黒髪とチョコレート
「あぁ、いやよ、もう、こわいの。あなたの力が…なにを考えているのか、サッパリわからないの。気味が悪くて…あぁ お願い、」
バタン、と右手でドアを閉じ 彼女の、ミセス・サリーの言葉を遮った。
愛してもらう事を諦め、もう二度と溶けない氷をまとったはずの心臓が、動く事も痛みさえ麻痺したと思ってた心臓が、苦しくて、息さえ辛くて、悲しいと、叫んだ。
ガチャリ ガチャリ、外から二重に鍵をかけられ、外との接触が遮断された。
目を閉じて、聞き耳を立てると、ミセスの感情を抑えた、口ごもる音が聞こえたが、それは 床の軋んだ音と一緒に遠ざかって行った。
孤児院の2階、北側の隅にあるこの部屋は、陽当たりが悪く、風が吹けば、庭師がサボって伸びきった木の枝が、コンコンと鍵の壊れた窓をノックする。
湿っぽく、気味の悪い音が聞こえるこの部屋には、誰も近寄りたがらない。
嫌われ者の僕にはピッタリだった。
「このドアノブを爆発させて、また姿を見せたら…」
どう思うのだろう。
きっと、彼女は声を出せないまま 腰を抜かし、手を合わせて請うだろう。どうか助けてくれ、と居もせぬ神に願うのだ。僕を見る、彼女の瞳はいつも恐怖で染められていた。
その瞳で見られると、チリチリと目の奥が熱くなる、それが僕は堪らなく嫌だった。
外を見れば、雲ひとつなく 天気がいい。茶色く細い枝は機嫌が良く揺れていた。
「――シル!シルヴェスター!」
ここは、湿っぽく、気味の悪い音が聞こえる部屋。誰も近寄りたがらない。
嫌われ者の僕にはピッタリだった。
そのはずだった。
「…また来たのか」
「もう!もう!やっと起きた」
ここに寝ては風邪をひいてしまうわ、
そう言って ダークブラウンの髪の彼女は、温かく、柔らかな てのひらで僕のほおを覆った。
僕が孤児院から抜け出そうとした時に、出会った綺麗なワンピースを着た少女。
危ないわよ、そう言って院だけでなく 町からも気味悪がられる僕に、躊躇なく触れたお嬢様に出会ったのは数週間前の事だった。
「来るなって言っただろ…なんでまた来てんの」
氷をまとったはずの心臓が、溶けていく。
穏やかなその優しさは、陽だまりのような笑顔で笑う彼女にとっては日常なのだろう。
僕にとっては、かけがえのないものなのに。
それでも、僕は傷付くのが怖くて、求めることに臆病になっていて、気持ちと反面の言葉を出した。
「あのね、ほら見て。これなーんだ!」
「…ただのスコーンじゃん」
「違うわ!とっても特別なものなのよ!」
低くでた声は、突き放すには十分。だが、笑う彼女の前では意味がないらしい。
その事すら、僕にとっては嬉しい事で、不機嫌な声なんて続くはずもなく、彼女がポケットから取り出したバターが香る一口サイズのスコーンを見下ろした。
「ねぇほら 食べてみて」
包みから取り出した、その指と一緒に口に押し込まれた。目で訴えれば、彼女は笑いながら手を、引っ込める。
サクッ、柔らかな音をたてて 口に転がせれば、甘く、どこまでも優しい、甘美な味がした。
「…チョコレート」
「ね!ね!特別でしょ?だってあなた、チョコが大好きじゃない!」
当たりでしょ!と手を叩く彼女を見る。
チョコレートは好きだ。ただ、その甘さが好きというわけじゃない。眺めているだけで、十分。
きっと彼女は分からない。僕なんかに、笑顔を向けるダークブラウンの髪をした、甘く、どこまでも優しい、チョコレートのような彼女は分からない。
猫の形をしたジンジャークッキーより、ナッツが入ったファッジより、カラフルなカップケーキよりも、ブラウンの君に似たそのお菓子が好きな理由を。
僕がどんな気持ちでそのお菓子を、見て、食べているだなんて、君は魚が水でしか生きる事が出来ない理由と同じくらい、分からないだろう。
でも 僕には分かるんだ。
魚が、限度があるそのスペースで生きる理由が。
爪先から頭のてっぺんまで、とっぷりと浸かった、優しさの波に揺られる その心地良さを、知っている僕には分かるんだ。
僕もまた、その水に焦がれて自ら溺れた、一人なのだから。
「セルー!仲間に入れよ!」
――今日はシルと遊ぶ約束をしたのに、寝坊をしてしまった。階段を降りた時、お父さんは玄関前で黒の革靴を履いている途中だった。
「お、おとうさんっ」
行かないで、そんな言葉が口から出そうなり、慌てて飲み込んだ。
お父さんが私の前に歩いててくれなきゃ、孤児院に辿り着けない。飲み込んだ言葉から続くそれは、猫の姿に化けて、内緒で跡をつけている事を白状するという事だ。
お父さんにいってらっしゃいのキスもせず、私は流れるようにキッチンに行き、リンゴと舐めると毎回味が変わるキャンディを持って家を出た。
「ディオン達と遊んでくるー!」
「暗くならないうちに帰るのよ」
玄関の花に水をかけるお母さんに、リンゴを持った手を上げて わかっている、と意思表示。お母さんは、終始ニコニコと笑っていた。
リンゴを一口齧り、記憶を辿ってお父さんが歩いたあろう方向に向かう。数週間 シルの部屋に通ったのに、道が曖昧なのは お父さんがいつも道のりを変えて、孤児院に向かうからだ。そのため、一人では孤児院に行けないし、お父さんを見失えば トボトボと元来た道に戻る。
本当は、曖昧な道を行くのが怖い。今日は諦めた方が良いのかもしれない。頭の中で会議を開く私達が口々に言う。
それでも向かってしまうのは「また明日」とシルが耳を赤くしながら、言ってくれたからだ。見覚えのある、オレンジ屋根の小さなコーヒーショップがあった。その過ぎた先には、コーヒーを手にした親指ぐらいのお父さんがいた。いつもは買わないのに…
少しの違和感を感じたが、構わず追いかける。いつもは跡をつけている事がバレぬよう、念を入れて猫の姿に化けているが、今日は寝癖も手ぐしですませて走っているくらい慌てて追いかけたのだ。だから、だからなのだ。だから、私に声をかけないでよ、ディオン!
まさか、こんな朝早くから 広場で遊んでいるとは思わず、立ち止まってしまった。
「え?セルがいるのか?」
「セールー!セールーフィーナー!」
「セル!来いよー!」
ラケットを持ったディオン達が、名前を呼ぶ。私は慌てて、彼等にジェスチャーで静かにするよう、伝えた。なんだ?なんだ?とディオン達がわらわらとこちらに向かってきて、私はギョッとしてしまった。
「えっ?どうしたの?」
「どうしたは、こっちのセリフだ。なんだよ、その顔」
「セルもバドミントンしよ!トーナメント戦で、買った奴はビリの奴をパシれるんだ!」
「セルは女子だから、手加減してやっても良いぜ?」
グイグイと話しかけながら、広場に連れて行こうと、背中を押される。
最近は、魔法書や図鑑を読んだり、お菓子を食べて、シャボン玉を吹いたりと、ゆったりした時間をシルと過ごしてたから、このテンションには少し体がついていけなかった。
「待って、待って。私、今日は用事があるのよ」
「用事?大事な用事か?おつかいか?…手伝ってやってもいいぜ」
「重たいものを持つなら任せろ!」
「お礼にセルのお菓子をくれたら、俺も手伝ってやるよ」
「俺もセルのお菓子食べたい!バナナが入ったマディランケーキ!ラズベリーのローリーポーリーでもいいぜ!」
お菓子を食べたい、と言ったアシュはどうやらお腹が空いているらしい。目が私のリンゴから離れない。その可愛さに、私は口に手を当ててふふふ、と笑い声を出した。
「ううん、違うわ。おつかいじゃないの。でもありがとうね。お菓子はまた今度、作ってくるわ」
「…別に礼なんか、お前 どんくさいから」
ギルが口を突き出して言った。彼の言葉のトゲはきっと、マシュマロで出来ているのだろう。どんくさい、と言いながら心配してる瞳はとても優しいものだった。
「おつかいじゃなかったら、なんだよ」
「お菓子、いつ作ってくれんの!」
「…明日」
「そうだな!今日がダメなら明日お菓子作ってくれよ!」
「セルが明日がダメだったら?」
「じゃあ!今日だ!」
「で、でも今日は用事があるって…」
「用事を終わらせよう!手伝うんだ!」
「待って、セルが困ってる」
「セルは喜んでるんだよ」
「…違う、これ苦笑いしてんだ」
「苦笑いと、普通の笑いの違いってなに?」
「セル?」
「お腹すいた!セル、リンゴ食べたい!」
「セルのものだよ」
「俺とセルは親友だから貰っていいの」
「セルは、お前だけの親友じゃねえんだよ」
「みんな、親友…」
「でも、俺が一番 セルのお菓子食べてる」
「それはお前が欲張りで、セルの分のお菓子食べてるからじゃん」
「君もセルから食べさせてもらってるの、僕は知ってるよ」
「食べさせて、もらってるぅ?!」
「…セル困ってる」
「だーかーらーセルは困ってないって!」
ぐるぐると、話しが私の頭上で回る。彼等は、なんでこんなに熱り立つのだろう。久しぶりに会ったから?でも先週ディオンやダジィと会ったし、お母さんと買い物をしてた時にも他のみんなとだって会ったはず…
「――じゃあ、決まりな!」
パン、と手を叩いたダジィが言った。どうやら、彼等の中で話しがまとまったらしい。
「まず、俺たちでセルの用事をすませよう!」
「だ、だめ!!」
び、びっくりした。話しが飛んでたから、気を抜いてた。まさか、そこに着地するとは。
私が待ったをかけると、ダジィは不服そうに首を傾げた。文句を言いそうなアシュのお口には、リンゴを突っ込む。最後までアシュに突っかかって、今も何か文句を、言いたそうにするディオンの頭を撫でながら、私はクスクスと笑い声が漏れた。
確かに、こんなにみんなと集まったのは、シルと出会ってから、久しぶりかもしれない。くすぶるこの感情を、なんと呼んだらいいのか。
「心配してくれて、ありがとう。でも私の用事だから、大丈夫よ。ほんとにありがとう」
「でもぉ…」
「ユリィもありがとう。今日はダメだけど、明日はお母さんとビスケットを作る予定しか入ってないの」
お礼を言ったはずなのに、表情が沈んでいる彼等に、提案を出す。
その提案は、萎んでいく私の声と比例して、彼等に笑顔をしていくものだった。
「もし良かったら、明日はビスケットパーティーをしない?」
「セルフィナ、何かあった?」
「ふふふ、え?あっ 何もないわ」
キャンディを転がしているシルが、器用に片方だけ眉を上げた。パチンと石を置いたら、他の石が黒から白に変わた。それを見たシルが、ゲェと声が出そうな表情をした。どうやら意識を、オセロゲームに逸らす事が出来たらしい。
一週間前、心を開いてくれたシルに、ディオン達と会わせようとした。度々 孤児院を抜け出すシルを、広場まで連れ出すのは簡単だった。広場には誰かしらいるので、勿論その日もディオン達はいた。
――ディオン!
そう呼ぶはずだった。でも、いつの間にか目の前に広がる光景は、芝生の青さも、鳩の群れも、ボールを蹴るディオン達もなく、いつものシルの小さな部屋だった。
転移魔法…道具を使わずに出来る人を、私は聞いた事が無い。びっくりして、後ろを振り返ると、何を考えているかわからない、無表情な顔をしたシルがいた。私は、御構い無しに、シルに抱きつき褒めた。スゴイ!シルは天才ね!抱きしめていっぱい褒めた。惚けていたシルが暑いと、振りほどくまで抱きしめた。
それからシルは外を出た事に一切触れず、私が置いていった異世界生物の図鑑を取り出して、読もうと言った。シルが、この孤児院や町でどんな扱いをされているか、初めの頃に 怒鳴るように教えられた。
私はお父さんやお母さんが魔法使いだから、物心ついた時から常識を教えてもらっていた。でも、シルは違う。物を爆発させたり、動物と話したりする気味の悪い子だと言われ続けた。
最近、やっと孤児院の先生や、大人達の愚痴を言わなくなったのに…だから、ディオン達に会わせようとしたのに、どうやらまだ早かったらしい。
シルは、外に出たことを触れない。
だから、私も貴方がここに私を閉じ込めた事も触れないよ。
「シル 好きよ」
大好きよ。そう言って笑えば、シルは空を閉じ込めたような、澄んだ瞳を丸くさせ、それからボボッと顔を赤くした。
「なに急に!そう言ってもゲームは手加減しないから!!」
「たまには、私に勝たせてくれてもいいじゃない」
「やだね」
口早く言う彼の唇は、口角を上げる事を隠そうと上下に動く。彼に足りないのは自信だ。彼には早く気付いて欲しい。自分は要らない人間なんかじゃないと気付いて。私は貴方がいないと寂しく思う。泣いてしまいそうなほど、貴方を大切に思ってる。
早く彼を救いたい。
だって、この世界は貴方のための世界なのだから。主人公、シルヴェスター。
要らない人間は、貴方じゃない。要らないのは偽りだらけの、私だ。