紅が優しい色になるまで
僕は嫌いな物が、沢山あった。僕を気味悪がる視線、僕を傷付ける石、耳にまとわりつく、不愉快で惨めな気持ちにさせるクスクスした声、自由に飛んでる鳥、お気楽な猫、撫でてもらえる犬、苦しんでる僕を起こす朝さえ大嫌いだった。
「シル、シル起きて」
「…ん」
「貴方、とても魘されていたわ」
なにか悲しい夢でも見たの?
そう言って彼女は、彼女自身が傷付いてるかのような表情をした。
悲しい夢?バカなセルフィナ。何もわかってない。君と出会ってから、そんなの見るわけがないじゃないか。
「ぼくは…ずっと、しあわせな夢を見てるよ」
セルフィナと出会ってから、動物好きなセルフィナの影響で、動物が好きになった。投げられた石は避ける事も、念で止める事もできる。視線も声も気にならなくなった。それに朝が待ち遠しくなったし、セルフィナと家族になってから、僕は朝が大好きさ!
夢の中ではセルフィナに会えない時があるけど、起きたら目の前にセルフィナがいる。目を見て話せるし、触ることだって出来る。
それに朝、目を開けて一番に彼女の瞳に映るのは僕で、僕の瞳にも一番初めに映るのは彼女だ。こんな幸せな事はない。
僕は君と家族になって、ずっと幸せだよ。
「せるふぃな…大好き…」
「そうそう、ありがとう。私も貴方が大好き。一等に大好きよ。だから、おやすみ」
「…手、つなぐ…」
「うん、繋ぎましょう。貴方が楽しい夢を見られるように、ずっと手を繋ぎましょう」
「………はなしたら、ゆるさない」
「ふふふ、分かってる。おやすみシル」
「ん」
大好きな、大好きなセルフィナ。僕が一等だって言ってくれた。忘れないよ、セルフィナが、僕を一等に好きだって言ってくれた事。
セルフィナが、僕の額にキスをする。僕は無意識だったんだけど、少し期待をしていたから、目を瞑って口を少し突き出し、セルフィナのおやすみのキスを待っていた。無意識だったんだけど。
ふふふ、セルフィナの優しい笑い声が、耳を擽る。瞼に、頰に、手を繋いだ指に沢山キスをしてくれた。僕は君に出会ってほんとに、幸せな夢ばかり見てるんだ。
セルフィナが、手紙を書いてくれた内容と同じように、朝は二人でお揃いのゴブレットで、ホットチョコレートを飲む。セルフィナの口の端についた、チョコレートを親指で取ったら、セルフィナが僕の口に手を伸ばした。どうやら、僕の口にもセルフィナと同じようにチョコレートを付けていたらしい。
昼になったらフレイアと僕達、三人でお菓子作りだ。フレイアが素敵な紅茶の葉を貰ったから、今日はその紅茶の葉を使ったシフォンケーキを作る。
「シルは手際が良いのね」
「…別に。普通でしょ」
オーブンの温度を調節してる、フレイアが後ろで笑う。どうやら、彼女には僕の心が読めているらしい。セルフィナに褒められて、喜んでいる心を。
昼になったら、バケットを持ち、箒を二人乗りして、真っ白な丘に行く。箒の先にぶら下がっているのは、人間除けのランプ。その火が灯っている間は、人間に箒も僕達の姿さえ見えない。
隣を飛んでいる、鳩が不思議そうに僕達を見ていた。
丘に着いたら、三時のおやつ。朝に焼いたアールグレイのシフォンケーキを食べる。僕は味覚が鈍感だから気にしないけど、セルフィナにはちょっと苦いらしい。生クリームを付けて食べている。
「お兄ちゃん、帰ろうよー!」
「まだダメだ。まだ花を見つけていない」
「花なんて、まだ咲いてないよぉ…」
「確かに見たんだ、雪に咲いている花。それを見たらきっと、母さん元気になるんだ」
セルフィナと目を合わせる。セルフィナはなにか企んだように笑って、ローブから杖を取り出した。彼等に向かって呪文を唱える。
すると、セルフィナの杖から春の匂いがする風が吹いた。セルフィナのダークブラウンの髪が舞い、いつも隠れている金のフープピアスが見えた。
春の小さな風が次々と杖から生まれる。その風は重なり合って、グルグルと回り、ポポポッと紅色の梅の花が咲いた。セルフィナが両手を使って風を操る。そのまま、口喧嘩している兄妹の方へ、優しく風を送った。
「わあっ!」
「きゃっ…あ、梅の花だ!」
先ほどまで、風がなかったから、突然の風に驚いた兄妹。でも、妹の方はその風に舞う、花の存在に気付いたらしい。証拠に手にちゃんと、セルフィナの梅の花が収まっていた。
「な!言っただろ」
「うん…でも、どこに咲いているだろうね」
「別にどこでもいいよ、早くそれをお母さんに見せよう!」
「あ、待ってお兄ちゃん!」
兄もちゃんとキャッチ出来た、その花を優しく手の中に隠して、兄妹は走って丘を下りた。
「ふふ、ふふふ」
隣で楽しそうに、セルフィナが笑った。セルフィナはたまに、イタズラをする。とても、とても優しく可愛いイタズラだ。
甘えさせそうになるが、僕はフレイアとセルフィナを守るって約束しているから、注意をするんだ。
「危ない事をするな、セルフィナ!」
「ふふふ、いま見た?風にビックリした男の子の顔」
「…セルフィナ」
「ふふっ、ふ、ごめんなさーい」
いくら人間除けのランプで姿が見えないからといって、騒げば人間だってきっと気付く。
多分このランプは、僕達を透明人間にしているのではなく、人間の視線を別の所に逸らしているのだと思う。今の場合は僕達の隣にある、大きな風車。空を飛んでいる時は鳩や、雲。
これは僕の仮定だから、本当の事は分からないのだけど。
「セルフィナ、本を読むんでしょ」
「うん、ふふふ、そうだったわね」
彼女の目には、先ほどの 驚いた男子の顔が浮かんでいるのだろうか。そう考えると、心臓が鉛のように重くなり、息をするのも苦痛になった。目の奥がジクジクと痛み、腹の中で眠っていたマグマが熱を持ち始めた。
僕は、セルフィナが他に目を向けるとなぜかこんな風になってしまう。ダンやフレイア、近所のおばさんに、お店のおじさん。
その人たちは大丈夫なのに、セルフィナの友達のディオンという僕より身長が高い男子は、とても好きになれなかった。声を交わす事さえ、腹立たしかった。
「異世界省の仕組みが気になるなんて、シルは頭がいいのね」
あ、セルフィナの肩が、僕の肩に触れている。
「…別に。ダンがそこで働いているんだから、気になるのは普通でしょ」
「うーん、少なくとも娘の私は気にならなかったわ」
彼女にとって、この距離は当たり前で、普通なのだろう。それが、僕はとても嬉しい。日常のように触れる、当たり前のように、普通に触れるその距離が、触れてくれるその距離が僕はとても嬉しい。
11歳のセルフィナは春になったら、異世界大魔法学校に通う事になる。それまで、僕は幸せな夢を守るよ。
「セル!」
「ダジィにディオンじゃない」
「セ、セル!!」
「あら、ユリィも。みんなどうしたの?」
「…セルゥ!」
「ユリィ、どうしたの?」
なにか、悲しい事があったの?
そう言って、セルは買い物袋を地面に置いて、右手でユリィの頭を撫でた。ユリィは涙をこらえていたが、セルに触れられて、その我慢のダムは決壊してしまったらしい。本格的に泣き始めた。
困った顔をするセルは、俺とダジィの顔を交互に見る。俺は、ダジィとアイコンタクトして、頷きあった。
「俺たち、噂を聞いたんだ」
ダジィが言う。
「セルがぁ、僕達とは違う学校…に、行くってぇ…」
「まぁ…そうなの」
続けて、ユリィが言った。ユリィは、この町のガキでは有名な人見知りで泣き虫。いつも笑顔で優しいセルの背中に、昔から隠れていた。そんなユリィにとって、噂は身が引き裂かれるような思いになるものなのだろう。ユリィの声は、こちらが苦しくなるほど、まさに悲鳴だった。
セルは、ユリィのブロンドを撫でていない左手を、口元に当てて呟いた。驚いたように呟いたその言葉に、俺は続けてセルに聞いた。
「セル、その噂は本当か?もし、噂が本当で、セルが、セルがその学校に行くのが嫌だったら、俺たちがセルを匿ってやる!」
「ま、待ってディオン。落ち着きましょう」
「僕は嫌だよ!セルと離れ離れなんてやだ!」
「ユリィ、落ち着いて。ね、ほらギュってしてあげる」
「セルゥ…」
「…」
「…」
ダジィと俺の顔は今、奥歯にキャラメルが詰まったような顔をしているだろう。
「噂はね、本当よ。まだね、両親に聞いてないのだけど、私はやりたい事があるから、だからみんなと違う学校に行くつもりよ」
広場のベンチに座るセルが、泣き疲れて眠ったユリィを撫でた。俺とダジィは、そのセルの前に胡座をかいて地べたに座る。
そこにはもう、雪は残っておらず、青い芝生が春の風に吹かれて揺れていた。
「なんだよ、それ…」
「ディオン」
ダジィが声を固くして、名前を呼ぶ。でも、俺は気付いてないふりをしてセルを睨みつけた。セルは、何もわかっていないような顔で首を傾げた。
「俺たちを置いて行くほど、それは大事な事なのかよ!俺たちより、あの黒髪の奴を取ったように、もう俺たちの事はセルにとって、どうでもいい事なのかよ!」
「ディオン…」
「どこにも行くなよ!俺たちとずっとに居ろよ!」
セルが、ハッとしたように俺の名前を呼んだ。なんだよそれ、黒髪の奴を贔屓していた事に、自分で気付いてなかったのか?
数週間前、セルがシルヴェスターという黒髪の奴を連れてきた。セルの弟という、そいつはいつもセルにくっついていて、セルもそいつにいつもくっついた。チームを組んでも、そいつと一緒。かくれんぼをしても、そいつと隠れる。
俺たちより小さくこの町の新人だからって、ユリィがセルの後ろを黒髪に譲っていた事も、セルは気付いてなかったのか?
ダジィが、俺の肩を掴む。別に抑えられなくたって、セルに暴力なんて振るわない。
だけど、本当にこの怒りのような感情が止まらないんだ。
「ディオン、ダジィ、ユリィ…今いないみんなも、この町も私は好きよ。大好きよ。とっても大好き。確かに、最近シルばかり構っているのかもしれない。でも、これだけは信じて。私がみんなをどうでも良いなんて思うはずが、ないじゃない!どうして、そんな悲しい事を言うのよ!!」
「セル…?」
セルはいつも笑顔で優しい。イタズラをされても、いつも困った顔をして許してくれる。怒った顔なんて、感情を乱す顔なんて、見た事がない。
だってセルはいつも笑顔で優しいから。
甘えていたのかもしれない。噂を聞いても、セルは優しいから、俺たちが我儘を言ったらきいてくれるんじゃないか、と心の何処に余裕があったのかもしれない。
セルはこんなにも、いっぱいいっぱいなのに。俺たちと、そんな変わりないけど、大人にとっては小さなその体には、どんだけの悩みを抱えているのだろう。
「セル…ごめん。俺は…」
「私こそ、ごめんなさい。怒鳴ったりなんかして…ディオン、仲直りの握手をしましょう」
「俺も仲直りの握手!」
「ぼ、ぼくも!!」
セルと俺が握手をしたら、ダジィが上からその手を覆った。すると、寝ていると思っていた、ユリィも飛び起きて、ダジィの上に手を置く。
パッチリと目が開いてるユリィ。とても今起きたのだとは見えない。
俺たち3人は、顔を見合わせる。ユリィの奴 狸寝入りしていたな、俺たちは同時にそう考えて、それから 吹き出したダジィに続いて、俺とセルは笑った。
ユリィは、何も分かっていないような顔をしていたけど、俺たち3人が笑っているので、つられて笑った。
きっと、桃色の花びらが舞う時期、セルの後ろ姿はもう見られないだろう。でも、良いのだ。離れていても、セルは俺たちの親友で、セルにとっても俺たちは大好きな親友のはずなのだから。
笑うセルを盗み見る。赤くなった瞳は、キラキラと光っていて、俺の心拍数を上げた。