マッドジンクス 1
*あらすじ
長続きしない恋ばかりに辟易中のレズビアン、音々。
三度目の失恋を機に地元のビアンバーへ癒しを求めた音々は、オーナー兼バーテンダーとして働く志帆に一目惚れをしてしまう。
早速アプローチを開始する音々だが、志帆には"本命の恋人を作らない"という偏狭的な主義があった。
「───別れたいの。」
休日土曜の昼下がり。
恋人に呼び出されたカフェにて、突として別れを切り出された。
「え……。
なに、急に。どしたの。」
「急じゃない。ずっと考えてた。」
交際二年目。年齢二歳差。
小柄で童顔で色白で、フェミニンな服がよく似合って、性格も優しくておっとりしてて、ついでにおっぱいがデカい最強最高の後輩系彼女。
まさに理想通りの相手と、理想的な関係を築けていたはずなのに。
「だっ……、え?ぜんぜん……、え?うまくいってた、じゃないの?こないだだって、一緒に誕生祝いしたばっかで───」
「ごめん。」
「いやごめんとかじゃなくて。」
よりにもよって、初めてデートをした場所で、終わりのデートもすることになるなんて。
悪い夢なら覚めてくれ。
嘘なら早く笑ってくれ。
こちらの願いも虚しく、彼女は目線さえ合わせてくれなかった。
「私のこと、嫌いになった?」
「ちがう。」
「じゃあ、なにか、怒らせることしちゃった?
そうなら謝るから。悪いとこ全部、直すから。君の言う通りに変えるから───」
「そんなんじゃない。
音ちゃんは、なんにも悪くない。」
「だったら、なんで、」
「好きな人。
好きな男の人、できたの。」
好きな男の人ができたんだと、彼女は酷く申し訳なさそうに言った。
男の人、とわざわざ強調したのは、私が女であるからだ。
「だから、もう、音ちゃんとは付き合えない。」
まただ。
私の中で、猛烈なデジャヴが巻き起こる。
彼女との思い出が、走馬灯のごとく駆け巡る。
「その男の人、は、片思いしてる相手、なの?」
「こないだ、告白されて。
選んでもらえるまで、待ってるって、言われて。」
破局を経験するのは、今回が初めてではない。
彼女で通算三人目。
前の二人とも、私が振られる形でサヨナラしてきた。
理由も大体一緒。
他に好きな人が、好きな男の人ができたから別れてほしいんだと、一方的に告げられる。
要するに、お払い箱にされたということだ。
「もう、絶対、私には可能性がない、ってことなんだね。」
「……ごめんね。」
せめて、その好きな人とやらが同性であったなら、戦えた。
見た目も振る舞いも生活態度も、彼女好みに全取っ替えして。
彼女が望むなら、彼女以外の女の子とは縁を切ったって良かった。
他の誰にも追随を許さないくらい、一番に彼女に尽くせる自信が、私にはあった。
でも彼女が、彼女たちが求めていたのは、私の努力なんかじゃなかった。
「今までありがとう。」
どう装ったところで、私たちは女同士だ。
結婚はできないし、子供も作れない。
事実上はパートナーでも、世間的には他人の延長でしかない。
私には、私では。
愛する女性に、人並みの幸せというものを、授けてやれないのだ。
「音ちゃんも、本当に素敵な人に出会って、その人と、幸せになって。」
たかが男性に生まれただけで。
たかが異性を生きてるだけで。
たかが男女で居られるだけで。
たったそれだけのことで、私の血と涙の結晶を粉々に打ち砕く。
死に物狂いの私を差し置いて、当たり前に選んでもらえる。
「元気でね。」
引き留めていいなら引き留めたい。
捨てないでくれと縋り付きたい。
できない。しない。
彼女を愛すればこそ、執着はしたくない。
どこぞの馬の骨としても、きっと私よりは相応しいんだ。
君は彼と恋をして、結ばれて、妻となり母となる権利があるんだ。
良くも悪くも特別な関係より、なんだかんだと平凡な関係の方が、いいに決まってるんだ。
「バイバイ。」
人生三度目の失恋。
今度こその正直は、残念ながら訪れなかった。
***
「───で?
ロクな抵抗もせずに、相手の言い分をみすみす聞き入れてやったわけだ、お前は。」
「はいそうです。」
シフト終わりの職場。
ホールの後片付けに勤しみながら、私と同僚は駄弁っていた。
話題はもちろん、先日の私の失恋についてだ。
「ホンッッット幸薄いってか、お人好しが過ぎるだろ。
ちっとは困らせるくらいしてやれよ。」
彼女の名は、魚住 靖子。
またの名を、七波 司。
ジョン・コナーのような顔と髪型で、体の半分が足で出来ているスタイルおばけ。
私の同僚にしてセクマイ仲間でもある、唯一無二の親友だ。
なぜ名前を複数持つのかというと、後者がいわゆる源司名だから。
本名で呼ばれることを頑なに嫌がるため、話し掛ける際には"七海"か"司"と呼んでやる必要がある。
間違っても"靖子のやっちゃん"などとからかったり、キャラクターの割に声が可愛いことを指摘してはならない。
ジョン・コナーがT−1000になります。
「だってぇ。
三度目なら正直ってか、三度目だから慎重になるってもんだろぉ。
また前みたいに愛想尽かされないようにってさぁ。」
「それで結局フられてんじゃねーか。」
「グサァァァッ。」
「だいいち、向こうが好きだって迫ってきたんだから、もっと踏ん反り返ってやりゃ良かったんだ。
毎度毎度、馬鹿の一つ覚えみてえに尽くしてばっかで、いいかげん学習しろ。」
「僕は王子様だもん。
君と違ってオラオラできるタイプじゃないんだもん。」
「キャラの話は置いとけ。」
私たちの職場は、地元で唯一のコンセプトサロン。
昼はカフェ、夜はバーとして営業する、業態的には普通の飲食店だ。
コンセプトの所以は、勤めるスタッフが全員、女性であること。
その内のキャストと呼ばれる面々が、男装をしていることにある。
メイド喫茶ならぬ男装喫茶、と説明するのが手っ取り早いだろう。
ここで私は、趣味と実益を兼ねて働かせてもらっている。
司と違って副業なので非常勤だが、今やランキングのナンバーツーを誇る人気者だ。
そう、人気者なのだ。
少なくとも、上辺では。
「なーんでこうなっちゃうのかなぁ。
男性不信だって言うから、今度こそ信用できると思ったのに。」
店に来る大半は女性客で、女性客の大半は私か司が目当てだ。
ホストクラブのように、ビジネスを越えたアプローチをされることも珍しくない。
件の彼女も、私を推してくれていた常連の一人だった。
なのに、振られた。
いつもいつも、私が言い寄られる側なのに、最後は私が振られてしまう。
「そりゃあお前、お前みたいのを好む時点でお察しだろ。」
「また身も蓋もねえことをよ。」
「いやいやマジな話。
いくら男性不信つっても完ビじゃなかったんしょ?
むしろ男性不信だからこそ、仕方なくこっちに流れてきたわけで。」
「きっかけはそうだったかもしんないけどさ……。」
「きっかけって案外、重要なファクターっしょ。
男みたいな女を対象にするってことは、まだヘテロに未練があるってことでもある。
そんな中途半端な時期に、理想通りの男に出会っちゃったもんなら、やっぱそっちのがイイってなるのは必然よ。」
「つまり私が私である限り、近付いてくる女はいずれヘテロの里へ帰っていく運命だと。」
「わかってんじゃん。」
悲しいかな、司の説教は的を射ている。
生粋の同性愛者を捕まえない限り、いつ異性愛者に寝取られてもおかしくない。
まして私や司は、中性寄りのトランスジェンダーだ。
半分男みたいなヤツを好む時点で、女性性への頓着が薄いのは明らか。
とどのつまり、半分男みたいな女と本物の男、どっちも同じ程度好きなら、前者を選ぶ女はいない。
「こうなったら、いっそフェミチェンすっか。」
「ポリシー捨ててまでモテたいのか?」
「モテたいのではない!いやモテたいけども!ていうか今が断然モテてる!」
「どっちだよ。」
「私はただ!私でなきゃ駄目だと言ってくれる女性と添い遂げたいだけだ!そのためなら私はどんなことだってする!」
「じゃあそのための第一歩として、今度スカート穿いてこいよ。
"僕"って言うのも禁止な。」
「そういうのは僕の美学に反するから……。」
「意思よわ。」
「求む真実の愛……。ギブミーラブミー……。」
神様、後生です。
もうカワイイ娘じゃなきゃ嫌なんて贅沢は言いません。
おっぱいも大きくなくていいです。
見た目はこの際、度外視で構わないですから、一度だけ。
たった一人でいいですから、真摯に私を愛してくれる人と、出会わせてください。
「しょーがねーなぁ。
おセンチなマブのために、いっちょ元気の出るモンくれてやっか。」
「なに?団地妻?」
「AVじゃねーよ。
正しくは元気の出そうなとこ連れてってやる、かな。」
「どこ?おっぱいパブ?」
「セクキャバじゃねーよ。
最近知ったんだけど、ビアンバ───」
「できたの!?」
「だとよ。
なんでも、オスカル風味のハンサム姉さんがオーナーで、その人に会うために通ってる子もいるんだとか何とか。」
「なんだ同業か。」
「まあでも?ビアンバーで看板出してるからには、当然こっち寄りが集まるだろうし?
もしかしたら新しい出会いがあったりするやも───」
「行く。」
「変わり身の早さよ。」
「けど司は?
私は今日昼番だけど、司は夜までじゃなかった?」
「私も今日は昼までになっ───」
「オラさっさとしろよグズ。時間もったいねえだろハゲ。」
「誰がハゲだブス。」
傷心の友のためにと、提案された新境地開拓。
ビアンバー自体は何度か行ったことがあるが、地元にも存在したとは驚きだ。
願わくは私の傷を癒し、私を苛むジンクスから解き放ってくれる、私だけのミューズが待っていてくれますように。
「───てんちょー!お掃除おわりマーシタ!」
「お疲れさーん。
……アラッ、なんか出勤前より元気じゃない?イイコトあった?」
「これからしに行くんでーす。おさき失礼しまっす!」
「またよろしくねー。」
「はーい!
てんちょーも夜営業ガンバってくださーい!」
客同士のコミュニティーに、幸運が紛れているかもしれない。
この時までは、間接的に期待していた。
まさか、オーナーその人が幸運である可能性は、思案の外だった。
***
夕方5時。
昼のカフェ営業を終えた帰り、私と司は繁華街へと赴いた。
適当に暇を潰して二時間のブランクを埋め、そろそろオープンという頃合いに目的地のビアンバーへ。
「ここ?」
「たぶん。」
スマホの位置情報を確認しながら、司は頷いた。
「あんまバーっぽくないね。」
「ビル上がってくよりかは入りやすいんじゃん?」
「ふむ。」
雑居ビル群の奥にひっそりと佇む、一見するとイタリアンレストランかのような平家。
"from/NiKiTa"。
珍しい響きの店名だが、ネット上に掲載された写真と目の前の光景は、全く同じ。
ここが噂のビアンバーで間違いなさそうだ。
「いま何時?」
「7時27分。」
「30分出遅れたな。」
「競争じゃねんだから。行くぞ。」
「ウス。」
実際のオープン時間を30分弱押したのち、私と司はフロムニキータのドアベルを鳴らした。
店内もレストランのような造りになっていて、お酒と食事の両方を楽しめそうな雰囲気だった。
純喫茶にも近いかもしれない。
「えらいハイソだな。」
「汚ねえヤツお断り感。」
「じゃあお前は出禁だ。」
「下品と不潔は別だろ。」
「下品は否定しねえのかよ。」
店内を見渡してみると、既に何人かのお客さんが席に着いていた。
テーブル席に二人と、カウンター席に二人。
いずれも若い女性で、カップルとは違うっぽい。
司の言っていた、オーナー目当てのコ達だろうか。
肝心のオーナーはどこにいるんだ。
「いらっしゃいませ。」
そこへ、オーナーと思しき人物がカウンターから現れた。
バックヤードに引っ込んでいたらしい。
彼女の姿を目の当たりにした瞬間、私は雷に打たれたような、強い衝撃を覚えた。
「ご新規さんだね。
カウンターとテーブルと、両方あいてるけど、どっちにします?」
ふわふわの赤毛、スラリとした長躯、穏やかな物腰に不釣り合いなロブピアス。
私や司とはまた異なるタイプのハンサムウーマン。
彼女が、ここの主。
理解より先に、本能が囁いた。
私、このひと好きかもしれない。
「だってさ。どうする?」
先人いわく、運命の相手と出会った時、"ビビビ"と来る感覚を味わうという。
恐らくは、これが"ビビビ"だ。
経験がないので断定は出来ないが、形容するなら確実に"ビビビ"だ。
だってなんか、今にもおしっこ漏れそうだ。
「おい?どうした?」
硬直してしまった私を、司が訝しげに覗き込む。
だが私はロボットのような母音しか発せられず、司にもオーナーさんにも返事がままならなかった。
「あー……。
カウンターでお願いします。」
「どうぞ。」
痺れを切らした司が代表して答え、私の腕を引く。
私は司の誘導する通りに歩き、カウンター席の端に座らされた。
「二人ともカッコイイね。
うちじゃ滅多に見ないタイプだ。」
改めてオーナーさんに話し掛けられ、改めてオーナーさんの御尊顔を間近で拝見し、私は我に返った。
今、カッコイイって言われた。
こんなカッコイイ人にカッコイイと言われたぞ。
カッコイイなんて色んな人に言われてきたけど、こうも胸躍るカッコイイは生まれて初めてだ。
カッコイイがゲシュタルト崩壊。
「いやいや、お姉さんのがカッコイイですって。噂に聞いた通り。」
「乗せるのが上手いねぇ。噂って?」
「オスカルみたいな人が切り盛りしてるって。」
「オスカルかぁ。
あんな風になれたら、もちろん嬉しいけどね。」
司と会話を弾ませるオーナーさん。
ああ、酒焼けの低い声も(決め付け)、愛撫の上手そうな長い指も(思い込み)、つぶさに覗く所作の一つ一つが美しい。
男前の中に女性らしさも潜んでいて、日光浴ないし森林浴を彷彿とする包容力を感じる。
これぞ歩くマイナスイオン。
ルックス対決は司の勝ちでも、総合芸術的にはオーナーさんが一枚上手だ。
「なに飲まれます?」
「んー、最初だし軽めの……。
ハイボールでもいいですかね?」
「もちろん。
ウイスキーベースとリキュールベースなら、どっちがいいですか?」
「リキュール───、ってどんな味するんですか?」
「大まかには香草系、果実系、種子系がありますね。
スパイスかフルーツかナッツか、どんな風味がお好みか。」
「じゃあー、果実系のリキュールでお願いします。」
「かしこまりました。
……おつまみは?いる?」
「そっちも軽めのやつ、適当にお願いします。」
「かしこまりました。」
今まで付き合ってきたコ達とは正反対、理想のタイプには掠りもしてないはずなのに。
こんな風になりたい憧憬と、こんな人と付き合ってみたい欲求が交錯する。
なんて不思議な心地だろう。
あわよくば格上の相手をヒーコラさせたいなんて野心まで出てきた。
信じられるか?会ってまだ5分も経ってないんだぜ?
「そちらさんは?なにがいい?」
オーナーさんがこちらを向く。
司との会話を聞いているようで聞いていなかった私は、"なにがいいか"の部分を切り取って答えた。
「貴女がいいです。」
「え?」
「貴女がいい。貴女がほしいです。」
しん、と静まり返るカウンター。
短い間を置いて、司の二つ隣に座る先客が吹き出した。
おいネエちゃん、笑うとこじゃねえぞ。
「やい早漏。
お前には節度ってもんがねえのか。」
「ダッ。」
司に横からデコピンされる。
おかげで少し頭が冷えたが、体温はまだまだ下がる気配がない。
「じ、じゃあ……。オススメをひとつ……。」
「辛いのと甘いのだったら?」
「甘いので……。」
「かしこまりました。」
まともに判断がつかないので、注文はオーナーさんに丸投げ。
オーナーさんは私の粗相など歯牙にもかけず、バックヤードへと再び捌けていった。
「っとに大丈夫かよ。相当キてんぞ、今のお前。」
「相済まぬ……。」
突かれたこめかみを摩りながら司に宥めてもらっていると、先程のネエちゃんが司越しに絡んできた。
「あなたで三人目ですよ。」
「え?」
「志帆さんを一目見て告白したの。」
手前のネエちゃんが話し、奥のネエちゃん2号が遠慮がちに笑う。
志帆さん。
オーナーさんの名前、志帆さんっていうのか。
できれば本人の口から聞きたかった。
「前の人もすごい興奮してたよね。」
「運命です!とかって叫んだりしてね。」
「そうそう。」
どちらもフェミニンな装いで顔立ちも整っているが、どういうワケかそそられない。
気が強そうだから?
おっぱいが大きくないから?
いや違う。
志帆さんの後に見たからだ。
だから、どちらかと言えば彼女らの方が好みであるはずなのに、酷く褪せて見える。
志帆さんと比べると平凡だなとか思ってしまう。
自他ともに認める好色の私がこのザマとは、司いわくキている証拠か。
あるいは、私の気質を覆すほどの魔性が、志帆さんにあるのか。
「こいつみたいのが他に二人もいたってことですか?」
「ええ。好意を寄せてるって意味では、もっとたくさん。」
「へえ。おモテになるんですね。」
「そりゃあもう!
そっちの気があろうとなかろうと、志帆さんに落ちない女はいませんよ。」
「そういう貴女がたは?」
「わたし達もファンの一員でーす。」
「有象無象の男どもなんか足元にも及びませんて。」
ネエちゃんズと司とで勝手に盛り上がっていく。
恐らくは手前のがバイで、奥の2号がヘテロだな。
女性であれば誰でも入店可能のようだし、手前のガチ勢にくっ付いて来たら、奥の友達もハマっちゃったってとこだろう。
「けど────」
手前のネエちゃんが、ふと語気を落とす。
「本気で好きになるのは、やめといた方がいいですよ。」
「というと?」
「志帆さん、遊ぶ程度なら付き合ってくれますけど、本命の恋人は絶対作らない主義だから。」
遊ぶ程度なら付き合ってくれる?
本命の恋人は作らない主義?
口ぶりからして、ネエちゃんは"遊ぶ程度"の経験者と思われる。
虫も殺せないようで、志帆さんって意外と見境なかったりするのかな。
ギャップ萌えなような、ちょっとショックなような。
「───お待たせしました。
まずこちら様に、リキュールハイボールと、スモークチーズのカプレーゼ。」
しばらくして戻ってきた志帆さんは、おつまみの器とハイボールのグラスを司の前に置いた。
「こちら様にはフロリダと、チョコレートブラウニーです。」
私の前には、鮮やかなオレンジ色のカクテルと、チョコレートブラウニーの包みが置かれた。
どちらも甘そうだけど、フロリダってアメリカの州か?
馴染みのないお酒だな。
「志帆さん。」
「はい?」
「って、仰るんですよね?
さっき、そちらのお二人から伺いました。」
「ああ……。
そういえば、自己紹介がまだでしたね。」
司に促され、志帆さんは背筋を伸ばした。
「この度はご来店いただき、ありがとうございます。
フロムニキータのオーナーをしております、樫村志帆と申します。」
樫村。樫村志帆さん。覚えた。志帆さん。
司の動向を窺いつつ、自分はどう出るべきか脳内シミュレーションする。
「私は七波です。下の名前は司。
───と言っても、本名じゃあないんですけど。」
「そうなの?なにか特別な理由?」
「いやいや、単に源司名ってだけですよ。」
「源司名?」
「なんていうか、半分ホストみたいなことしてて。
その時に使ってる営業用の名前を、なんとなく普段でも名乗ってるんです。」
「へー。どうりでカッコイイわけだ。」
司の自己紹介が終わった。
次は私のターンだ。
落ち着け。
接客中のテンションだ。
王子様スマイル王子様スマイル。
「私も、彼女と同じとこに勤めてて、音琴っていいます。
本名は、小田切音々《ねね》です。
これを機にぜひ仲良くなりたいので、良ければアダ名の"音ちゃん"って呼んでください。」
司と違って、私はちゃんと本名も明かしたぞ。
節度はないけど礼儀は弁えられる女だからな。ウフフ。
「司くんと、音ちゃんね。覚えておきます。
ホストみたいって言ってたけど、ひょっとしてナンバーワンツーだったりする?」
「よくお分かりで。」
「やっぱり。二人とも洗練された感じするもんね。
というか、そんなお店あったんだ。」
「この辺りじゃ珍しいですかね。」
自然に話せるようになってきた。
この調子で核心に迫って、"本命の恋人を作らない"とやらの真意を確かめてやる。
「───いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「すいません、4人なんですけど……。」
「大丈夫ですよ。そちらの席へどうぞ。」
意気込んだ矢先、ちょっとした団体客が来店した。
「オーナーさんですか?」
「はい。オーナー兼バーテンダーをしております。」
「めっちゃイケメンですね!」
「お名前なんていうんですか?」
「わたし達、こういうお店来るの初めてなんですけど───」
一気に賑やかになる店内。
ホールとバックヤードとを行き来する志帆さん。
ちょっとしたと言えども、一人で切り盛りする身には大童の事態だ。
この非常時に、私だけが志帆さんを独占するわけにはいかない。
「忙しそうだな。」
「うん。」
「ここは常連さんの顔を立てて、我々は早めに引き上げるとしますか。」
「うん……。」
私と司は意見を揃え、お酒とおつまみを流し込むように平らげた。
もっとゆっくり味わえたなら、もっと美味しく頂けただろうに。
楽しみが延びたということで、今日のところは我慢しよう。
「───ごめんね。せっかく来てくれたのに、慌ただしくて。」
「いえ。どんな場所か知れただけでも良かったです。」
「スマートな返しだ。」
会計。
志帆さんと司が、レジを挟んでお愛想し合う。
「機会があったら、また顔出してね。お詫びに一杯サービスします。」
「そうですね。機会があれば。」
"機会があれば"の"機会"は、当面やって来ないだろうと二人は思っている。
「気を付けて帰ってね。」
「はい。ご馳走様でした。」
「ご馳走サマでした。おやすみなさい。」
私は違う。
機会があったらここへ来るのではなく、ここへ来るための機会を作るつもりだ。
消化不良のまま引き下がってなるものか。
「司。」
「うん?」
「私さ、ここ通うわ。」
玄関先で、ふと後ろを振り返る。
フロムニキータ。
地元で唯一のビアンバーにして、地元に他といないミューズのおわす場所。
私の命運を定めた分岐点。
「マジ?そんな気に入った?」
「うん。
店がっていうか、志帆さんを。」
カーテンに遮られた窓の向こうでは、志帆さんが休むことなく働いている。
「え。
お前あれ、マジだったの?」
「だったみたい。」
「"みたい"?」
恋に恋してるだけと言われれば、そんな気がする。
物珍しさの範疇である線も否めない。
ただ、志帆さんの姿を目にした時、志帆さんの声を耳にした時。
志帆さんの歩き方を、志帆さんの笑い方を、志帆さんのグラスの触れ方を知った時、段階的に思ったんだ。
どんな形であれ、私の一生に影響を与える人になると。
「正直、自分でもよく分かんないんだよ。
今まで好きになったことないタイプだし。」
「歴代のと比べると、真逆も真逆よな。」
「なんだけど……。
これがどういう類のパッションとしても、強烈に惹かれるってことだけは分かんのよ。」
「パッション。」
「笑うな。」
だから、確かめたい。
本当に恋なのか、気まぐれに過ぎないのか。
今すぐじゃなく、時間をかけて丁寧に、答えを出したい。
「つっても、多分あの人ウチらとどう───」
「そういうわけだから!今日はどうもありがとう!おかげでなんか吹っ切れたわ!」
司が何かを言いかけたが、私は一方的に感謝を述べた。
司は続きを言い直さずに、"なら良かったよ"と肩を竦めた。