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雪色の毛並の狐と黒き眼の人の子

作者: 桜 夏姫
掲載日:2014/09/16

「行ってしまうのですか?」



 そう問う声は、多分震えていたのだと思う。わかりきっていた結末だというのに、どうしようもなく心が弱くなってしまう。出会ったその時から別れの時がすぐに訪れるということを知りながら、彼とわずかな時を共にした。互いにつらくなると分かっていたというのに。鳥の鳴き声も虫の鳴き声も聞こえない。ほかの生き物がこの空間からすべて息絶え世界で二人だけになってしまったかのような静けさが耳に痛い。


「あぁ。親が決めたとはいえ結婚しなくてはならない。それに、俺の年齢だと、ここに来るのは、もう無理だろう?」


 問いかけではなく、確認の言葉が葉擦れの音さえ聞こえないこの無音の空間に響き渡る。彼の息遣い、心音だけが雪狐の耳に伝わる。彼の年の数を両の指で数える。一つ一つかみしめるかのように負った指の本数……その数字の表す意味を知り、ぎゅと、雪狐は、自分の衣の裾を握りしめた。出会ってから今日までの時間は、雪狐にとって一瞬に等しかったが、彼と出会う以前に比べて彩のある有意義で貴重だった。そう、いつか彼が食べさせてくれた綿飴に似た時間だった。ふわふわとして、甘くてあっという間に溶けて消えてしまう。口の中にわずかに残る甘さは、彼との記憶の名残に似ている。


「はい」


 口からこぼれたのは、感情を押し殺した機械的なまでの返事。「また」「元気で」そのようなやり取りは、なかった。

 なぜなら、再びこの地を踏み入れることが彼にはできないのだから。それを彼も雪狐も分かっていた。別れの言葉を口にするのが、怖かった。引き留められない己の無力さをかみしめながら、遠のく背中をただ見つめる。黒い髪、ところどころ跳ねていて、櫛を入れてもすぐに跳ねてしまう彼の髪、そこに隠れるようにある雪狐とは異なる形を持つ耳、出会った時には雪狐の腰より少し高いほどの身長が、わずか数年で竹のようにぐんぐんと伸び急に男らしくなった背中は、種族や生きる時間が違うのだという現実を雪狐の目の前に突き付ける。


 彼が再びこの地に足を踏み入れることはない。その事実が、胸に痛みを与える。息の仕方を忘れてしまったのではないかというほど息苦しくて、目頭が急に燃えるように熱くなり出して、雨もないのに頬にしずくが伝う。行く筋もいく筋も伝う。

 もう彼の背中は見えない。だけど、雪狐は声を出すことができずにいた。声を出してしまったら、戻ってきてしまいそうだから。優しくて甘い彼は、人の世に戻れなくなると知りながら、こちらへ永住することを選んでしまいそうだから。夜霧に姿を隠して人里に帰った彼の背をいつまでもいつまでも見送る。


 彼の姿が消えると同時に森はまるで息を吹き返したかのように急速に音を荒立てる。それは、まるですべてを洗い流す暴風雨にも似ていた。森はさわさわと風もないのに揺れ、鳥や虫は雪狐の悲しき鳴き声を隠すかのようにざわめき始めた。





 思い出すのは、彼と初めて出会った時のことだ。頬や膝小僧に無数の擦り傷を作った頑是ない子供が、じっとこっちを見ていた。あれはそう錆びた枯葉の匂いが、森に満ちた秋の夕暮のことだった。大きく真っ黒な瞳は、まだ見ぬ世界への好奇心に満ち溢れ、目の前にいる人とは異なる姿を持つ雪狐を前にして大きく見開かれる。人に見られてしまった! そのことに、焦りじりぃっと後ずさる。長老様に、叱られてしまう。「人に遭遇したら、すぐに逃げなさい」と、耳にタコができるほど長老様に言いつけられているというのに、雪狐の足は思うように動かなかった。小さな身体に内包されたまばゆい魂の光に、目が釘付けとなっていたのだ。雪狐は、今日生まれて初めて人を見たし、人の子をみた。人の子がこのようにきれいなものだとは思ってもみなかった。まだ何物にも染まらぬ無垢な魂。無数の可能性を秘めた美しき輝き。


「綺麗」


 雪狐の薄紅色の唇から無意識に零れ落ちた言葉は、寒い冬の日にしんしんと降り注ぐ雪の様に静かであったというのに、小さな人の子の耳に届いた。届いてしまった。届けるつもりなんてなかったのに、風の悪戯で届いてしまった。もし、この時何も言葉を発しなければ、雪狐と彼はこれから数年という月日を共に生きることはなかっただろう。


「ありがとう」


 雪狐の言葉を耳にした人の子は、とても嬉しそうににっこりと大輪の花が咲くようにその幼いかんばせに笑みを浮かべる。なんて、愛らしいのだろう。雪狐の形の良い白く三角な耳をぴんととがらせる。このように、愛らしく綺麗な存在をどうして長老様や森の年長者たちは邪険に扱うのだろうか。雪狐には、理解ができなかったが、言いつけを守らなければ怒られてしまう。思いもよらず会話をしてしまった。果たして会話といっていいのかどうかわからないが、もし今この状況を年長者に見つかってしまったらこの人の子はどうなってしまうのだろうか。た、食べられてしまうのではないだろうか。森の住人はそのような野蛮な存在ではないが、万が一にもある。雪狐の暮らす集落以外には、人を好んで食べる者もいるという。このままでは、この子供が危ないのではないだろうか。雪狐の背中に汗が垂れる。最悪の想像が、頭を過ぎる。長年守られる側だった雪狐にとって誰かを守るという考えを抱くことは、初めてに近い経験だったのだ。


「あ、危ないから、もうここに来てはいけないの。人里は、あっちよ。もう、戻らないとダメよ。夜が来てしまうから」


 なぜこのような森の中に、まだ十にも満たぬ幼子がいるのか雪狐にはわからない。興味本位で森に入って迷子になったのかもしれないし、森の中に捨てられてしまったのかもしれない。どちらも森の中ではよくあることだ。この間も、隣の山で、生贄として森に献上された人の子があったそうだ。その人の子がどうなったのかを雪狐は知らない。しかし、伝え聞く話では、口減らしとして森に捨てられたり、献上されたりする人の子は皆濁った瞳をしているらしい。この人の子の瞳はとても輝いている。今だって、人里にはいない形態をした雪狐を前にして、興味を惹かれた目をしているように見える。帰る場所のある者の目だ。だから、雪狐は人里の場所を指した。


 雪狐の言葉を理解した幼子は、きょとんとした顔をした後、慌ててぺこりと頭を下げて「ありがとう」と短いが心のこもった言の葉を返す。雪狐が初めて会い見えた人の子は、二度目のありがとうと言う。一度目は少し照れくさそうにはにかみながら言ったのに対して、二度目は感謝の念を込めてだ。雪狐の指示した方角をちらちらと見ながら、雪狐に何かを言いたそうにするそぶりを見せる。これ以上はいけないのだと雪狐の頭の中で警告音がする。これ以上関わってしまったら、良くないと感じた。

 こういう感はよく当たるもので、それに従わないと必ず言って痛い目を見ると知っている。この時もその間に素直に従って妖術で、木の葉をまき散らし急いで雪狐は、集落へ向かう。後ろを振り向いてしまいそうになる衝動を抑えながら、この日は長老にお説教されなければいいなと少し耳を垂れ下げながら帰った。垂れ下げた耳に、森のふもとの方から、誰かの名を必死に呼ぶ女の声が聞こえた。





 次の日、雪狐は昨日人の子に会いまみえた場所へ気がついたらぽつりと立っていた。来るはずがないのだと、わかっていたはずなのに、知らず知らずのうちに尾が垂れる。そもそもあれだけ長老に絞られたというのになぜまたこのような場所に雪狐は立っているのだろう。長老は、とても鼻がいいから雪狐の周囲に香るわずかな人の残り香に敏感に気が付いてしまった。触っていないのに、なんで残り香なんてわかるのだろうか。あんなに怒られると分かっていたのなら、あの柔らかなほっぺたに触ればよかった。頬を突いたらいったいどんな感触がするのだろうか。雪狐と同じなのか、それとも人の子は違うのだろうか。何よりも気になるのが、雪狐とは異なるいつか海から山、山から谷、谷から川と旅する鳥たちにお土産としてもらった「貝」という海の生き物にどこか似ている細い襟首の左右に均等に張り出した耳が気になって仕方がない。


 高い木の上に腰掛けながら、朝からずっとこんな感じの雪狐を見た鴉天狗の梵天がまるで人間に恋をした人魚姫のようだと揶揄したのだが、海を目にしたことがない雪狐には人魚というのがうまくイメージができなかった。


「おきつねさん、きつねのおねえちゃ~ん」


 それは、森の中でも人里から遠くない場所から上がった声だった。この声は、昨日の人の子のものであると、鋭敏な聴覚を持つ雪狐には知覚できた。声が聞こえたと同時に雪狐は、森の中を失踪した。森も雪狐が急いでいるのを知って、道を開けてくれる。雪狐は森に愛されていたし、雪狐も森を愛していた。枝がそっと雪狐の背中に触れる。森にも森の意思があり、それを構成する一本一本の木にもまた意思がある。この世に存在するありとあらゆるものには魂が宿っているのだから。森に感謝しながら、雪狐は風を切り人の子の元へ向かった。


 そして多くの事を知った。人が母親の体内から生まれること、人の世を縛る法というものの存在、人から見た雪狐たちの存在、それから「文字」というものの存在とその知識……すべて、あの小さな人の子から教わったものだ。人の子は、瞬く間に、成長していった。会うたびに、背丈が増えていく人の子に、今ではすっかり抜かされてしまっている。誕生日という一年に一度ある祝いの日、雪狐たちにはそういった慣習はなかった。そのことを知った彼は、それでは初めてであった日を雪狐の誕生日にしようと勝手に決め、毎年その日になるとどんなに忙しくても必ず森にやってきて、贈り物をしてくれた。去年の誕生日プレゼントは、鼈甲の紅葉の透かし彫りが入った美しく繊細な造形の簪だった。とても気に入っているので、今もこうして銀の髪に挿してあるそれにいとおしげに雪狐は触れる。




「わしの忠告をお前さんはちゃんと聞いていなかったのか?」


 後ろから深みのあるしぶい声が、かかる。さくざくっというこちらに近づく枯葉を踏みしめる音は、雪狐の耳に随分と前から届いていた。


「忠告無駄にしちゃいました。すみません、長老様」


 震える声。衣を濡らすのは、朝露に似た何か。こんなみっともない姿を彼に見られなくてよかったとどこかで安堵している自分がいる。


「傷つくのは、いつもこちら側じゃ。向こう側は、時がたつとわしらの事なぞ忘れてしまう」

「はい」

「雪狐。お前さんは、あの人間のことを好いていたのか?」

「……わかりません」


 着物の布越しにふれあうたびに胸の奥底でろうそくの炎が揺れた。その感情の名前を雪狐は知らない。いつかの日、梵天が口にしていた「人魚姫」の最後はどうなるのだろうか。人に恋した人魚の末路がふと、気になった。人魚姫が人と魚の姿を持つとするのならば、雪狐は人と狐の姿を持つ人狐になるのかもしれない。


「どうして……どうして、人間は、大人になるとこの山に入れなくなってしまうのでしょうか?」

「人間にとってここは夢に似た場所じゃ。大人になっていくにつれて人は汚れていく」

「汚れ……そのせいでこの森に入れないのですか? でも、あの人は!」

「少しずつだ。流れに身を任せて、大人になっていくのじゃ。進んで大人になろうとするもの。あがいても、時の流れは等しくその年を連れてくる」

「私はあの人の傍に居たい。でも、無理なのですね」

「人間には、大切な何かを踏み台にしてでも、手に取りたいものがあるのじゃ」


 名誉や地位、金、時にそれは異性だったりもする。この森の住民にとっては、何の価値もないもの。それに、人間は固執するのだと、長老様は言う。だけど、雪狐にはどうしても思えなかったのだ。やさしく雪狐の銀の尾を梳きながら、ふもとの世のことを語る彼の心を満たすものが、そんなくだらないものだとは思いたくなかった。この森で一番大事なのは生きることを楽しみ感謝すること。たくさんの奇跡の重なりで出会ったものを大切にしあうこと。思い合うことだ。


 人間になってはいないから、妖である雪狐たちと合い話すことができる。なぜなら、その時期の人間はまだ何でもないからだ。妖と同じ。何かであると同時に何でもない状態。あいまいで不確かな存在だからだ。そしてその間にどのような人になるかを意識的にあるいは無意識のうちに選択し決めるのだという。雪狐にはない考え方だ。雪狐たちは森と共に生きることを史上の喜びと感じている。異性と交わるのも、子孫を適度に増やし森と生きるためだ。


「ふもとへ降りたとしても、もうあの人は私を見つけられないのですね」

「あぁ、人に成ってしまうからだ」

「人に成る前。なんにでもなれて、でもなんにでもなれない存在。また、そういう存在がこの山にやってくることはあるのでしょうか」


 雪狐の問いは、ふわりと空気の中に溶けだした。







 あるとき唐突に、雪狐の問いの答えはやってきた。


 すっかり習慣となってしまったふもとの様子を探る行為。しかし、昔と今ではその行為に付随する心があまりにも違いすぎている。昔は、いとしいあの人を見守り、そしていとしいあの人の家族や子孫を見守ってきていた。それらは、人をいとおしいという感情の元から来たものだったが、こうして今ふもとを観察しているのは森を害す外敵の様子を探るためにすっかりと変わってしまった。


 今では、森から出ることも人前に姿を現すことも以前に比べて多くなった。雪狐もまた、守られる存在から守る側の存在になったからというのもあるが、今までの畏れの量では人の行動をとどめることができなくなったからというのもある。


 森に生かされ、森を生かす存在、それこそが森の民だ。森を守るために森を脅かす外的を遠ざける役目を森の民は時に負うのだ。雪山の雪女、川の河童、天狗などが姿を人前に顕し、そして恐れを外的に与える。そうして、森や自然を恐れさせて必要以上に搾取されないようにしてきた。雪狐のような異形のモノの姿を見た樵は、その話を家族や村に話す。そして、その恐れがその村に徐々に満ちていくのを待つのだ。

 時に権力者に取りつき、時に美女に化け政治に口出しをする。すべては、共存のためにだ。渡り鳥たちが言うには、ここよりずっと人が多く集まる場所では、もうほとんど雪狐のような自然と生きる妖が破れるということが多くあるらしい。


 雪狐は、彼が好きだった。彼の笑顔が、彼の耳が、彼の体温が、彼の話す言葉が好きだった。人が、好きだった。すべては過去の話。

 さわさわと茂みが揺れる音と、人の匂いがした。徐々にこちらに近づいてくる足音に、ついにこの森にも人の魔の手がと身構える。


 そんな雪狐の下に現れたのは一人の幼子が駆け寄る。遠い昔、毎日のように嗅いでいた匂いをほんの少し混じらせた人の子の匂い。


「おねえちゃんが、狐のユキちゃん?」


 頑是ない幼子は、舌っ足らずの口で雪狐の愛称を呼ぶ。人の子から己の愛称を発せられたという事態に、驚きを禁じ得なかった。この愛称をつけたのは、かつて雪狐に簪を送った彼で、彼だけの呼び名。森の民は、「雪狐」という名を呼び、この愛称をそもそも知らないはずなのだ。癖のある濡れ羽色の髪、猫のような大きくてくりくりとした瞳。それは、あの日の背中の持ち主に瓜二つだった。だから、雪狐は自然と久方ぶりに柔らかな気分になった。


「えぇ、そうよ。私は、雪狐。かつて、人の子からユキと呼ばれたことがあったわ。あなたの名は?」


 幼子の前に屈み、目線を合わせて口を開くと自分でも驚くほどやさしい声が出た。


「よもぎっ!」


 雪狐の質問に答えたのは、雪狐の体にしっかりと巻きつくように抱き着く幼子ではなくその背後にあわてて幼子を追いかけた様子の髪の毛に花や葉をくっけた雪狐のようなものの姿を見れるギリギリの年齢の少年だった。少年は、雪狐の姿に目を大きく見張るもすぐに、柔らかな笑みを浮かべた。雪狐のことを化け物とののしるわけでも、物好きそうな笑みを浮かべるわけでも、恐怖の色を宿すこともなく、慈愛に満ちたやわらかな笑みだった。雪狐は人間にそのような表情をされる理由がわからなかった。


「おにいちゃん、おにいちゃん、あのね。見つけた! ユキちゃんみつけた」


「あぁ、見つかったな。ひい爺様が言っていた通りで驚いたよ。本当に銀の尾と耳を持つやつがいるなんてな」


 ヨモギの頭を優しくたたき、「困らせちゃだめだぞ」と注意する。雰囲気やにおい、態度から察するに彼らは兄妹なのかもしれない。少年はそれまでの年相応の雰囲気を一転して、急にかしこまった大人のような話し方で、ここに来た要件をクマよけの鈴のように凛とした声音で少年は告げる。


「雪狐様、ようやくお会いできました。お初にお目にかかります。私たちは、貴女と遥か昔この地で成人するまでともに生き、そして別れた伊助という男の遠い子孫―――曾孫にあたるものです。私の名は、伊吹。そして、この子の名前が」


「よもぎだよ」


 伊吹という少年からも懐かしいあの人の匂いがする。曾孫である伊吹とよもぎのどちらの髪も少し癖のある黒髪だ。まぎれもなくあの人の血を引いているのだと彼らの体に流れる血と匂いとその髪が雪狐に教える。馴れない山道を歩いたせいだろう、衣服の袖から見える手足には小さなすり傷や切り傷がいくつか見える。おそらく、鋭利な葉や土から顔を出した根に躓き出来た傷だろう。むかし、彼もよくそうして小さなすり傷をよくこさえて会いに来てくれた。とても懐かしい思い出で、二度と起こりえない出来事の思い出だ。彼は、もうこの地を踏めない以前に、生を終えてしまったのだから。人の一生とは、とても短いものだ。それでも、彼は曾孫の顔を見るほどに長生きをしたのだから、人としては長寿だったのだろう。



「あのね、お父さんが教えてくれたの。とってもきれいで優しいお狐様がいる森だって。お父さんもね、お父さんに教えてもらったって言っていたのよ」

「そう」

「あ、これね。ユキちゃんにあったら渡してって頼まれたの?」


 あの人にそっくりな子供から渡された手紙。それは、とてもよれよれになっていて、ところどころ土がついてしまっている。だが、色あせているというのに、文字だけが絶対に届けてみせるとでも言いたげにしっかりとのこっている。そこには、あの人がまだ子供だった時雪狐に教えてくれた人の文字で書かれている。人と違い長寿な雪狐たち森の民は、記録に文字をつかったりしない。言い伝えとして、子供の頃から長老たちに過去の出来事は聞かされるし、寿命も何百年単位のため生き字引がどの集落にも必ずいるので文字でわざわざ記録を残す必要性がなかったのだ。雪狐が文字を知らないと知った彼は、自分にも雪狐に何か教えられるものがあったと喜び、文字を教えてくれた。ミミズののた打ち回ったような黒い線にしか、初めは見えなかったが今ではそれ一つ一つに意味があることを知っている。


 破けないように、そっとそっと薄く柔らかな果実の皮をむくように封を開けると古い紙と炭の匂いのほかに彼の体臭が残り香のようにかすかに残っているのを感じた。

 少し右上がりの文字で雪狐に向けた文書がそこには書かれていた。一字一字に多くの思いを込めて、文字数よりも多くの心を込めて描かれた文字を、雪狐は何度も何度も目で追う。思わずよもぎと伊吹を抱きしめていた。腕の中でぴくりと伊吹の身体が痙攣するが、雪狐の瞳から暖かなしずくをこぼれ自身の肩を濡らしていることに気が付くと。


 遠い昔、雪狐は彼に話したことがあった。森の民について、話して聞かせたことがあった。まだ、彼がとても幼い時だの話だ。将来の話をしたときに、雪狐は森を守るのだと彼に話したことがある。とてもとても昔の事だというのに、彼は覚えていたのだ。


 ―――ともに森を守り、生きよう。たとえ、流れる時が違えども、流れる血が違えども、同じ目的のもとに生きることを誓うよ。愛しい雪狐へ


「ユキちゃん、ないているの? いたいの」


 人を恨みかけていた。人を嫌いになりかけていた。周りの森の民も皆、人に疎んでいた。雪狐もそれに影響されそうになっていた。だけど、それではいけないのだと彼は言う。共に生きるのは、果たして森だけでよいのだろうか。今この星で最も繁殖しているのは、人ではないか。人との共存が全くできないとだれが決めたのだろうか。まだ、試したことがないというのに、なぜ勝手に決めつけ、勝手に疎もうとしていたのだろうか。

 人を喰らう妖とそうでない妖、同族を喰らう妖と互いに助け合う妖がいるのと同じように、人も皆違うのではないだろうか。


「いいえ。どこも痛くないわ。ただ、自分のどうしようもなさに嘆いているだけです」

「?」

「雪狐様。今、人の世でこの森の所有権は、私たちの家にあります。私たちは、この森を守るために先祖代々手を尽くしてきました。この森を私たちは焼かせるつもりも、枯らせるつもりもありません。共に、この森に生かし生かされたいというのは、願いなのです。伊助様の手記によると、この森であなたに出会えるのはまだ成人していない子供のみとありました。そのため、今回私とよもぎが伝言役を任されました」

「うん。うん。よもぎもね、まもるぅ。よもぎ、ユキちゃんのおうちまもるの」


 まもる、まもるといい飛び跳ねるようにして雪狐に抱き着くよもぎからは、とても暖かくまっすぐで、嘘偽りの匂いがしないお日様の様な匂いがする。

 あぁ、彼の体はなくなってしまったけど、彼の意思はこうして今も残っている。彼の魂はしっかりとこの子たちに引き継がれているのだ。唐突に理解した。


「共に……生きたいと私も願うわ」


 心からの賛同の言葉に、堅苦しさを脱ぎ去った口調で伊吹は、心から嬉しそうに言う。


「曾爺ちゃんも、爺ちゃんも、親父も、俺もよもぎも、雪狐のその言葉を待ってたんだ」


「よろしくなの、ユキちゃん」



 長生きするのも、悪くはないのかもしれない。これから、訪れるだろうあの優しくも甘やかな生活に想いを馳せ雪狐はそっと真っ直ぐ差し出された紅葉の手に、自分のそれをそっと重ねるのだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 変わる者と変わらない者の物語でしょうか。 変わる者でも変わらない何かがあり、それが変わらない者の心を動かし新しい何かを作っていく。 とても美しい物語であると思っています。 次回の短編も楽しみ…
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