涼しげに毒づく志帆さんだが、不思議と悪い印象は覚えなかった。
むしろ、志帆さんほどの人でも、クソ野郎とか殺すとか、口汚くなる一面があるんだと。
亡き父親に対する憎悪さえ、酷く扇情的に感じられた。
「じゃあ、せめてもの幸い、でしたか。
クソ親父いなくなれば、お母さんと二人で静かに───」
「静かに、生きられたら良かったんだけどね。」
指先で私の鼻を摘まんだ志帆さんは、力なく壁に凭れ掛かった。
父親が早死にしてくれて万事解決、とはいかなかったようだ。
「お母さんとも、なにかあったんですか。」
「それこそモラハラってやつだよ。父親が生きてた当時からね。」
「どういう?」
「一人娘として、一人の女の子として、模範的であるようにって、幼稚園の頃から教育されてた。
父親があんな調子だったから、余計に私に執着したんだろうね。
よく私のことを、"生き写し"だの、"もう一人の自分"だのって言ってたよ。」
志帆さんのお母様は、"我が子に自分を投影する"タイプだったようだ。
"この子だけは、いつでも自分の味方でいてくれるはず"。
"この子には、自分が叶えられなかった理想の人生を送ってほしい"。
お腹を痛めて産んだからこそ、盲目的に信頼するし執着する。
一見には愛情が深いようでもあるが、突き詰めればエゴイズムに他ならない。
"子"としての志帆さんばかりを求め、"個"としての志帆さんを蔑ろにする。
ある意味で、私の母が父に受けたそれより残酷で、救えないかもしれない。
「今はどうされてるんですか?」
「稚内の、どこだったかな。
学生来の親友が同じように、配偶者に先立たれたとかで、合流したんだよ。
独り身同士、一緒に暮らそうってさ。」
「子離れしてくれたんですね。」
「向こうがっていうか、私が突き放した。
ちょっとずつ家を空ける機会を増やしていって、私がいない環境に無理やり慣れさせた感じ。」
「……う、上手くいって良かった、ですね。」
「苦労したけどね。
月一で電話はしてるから、それくらいの距離感で丁度いいんだよ。
あの人も、私も。」
志帆さんの纏う色気は、ひとえに才能でも、天性でもなかった。
壮絶な幼少期を経て、数多の苦難と絶望を乗り越えた末に、レズビアンでボイタチでふんわりサディストでバーテンダーの樫村志帆となったんだ。
どうりで私は、本来の好みから外れた彼女に、こうも惹かれてしまったわけだ。
「お酒で苦労したのに、バーテンダーになろうと思ったのは?」
「お酒が人を悪くするんじゃなくて、悪い人をお酒が教えてくれるんだ、って気付いたから。」
「なんか聞いたことある。」
「テメエの本性あぶり出すツールと思えば、お酒ほど合理的なものもないでしょう?
悪酔いしておイタする奴がいたら、さっさと叩き出してやれるしね。」
ニヒルな志帆さんがカッコ良くて、流した涙がすっかり乾いた。
酒の勢いで言動が荒くなったりすれば、私も容赦なくフロムニキータを出禁にされるんだろうな。
恐ろしくて、なんだか嬉しい。
「"あんまり見せたいものじゃない"。
ってのも、そういう理由だったりしますか。」
志帆さんと同じ目線まで起き上がる。
志帆さんは再びこちらに背を向けると、シャツのボタンを外し始めた。
「汚いでしょ。
コーヒー零したみたいで。」
露になった志帆さんの背中には、茶色い染みが点々と広がっていた。
色素沈着でこれだけ濃いのだから、生傷はさぞ痛々しかったことだろう。
私は返事をするより先に、"コーヒーを零したような"背中に手を伸ばした。
「痛かったですか。」
「忘れた。」
「忘れるわけないでしょ。忘れたいだけ。」
盛り上がった肩甲骨と、浮き上がった脊柱に、指を這わせる。
辛うじて女性性を残した、志帆さんの体。
柔らかさも温もりも人並みに足らないけれど、好きな人の一部とあれば、無条件で愛おしい。
「ね。気持ちいい。」
タオルケットを開けて、後ろから志帆さんを抱きしめる。
肌と肌を重ね合わせて、私の鼓動を直に伝える。
無言で抱擁を受けた志帆さんは、私の回した腕に恐る恐ると触れた。
「好きです。」
「目覚ませって。」
「覚めてます。」
「君はいい子だ。
素晴らしいお母様の教えを大事に、悪い父親の影と一生懸命戦ってる。」
「志帆さんだって。」
「私は戦う前に死んだ。
君と違って、母親もまともじゃなかった。
生まれも育ちも野蛮なんだよ。」
「だったら世界イチ綺麗な野蛮です。」
「聞き分けがないなぁ。」
何度繰り返したか分からない押し問答。
志帆さんが呆れて喉を鳴らす。
そのまま諦めてよ。
私を諦めさせることを。
「こうなったら、切り札を使うしかないね。」
「切り札?」
「私の愛した女たちが、どういう末路を辿っていったか、教えてあげよう。」
抱擁を解いた志帆さんは、私の心臓のあたりを指差した。
「死ぬんだ。」
「は、」
「一人は病気で死に、二人は事故で死に、三人は殺された。
三人が三人とも、原因は別でも、最後には死んだ。
私と恋をするってことは、そういうこと。」
志帆さんの冷めた息遣いが、淀んだ眼差しが、ブラフでないと駄目押ししてくる。
死ぬ。
志帆さんの恋人となった女性は、漏れなく死ぬ。
じわじわと進んでいった不幸が、最終的に死を招く。
さすがの私も、それくらいヘッチャラだと、即答はできなかった。
「この三ヶ月、一緒に過ごしてみて、君が見た目以上に素敵な子だと分かった。惹かれ始めてるのも白状する。
だからこそ、もう駄目だ。今ならまだ引き返せるから、終わりにしよう。
友達としてなら、末永く、仲良しでいられるはずだから。」
私の胸板に、志帆さんが額を預ける。
きっと、悲しい顔をしているんだろう。
もしかしたら、泣いているかもしれない。
反対に私は、目一杯に口角を吊り上げた。
「やです。」
「おい。」
志帆さんの潤んだ瞳に睨まれる。
泣きそうだけど、泣いてはいない。
「だって今、"惹かれ始めてる"って言った。」
「だから駄目なんだって───」
「"最後には"、死ぬんですよね?
段階があるなら、付き合ってすぐ死ぬわけじゃない。」
「屁理屈だ。」
「屁理屈上等。
ンなふざけたジンクスに、いつまでものさばられて堪るか。」
先程されたように、鼻を摘まみ返してやる。
志帆さんは"ふぎぃ"と、子豚に似た声を発した。
「これからはもっと野菜食べて、運動して禁煙して、お酒も程々にします。
間違っても自分で死んだりしません。」
「………。」
「烏にフン落とされたり、道端のガム踏んだりした時は報告します。
どんなに些細なことでも、アンラッキー起きたら逐一教えます。」
「音ちゃん、」
志帆さんの頬を両手で包み、軽く持ち上げてやる。
「絶対死なないから。
少なくとも10年、いや20年は、志帆さんの目の黒いうちは、絶対死なないから。
いいかげん聞き分けろって、樫村志帆。」
堪えきれず表情を歪めた志帆さんは、今度は正面から私を抱きしめた。
「この大馬鹿者、」
やっと泣いたか、大頑固者。
***
紆余曲折あって、私の好意は受け入れられた。
まだ"ごっこ"の延長ではあるが、これからは志帆さんと、足並みを揃えて歩いていける。
恋人としてパートナーとして、信じ合い支え合える道を。
と、幸福の絶頂に至った翌日。烏にフンを落とされた。
更に三日後にはガムを踏み、更に五日後には免許証を無くした。
志帆さん曰くの"ちょっとした不幸"が、立て続けに私の身に降り懸かった。
まさか、と一瞬過ぎったが、その程度は日常的に起こり得るもの。
ナーバスになっているせいで、大袈裟に感じてしまうだけかもしれない。
そう思って、志帆さんへの報告はやめておいた。
せっかくの蜜月期間に、余計な心配をかけたくなかった。
「───今、なんと。」
「やー、俺もいろいろ、頑張ったんだけどね。
やっぱり地域柄っていうか、時勢柄なのかね。」
「つまり?」
「さすがに限界ってこと。廃業。」
「急───、す、ぎませんか。そんな、」
「ごめん。」
「せめてなんか、もっと、相談とかしてくれれば───」
「前もって言ってやれなかったのは謝る。でも、俺としても急なことだったんだ。
まさか、……いい関係を築けてると、思ってたんだけど。今更になって切られるとは、予想してなくてさ。」
「取引ですか。」
「そう。
首の皮一枚、切れちゃった。」
「………。」
「退職金は、できるだけ捻出する。
転職先も、当てがなければ紹介する。
君ならどこでも重宝されるだろう。」
「親方、」
「今まで支えてくれて、ありがとね。
……不甲斐なくて、ごめんね。」
更に何日か経って、9月初頭。
本業の勤め先が、店じまいすることになった。
バイクに特化したカー用品店なんて、よほど栄えた都心部でもない限り、流行らないのは承知していた。
けど、贔屓にしてくれる上客もいたし、オーナーも現役だし、なんだかんだ持つだろうと楽観していた。
どうして、こんなに、急に。
件の不幸とやらは、段階的に引き上げられるんじゃなかったのか。
僅か一ヶ月で職まで失うのは、段飛ばしが過ぎるんじゃないのか。
「───音ちゃん?」
「ンェ?」
「ぼーっとして、どうしたの?」
「ああ……。
きのー遅くまで動画みてたもんだから、寝不足で。」
「なんの動画?」
「聞きたいですか?」
「やっぱやめとく。」
「ふへへ。」
「……なんでもいいけど、無茶だけはしないでね。」
疑惑は疑念に、不安は恐怖に、私の能天気は空元気へと変わっていった。
志帆さんへの報告は、やっぱり出来なかった。
「───連敗記録の進捗どうよ?」
「18連敗ちゅー……。」
「うーわ。今度はどこ?」
「パチンコ、引っ越し、ゴミ収集……。」
「そのラインナップで落ちるって、よっぽどだな。
なにが駄目だって?」
「わかんない……。ずっとお祈りされてる……。」
「職歴はまずまずだし、資格もそれなりにあるし……。
印象は悪くないと思うのに。」
「貴社に言ってやってください……。」
「ま、最悪ウチを本業にしちゃえばいいんだし?いよいよ困ったら逃げてこいよ。
不動のナンバーワンは譲ってやんねえけどな。」
いやいや、偶然が重なっただけの可能性もある。
ここで挫けるようでは志帆さんに、少し前までの自分に申し訳が立たない。
心機一転、就職活動開始。
面接どころか書類審査すら通らなくても、めげずに履歴書を書き続けた。
副業の男装喫茶は平常運転だったのが、食い扶持的にも精神的にも幸いだった。
「───本当にいいの?
志帆さんに会いたいーって、寝言でも言うくせに。」
「いーの。
どーでもいー飲み屋で安酒あおりたい気分なの!」
「ごらんし〜ん。」
そして、11月の終わり。
間もなく師走に差し掛かろうという時節に、疑念が確信となる事件が起きた。
「あんだよ、ぜんぜん進んでねーじゃん。」
「だってなんか、安っぽい味する。」
「安酒あおりたいつったの誰だよ。普通に美味いじゃん。」
「んー……。
悪くはないけど、人工的つか、有り合わせつか……。
志帆さんだったら、生のレモン絞ってくれるのに……。」
「結局かよ。
昔は市販のチューハイでも喜んでたのになぁ?」
「残りあげる。」
「自分どうすんの。」
「日本酒にする。」
「珍しい。」
この日、私は司と飲みに出掛けた。
なかなか就職が決まらない私の激励会という名目で、司がセッティングしてくれたのだ。
どの地域にもあるような、派手すぎず地味すぎずの大衆居酒屋。
フロムニキータ以外で飲むお酒は味気なかったが、志帆さんの目がない点に於いては都合が良かった。
「さすが居酒屋。あんだけ飲み食いして一万越さない。」
「ごっそさん。」
「うむ。
落ち着いたら、今度はお前が奢れよ~。」
「わかってるよ。」
「んで、どうする?どっか行きたいとこある?」
「んー……。」
「なに、遠慮してんの?」
「そういうんじゃないけど……。」
居酒屋を出た後は、二軒目をどうするか司と相談した。
別の店で飲み直すか、ご無沙汰のカラオケと洒落込むか。
たまにはネカフェで朝までコースも乙だな。
なんて軽口を交えつつ、商業ビルの階段を下りていくと、ふと背後から切羽詰まった声が聞こえた。
なんだと振り返った時には手遅れで、私はどこぞの馬の骨に巻き込まれる形で、踊り場まで転げ落ちていった。
「音々────!!」
後から司に教わった話。
同じ居酒屋を出たジジイが、足を滑らせたのが発端らしい。
ジジイ酔っ払いの上にデブだったし、床も雪溶けの水で濡れてたし。
いつ事故に発展しても、おかしくない状況ではあったわけだ。
私を下敷きにしたおかげでジジイほぼ無傷だったのは、"しょうがない"の一言で片付けたくねえけど。
結果。
私は全治三週間の怪我を負い、二週間余りも入院をする羽目になったのだった。
「───小田切さーん、おはようございまーす。」
「おはようございます……。」
「うふふ、まだ眠そうですね。今朝の具合はどうですか?」
「いいですよ。美人の笑顔はよく効きます。」
「もー、ホストクラブじゃないんだから~。」
生まれて初めての骨折。
病院での寝泊まり。
丈夫な私には無縁と思われた体験だが、実際にはそう悪くなかった。
ナースのお姉さんは親身に世話してくれるし、病院食も噂ほど不味くないし、費用もジジイ負担で折り合いがついた。
なにより、後遺症が残らない範疇で済んだのは、むしろ幸運と言うべきだろう。
「───そんな顔すんなってば。」
「私が付いていながら……。」
「いやいや、あんなん誰も止められるワケねーし。
せめてお前は無事で良かったよ。ナンバーワンが一ヶ月も不在じゃ、みんな困るんだ。」
「お前いなくたって穴デケーよ。」
「ごめん。
爆速で治して戻るから。」
「うん……。
次なんか持ってきてほしいモンある?」
「もう来なくていいってば!」
事故現場に居合わせた司は、しつこいくらい何度も見舞いに訪れた。
私はこの有様で、自分はどこも何ともないのが辛いのだろう。
いざとなると発露する繊細な一面こそ、司の中に隠れた靖子の人格であることを、私は知っている。
「そろそろ行くわ。」
「おう。
次は店の格好まんまで来んなよ。つか来んな。」
「うるせ。
退院の日取り決まったらな。」
平日の昼下がり。
6度目の見舞いに訪れた司が退出し、一息ついたところで、再びの来訪者があった。
司と入れ違いで現れたのは、ここに来るはずのない、志帆さんだった。
「───なんで、」
「司くんに聞いた。」
「な────」
「"口止め"、されてたみたいだけど。
黙ったままでいるのは義理を欠くからって、教えてくれた。」
「えっと……。」
「そこ、座っていい?」
「……はい。」
あのヤロウ。
志帆さんにだけは絶対言うなと口止めしておいたのに。
志帆さんとの約束事を司は知らないから、そりゃそうなるか。
詰めが甘かったな。
「これ、お見舞い。」
「ァダ、アス、づ、ありがとナス。」
「具合どう?」
「よ、良かとです。」
「そう。」
沈黙が痛い。
なんで今日に限って、私の見舞い客しか来ないんだ。
もっとガヤガヤしてくれよ。
二人だけの空間にしないでくれ。
「車のお店、閉めたんだってね。」
「ヌッ、ブ、ま、なんの話───」
「誤魔化したって遅いよ。それも司くんに聞いたから。」
やっぱりか。
司が白状してしまったのは、事故についてだけじゃなかったようだ。
「仕事のことも、事故のことも。
───最近、ウチに顔出してくれなくなった理由、ぜんぶ。」
店じまいの旨をオーナーに宣告されて以来、私はフロムニキータへ近寄らなくなった。
タイヤ交換の繁忙期だからと、事実とは逆の言い訳をして。
就職活動で忙しかった、のも一理あるが、違う。
会えなかったのではなく、会いたくなかった。
志帆さんの前で嘘をつくのが、暴かれまいと緊張しながら接するのが、忍びなかった。
だから遠退くことにしたんだ。
また自然と笑えるようになるまでは。
「嘘、ついたんだね。」
「違います。」
「なにが違うの?」
「別に、あの、志帆さんのそれとは違うくて。
これは、なるべくしてなったことですから。
店は元から火の車でしたし、怪我したのだって私の不注意で───」
「"繁忙期"だからって話じゃなかった?」
「あ。」
やっちまた。
自分で捏ねた言い訳で、自分の首を絞めちまた。
なんだっけ、策士策に溺れる?
「いや、いい。分かってる。
そりゃ言えないよね。心配させたくなかったんだもんね。」
「あの、」
「でも、もういいよ。もう嘘つかなくていい。
答えは出たから。」
「志帆さん、」
「今までありがとう。
短い間だったけど、好きな人と過ごす時間は幸せだった。」
私の反論を悉く遮断して、志帆さんは席を立った。
「交際期間は今日で終わり。
明日からは店のオーナーとお客さん、もしくは他人だ。」
「待って志帆さん、」
「バイバイ、音ちゃん。」
頭のてっぺんにキスをされる。
私は志帆さんを捕まえようとして、ひらりと躱された。
「ごめんね。」
傷付くのも傷付けるのも嫌で、志帆さんは分厚い殻に閉じこもっていた。
私はそこに無理やり踏み入って、荒らすことしかしなかった。
また志帆さんに、喪失の痛みを味わわせてしまった。
あんな顔を、させたいんじゃなかった。
「ごめんなさい、しほさん。」
退院した後も、新しい勤め先が決まった後も。
私は、フロムニキータへ行かなかった。
志帆さんと、会わなくなった。