記憶の海
「俺」と「男」はお互いが求める答えを求めて「女」の記憶へ潜っていく。
誰が悪く、誰が罰せられるべきだったのか?
その答えは記憶の深層にあると信じて。
「貴方は泳げますか?」
唐突に、訊ねられた。何故そんなことを聞かれるのか全く分からないが、とりあえず首を縦に振る。男は良かった、と微笑みかける。
「他人の記憶を読む、というのは、潜水するようなものなんですよ。泳ぐイメージがわかない人に、他人の記憶を読むことはできない。すぐに溺れてしまうんです。」
海か!?
「他人の記憶に溺れる…と、どうなるんですか?」
「大丈夫、死にはしません。一時的に意識を失いますが、そのうち打ち上げられますよ。」
海か!!
「アケミ、起きなさい。」
男が声をかけると、今まで眠っていたことが嘘のように女はぱっちりと目を覚ました。最初から思っていたが、まるで人形のようだ。むくりと起き上がって寝る直前までそうしていたように男の体に触れ始める。男は女の頬を撫で、目を見つめながらゆっくり語り掛ける。
「この学生さんが、君の記憶を見たいと言うんだ。もちろん僕も一緒に潜る。いいかな?」
女は目だけ俺を見た。そういえばこの女は俺のことを覚えていないのだろうか?先ほども全く初対面であるかのような話しぶりだった。少し緊張して女の答えを待つ。
「いいよー。うふふ~、しょうちゃんと学生くん二人がかりで私の中を覗こうなんて、大胆~!」
他人に記憶を覗かれる、というのはあまり気分のいいものではないと思うのだが、何故か女は喜んでいる。
男は「よし」と立ち上がり、女を連れて俺を隣の部屋へ通してくれた。ベニボシとベニクサは窓から大人しく外の景色を見ていて、こちらに微塵も興味を示さなかった。セミダブルのベッドが置かれた寝室に、デスクトップが2台設置されている。そこから伸びるやたら多いコードが3つのヘルメットのような装置にぐちゃぐちゃとつながっている。この男、きっと整理整頓が苦手なのだろうな、と思った。女は装置の使い方を知っているのか、そそくさとヘルメットのうちの一つを頭にかぶり、ペタペタと電極を額に貼り付けていく。見よう見真似で俺もコードが首に絡まないよう気を付けながらヘルメットをかぶる。軽快にキーボードを叩いていた男は最後にひときわ強くエンターキーを弾き、スッとヘルメットを装着する。
「それでは、アケミの記憶にダイブします。僕が案内するので、決して無理はしないように。」
記憶を読んでいる間は意識を失うらしい。ベッドに(家族でもないのに)川の字に寝転がり、目を閉じる。青い光が脳裏を駆け抜け、意識が遠い彼方へと抜き取られる。
ふわふわと浮かぶような感覚に目を開けた。薄暗い水色の空間に俺は漂っていた。少し離れたところに男が見えた。彼に抱いていた運動が出来ないイメージとは異なり、男は魚のように自由にこの海のような空間を泳いで来る。何故か男の姿は俺と同じくらいの歳の青年に変わっていた。
「これが僕の精神の姿です。少し実年齢よりも幼いところが悩みの種でね。男性は貴方を含め、大抵精神年齢が低いみたいです。」
自分の姿を見ることはできないが、どうやら俺も若くなっているようだ。
辺りを見渡す。どこまでも続く青い空間に、所々光が浮いている。男が言うには、あの光一つ一つが女の記憶で、近づくことで読むことが出来る。俺たちのすぐ近くにも光があり、俺とクトゥルフの話をしていたときの記憶が見える。
「いいですか?ここは海と同じです。他人の記憶の中では基本、息が出来ない。」
「今、出来ているじゃないですか。」
「それは貴方と僕がアケミと共有する記憶の傍にいるからです。」
自分についての記憶の傍なら、呼吸ができる。より深く記憶を辿っていくためには息継ぎポイントとして共通の記憶を利用していかなくてはならないという。そうなると、男は共有している時間が長いから息がしやすいだろうが、俺はここから離れるとずっと息を止めていなくてはならないだろう。
「辛い記憶は深くに埋まっているものです。僕が引っ張って行きますから、つぎの貴方とアケミが共有した記憶まで頑張って息を止めていてください。」
男に腕を引かれながらより暗く深い方向へ泳いでいく。確かにホテルの記憶から離れると、息ができず、苦しくなってきた。どこか『はい、どうぞ』と簡単に記憶を見させてもらえるような気がしていた自分が甘かった。他人の記憶に土足で踏み込むのだ。そう簡単にできていいはずが無い。だが、まさかこんな体育会系の能力が必要だとは思わなかった。毎日パソコンに向かって座っているだけの俺には体力的に厳しい。
しかし、考えてみると『体力的に』というのはおかしい。今、俺たちは意識だけ女の記憶に潜らせているのだ。身体的な制約に囚われず、心の持ちようで状況を変えられるのではないだろうか?姿が精神年齢で変わると男も言っていた。俺は『運動が苦手』というイメージを持ってしまっているから、男のようにスイスイ泳げていないだけなのでは…?
この結論に行きついた瞬間、驚いたことに、俺のバタ足は今までよりも強い推進力を生み出して男を抜いてしまった。急に引っ張られた男は少々目を丸くしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを取り戻して同じくスピードを上げる。『自分は速く泳げる』というイメージを強く持つほど、俺たちの潜行スピードは上がっていく。面白くなって調子に乗った反動はすぐに俺を襲った。息が苦しい。俺の様子に気づいた男は進路を変えてある光の近くで止まった。
「ここで息継ぎをしましょう。」
本能的に、ここなら息ができると分かった。ややせき込みながら久々に息を胸いっぱいに吸う。しかし、俺も男も息ができる共通の記憶が他にあったことに驚いた。光の中を覗くと、たくさんのオーディエンスの前で俺が発表している。
「そっか…奥さんは俺の発表を聞いていたんだっけ…」
思わずため口を利いてしまって、すぐに謝った。男は苦笑いを浮かべる。
「そんなことより、もうコツをつかんだようですね。」
「はい。すごいです、面白いです!」
本来の目的を忘れてしまいそうなほど、俺は興奮していた。こんな体験をしたのは(当たり前だが)初めてだ。
「ただ、あまり無理をすると記憶の持ち主から拒絶されやすくなってしまいます。つまり、今みたいに息が持たなくなりやすい。ここから先は息継ぎポイントが少なくなりますから、程々のスピードにとどめて下さいね。」
「少なく?私の残りの息継ぎポイントは事件の日の記憶だけですよね?」
「実はそういうわけではないんですよ。」
同じ記憶を共有していれば、会ったことが無い人でも息をできる記憶があるという。一番簡単なのは同じテレビ番組を見た、という共通の記憶を探せばいいそうだ。ただ、一見こういった共通の記憶はたくさんあるようでいて、人間は一つ一つを全て覚えているわけではないので、印象が強いものしか残っていないことが多い。
「まだ証明はしていませんが、僕たちのようなダイバーは共通の記憶と惹きつけ合う性質があるみたいなんです。息が出来そうだと感じた記憶があったら、近寄ってみてください。事件の日の記憶は僕には見つけられない。貴方が強く惹きつけられる記憶が、きっと僕たちが求めている記憶です。」
記憶の中の俺が下らないジョークを言ってオーディエンスを失笑させている場面を見届けてから、俺たちは潜行を再開した。
日本を震撼させた連続殺人事件の犯人が逮捕されたニュース、ワールドカップ予選、魔法少女もののアニメ、震災への恐怖などなど、息継ぎポイントを経由しながらかなり深い場所まで来た。辺りは暗さを増し、より深層心理まで近づいて来た、と男は説明する。この深さにある記憶は記憶の持ち主にとって忘れることができない記憶だそうだ。確かに、男の息継ぎのために寄った記憶は、男との出会いや告白、婚約、結婚、妊娠・出産と、女の人生の節目の記憶であった。よく見ると、それら男との記憶同士は細い筋で繋がっている。関連のある記憶は互いにリンクされているという。
苦しくなってきた俺を連れて、男はリンクされた記憶のうちの一つに近づいた。そこは俺でも息が出来た。ある家の門の前に、俺と母、妹がいる。門を挟んで家の敷地内に大柄な男が仁王立ちして俺たちを追い返している。
「この記憶…」
「貴方たち家族がアケミに謝罪へ来てくれたときの記憶です。」
俺たち家族と大柄な男の押し問答の様子を二階の窓から眺めている記憶だ。記憶はすべて女視点なので、女自身の姿は見えないが、泣いている、と思った。視線が部屋の中へ移される。すぐ隣に男が居て、女の肩を抱いている。あの時、大柄な男(女の父親)は女は不在だと言った。また、本人も家族も俺たちの顔も見たくない、二度と姿を現すな、と俺たちを追い返した。本当は二階にいたのか。
「僕もね、憎かったですよ。さっきも言いましたが、この手で犯人を殺してやりたいと本気で思っていました。その犯人が家族に殺されたって聞いて、憎しみを向ける相手を失って、一時はその矛先を貴方たち犯人の家族に向けたりもした。あんな狂った殺人鬼の血筋がこの世に残っている事が許せないと思った。」
そう語る男の顔は全く笑っていない。俺は何も言わずに記憶を見ていた。今は亡き母が門の前で土下座している。「どんなに謝っても許されないと分かっています!でも、どうか直接あの子に謝らせて下さい!お願いします!」。俺の耳に残っているセリフと寸分たがわず母はそう叫ぶ。俺たち兄妹も母に倣った。
「でもこの日、貴方たちを初めて見て、貴方たちも被害者なんだ、と気付いたんです。自分たちが知らないところで父親が若い女性を嬲り殺して……貴方たち家族も父親に幸せを奪われた被害者なのに、貴方たちに八つ当たりするのは間違っている。自分がすべきことは誰かを恨むことではない。傷ついたアケミを愛し、少しでも心の傷を癒してあげることだ。貴方たちがこの日来てくれたから、僕はそのことに気付けたんです。」
感謝している。そう、男は朗らかに言った。しかし、俺は男の顔を直視できなかった。
「やめて下さい。
本当は、俺だって薄々気づいていたんだ。親父がおかしくなっているって。親父の帰りが妙に遅くなった頃から、親父は口数が減っていた。仕事が忙しいからだろうって、思い込むことにしてた。でも、腕にひっかき傷を作ってきたり、親父から体液の臭いを感じる時だってあった。絶対何かおかしいって気づいていたんだ。でも、それが何だか知るのが怖かったから、見て見ぬふりをしていた。」
あの頃の俺は恐ろしい事実を知るのが怖かった。でも、今は、父が何故狂気に囚われたのか理由が分からない。知らないことが怖い。いつか俺自身も父のように狂ってしまうのではないか?こんな恐怖に怯えて暮らすくらいなら、あの時父の異変を見て見ぬふりをするんじゃなかった。
「当然の報いなんですよ。俺たち家族が壊れたのは。親父の異変を無かったことにして、自分たちの周囲だけで騒動が起こらなければいいなんて思っていた俺たちが受けるべき罰だったんだ。」
気づいたら記憶の海へ体が流されていた。というのも、男が俺を殴ったからだ。息苦しさに慌てて謝罪に行った日の記憶へ泳ぐ。俺が戻るまで待っていた男は眉間にしわを寄せていた。
「僕はね、自分が何もしなかったから何かが起きた、そのために自分が不幸になるのは当然だ、という語り口が嫌いなんですよ。その理論からいくと、アケミは世に暴漢が存在すると知っていながら、何も身を守る方法を会得しようとしなかったから貴方の父親に浚われて辱められた、ということになります。」
「それは違う!俺たちは…」
「貴方たちは!」
妻が辱められた事件の傷口をほじくり返されても激さなかった男が、声を荒げて俺の言葉を遮る。
「貴方たちも、アケミも、何もしなかった。何もせず、いつも通りそれぞれの幸せな日常を生きていた。そんな当たり前のことが、そんなにいけないことですか?日常を生きることが罪だというなら、貴方の父親が成した非日常な凶行が正しかったということになる。」
それこそ違う。父は間違いなく間違っていた。
「父親を止められなかった自分たちを責める気持ちは分かります。でも、貴方たちは当たり前の幸せを正しく生きていた。道を誤ってしまったのは貴方の父親だけです。貴方も貴方の母親も妹さんも、罰を受ける必要のない、正しい人間だ。そうでしょう?」
俺は答えられなかった。何も言わず、謝罪が出来ずにトボトボと帰る過去の俺たち家族の後ろ姿をただ見ていた。
「あの人たちを許そう、アケミ。」
記憶の中の男が囁く。あの日、心に背負った重荷が、頬を伝って洗い流された。