蒼い糸 1
*あらすじ
クリスマスイブの夜。
借金返済のためデリヘル嬢として働く晴子は、とある人物から新規の指名を受ける。
その人物とは、客は客でも、晴子と同じ女だった。
想定外の事態に戸惑う晴子。
女は晴子に迫ることなく、遠慮がちにこう言った。
3時間5万円分の自由時間。
仮初めの友人として、一緒に遊んでくれないかと。
私は今、風俗店で働いている。
有り体に言うと、デリバリーヘルスを生業としている。
いわゆるデリヘル嬢というやつだ。
風営法が厳しく是正された昨今において、何故こんな汚れ仕事に身を沈めているかというと、理由は簡単だ。
手短に確実に、より多くの金を捻出する必要があったから。
「───いやー、やられたわ。
なーんか裏でコソコソやってるなーとは思ってたけど、まさか借金こさえてたとはねー。
しかも2000万!田舎なら御殿が建っちゃうね!」
「………。」
「はてさて、これからどうしたもんか……。
長らく働いてなかったから、感覚取り戻せるか不安だわー。
あ、こんなオバサンに正社員は、もう無理か。今時のアルバイトって、どんなのがあるのかしらねー。」
「………。」
「そうだ、晴子。あれ、二人で呑んじゃいましょ。
お父さんが大事に取っといてた、なんか高そうなお酒。
馬鹿よねー。どうせ居なくなるんだったら、最後に一口くらい───」
「お母さん。」
「うん?」
「いいから、無理しなくて。
無理に明るくしようとされると、逆にワタシも、しんどい。」
「……そっか。
ごめんね、空気読めないって、こういうとこよね。」
「そういうのも、いいから。
あいつに言われたことなんか、もうぜんぶ忘れな。」
「……根っからの悪人だったなら、今すぐ忘れてやるんだけどね。」
「お母さん。」
「うん?」
「ワタシがいるから。
これからはワタシが、あいつの代わり、なるから。」
「そんなこと───。
……そうね。お前は、そういう子だったね。」
「がんばろ。
2000万なんて、2億に比べたら端金だよ。」
「ふふ、頼もしいこと。
………ありがとう、晴子。」
私がまだ大学生だった頃に、父親が借金を作って蒸発した。
額はなんと2000万円。
もともとお金にだらしない人ではあったが、これだけの大金をいったい何に注ぎ込んだのか、詳しいことは分からずじまいだった。
ただ、2000の数字を引っ提げて、コワモテの金融屋が我が家を訪ねてきた時。
私の青春は今日で終わるんだということだけ、漠然と分かってしまった。
「───おかえり、お母さん。」
「あら、晴子。今日はもう上がり?」
「いや、忘れ物とりに来ただけ。この後すぐ、店のシフト。」
「よく持つわね、一日に何件も……。ご飯はちゃんと食べてるの?」
「適当に食べてるから大丈夫。
お母さんこそ、コールセンターなんて本当に務まるの?
知らない人と喋るの、大の苦手なくせに。」
「四の五の言ってられないからね。
こっちはもう上がりだから、晩ごはんのリクエスト、あれば聴くけど?」
「あー……。
せっかくだけど、晩ごはんは無理そう。今日も朝までコースだから。」
「じゃあ、朝ごはんでもいいわ。作っとく。なにがいい?」
「んー……。なんか、おみそしる。」
「他には?」
「別にいい。味噌汁あれば充分。」
「そんなこと言わないで、たまには気にせず美味しいもの───」
「ごめん急ぐから。いってきます。」
「……いってらっしゃい。」
あの日を境に、私と母での尻拭い人生が幕を開けた。
大学を中退した私は、コンビニと居酒屋で。
専業主婦じゃなくなった母は、スーパーとコールセンターで。
二人がかりで働いて、生活費を切り詰めて、コツコツと返済を続けてきた。
でも、どんなに頑張っても、所詮は雀の涙。
いつかは完済してやり直せる、なんて、夢のまた夢のような話だった。
「───お母さん、話、あるんだけど。」
「なに?仕事のこと?」
「……もっかい、一人暮らし始めようかなと、思って。」
「え?」
「新しい仕事、割のいい仕事、見つけてさ。それがちょっと、実家からは遠いみたいだから。
だったら近くに部屋借りて、そこから通った方が、結果的には安上がりかなって、思って……。」
「それは構わないけど……。なんの仕事なの?」
「なんか、あのー。パソコン関係。
特別な資格とかなくても、ある程度触れればオッケーなんだって。」
「ふーん……?
お母さんは、パソコンのことはよく知らないけど……。
割がいいってなると、大変な仕事なんじゃないの?」
「まあ、今までと比べると、拘束時間は長くなるけど……。そんなもんだよ。
むしろ、何件もバイト梯子するより建設的?」
「そう。なら良かった。
困ったことあれば、すぐ相談するのよ。」
「うん。」
「あと、たまにはご飯食べに帰ってくること。」
「……うん。ありがと、お母さん。」
窶れていく母、離れていった友達。
削られていく自尊心、流されていった市民権。
このままでは、私か母のどちらかが倒れてしまう。
青春どころか、人生そのものが終わってしまう。
悩んだ私は、母に隠れて新しい仕事を始めた。
デリヘル嬢として、身売りをする決意をしたのだ。
引っ越し屋より、治験のアルバイトより、一時でも男の捌け口になる方が稼げると思ったから。
「───そういえば、仕事の方はどうなの?
いつも電話じゃ教えてくれないから、心配してたのよ?」
「あー……、うん。忙しくて、つい。
でも大丈夫。なんとかやってけそうだよ。」
「……そっか。」
「お母さん?」
「いや、いいの。
話したくないなら、無理には聴かない。」
「そういうわけじゃ───」
「一人暮らしするって言い出したのも、本当は窮屈だったからでしょ?」
「え?」
「晴子、一人暮らしも、キャンパスライフも、ずっと憧れだったもんね。
なのに、家の事情で無理やり連れ戻すようなことして……。」
「そんなんじゃないって、お母さん。本当にただ、利便性がってだけ。
現にほら、二人でご飯食べるの、楽しいし。てか、一緒に暮らしてても、お互い忙しくて元から───」
「ごめんね、晴子。
いつでも、どこでも、あんたの好きに、あんたの自由にして、いいんだからね。」
「………。」
「ごめんね。」
「謝んないで。泣かないで。
お母さん悪くないから。ワタシも別に、大丈夫だから。」
「ありがとう。ごめんね。」
「……これ、美味しいね。おかわりあるの?」
「うん。あるよ。」
「もらっていい?」
「いいよ。いっぱい食べな。」
「……うん。」
本音を言えば、尊厳まで金に変える真似はしたくなかった。
はじめては好きな人と望んでいたし、ゆくゆくは結婚して子供を産んで、自分の家庭というものを持ってみたいと願っていた。
だからこそ今、腹を決めなければならなかった。
温かな家庭を思い描けるようになったのは、お手本で在ろうとしてくれた母のおかげ。
母がいなければ今の私はないし、ただでさえ不憫な目に遭いがちな母を、これ以上の不幸に晒したくない。
望みも、願いも。
大事に胸に仕舞っていた全部を、捨てることになってでも。
私は選んだ。
自分の幸せを掴むのではなく、自分と母の平穏を取り戻す方を、私は選ばざるを得なかった。
『───もしもしユリアちゃん?ごめんね準備中に。』
『いーっすよぉ。なんかあったすか?』
『実はそのー、さっき指名あった人なんだけどね?
追加でいろいろ注文してきて、なーんかタチ悪そうなニオイすんだよねぇー。』
『というと?』
『オプションってさぁ、だいたい慣れてる人が付けるモンっていうか、徐々に増やしていくモンなのよ。
そーれがコイツときたら、新規のくせにほぼフルコースで盛ってきやがってさぁー。』
『わー。めっちゃ上客じゃないすか。』
『だといいんだけど……。
せっかく高いカネ払ってるんだから、アレもコレもやらせろ、とかゴネだし兼ねないなーって懸念がね?
新人のユリアちゃんには荷が重いかなーってね?』
『なるほど。
支払いは問題ないんすよね?』
『それは既に。』
『行き先もホテルのままでいいんすよね?』
『安心安全の得意先です。』
『じゃー、ダイジョブっしょ。
いざとなったら警備員とか、よっちゃんもいるんだし。』
『……ほんとに大丈夫?今ならまだキャンセルできるよ?』
『まさか。
仮にヤバい奴だったとしても、骨抜きにしちまえばこっちのモンだ。
尻の毛まで毟ってきてやりますよ。』
『ステキ〜〜〜!!』
私と同じ年頃の若者は、瑞々しい青春を謳歌しているのに。
私は、薄暗い部屋で、途方もない円周率を数えながら、知らないおじさんの腹に跨がっている。
私と同じ学校だったあの人は、休日に旅行へ出掛けているのに。
私は、ATMを前に、明日のスケジュールを考えながら、消えるだけの札束を指で弾いている。
私と同じクラスだったあの娘は、愛を誓い合った誰かと、腕を組んで歩いているのに。
私は、一人で、夜道を、渡っている。
諦めきれない展望、捨てきれない自我。
同じ国に生まれて、同じ時を過ごしていても、私と彼ら彼女らでは、なにもかもが違う。
ふとした拍子に、そんなことが脳裏に過ぎったりして。
指定された住所に向かっている時や、帰り道に売れ残りのお弁当を買っている時。
酷い時には接客の最中にさえ、虚しさで涙が止まらなくなることが、たびたびあった。
いくら決意をしたといっても、分別をつけるには若すぎたせいかもしれない。
「───ただいまぁ〜。」
「お疲れー。どうだった?」
「最悪。」
「えっ、どのへんが?」
「史上最強に激クサ口臭だった。」
「ウワー、そっち系か。風呂入ってない系?」
「いや、身嗜みはちゃんとしてたから、たぶん歯磨きもちゃんとしてる。
内蔵からキてる系だな、あれは。」
「どっちにしろクサいのはキツいわ。
よく最後まで付き合ったね?」
「うーん。なんか、悪い人ではなかったんだよね。
ワタシがダメだよって言ったことは守ってくれるし、オプションも、色々つけてた割に全部はやらなかったし……。」
「デリヘル自体初めての人だったのかな?」
「かもね。
ともあれ、掴みはバッチシよ。今月中にもう一回くらい指名くるかな?」
「そうなったら、また激臭攻撃くらうハメになるね。」
「さりげなく口臭に効くノウハウ仕込んできたから、ちっとはマシになってることを期待します。」
「やるねぇ〜。」
それでも、きっとこれが、私の運命。
誰にも優しくされなくても、何処にも必要とされなくても。
誰かを傷付けたり、何処かで唾を吐く言い訳にはできない。
お母さんだけ、あの日に置いていけない。
「ユリアちゃん、23時からジョージさん。」
「はーい。いま準備します。」
いつ終わるかも知れない、この真っ暗闇の中で。
今日も私は、一夜限りの舞台へ赴く。
***
私がデリヘル嬢になって二年ほどが経過した、ある日のことだった。
聖なるクリスマスイブの夜、まさに聖夜に、新規の客から指名が入った。
仕事でもプライベートでも予定のなかった私は、二つ返事でOKした。
「───ご新規でフリーコース一点集中とは、ジョージさんの再来か?」
「更に上でしょ。オプションも付けてないんだもん。」
「よっぽどこういうのに疎いか、よっぽどユリアちゃんが好みだったか、だね。」
「せっかくのクリスマスなのにね。」
「それはどっちの意味で?
先方視点?ユリアちゃん視点?」
「どっちもだよ。
ワタシも普通に萎えるけど、クリスマスにデリヘルなんか呼んでも虚しいだけだろ。」
「一人ぼっちで過ごすよりはマシなんじゃない?
そういう人がいるおかげで、我々もメシ食えてるわけですし。」
「……それはそうだけどさ。
ワタシが男だったら、絶対、こんなことしないのにな。」
送迎車のドライバーである吉原さんと向かった先は、繁華街から少し外れたアパート。
受付担当の井春さんによると、3時間5万円のフリーコースを希望で、追加のオプションは不要とのことだった。
うちの系列は相場よりお高めの料金設定なので、オプション抜きのフリーコースを選んでくれる客は滅多にいない。
せっかくのクリスマスにという気持ちも無くはなかったが、せめて有り難い客に当たったのは幸いだったと、私は密かに安堵した。
「じゃ、ここ停めてるから。」
「あいあい〜。」
「なんかあったら───」
「分かってるって。お留守番よろ〜。」
「尻の毛まで毟ってくるのよ〜。」
「いつまで擦んねん、それ。」
目的地に着いた私は吉原さんと別れ、支給品のスマホで客と連絡をとった。
「"今、アパートの近くにいます"ー……、よし。」
すると一分も経たないうちに、客から返信があった。
既に準備は済ませてあるので、いつでもインターホンを鳴らしていい、らしい。
「(誰もいない───、な。
やる気まんまんウケるわマジで。)」
人目がないことを確認し、アパートの階段を上っていく。
二階角部屋、2ー1号室。
客の住まいであるという部屋以外、どこも明かりが点いていない。
どうやら、他の住人は出払っているようだ。
今頃は彼氏や彼女、友達や家族と一緒に、大通りのイルミネーションでも眺めているかもしれない。
「(イルミネーション、か。
ワタシも、何年も、見てないや。)」
ここまで来て、今更な話だけど。
よりにもよってクリスマスに女を買うなんて、今日の客はよっぽど寂しい男なんだろうか。
私に言えた台詞じゃないとはいえ、どうせならもっと身になることに投資すべきじゃなかろうか。
5万円もの大金を支払って、3時間だけ知らない女に慰めてもらうのと。
その分で自分磨きを頑張って、本物の恋人や結婚相手を見つけるのと。
誰がどう考えても、後者の方が良いに決まっているのに。
まあ、私に言えた台詞じゃないし、私の懐は助かるから、なんでも構わないんだけど。
「ふー……。さむ。」
2ー1号室前。
インターホンを鳴らし、待つこと更に一分弱。
パタパタとこちらに駆けてくる足音が、室内から響いてきた。
遠慮がちにドアが開かれる。
現れたのは、想像とは全く異なる姿をした人物だった。
「えっ……。」
女だった。
いかにもキモオタ風の青年か、ハゲ散らかした妖怪ジジイあたりが出てくるものと思いきや、若い女が普通に出てきた。
それも、黒髪のショートヘアで整った顔立ちをした、風俗なんかとは縁のなさそうな風貌の女だ。
「誰、あんた。」
もしや、訪ねる部屋を間違えたか。
もしくは、代理人が応対だけしに来たとか?
だとすると、この女と客とは、どういう関係なんだ。
姉?妹?家族を招いた上でデリヘルも呼ぶのは、さすがに頭沸きすぎだろう。
そもそも知人という線が薄い気がする。
あ。
他店からも別のデリヘルを呼んでいて、私と合わせて三人で楽しみたいってことだったり?
可能性としては有り得るけど、うちの系列そういうのお断りだし。
下手すりゃ違約金発生の案件だし、違うかもしれない。
想定外の事態に驚いた私は、いつもの口八丁を忘れて、女の動向を窺うしかなかった。
女は何かを察した顔で、恐る恐ると第一声を放った。
「きゃらめるしんどろーむの、ユリアさん?」
"きゃらめるしんどろーむ"とは、私が在籍する派遣サービス店の商標名であり。
"ユリア"とは、私のデリヘル嬢としての源氏名である。
つまり、私が訪ねる部屋を間違えていないことと、女の存在自体も間違いではないということが、先程の発言により明らかとなった。
「立ち話もなんですし、とりあえず、どうぞ。」
突っ込みどころは多々あれど、一先ずは女の厚意に甘えさせてもらうことに。
雪の降る師走の北海道と、ミニスカへそ出しルックのギャルは、ミスマッチなんてもんじゃない。
**
「───あの。
直球で悪いんだけどさ。おたくはその……、レズなの?」
玄関に上がり、ドアが閉まってから、私は二の句にそう尋ねた。
レズビアンが嫌いなのではない。
私自身は、レズビアンにもゲイにも、セクシャルマイノリティと呼ばれる人たちに特段の偏見はない。
女が当事者だった場合には、うちでは対応していないと断る必要があったのだ。
「レズ……?
あ、そっか。そうですよね。すいません、あの、そうじゃなくて。
わたしはレズビアンではないですし、貴女をそういうつもりで呼んだのでもないです。」
女は微笑んで、そんなつもりはないと曖昧に答えた。
性的な意図がないということは、女はやはり代理人的な立場なのか。
だったら、一向に現れない客本人に、この事態を説明させるまでだ。
「じゃあ、なに?何がどうなって、この状況?
つか、こういうのは客自身が交渉することでしょフツー。本人どこいんの?」
今度はちょっと強気に、部屋の奥にいるだろう客本人にも聞こえる声量で問い詰めた。
女は不思議そうに大きく瞬きをしたあと、悪気はなさそうに小さく吹き出した。
「あ、ごめんなさい。
わたしです、わたしが客自身です。」
「は?」
「すいません。まずはお茶でも、とか思って……。先に言うべきでしたね。
わたしが、貴女を指名したんです。きゃらめるしんどろーむのユリアさん。」
女の正体は、客の代理人でなければ、他店の同業者などでもなく。
恐ろしいことに、女自身が、私を買った客本人であるという。
ますますもって、意味不明すぎる。
レズでも代理でも手違いでもないなら、こいつは一体、なんのために私を。
「……あー、うん。ごめん。
ワタシ馬鹿だから、ちゃんと説明してもらわんと、なんのこっちゃ分からんわ。
してもらえる?説明。いちから、ちゃんと、馬鹿でも分かるように。」
「あ、ハイ、えと、はい。
実は、その……。お恥ずかしい話なんですが───」
"話し相手がほしかった"、と。
おもむろに語りだした女は、何故か仄かに赤面していた。
クールな印象から一転、実は落ち着きがないタイプなのかもしれない。
「せっかくのクリスマスだっていうのに、彼氏どころか、一緒に遊んでくれる友達もいなくて……。
今年もぼっちで過ごすのかぁって、がっくりしてたんですけど……。
ふと、思い付いちゃったんです。相手がいないなら、作っちゃえばいいんだって。」
「だ───、からって、なんで、よりによってデリヘル?
友達じゃなくても別に、同僚とか家族とか、他に声かける当てくらいいたでしょ、いっぱい。」
「それはそうなんですけど……。
なまじ知り合いだと、変に肩肘張っちゃったりして、却って辛いので。
その点、お金で買って買われた相手なら、手放しで愚痴を言い合ったり出来るかなって思ったんです。」
一通りの言い分を聞いて、私が女に抱いた所感は、"変なヤツ"だった。
だって、クリスマスをぼっちで過ごしたくないからって、5万円もこんなことに使うなんて。
まともな人間の発想じゃないし、いつもの私だったら、何やかやと理由をつけてお暇するところだろう。
でも。
「ごめんなさい、変なことに巻き込んで。
支払いは勿論そのままでいいですし、違約金とかチップとか、そういうのが必要なら、上乗せで請求してもらって構いません。
だから……。1時間でも、30分でもいいから、ここにいて。
わたしは、貴女に興味がある。貴女の話を聴いてみたいんです。
どうか、わたしとお喋りを、してくれませんか?」
伏し目がちにぎこちなく、困ったように笑ってみせる姿が綺麗で。
そして同時に、哀しい影を背負っているように、私の目には映って。
ああ、私みたいな奴を、人間扱いしてくれる人もいるんだって。
真昼の世界の住人でも、本当の夜を知らない人種でも、私たちの孤独に寄り添ってくれることがあるんだって。
不覚にも、情のようなものに絆されてしまったのだ。
「……わかった。
そこまで言うなら、3時間きっかり、あんたのおふざけに付き合ってあげる。」
「ありがとうございます!」
「ただし!
こんなんマジで、ワタシの経験にないし、だから、ルール違反に当たるとかも知らんからマジで、内密に。
違約金もチップもいらないからくれぐれも、ここだけの秘密ってことにしといてよね。」
「了解しました!」
「あと、」
「はい!」
「……あんたの方が、思ったより退屈だったとしても、返金対応とかは、してあげらんないから。
あんた自身でも楽しもうって、努力してよね。」
「……はい!
既に楽しいです!頑張ります!」
「返事だけはいいな……。」
たかが3時間。されど3時間。
受け取る報酬はそのままで、内容はただ話し相手になるだけでいいという。
そんなの、断るわけがない。
男の欲求の捌け口になるのと、女の仮初めの友達になるのと、秤にかけるまでもない。
むしろ、女の金銭感覚が心配というか、私の方が申し訳なさを覚えるくらいだ。
「ちなみに、チェンジは?」
「ナシで。」
「急に冷静になるな。」
後になって思えば、この時には騙されていたのだ。
彼女のついた、最初で最後の嘘。
私のためだけに仕組まれた、彼女の痛ましくも優しい物語に。
**
玄関での立ち話を切り上げ、いざ室内へ。
通されたリビングは、クリスマスムード満載の仕上がりとなっていた。
「───なにこれーーー!」
「うふふ、びっくりした?」
小学生の背丈ほどあるクリスマスツリーに、女子ウケを意識したであろうパーティー飾り。
テーブルいっぱいに並べられたご馳走に、美しい意匠の施されたホールケーキ。
聞けば、ご馳走はすべて彼女の手作り。
ケーキは評判の店まで買いに行ったものだという。
本来の目的で私を呼んだのであれば、爆笑必至の異様空間だったところだけど。
友達を招くために用意された部屋と考えれば、その友達はきっと嬉しいに違いない。
「───あ、これすごい美味しい。これも手作りなの?」
「そう。
ネットで調べて作ったやつなんだけど、気に入ってもらえたなら良かった。」
「へー。料理上手なんね。」
「ユリアちゃんは?自炊とかするの?」
「たまにかな。
こんなのと比べられちゃうと、犬の餌のがよっぽどマシって感じ。」
「最近のペットフードって美味しいらしいね。」
「そのコメントは違うくない?」
「───うーわ!駅前んとこのケーキじゃん!
いっつも馬鹿みたいに並んでんのに、わざわざ買ってきたの?」
「たまには贅沢しようと思って。
一人じゃ食べ切れないから、ユリアちゃんもいっぱい食べてね。」
「ええ〜〜〜……。
嬉しいけど、カロリー……。今日一日で何カロリー……。」
「大丈夫だよ。
ユリアちゃん細いし、ちょっとくらい食べ過ぎても。」
「帰る頃にはヘソ出し三段腹になりそう。」
「食べ過ぎた時は一段じゃないかなぁ?」
「だから違うってコメント。」
「───へー。あんたゲームとかすんだね。意外。」
「よく言われる。
子どものころ禁止されてたから、その反動かな?」
「あ、これ先週出たばっかのやつじゃん。
これの最初のやつとか、えー、何年前だ?
小学生の時、友達とよくやってたわ。」
「やる?まだ時間あるし。」
「いいの?」
「もちろん。手加減しないぞ。」
「こっちのセリフよ。
ワタシの華麗なドラテクに、えー。
抜く……、なにを抜く……」
「度肝?」
「それ。それを抜かれるがいいわ。」
「締まらないなぁ。」
ご馳走やケーキを食べながら、クリスマス限定の特番を観たり。
大人数用のゲームで遊んだり、流行りのスマホ動画を共有したり。
最初はよそよそしかった空気も、いつの間にか、幼馴染みといるように温かくなって。
気付けば、こんなに楽しいクリスマスは小学生以来だと、彼女以上にはしゃいでしまっている自分がいた。
彼女は、そんな私を嗤ったりすることなく。
自分も楽しいと言って、子供みたいに一緒にはしゃいでくれた。
「そういえば、さ。」
「なに?」
「なんでワタシだったの?」
「え?」
「指名。
他にもいっぱい、ワタシなんかより可愛い子、いたでしょ。
なんでワタシにしたの?」
「……なんとなく。直感。」
「直感?
ギャル好きとかドMとかってこと?」
「ユリアちゃんのお客さんって、みんなそういう……?」
「そりゃそうでしょ。
でなきゃ清楚系一択よ。デリヘル嬢に清楚もクソもねーけど。」
「んー……。そういうの、あんまり考えたことなかったけど……。
どうせなら、自分と遠いタイプの人がいい、くらいの基準は、確かにあったかも。」
「ふーん。」
「それ抜きにしても、純粋に可愛さでも、きっとユリアちゃんを選んだよ。
あの中で、ユリアちゃんが一番かわいかったよ。」
「ふ、フーン?」
彼女からの申し出を無視しなくて良かった。
今日という日を彼女と過ごせて、彼女が選んでくれた相手が私で、良かった。
私が私で良かったと、そんな風に思えたのは、これが初めてだった。
「───じゃあ、そろそろしよっか。」
「エッ?」
「話。」
「あ、ハナシ……。
そうだったね、ごめん。」
「気が乗らない?」
「そんなことは───、あるか。
ロクな人生送ってこなかったからさ、ワタシ。
たぶん、なんも面白い話、できないと思う。」
「……無理しなくていいよ。
ただわたしは、面白いとかつまらないとかじゃなくて、ユリアちゃんの話なら、聴いてみたいって思っただけ。」
「……そっか。なら、いいよ。」
「いいの?」
「いいよ。
こんだけおもてなししてもらったんだもん。せめて名乗るくらいは、ね。」
「ありがとう。
じゃあまずは、わたしから。」
「お願いします。」
指定された刻限まで、残り一時間を切った頃。
音楽番組のムーディーなメドレーをバックに、私たちは互いの身の上話を始めた。
そこで私は、彼女と自分が全く異なる人種であることを、改めて痛感した。
「へー、カッコイイ名前だね。音だけ聞くと男の子みたい。」
「よく言われる。
事務的な場面でも誤解されたりね。」
「……ちなみに、ワタシはなんて呼んだらいい?」
「好きなようにでいいよ。黒石でも真咲でも。」
「じゃあ、"真咲さん"って呼んでもいい……?」
「えっ、下で呼んでくれるの?」
「だって、ワタシのこと"ユリアちゃん"って……。
いや、源氏名に名字の概念……?」
「なんでもいいよ。
ユリアちゃんに呼んでもらえるなら、なんでも嬉しい。」
「……あんたってさ。」
「うん?」
「なんでもない。」
黒石 真咲。
23歳独身。市役所勤務。
家族構成は父母姉の四人家族。
趣味は手芸と食べ歩きとゲームと読書。
過去の恋愛経験は、恋人未満のボーイフレンドが高校時代にいた程度。
友達も少ない方で、幼少期は人見知りかつ引っ込み思案な性格だった。
などなど。
彼女の人となりを纏めると、大体こんな感じだった。
「晴子ちゃんか。かわいい名前だね。」
「よく言われるわ。名前だけはかわいいねって。」
「名前もなのにね。
ギャルといえばクールなイメージだからかな?」
「で、───真咲さんは、どうするの。」
「なに?」
「ワタシの呼び方。
上でも下でも、ワタシもどっちでもいいけど。」
「……"ユリアちゃん"のままでいいよ。」
「なんで?」
「だって、今はお仕事中なわけでしょ?
お客さん相手に本名なんて、普段は絶対教えないわけでしょ?」
「そりゃあ、まあ……。」
「だから、今はいいよ。
ただでさえ、ルール違反ギリギリなことさせちゃってるんだし。
最低限のケジメはつけないとね。」
「真咲さんが、それでいいなら……。」
もちろん、彼女にばかり語らせるわけにはいかず。
私も一応の自己紹介と自己開示はさせてもらった。
本名に年齢、趣味や学生時代の思い出など。
人に自慢できるような内容のものはなかったけれど、彼女は全部を興味深いと喜んでくれた。
ただ。
どうして今の仕事に就いたかだけは、どうしても自分の口からは言いたくなくて。
真咲さんも知りたそうな顔をしつつ、無理に掘り下げることはしないでくれた。
「───あー、たのしかった!
三時間も持つかなーって不安なくらいだったけど、あっという間だー。」
「……そうだね。」
「最後まで付き合ってくれてありがとう。
おかげさまで、向こう一年は元気に過ごせそうだよ。」
「こちらこそ。」
「そうだ。
このあと予定ないならさ、いろいろ持って帰らない?
ご飯もケーキも余ってるし、タッパーも別に返さなくていいし───」
「あの!」
「ん?」
「お土産、も、嬉しいけど……。またその、ワタシと───」
「あ、そっか。時間厳守なんだもんね。
引き止めてごめんね。これ、カイロあげる。おなか冷やさないようにね。」
「え?あ、うん。ありがと……。」
「じゃあ、バイバイ、ユリアちゃん。気をつけて帰ってね。」
「………ばいばい。」
そして、約束の三時間後。
ここまで仲良くなれたのだから、連絡先くらいは交換しておきたい。
そう思った私は、普通の友達としてまた会えないかと、勇気を奮って切り出そうとした。
しかし、真咲さんの方にそれらしい素振りはなく。
今日は楽しかった、いい思い出をありがとうと締めくくると、彼女は私を帰してしまった。
その瞬間、私は自分が恥ずかしくなった。
「………は、」
そうだ。
最初から彼女は、クリスマスを一緒に過ごしてくれる、話し相手を探していただけだった。
なのに、私ときたら。
こんなに楽しく遊べる相手なら、既に友達のようなものだろうと、勝手に舞い上がって。
そもそも、お金を貰ってここに呼ばれたのだということを、すっかり忘れていた。
自惚れるな。
彼女は市役所の職員で、私はしがないデリヘル嬢。
メイクの仕方が違えば、見ている景色も歩いている道もぜんぜん違う。
もっとちゃんと、自覚を持て。
たとえ馬が合おうと、偏見がなかろうと。
身売りをしている女なんかとは、お日様の下で並ぶ気はしないはずだ。
「(バッカじゃねーの。)」
いいや、もう。
一夜限りのごっこ遊びだったとしても、二度と会う機会はなかったとしても。
彼女が私に、対等に接してくれたことは確かだから。
その思い出だけ貰えたら、もういいや。
「ワタシも、楽しかったよ、真咲さん。」
こうして私は、吉原さんの待つ駐車場まで戻り、デリヘル嬢としての日常に帰っていったのだった。
ドアに向かって呟いた最後の独り言を、ドアの向こうからしっかり聞かれていたとは、露知らずに。
***
あのクリスマスイブから二週間後。
二度と会えないかもしれないと覚悟していた真咲さんと、拍子抜けするほどあっさり再会した。
それも以前と同じく、真咲さんの住むアパートで。
私がデリヘル嬢として招かれる形でだ。
「───あのさ。
こないだ別れた時、"もう会うことはないでしょう"みたいな雰囲気出してたよね。」
「えっ、そうだっけ?」
「そうだよ!
また遊びたいから番号教えてよ、とか聞いてくれるの待ってたのに、ぜんぜん知らんぷりだし。めっちゃあっさりバイバイって追い出しちゃうし。
実は結構ショックだったんだけど。」
「ワァ。
ユリアちゃんって、意外といじらしいとこあるんだね。」
「そーゆーことじゃなくて!!
……なんでまた、ワタシを呼んだの。
真咲さんが相手なら、お金なんかいらないのに。いつでもどこでも付き合うのに。
なのになんで、ユリアとしてのワタシを、また呼んだの。」
初対面とは違う意味で、私はまた真咲さんを問い詰めた。
プライベートな交流はNGみたいな顔をして、会うこと自体を拒まないのは何故なのかと。
ユリアとしてのワタシは歓迎してくれるのに、尾田晴子としての私は友達にしてもらえないのかと。
「ごめんね。
ユリアちゃんの気持ちはすごく嬉しいし、ユリアちゃんみたいな人なら、わたしも友達になりたいって思うよ。」
「だったら───」
「でも、だめなの。
ユリアちゃんがこの仕事をしてるから、わたしが役所で働いてるから嫌なんじゃなくて、駄目なの。」
申し訳なさそうに、真咲さんは釈明した。
私が食い下がると、今度は寂しそうに、真咲さんは弁解した。
「友達作りが滅法ヘタだって、前に話したの、覚えてる?」
「うん。」
「あれ、積極的にコミュニケーションを取るのが苦手ってのもあるけど、それだけじゃないの。」
「どういうこと?」
「……わたし、もう、普通の人付き合いって、怖くて出来ないの。」
聞けば真咲さんは、同性間での友情に対して、一抹の猜疑心と恐怖心を抱いているのだという。
原因は、かつての曲事。
親しかったはずの友達が、陰で自分の悪口を言いふらしているのを見てしまったから。
笑顔の裏に悪質な本性を隠している人間は、意外と身近に潜んでいるという現実を、図らずも知ってしまったからだそうだ。
いつしか彼女は、誰のどんな在り方にも、まず懐疑の目を向けるようになったらしい。
自ら近付いてくる人、出会って間もない内から慕ってくる人には、特に。
その話を聞いて私は、カルチャーショックに似た衝撃を覚えた。
そもそも世間から見下される立場の私たちは、互いの苦労を知っている分、仲間同士で足を引っ張り合う真似はしない。
逆に公務員など、真昼の世界に生きる人たちならば、エリートらしいスマートな人間関係を築けると思っていたのに。
どうやら世間には、エリートならではの衝突や軋轢というものも、少なからず存在するようだ。
「誤解しないでほしいんだけど、ユリアちゃんを信用してないんじゃないよ。
これはあくまで、私個人の、心の問題。
目の前にいる相手が、どんなに優しい、良い人でも、神様仏様だったとしても。
どうしても邪推が前に出ちゃうのが、今の私ってこと。」
「……うん。」
「お金のことなら心配いらないよ。
今まで殆ど使わなかったから、無駄遣いできる分はたくさん残ってるし。」
「………。」
「だから、お願い、ユリアちゃん。
わたしのために、もう少しだけ、我が儘に付き合って。
わたしがもう少し、大人になれたら、その時改めて、わたしの方から、友達になってくださいって申し込むから。」
真咲さんの気持ちは理解した。
あくまで私を、職業上の"ユリア"として扱いたがる訳も。
それでも。
こうして会って話をするだけの時間に、大事な貯金を使ってほしくなくて。
友情を育む練習として、実験台として自分を相手に望むなら、無償で構わないと。
真咲さんの役に立てるなら、いくらでも時間を作ると、私は説得した。
真咲さんは、譲歩も妥協もしてくれなかった。
私が傷付くことは絶対にしないでくれるのに、私の前向きな提案だけは聞き入れてくれなかった。
「ワタシは、どうすればいいの、具体的に。」
「一緒にいて。
一緒にごはん食べたり、なんでもないお喋りをして。」
「クリスマスの時みたいに、ってこと?」
「そう。」
「……どうしても、金銭のやり取りは必要なの?」
「必要。
病院へ行くのだって、お金がかかるでしょう?
わたしの我が儘───、ほぼ病気みたいなものに付き合わせるんだから、当然の対価だよ。
受け取ってもらえないと、困る。」
「だったら普通に病院に───」
「ん?」
「……いや、いい。」
普段の私だったら、どんな人が相手でも、特別な情が湧いたりしない。
ハリウッド俳優ばりのイケメンであろうと、僧侶並に寛大な人格者であろうと。
妻や恋人には相応しくない女だと、本心では私を馬鹿にしているに決まっているから。
だから尚さら、おかしいんだ。
さっさと負債を減らしたい手前、こんなにお手軽な稼ぎ方は、他にないのに。
彼女の気まぐれに愛想笑いで返していれば、労せず大金が手に入るというのに。
「一応聞くけど、チェンジはなしで、いいんだよね?」
「ユリアちゃん以外はお断り。」
なのに、どうして、私は。
彼女の中身が真咲さんだと思うと、真咲さんのためになる方法を選んでほしいと思うのだろう。