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短編集

偽ヒーロー

作者: 毬藻

 きっかけは、確かあのドクロ野郎だ。

 趣味の悪い、穴ポコの目と口のアレ。それを首からぶら下げてた、しかも二重に。

 あんなのがお洒落だってマジで思ってんのかね?俺にはつける奴の気が知れねー。絶対理解出来ないし、する予定もない。

 …まぁ、そういうキョーレツな奴が相手だったから、結構印象的だったんだよね。

 加えてそいつが痴漢してたのが、超美人のお姉さん。大学生くらいかな?タイトスカート履いて体のラインがハッキリ分かる服装だったんだ。だからまぁ、痴漢したくなる気持ちも分からんでもないって感じ。しないけど。

 帰宅途中の電車内で、ふと出入り口付近に目をやった時だった。あぁもう降りるの次の駅だなーって。そしたら、ドア付近で顔を赤くして、泣きそうな顔をしてる美人がいたんだ。何だろうと思って少し目線を動かしたら…コレだよ。

 普通だったら、見て見ぬ振りとか、車掌さん呼ぶとか、そんなもんなんだろうな。だけど俺は、その美人の表情を見た途端、反射的に体が動いてしまっていた。

 人混みを掻き分けて、ドクロ野郎の手を掴み上げる。驚いた顔…滑稽過ぎるだろ、堂々と女のケツ触っといて。しかも意外と若いし…二十代か?

 周囲も、何だ何だと俺たちに注目し出す。その癖関わりたくないというように一定の距離を保ちながら。

 ーーー痴漢してたよな?

 …な、何の事だ…

 美人に視線で促すと、必死で頷いている。

 ーーーホラな?

 …何言ってんだよ!お、お前ら、グルなんだろ!

 ガタン、プシューーー…

 丁度電車が駅に着いて、ドアが開いた。途端にドクロ野郎が俺の腕を振り払って逃げようとする…それを勢いよく制止して、そのまま電車を降りた。

 ついでに美人にも降りるように指示する。帰宅時で人集りになっているホームで駅員を探していると、ソイツはまだ諦めていなかったようで、俺の足を思い切り蹴った!

 その瞬間腕の力が緩んで、そこから逃れようと奴が振り上げた腕が俺の顎に直撃。走り出したソイツを俺は直ぐさま追いかける…。

 まるでドラマみたいだろ?でも実際はそんなに格好良くなくて、男には直ぐに追い付いたし、俺は二回も受けた痛みにキレてたしで、ヤツをホームに張り倒した。

 そして二発、三発…いや、実際何発殴ったかなんていちいち覚えてねーな。とにかくドクロ野郎を捕まえて、懲らしめてやらねえとって思ってたから。その時の開放感ときたら!

 正直こんなに思い切り人を殴ったことなんて無かったけど、これほどスッキリするものだとは思わなかった。初めての、あの瞬間はもう絶対忘れられない。

 騒ぎに駆け付けてようやくやってきた駅員に、ちょっとやり過ぎだね、と注意される始末。フザケんなよ、お前の仕事だろ?

 その後色々処理手続きとやらがあり、全て終わった後に美人からお礼があった。これってまさかの運命の出会い?なんて調子乗ったのは一時だけ。その日ホテルを共に出来たのはラッキーだった。けどその後付き合って晴れて結婚…なんてどこぞの電車男を踏襲するようなことはない。あんな清純派じゃなかったし。

 実際は一夜限りの出会いってことだ。これが現実。




 そんなことがあって、俺は目覚めたのだ。

『人助け』

 最高の言葉だよな?世の中の役に立ってる!困ってる人は助けなきゃ、何が何でも!

 人助けをすれば、悪い奴らをとっちめられるし、俺のストレス解消にもなる。たまには女ともヤレる。誰かに迷惑かけてる?全然!

 高校に行っても先公の説教くらうか連れと授業サボるかで何の生産性もない。それよりかは、俺は一先ずこの街を守ることに青春を費やすことに決めたのだ。

 とはいっても、昼間は街も閑散としていて平和そのものなので、活動時間は必然的に夜になる。昼は学校、夜は人助け。うーんこれって正義のヒーローみたいじゃねえ?実はスーパーマンってお前だったの!?ってヤツ。

 まぁそんなこんなで、俺は日々、夜の街に繰り出すことになった。

 揉め事って意外とあちこちで起こってるんだな。

 一応内輪揉めみたいなのは俺の管轄外だから勝手に自分達で解決してくれって感じだけど。少し肩が触れたとか、女がシツこいキャッチ若しくは酔っ払いに絡まれてるなんてしょっちゅうだ。特に俺が出歩いてる街のエリアは、とにかく人が多いし、ガラも悪い。だから意外と簡単に獲物は見つかる。

 先ずは真面目腐って、敵意なんてありませんよって感じで近づいていく。そしたら大抵の奴は無視するか、お前には関係ないだろって、穏便に済ませようとするんだ。それを俺は理屈っぽく、いやでも、この人嫌がってますよね?困ってますよね?何でしつこくするんですか?って追求していくんだ。面倒臭いだろ?俺だって自分でそう思う…そしたらだんだんイライラしてくるんだよな。そのイライラを相手の奴らに感じ始めたら、俺の目論見通りって訳。その内俺に、手を出さずにはいられなくなる…。

 幸い俺はヒョロリとした細身の体型で、喧嘩が強そうには見られない。実際はこれでも柔道を小学生の頃からやっていて(最近はサボり気味だが)、筋肉はある方だ。着痩せするタイプで、脱いだら凄いってよく言われる。俺のちょっとした自慢。

 まぁこんな体型だから、相手も油断するんだ。ちょっと押したらよろけそうな男に文句言われても、怖くなんかないってね。だからあんまり口達者にしていると、何とかして黙らせようと手を出してくる。少し小突くぐらいの奴から、力一杯殴りかかる奴まで、様々だが。

 そしたら後は、俺の独壇場だ。思いっきりやり返す、それのみ。

 だって相手が先に手を出してきたんだ。俺は正当防衛を働いただけ。

 刑法36条。急迫不正の侵害に対し、やむを得ず、自己の権利を防衛しただけ。…過剰防衛?そんなの高校生だから限度なんて分かりませんが?

 まあとにかくこんな感じで、上手いことやっていた。別に俺は喧嘩なんてし慣れてるわけじゃないから、複数人を相手にするなんて明らかに無謀なことはしない。それでも一対一で、コツを掴めば、相手をぶちのめすことが出来ると知った。勿論助けた相手からは、きちんと感謝されている…ありがとうって。こっちも気分がスッキリするし、逆にお礼を言いたいくらいなのだが、ややこしくなるので何も言わないようにしてる。

 悪いことなんて何もしていない。悪いのは俺じゃなく、相手のほうなんだ、いつだって。




 そんなこんなでいつものように街中をうろついていたある晩。

 ファストフード店で一人ぼんやりとハンバーガーを食らいついていたら、突然テーブルの向かい席に腰掛けてきた奴がいた。

 おいおい、俺が見えてないのか?

 なんて一瞬ビビったが、そいつの顔を見たら、知っている顔だと気付いた。

「どうも」

 真っ赤な口紅とストレートの長い髪が、やけに目に付く女。

「えーと、あんた確か…」

「栗原緑。私の顔、よく覚えてたね」

 ニッコリと微笑む。こんな風に笑う女なんだ、と初めて知った。

 栗原。同じクラスの同級生。殆ど存在感が無いのは、ほぼ学校に来ていないから。来たとしても保健室とか、どっか行っててクラスにいることはほぼ無い。てなもんでこうして話をするのも初めてだ。

「何してんの?」

「それ、こっちのセリフかも」

 そう言って俺の質問をはぐらかした。何なんだコイツ。黒いマニキュア、全身黒づくめの格好…奇抜過ぎる。顔はどちらかというと整っていて綺麗なのに、何か色々残念だ。

 ズズズッ。

 栗原の持つ紙カップからストローを伝って、黒い液体が口の中へ吸い込まれていく。そこまで黒に拘らなくていいんじゃね?と突っ込みたくなってしまう。コーヒーだかコーラだか知らないが。

「吉原君」

「…ナンですか?」

 コイツ、人の名前とか覚えてんだなーと意外だった。学校では何の興味も示さない、クラスの人間が存在してることなんて知らなそうなのに。

「君、何してんの?」

「は?」

 それ俺のセリフですけど?勝手に人のテーブルに座っといて?

 ふと、怪しいウワサを思い出した。

 ーーー栗原ってヤバいらしいよ?何か、危ない人?ヤクザ?とかと繋がってんだって。あと、クスリとかもやってるって聞いたし。

 一度校内で煙草吸ってるのが見つかったって問題になったことがあった。あのヤバい噂もあながち間違いじゃないかも、なんてみんなが騒いでたっけ。

 噂が本当かどうかなんてどうでもいいけど(それぐらい俺は栗原に興味が無い)、学校で煙草吸うなんて間抜けな行為が出来るんだから、よっぽど馬鹿な奴には違い無い。やるならもっと上手くやれよ。

「あたし、この街で知り合い多いから知ってるんだ。最近血気盛んな若者がヒーロー気取りだって」

 食べ終わったハンバーガーの紙屑をぐしゃぐしゃに丸める。向かいのしつこい視線とは交わりたく無い。

「それ、吉原君だったんだね。ビックリ」

「何のこと?」

「こないだ、目撃しちゃった」

 烏龍茶を飲み込んだ。正直、結構動揺していた。俺がこーいう…人助けしてるって事は、誰にも言ったことがなかったからだ。言ってしまったら面白くないし、話題が広まるのも避けたかった。

 だけどコイツは、知っているのだ。

「何のことだよ?人違いじゃねーの?」

「カッコイイよねえ!あたし、あんな風に人の揉め事に割り入っていく人、初めて見た!思わず見入っちゃったなぁ」

 俺の言葉なんて聞こえていないように、栗原は話続けていた。普段からは想像も出来ないくらい、良く喋るし笑う。本当にコイツは栗原か?別人じゃなかろうか。

「だから…」

「でも一応、忠告。あんまり、調子乗らない方がいいよ」

 ニュッと人差し指を突き出して、俺の目の前で止める。

「君、一人だし。痛い目見ても知らないよ。やめときな」

 そうして再びストローに口付ける。ズーズーと音が五月蠅くなって、飲み物が底を尽きた頃、栗原は席から立ち上がって俺に目配せした。

 分かったな?

 そう言っている気がした。

 そのまま店内を出て行ったのを確認し、俺もズズズッと烏龍茶を飲み干した。

 マジであいつはヤバい奴かも?




 正直動揺はしたけれど、あいつの言う事を聞く気なんてさらさら無かった。

 なんで初めて喋った怪しい同級生にそんなこと言われなきゃならない?あいつの言葉を信用するより俺の感覚ー危険に飛び込むなんてそんなヘマしないーを信じたほうが絶対賢い。

 ーーーだけどそんな勘、本当はあてにならなかった。

 またいつものように俺は深夜徘徊を続けていた。夜のネオン街。興奮、歓楽、欲望…みんなギラギラしている。茶髪のホストも眼鏡のリーマンもチャイナドレスも。それぞれ決まった顔をしながら何かやってやるって顔に書いてある。

 獲物を探していると、肩を掴まれた。

「おにーさん、久しぶり」

「あ」

 見覚えのある顔が笑っている。それはいつぞやのーもういつどこで会ったのかは覚えていないー酔っ払いの若者だった。今は茶髪の髪を綺麗にセットして、ストライプのスーツに身を包んでいる。ボコボコにぶん殴った後の顔だけが瞬時に浮かんできた。

 口元の擦り傷は、あの時の名残か?

「なんだ、ちゃんと覚えてんだ」

「何だよ?」

 つい声を発してしまった手前、知らない振りは出来ない。敢えて表情を変えずにそう告げた。頭の中はフル回転だ。

(この格好…夜の仕事してる奴か?この間は私服だったから、てっきり大学生かフリーターだと思ってたけど…)

 何となく、嫌な予感がした。

「いきがっちゃって。お前いくつ?ガキがなんでこんなトコいんの?」

 男は笑いながら、俺の肩から手を離さない。

「ひょっとして、高校生じゃねーの?ガキはもうお家に帰る時間だろー?」

 クソ。頭の中で毒付いた。何か言い返したいけど、自分が不利になる気がする。ここは黙ってトンズラするしかない。

 立ち止まらずに歩き続け、逃げるタイミングを見計らった。裏通りの小さな小道は沢山ある。行き止まりの無い、一番通り易い道は何処か。

 男は尚も、いやらしく笑いながら話続けている。

「こうやってお前が絡まれても、誰も助けてくれねえな?みんなお前のことなんて気にも止めてない。だから俺が何したって、誰も気にしない…」

 今だ!

 酒屋とスナックに挟まれた細い通りが横目に映った。その瞬間、男の腕を一気に振り切る。思い切り走り出して、角を曲がった途端。

 目の前に、2人の男が現れた。

 同じように、気取ったスーツを着ている。

「あっはっは!ガキの考えてることなんて、お見通しなんだよ!」

「先輩の言ってた通りっすね。コイツがこっちに向かってくるって」

「ほんと、マジ単純」

 あ、終わった。

 三人に取り囲まれて、これが限界だと悟った。くそ、くそ、クソ!何で俺がこんな目に合わなきゃならない!?馬鹿じゃねーの!?

 行き場の無い怒りが胸の内で渦巻いている。こいつら三人の顔が揃いも揃って汚らしい…全員にツバ吹きかけてぶっ殺してやりたい。

「なあ、何とか言いなよ」

「ガキだからって、容赦しねーぞ」

 どんどん近づいて来て、肩で小突かれたり足を蹴られたり。中途半端な甚振りが苛立ちを募らせる。

「おら、なあ」

 目の前の男が俺の額を小突いた瞬間。俺の我慢がブチ切れた。

「うるぁっっ!!」

 思い切りそいつの左頬を殴り飛ばした。そいつがよろけたほんの一瞬、残りの二人が俺の両腕を掴み上げる。

「離せクソが!!」

 もう正当防衛なんて言ってられない。足を思い切り振り上げて、再度目の前の男の腹を蹴っ飛ばす。そいつだけは面白いぐらい、ダメージを受けている。

 でもそんな反撃も僅か一時で、すぐに俺の体は三人に羽交い締めにされた。そして次の瞬間、顔面を殴り倒される。

 いってぇ…なんてもんじゃない!!

 良く考えたら、俺はあのきっかけとなった痴漢事件以前は、ろくに人を殴ったことも殴られたことも無かった。まあ一度彼女に平手打ちされた事はあったけど。今のこの衝撃は、そんなものの何十倍の比にもならない。

 立て続けに頬、腹、背中…と殴られ蹴られ、馬乗りになった相手の顔も、誰が誰やら分からないくらい痛くて…。

 ひょっとしたら、泣いていたかもしれない。

 情けねー…。




 気が付いたら、路上の隅に放置されていた。目の前の汚い道路と、もう明るくなり始めた空の色がミスマッチ過ぎて笑える。

 気絶してしまったのか。あの出来事が夢だったらいいのに、と微かに思ったが、全身の痛みが現実だと教えてくれていた。

 ジーパンのポケットに手を突っ込んで煙草を探した。いつもここに入れている、マルボロの緑。取り出したそれは、買ったばかりだというのに中身が空っぽだ。

「クソッ」

 苛々して、背中のシャッターに右手を打ち付ける。ガシャアンッ、とデカい音がして、周りに居た数人の人々とハトが逃げていった。

 もうどうでもいー…。

 その場に寝転がって、天を仰いだ。白けた空の色。綺麗だ。もう何年も、こんな風に空を見上げたことなんて無い。

 ぼーっと眺めていたら、カツカツと五月蠅く鳴るヒールが俺の頭の上で止まった。

「馬鹿な吉原君。どうも」

「どーも」

 ヤバい女さん。

 相変わらず黒ずくめの格好して、どっかの組織の一員?

 ていうか俺の顔の上で立ち止まるなんて、その際どいスカートの中見せようとしてる?

「変態」

 栗原は笑いながら足を組み替えた。こいつ、ワザとやってるな。

「だから言ったじゃない。痛い目見るって」

「それ言いに来たのか?」

 大体こんな時間こんな場所に、なんでコイツが居るんだ。この間だってたまたまだったけど、俺見張られでもしてんの?偶然にしちゃ、出来過ぎだ。

「だって、絶対あたしの言うこと聞かないと思ったから」

「なんで俺がお前の言うこと聞かなきゃなんねーんだよ」

「だって、吉原君のためだよ?」

 だってだってじゃねーよ。しかも、あんまり答えになってないし。

 はあ。と溜息を吐くと、栗原は俺の横にしゃがんで顔を覗き込んだ。長い髪が顔にかかる。

「痒い…」

「ねえ、もうこんなことしちゃダメだよ?」

 その顔に笑顔は無くて、何故か視線を反らせなかった。こんな時なのに、やっぱり綺麗な顔してんだな、としみじみ感じる。

 俺が何も言わずにいたら、栗原は再度顔を近づけて来て、分かった?と迫った。

「髪邪魔なんだけど…」

「君はヒーローになんかなれない。自分の中の欲望を満たしたいだけなんだから。人を殴ることに快感を得てる癖に、それをわざわざ正当化するために悪者を探し回ってる。そこらのチンピラの方が正直なだけまだマシだよ」

 紅い唇が、痛いくらい正しい台詞を俺に向かって打ち込んで来た。

 たった二回。それだけしか話をしていないのに、なんでこいつは、こんなにも俺のことを読み取れるんだろう。そのデカい瞳で他人をスキャンしたら、そんなことも読み取れるの?

 栗原の言ったことが当たり過ぎて、何も言い返せなかった。俺自身も分かっていたこと。分かってたけど、それを真正面から受け止めたら、自分の中のクソさ加減に打ちのめされそうだったのだ。

 そんなことに気持ち良くなるだなんて…人間として最低だ。

「…つーか、何なのお前。急に現れてさぁ。そんなこと、人に注意出来る立場か?」

 俺なんかより数十倍、いや数百倍コイツの方が危ないと思う。クスリやってる云々は知らねーけど。こんな危険な街に朝方まで一人でうろついてる女だぞ。

「心配、してるの」

 俺の髪をゆっくりと撫でながら、栗原は呟いた。それは妙に、しおらしくて。とても女らしい口ぶりだった。

 思わず頷きそうになる。きっと本心じゃない、そう思いながらも、騙されてしまいたくなる。

 俺の気持ちが伝わったのか、栗原は穏やかに微笑んだ。そうしてゆっくりと、俺の耳元に口付ける。

「本当は、こんなに痛めつけたくなかったの。でもこうしないと、吉原君は分かってくれなかったし…自分が凄く、危険なことしてるって」

 ヒヤリと、俺の背中を汗が伝った。気持ち悪い…さっきまであんなに爽やかな空気だったのに。

 ね、と俺の頬を撫ぜて、彼女は笑った。

「そう、それでいいの」

 俺から視線を逸らさずに、栗原はゆっくりと立ち上がった。それはとても、妖艶な姿で。それとは反対に、俺の心臓は早鐘を打つように急速に動き出す。栗原からは少しも目を逸らせないまま、一刻も早く、この場から逃げ出したいと思った。そしてゆっくりと、家のお風呂に入って、暖かな布団で眠りたいと。

 エナメルの、真黒な分厚いヒールが踵を返そうと音を鳴らす。その瞬間、俺は尋ねた。

「何で、こんなことすんだよ」

 それは、最後に聞いておきたかった一つの疑問。なぜわざわざこんなことしてまで、俺を止める?こいつに何の関係があるんだ。

 立ち止まった栗原は、顔だけ振り返って、俺を見下ろしながら告げた。

「だって、ヒーローになるのは、あたしだから」

 呆然としている俺を余所に、栗原は笑いながら、颯爽と街中へ消えていった。

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