俺と男の記憶
「俺」と「男」の視点から語る「女」の過去。
二人の男が抱える恐怖とは?
注意:暴力表現があります。
その夜は、俺の人生の中で最悪の夜だった。
父がいつもよりも早く家に帰ってきた。食品加工会社の工場を任されていた父の帰宅時間はどんなに早くとも夜の10時だった。だというのにその日は母と俺と妹がそろって晩御飯を食べ始めた夜7時すぎ、家の前の駐車スペースに車が止まる音がした。俺たちは箸を止めて互いの顔を見た。誰も父が早く帰宅することを知らなかったようだ。母が席を立ち、玄関に向かう。玄関が開く音の直後、廊下に悲鳴が響いた。何事かと駆けつけた俺と妹は、母と同じように叫ばざるを得なかった。
玄関に父が立っていた。だが、父の姿は異常そのものだった。身に着けているものといえば靴下と靴、それと眼鏡だけで、ほぼ全裸だった。髪は何かドロドロしたものが付着してから乾燥したのか、ぐしゃぐしゃの状態でカピカピに固まっている。普段うっすらとしか開いていない目は飛び出そうなくらい見開かれ、病的に血走っていた。強張った表情のままで固まった顔から鼻水と涎がだらしなく垂れ、全身の脂肪を伝っている。
「あ……あ…なた…?」
掠れかかった声で母が父に声をかける。廊下に腰を抜かしたまま、小さく震えている。うつろに彷徨っていた父のギョロ目が母をとらえる。表情を変えず、父は母に直進した。母のウェーブがかかった髪を右手で鷲掴みにし、乱暴に左右に振った。痛みと恐怖で悲鳴をあげる母を見て父は笑った。おぞましく、恐ろしく。震える足に鞭打って制止に入った俺の顔面を父の左拳が強く打つ。無様に殴り飛ばされた俺は廊下の壁に激突し、しばらく動けなかった。妹が「止めて!」と声が枯れんばかりに叫んでいるが、父の凶行を止める事は出来ない。母が泣きじゃくって抵抗しなくなるまで痛めつけた父は、母を引きずってリビングへ向かう。妹は恐れをなして先にリビングへ逃げた。
どうにか立ち上がった俺はよろけながら父の後を追う。リビングに入ると、電話と扇風機のコードで母の手足を縛りつけているところだった。妹はキッチンの入口に座り込み、震える手でスマホを操作している。警察を呼んでいるようだ。
「もしもし!助けてください!お父さんがお母さんを…!早く来て!」
俺は妹の声を聞きながら父に体当たりをした。共にフローリングの上に転倒する。馬乗りになったのは俺の方だったが、父の拳が今度は顎に入った。歯を食いしばっていたため舌を噛まずに済んだが、頭がぐらぐらする。ひるんだところにさらにパンチを浴び、横腹にひときわ強烈な一撃を喰らって横に倒れた。全身の痛みで視界がかすむ。父はまた母に這い寄っていく。
「もう止めて!お父さんっ!!」
今度は妹が父に掴みかかった。父の背にとびかかり、鼓膜が破れんばかりの金切声でわめきたてる。
「何でこんなことするの!?何なの!?いつものお父さんに戻ってよ!!」
父は動きを止めた。ゼンマイ式のロボットが振り返るようにぎこちなく首を回し、ギョロ目を母ではなく、妹に向ける。口が裂けそうなほどの不気味な笑顔が妹の視界に入った瞬間、父の両肩の関節はあり得ない方向に曲がり、妹の手首を掴んだ。悲鳴を上げる妹は軽々と空中に放り投げられ、床に叩き付けられた。「ぐえっ」と蛙のような声を出した妹に父が馬乗りになる。高校の制服を胸元から裂き、猿のような奇声を発した父は妹の肌を舐め回す。叫んで暴れる妹をねじ伏せて、妹を汚していく。
「止めてくれ!」
俺は叫んだ。上手く呼吸もできないくせに俺は叫んで土下座した。父の動きが止まる。
「お願いだ、俺になら何をしても良い!だから、頼むから、母さんと真衣には手を出さないでくれっ!」
しばらく俺を見ていた父は、初めて喋った。裏返った酷い声だった。
「車…車の…ト…トト……トランクの中…中から、から…持って…来い…い…!」
何をか、は分からない。それでも俺は弾かれたように飛び出した。脇腹の痛みも忘れて車まで駆け、トランクを開けた。中には荒縄で縛られた全裸の女が入っていた。髪の紅い、若い女だった。女の目は虚ろに涙を流すのみで、俺に担がれても微動だにしなかった。
父の前に女を転がす。父は涎をダラダラと流して女を貪る。全身を撫で回し舐め回し、傷だらけの女を蹂躙する。
「…オレ…の…の、玩具…!…みっつめ…みっつめの…の……玩具…!!……壊れるまで…まで……あ…そ…べ……!!」
いつの間にか、母が拘束から抜け出していた。母は父の背中に駆け寄り、ぶつかった。母が離れると、紅い水溜まりが床に広がり、父が転がった。母の手には紅く輝く包丁が握られていた。
「……もう……や…め…ろ………」
それが父の最期の言葉だった。
父の他の2つの玩具は父が借りていた他のアパートから無惨な姿で見つかった。どちらも若い女で、司法解剖の後、遺族に引き渡された。3番目の玩具はしばらく入院していたが、無事、家族の元へ帰って行った。
母には正当防衛が認定された。それでも世間の風当たりは厳しく、事件から2年後には自ら命を絶った。妹は心が壊れ、あれから8年間、部屋に引きこもっている。不憫に思った弁護士が俺たちに引っ越し先と新しい名前をくれて、俺は奨学金で大学院まで進んで来られた。
何故、父は狂ってしまったのか?父は玩具たちに何をしたのか?あの夜の事を忘れたいと切に願いながらも、俺はその答えを知りたくて悶える日々をどうにか生きてきた。そんなある日、妹を連れて行った精神科の待合室で俺たちはテレビに釘付けになった。人間の記憶を読み出す技術の開発に成功した科学者のニュースが大々的に報じられていた。その科学者の傍に寄り添う女が、父の3番目の玩具だったのだ。おぞましい血の色の髪を見て妹はパニック状態に陥り、ひきつけを引き起こして数日入院する羽目になった。
今回の学会に、俺は科学者ではなく、科学者の妻となった3番目の玩具に会いに来た。無防備にソファーで眠る紅い女に会いに来たのだ。父が狂った理由を、父が犯した罪を、この女なら知っている。直接聞き出すことができずとも、男の開発した技術で父の玩具として扱われていた日々の記憶を見ることが出来るかもしれない。俺は男に洗いざらい全部話した。男は一言も何も言わず、表情を変えずに最後まで俺の言葉に耳を傾けていた。
「―――というわけです。お願いできますか?」
俺もどうかしている。「お前の妻がかつて他の男に凌辱された記憶を見たい」なんて頼まれて、男は内心怒り狂っているだろう。警察の話では3番目の玩具には当時婚約者がいたらしい。この男がその婚約者であった可能性は十分ある。婚約者が3日間行方不明になり、辱められて帰ってきた。そんな辛い思いをさせられた被害者の一人かもしれない男に加害者の子が何をお願いしているんだ。
だが、男はいたって冷静だった。空になって久しいコーヒーカップの淵を親指でなぞりながら、少し考えている様子だ。俯いていた男は俺の目を見上げた。口元にはあの人のいい微笑が戻っている。
「まだ、あれから8年しか経っていないんですね…。結婚の約束をした二日後でした。アケミが行方不明になったのは。警察に保護されるまで、一睡もせずにこの子を探し回りました。この子の母親から連絡があって、警察病院に駆け付けてこの子の姿を見た時、まさにはらわたが煮えくり返るような怒りを覚えましたよ。アケミをこんな風にした男を殺してやる。一族もろとも皆殺しにしてやる、と。そんな僕に、心も体も傷ついたアケミはこう言ったんです。『しょうちゃんが手を下す必要は無い。アレは私が殺した。アレの妻も死ぬだろう。アレの子孫も皆死ぬ。私が殺しておいた。』と。」
鳥肌が立った。凍り付いた俺の目を見つめたまま、男は続ける。
「どういう意味か、分かりませんでした。確かに犯人は妻に殺されたと聞きましたが、アケミが殺したわけではない。意味を聞いてもアケミは答えてくれませんでした。アケミはそれ以外、事件について何も語りませんでした。医者にも、警察にも、僕たち家族にも誰にも。」
妻に視線を落として無防備な寝顔を眺める。幸せそうにほほ笑む女はむにゃむにゃと意味をなさない寝言を呟いた。
「僕も知りたい。この子が何をされたのか、何をしたのか。そして、何故、髪の色が紅色になったのか、ベニボシとベニクサはどこから来たのか。」
「え…?」
「アケミは貴方の父親に浚われる前まで、髪の色が黒かったんです。でも、戻ってきたら紅色になっていた。」
髪の件も確かに不可解だが、ベニボシとベニクサって…。
「さっき貴方を案内したもの、貴方には見えましたか?」
「は?それは…もちろん……」
思わず子どもたちが消えた扉の方を見る。そういえば向こうから物音ひとつしない。あまりにも大人しすぎる。
「やはり、そうですか。アレは僕とアケミにしか見えていないみたいなんです。でも、貴方にも見えるんですね。」
「貴方と奥さんのお子さん…ではないのですか?」
男は肩をすぼめた。
「僕とアケミの子は学会中アケミの両親に預けてあります。アケミがベニボシとベニクサと呼ぶアレらは、アケミが事件後、退院した時に連れていたんです。正確にいうと、最初はベニボシだけでした。それが丁度貴方の母親が自殺なさった頃にベニクサが増えた。不気味ですよ。アレらもきっと事件に関係している。僕はそう確信しています。」
言いようのない恐怖が全身を駆け抜ける。お化けやら幽霊やらを信じる年頃ではないが、男の話は嘘ではないと思えた。男はベニボシとベニクサの存在への恐怖で、父への怒りなどどうでもよくなっている、そういう風にも見えた。未知への恐怖。8年間、その恐怖と戦ってきた俺には男の気持ちがよく分かる。全ての答えはこの女の記憶の中にある。この、紅色の女の記憶の中に。