悪魔とあやつり人形
全てを知った「俺」は決断する。
全ての恐怖と狂気に終止符を打つために。
唐突に覚醒した。今まで水中のような無重力空間で活動していた精神が体に急に引き戻されて、動けないほどに重たく感じた。だが、それも一瞬の事で、俺はすぐさま頭に装着した装置を脱ぎ捨てて乱暴に捨て去り、起き上がって隣に寝ている女に馬乗りになった。紅い女は男と並んで幸せそうな顔ですやすやと眠っている。俺は記憶の中で竜に対してそうしたように、現実世界の女の首を両手で絞めあげる。この恐ろしいモノが目を覚ます前に、この世から消し去らなければ。この得体のしれない化物が自分の住む世界に戻ってくる前に。その一心で女の首に体重をかける。
きつく瞑っていた目を開けると、女は目をぱっちりと開けてこちらを見ていた。
「うわぁ!!」
その眼光に怯えて俺は手を放し、後ずさってベッドから落ちた。床に尻餅をついた俺を女は何事も無かったかのようにベッドの上から見下ろす。四つん這いになった女の胸がネグリジェ越しに見えても、俺はもはや恐怖しか感じなかった。女の胸が、腹が、尻が、腕が、脚が、顔が、目が、口が、鼻が、耳が、紅い髪が、全てが、怖かった。
「私が何で君にだけ何もしなかったかー、だったっけ?うふふ~、それはおー間違い!ちゃんと君も私に『何か』されてるじゃーん!」
女は俺を指差した。何かと思えば、いつの間にか、俺は自分の首を自分で絞めていた。ようやく苦しさを覚えた俺は手を放そうとするが、自分の意志ではなんともできなかった。苦しい。息がつまる。血の流れが止まる。俺は床にのた打ち回った。女はニコニコと苦しみ悶える俺を見下ろしていたが、飽きたのか欠伸を一つかいて言った。
「ベニボシ、ベニクサ、一旦ストーップ!」
体の制御が戻った。新鮮な空気を求めて派手にむせこむ。その間に俺の後ろにいたベニボシとベニクサがベッドの上、女の腕の中に納まった。口角から涎を垂らしながら、血走った目を女に向ける。女を睨む。
「何っ…を……」
「君と、君の妹さん。名前変えちゃったでしょ?」
頬杖をついて女は口を尖らせたまま一方的に続ける。
「だーかーら、殺せなかっただけ。妹さん、あとちょっとだったのになー。」
女に掴みかかろうとしたが、途中で足が根を張ったかのように動かなくなって床に頭がめりこんだ。目に見えない抗いようのない何かに身体の自由を奪われている気持ち悪さに鳥肌が立つ。
「私はねー、アレが一番苦しむように殺したの。アレはね、いっちょ前に家族の事を大切にしてたんだよー?だーかーら、自分の手で壊させてあげたのー!」
父は女に噛まれたとき、女たちに与えた苦痛を全て流し込まれた。その苦しみから逃れたいなら最初の玩具を連れて来いと命じられ、父は冷蔵庫から屍を出した。女はその屍からも苦痛を吸出し、再び父に注いだ。父は3人分の苦痛を一身に受け、いっそ殺してくれと懇願した。
「そこで殺しちゃーダメだよねー。そう思うでしょー?」
父の意識は保ったまま、身体だけを操った。身体を操り、あの凶行を演じさせた。今の俺と同じように自分の意思で動かせない身体が自分の家族を蹂躙する。父は恐ろしかっただろう。自分で蒔いた種とはいえ、訳の分からない力で支配されて。床に額を着けながら、父の最期を改めて思い出す。
「だから…父さんは…」
自分の身体、さらに言えば身体を操る女に対して、『もう止めろ』と言ったのか。上体を起こして女を睨む。どうやら女に危害を加えようとしなければ身体は自由に動くようだ。
「でも、何で母さんや妹を…!?俺たちはお前に何もしていない!」
「だってー、アレの遺伝子がこの世に残ってるんだよー?腐った細胞は取り除かないと周囲の正常な細胞まで腐らせちゃうんだよー?アレの遺伝子は根絶やしにしなくちゃーダメなのー!アレの子孫を増やした器も壊さなきゃー!でしょー?」
人間は生きながら地獄を味わうと、こうまで狂ってしまうものなのか。女は父から俺たちの名を聞き出した。そしてその名を使って俺たちに呪いをかけたという。自分が最も大切にしているものを失い、絶望の中で死んでいく呪いを。母は父を殺し、自殺した。妹は友と思っていた者たちから迫害されて心を病んだ。そして俺は、家族を失った。
「人を呪わば穴二つ。私は4人も呪ったからねー。穴八つ!八ツ墓村ー!全員が死ねばー、私も死ねるの。なのにっ!」
俺と妹が名前を変えてしまったために、呪は成就できなかった。女は腹の底から叫んだ。
「私はこの汚れた身体から早く解放されたいの!アレに汚された身体を捨てたいの!なのに君たちが死んでくれないからー、ベニボシとベニクサが私を死なせてくれないの!」
女は俺に顔を近づけた。舌なめずりして獲物を見つめるように目を真ん丸にして顔を覗き込む。
「今日はやっと3人目が死んでくれる!ね、菊池太郎くん。」
俺の発表を見ていた女は、俺の新しい名前を知ってしまった。知られてしまった。全身から血がさーっと引いていくのが分かる。殺される。紅い悪魔に、殺される!
「いいよー、ベニボシ、ベニクサ。やっちゃえー!」
俺の手はまた自分の意思とは無関係に俺自身の首を絞め始める。俺はなんて間抜けなんだ。具合の悪い妹を一人日本に置いて、わざわざこの女に殺されに来てしまった。頭に血が溜まる。息ができない。ごめんよ、真衣。お前を一人にして殺されてしまう兄ちゃんを許してくれ…。
何が起こったか分からなかった。俺は荒い息をしながら床に転がっている。体は自由だ。生き…ている?
「ふざけるな!」
突然の叫び声で意識が少し戻った。男が嗚咽をこらえながら女に何か叫んでいる。
「アケミは汚れてなんかいない!二人も天使を産んでくれた神聖で高潔な僕の大切な妻だ!死にたいなんて言うな!ずっと僕の傍にいろ!僕がきっと幸せにしてやるから!」
よろよろと起き上がってベッドの上を見る。男がヘルメットをかぶったまま女に覆いかぶさり、きつく抱きしめていた。男の体で隠されて女の表情は分からない。だが、男の背に回した手は震えている。
「しょう…ちゃん……」
声も震えていた。ベニボシとベニクサはつまらなさそうにベッドの上、枕の傍に座っている。
「…でも……でももう、私…2人殺しちゃったもん……」
「アケミは何もしていない!あの男は勝手に殺されて、あの男の妻も勝手に死んだだけだ!アケミが殺したんじゃない!君は何もしていない。今も昔も。何もせず、ただ今ある幸せを生きればいいんだ。」
「でも…私、もう新しい名前を知っちゃったもん。呪は途中で止められないもん!」
男は抱きしめるのを止め、女の頭の両脇に両手を着いて身体を支える。二人とも俺の存在など忘れているようで、互いの潤んだ目を見つめ合って放さない。
俺はもう、怖さを感じなくなっていた。父が犯したおぞましい罪を知り、女が耐えた屈辱を知り、俺たちが受けた呪を知った。そして今、男の女への愛の深さを知った。俺は父を許せない。女も許せない。男は俺たちは悪くないと言ってくれたが、やはり自分自身も許せない。でも、男には幸せになって欲しいと心から思う。この人は良い人だ。悪魔に成り果てた女を共にいる時だけでも一人の人間に戻すことができる偉大な人間。大罪人の子である俺を許してくれた慈しみ深い人間。この人にだけは幸せになってほしい。女が妹の名も知ってしまえば、呪は達成され、女は死ぬ。それは男から最愛の妻を奪う事になり、更には男の子どもたちの母親を奪う事にもなる。男の幸せを願う俺が成すべきことは、このまま大人しく呪い殺されることではない。もっと他の…。
「…呪の内容って、変えられないですか?」
男も女も同時に俺を見た。恐怖は無い。俺は全てを知ったから。
うららかな春の朝日が古ぼけたアパートの窓から差し込む。現在時刻7:30AM。少し起きるのが遅かった。
「やっと起きた!朝ごはん用意しましたからね。行ってきまーす!」
声の主は桜色のカーディガンを羽織ってバタバタと飛びだしていった。これは夢なんじゃないか?と思い、寝ぼけた顔を両手で挟むように叩いてみる。痛…くはないが、やはり夢ではない。思うと、これが何度目の確認か分からない。俺はあの日以来、毎日夢か現かの確認をしているような気がする。
俺が学会を終えて帰国すると、空港で弁護士が待ち構えていた。何事かも知らされず、急いで妹が入院していた病院へ連行される。病室には医師と看護師がいて、妹にいくつか質問をしていた。俺が渡航する前では考えられないくらいしっかりと妹は医師の問いかけに応答していた。俺は嬉しそうに涙ぐんでいる弁護士と笑いあった。何が起こったのか、俺はすでに知っていた。壊れていた妹の心が戻ったのだ。大きな代償を対価として。
妹は家族の記憶をすべて失った。あの忌まわしい夜の父の醜態も、首を吊った母の姿も、共に辛い日々を生きた俺の事も、何も覚えていない。心が壊れる原因となった最悪な記憶を忘れられたことは幸せかもしれない。だが、愛するべき家族の記憶を、家族そのものを彼女は失った。今では俺のことを兄と呼んでくれているが、それはこの数か月間俺が兄だと教え込んだからだ。心から俺を兄だと思ってくれているかどうかは疑わしい。天涯孤独の自分に親切に接してくれる『兄のような』年上の男性。それくらいにしか思っていないだろう。妹は現在、専門学校へ通っている。あと2年もしないうちに自立し、俺の元から離れて行く。そして、おそらく、もう二度と戻らない。それで良い。妹が笑って生きていけるなら。それで良いんだ。
ようやく職員入口にたどり着いた。鞄からカードキーを取り出して端末にかざせば『Pi!』と軽やかな音がして鍵が開く。廊下を走って何度か角を曲がり、ガラス張りの部屋のドアを同じ鍵で開けて滑り込む。実験装置をいじっていた白衣の男が振り返る。
「14分22秒の遅刻だよ、菊池くん。」
「すみません!」
男の顔は相変わらずニコニコしているが、声色が全く笑っていない。この怒られ方が一番恐ろしい。まぁ、寝坊した俺が悪いんだけど。
修士過程を修了した俺は男の研究室で博士課程に進んだ。人の記憶と心の研究はとても興味深く、また、尊敬する研究者と共に研究ができることに日々喜びを感じている。生きることに感謝しながら日々を送っている。
俺はあの日、女に乞うた。俺と妹の命乞いをした。どうか、天命を全うするまでは生かしてくれないか、と。男の説得の甲斐もあって、彼女も男と子どもたちのために生き延びようと心変わりしてくれたようだ。故に女は俺たちの命を奪わないことにした。だが、呪は途中で止められない。女は俺たちに何かしらの呪を与えなくては、呪が失敗した対価を払わなくてはならなかった。俺たちを呪い続けていなくては、ベニボシとベニクサはその場で女を八つ裂きにしてしまう。生きるために女は改めて俺たちを呪った。呪の内容を変更した。
女は父によって奪われたものを俺たちから奪うことにした。父と母は第一、第二の玩具と同じく命を奪われた。また、女は妹と思い大切にしていた第二の玩具を殺された。だから、妹も家族を奪われた。これまでの家族の記憶を失い、これからも家族に恵まれないだろう。そして、俺は…
「菊池くん!コーヒーこぼれているよ!」
机の淵に置いていたコーヒーカップが倒れてコーヒーが俺の太ももを濡らしている。まだ湯気が出るほど熱いコーヒーを浴びたというのに、俺は男に言われるまで全く気付けなかった。PCにかけないように慌ててコーヒーを拭く。
「僕がやっておくから、火傷してないか確認してきなさい。」
「すみません…」
トイレでズボンを脱ぐと、両足とも内股を火傷していた。ため息をつく。素人目に見ても中々程度の酷い火傷である。なのに今このときも全く痛くない。何も感じない。これが、俺が受けた呪だ。
女は痛みを感じなくなっていた。父に痛め付けられた体は痛覚の信号をシャットアウトしてしまうようになったらしい。生物として最も失ってはいけない大切な機能を女は失った。それを、俺も奪われたわけだ。痛覚が無いと何かと不便だ。痣ができたり血が流れ出ないと怪我に気づけない。熱いものに触っても防御反応ができない。体に無理をさせても気付けず、重すぎる物を持とうとして腕が抜けたこともある。あと、辛いものを辛いと感じない。唐辛子とかただのピーマンだ…というのは言い過ぎだが。
ズボンの染みをできるだけトイレットペーパーで拭いて研究室へ戻る。掃除は粗方終わったようで、男が雑巾片手に仁王立ちで待ち構えていた。
「全く…。君がこんな目に遭う理由なんて一つも無いっていうのに!」
早速説教だ。耳にタコができるくらい男は俺が女の呪を受けたことに文句を言う。俺や妹は罰を受ける必要がない人間だ、と今でも言ってくれる。本当に良い人だ。苦笑いをうかべながら俺は椅子に座る。
「悪魔と取り引きして失った物は多いですが、先生たちと出会う前より俺たちは幸せですよ。」
本当にそう思う。俺は生き延び、妹は心を取り戻した。そして女も命を長らえて現在3人目の子を腹に宿しているそうだ。というか何人産ませるつもりだ、この男は。とにかく、以前の俺たちは生きることが苦痛だったが、今では生き続けたいと心から思えるようになった。
「そもそも君たちに当たるのは間違っている。君たちは何も悪くないのに。」
「いいじゃないですか。これはもう、八つ当たりや復讐じゃない。俺と妹と奥さんは運命共同体なんですから。俺たちが死ななければ、奥さんは死なない。お互い、父の事件から生き延びるために代償を払っているだけです。」
前へ向かうため、未来へ進むために、俺たちは互いの命を縛りあって生きていく。俺と何も知らない妹は悪魔に命の緒を握られ、生かされている。その悪魔は、俺たちの命の緒を命綱にどうにか自分の生にしがみついていられる。奇妙で狂った関係ではあるが、それが互いに狂わずに生き続けられる方法だ。俺も妹も女も、本当の意味では幸せになれないだろう。絡まった鎖で首を絞めあいながら細々と精一杯今を生きる。そんな人生も、悪くはないだろう。
そう、俺は思う。