ある男とある女
「俺」は天才科学者の元を訪ねる。記憶にまつわる依頼をするために。
とある国際学会のバンケット。今回の発表の参考文献に挙げさせてもらったこの分野では有名なチェコ人の教授殿を始め、様々な大学の教授・准教授・学生のみなさんからお祝いの言葉を一通り受けた俺は、担当教官にこのホテルのある客室に行くよう勧められた。その部屋には先日世界的なニュースになった論文を発表した若い助教授と、何故かその家族が宿泊しているという。明日招待講演を行う彼は変わった男で、学会の際はバンケットには参加せず、俺のように知り合いに紹介された者とのみ対話するらしい。その話を初めて聞いた時は、いくら歴史的な大発明をした人とはいえ何様のつもりだよ、とちょっとイラッとした。
バンケットの会場である大広間がある階から10階上のフロアでエレベーターを降りる。ほどなくして教授にもらったメモ書きにある部屋の前に着いた。セミスイート。いくら歴史的な大発明を…とまたイライラしてしまいそうになった自分を深呼吸で落ち着かせ、ゆっくり2回ノックし、所属と名前と紹介してくれた教授の名前を告げた。「はーい」という男の返事の後に、パタパタと足音がこちらに近づいてくる。電子音がしてドアのロックが解除される。
「失礼しま…」
で、言い留まってしまったのは開いたドアの向こうに立っていたのが三十路近くの男ではなく、赤ん坊を負ぶった小学生低学年くらいの女の子だったからだ。黒い瞳と長い髪、制服のような白いブラウスに赤いスカートの女の子は無言・無表情で俺の間抜け面を見つめている。この子には長すぎるおんぶ紐で背中にくくられている赤ん坊(服が真白なので妹か弟か分からない)は大量の涎を姉のブラウスに沁みこませながら熟睡している。
「ベニボシ、御客人をこちらへ案内しなさい。」
ノックの後の返事と同じ声が短い廊下の向こうから聞こえた。ベニボシ(どんなキラキラネームだよ、と心の中で突っ込む)と呼ばれた女の子は終始無言で俺をソファーと巨大な薄型テレビのある部屋へ通した。
テレビの前にはガラスの長机があり、その長辺には男が座るソファー、短辺には一人掛けの椅子がそれぞれ据えられている。男は机に広げていたノートPCと論文の束から顔を上げ、客である俺の方へ向けた。ボサボサの白髪交じりの黒い髪に無精髭、目の下の隈、さらには皺の寄ったワイシャツとスーツ、と素晴らしいほどにだらしない格好だ。男はにこっと笑い、テレビに向かって右の一人掛けの椅子を俺に進めた。俺が座る間に女の子の両肩を掴み、視線を合わせて、
「ベニボシ、ベニクサと一緒に向こうの部屋へ行っていなさい。僕はこれからお客さんと大事なお話をするからね。」
と指示をする。ベニボシはこくりと頷いて綺麗に回れ右をし、寝室の扉の向こうへ行った。彼女が扉を開けた隙間から少しだけ見えたベッドの上に、誰かの生足が見えてドキッとする。足を隠した扉から目が離せずにいる俺に男はいつの間にか淹れたコーヒーを勧める。芳しい香りが部屋を満たす。
「先生のお子さんですか?」
俺の問いに男は一瞬目を丸くし、先ほどと同じような笑みを浮かべた。
「あぁ、どうしてもついて来るんですよ。」
「海外の学会にご家族を連れていらっしゃるなんて大変でしょう?」
「そうでも無いですよ。あんな風に、あの子たちは大人しいですから。」
それから俺と男は30分ほど真面目な研究の話をした。今日の昼過ぎにあった俺の発表を聞いていた男は、ここ3ヶ月、俺と指導教官が悩んでいた課題の解決案を出してくれた。それはおそらく彼に聞かなければ俺が卒業するまでにたどり着かなかったであろう斬新で画期的だが現実的な手法であった。質疑を含めて20分の発表で、ましてや自分とやや研究分野が異なるというのに、男は深いところまで俺の研究を理解していた。頭の作りの違いを感じ、俺はただただ感服した。更に男は最後にこう締めくくった。
「今回の学会の中で貴方の研究が一番興味深かったです。賞をもらって当然の内容だったよ。おめでとう。」
「あ、ありがとうございます。」
バンケットで耳にタコができるほどお祝いの言葉を頂いたが、彼の言葉が一番心に響き、嬉しかった。ここで俺は今日初めて謙遜した。
「でも、先生の研究に比べたらまだまだです。」
男は眉を下げて自分のコーヒーを啜った。
「いやいや、僕が研究で良い成果を出せるのは偏に妻の献身あってこそですよ。家のことや子どもたちのことを気にしなくて良いくらいによくやってくれるし、僕の支えにもなってくれている。僕の研究結果への称賛は、全て僕ではなく彼女に与えられるべきなんだ。」
対談する前に持っていた男へのあまり良くないイメージはこの言葉で完全に払しょくされた。今、「貴方の最も尊敬する人は誰ですか?」という質問をされたら迷わずこの男の名前を挙げるだろう。「リア充爆発しろ」と欠片も思えなかったところが特に素晴らしい。
「…本当に奥さんのことを愛してらっしゃるんですね。」
先ほどからのニコニコ顔にデレデレが追加される。男が答えずともその顔が肯定していた。これはさすがに「爆発しろ」と一瞬思った。
「呼んだー?しょうちゃん。」
いつの間にか、本当にいつの間にか紅い女がソファー越しに男の首元に抱き着いていた。紅い女、という表現は我ながら彼女を表すのに最適だと思う。肌は日本人らしい色だし、瞳の色もこげ茶だけども、その他は紅かった。真紅の薄いネグリジェしか身に着けていない女の長い髪は、血まみれであるかと思うほど紅い。男の頭を背後から抱き寄せ髪の香りを胸にいっぱい吸い込み、官能的なため息をつく。さらに彼女の両手は男の首筋を蠱惑的な動きでくすぐっている。透ける生地のネグリジェの下には何も身に着けていないらしい。時折(失礼だが、大きいとは言えない)乳房が頂まで見え、視線を無理やり外さなければ俺の男の部分が反応してしまいそうだった。俺の困惑を感じ取った男はすり寄る女に軽く口づけをし、耳元で囁く。
「アケミ、お客さんが目のやりどころに困っているよ。せめてコートを羽織りなさい。」
「はーい。」
女はクローゼットの中からこれまた赤いコートを取り出して着てくれた。それでも前のボタンを閉めてくれなかったので(やはり失礼だが、あまりない)谷間が見え隠れしているが。女は男の左側にべったりとくっついてソファーに腰かけた。男の片腕を胸元に抱き寄せて肩に擦りついている。
「妻のアケミです。アケミ、こちらは――」
「今日、発狂することができるAIについての発表をしていた男の子でしょ?しょうちゃん、気に入ってたもんねー。」
アラサーの女はやや話し方が子供っぽい。普段からこうなのか、旦那に甘えているからこうなのかは分からない。この女はあの発表を聞いていたようだ。聴衆が多かったとはいえ、これだけ目立つ女を見落としていたとは自分は案外緊張していたのかもしれない。
「AIの精神パラメータにSAN値を組み込むーとか、うふふ~、君、面白いね~!」
女はここでやっと初めて俺を見た。ぱっちり二重は彼女の大きな目をさらに大きく見えさせる。
「奥さんはクトゥルフをご存じなのですか?」
パラメータ『発狂指数』を考える上で意識はしたが、俺は発表中に一度も『SAN値』という言葉を使っていない。
「うふふ~、知ってるよー。やったことないけどねー。」
それにしても俺との会話をしながらも男の全身を触る(もはや「弄る」ぐらいの表現の方が正しい)ことをやめない。そしてさらに驚くべきことは、男は人前だというのにいたって平然と彼女の愛撫を受けている。どんなバカップルだ。再び俺の視線を気にして、男は女の手首をつかんで愛撫を中断させる。
「アケミ、僕の膝を枕にしていいから、しばらく大人しく寝ていなさい。」
「はーい。」
もの凄く素直に女は男の指示に従った。膝枕でソファーに寝そべるや否や、女は寝息を立て始めたではないか。この夫婦、絶対何かおかしい。
「…すみません。この子は学生時代に怖い目に遭いましてね。それからずっとこうなんです。」
男が家に帰ってから翌朝仕事に出かけるまで、片時も傍を離れようとしないという。男が仕事に出かけている間は育児と家事に没頭するよう言い聞かせ、どうにか家に置いて来ることができる。しかし、1泊以上の出張となると、こうして共に連れて来ないと帰宅後何日も傍を離れてくれなくなる。
「こんな気の触れた女と何故?と思うかも知れないけれど、この子は何に対しても無関心だった僕に、愛を教えてくれたんだ。」
本当に愛しそうに男は女の頭を撫でながら言う。紅い髪がサラサラと指の間を流れる。
「この子がいなかったら、僕は研究者にさえなれなかっただろう。何にも意欲が湧かず、誰にも心を開くことなく、ただ呆然と寿命が尽きるのを待つ。そういう人生を送っていたと思うんです。」
自分を生きさせてくれた人、それが彼女なのだ、と男は目を伏せる。感謝の念を注ぎ込まんとするかのように、女の頭を撫で続ける。
ふと、男は目を開けた。
「さて、のろけ話が長くなってしまったね。」
一口で残りのコーヒーを飲み干し、男は静かにコーヒーカップを受け皿の上に置いた。
「ここのところ、僕に会いたい、と言ってくる人は大抵同じ用件なんだが、貴方もそうでしょう?」
それはそうだろう。この男が発明したものはファンタジーかSFあたりに登場する誰もが夢見た技術なのだから。俺は姿勢を正した。
「はい。ある人の記憶を見たくてお伺いしました。学生の身ですが、報酬はいくらでも払います。」
この男が先日発表した論文には、人間の記憶を読み出す方法について論じられていた。そんなこと出来るはずないと世界中の科学者が彼のトリックを見破ろうと躍起になったが、彼らはことごとく男の理論は正しく、否定のしようがない事を思い知らされることになった。一般人から研究機関、マスコミ、警察・検察、各国の軍などなど、各方面が彼に連絡を取ろうと殺到しているはずだが、男には知り合いから紹介された者しか会えない。神出鬼没で謎の多い研究者であった。
その謎の男は覗き込むように俺の目を見つめてきた。
「僕は、僕が納得できる理由が説明できれば、無償で依頼を受けることにしているんです。」
「え…」
どんなお人よしだ。巨万の富を十分築ける技術だというのに。ここで動揺されることに慣れているのか、男は俺などお構いなしに続ける。
「どんな理由で、誰の何の記憶を読みたいのか、それを教えてもらえますか?」
俺は目をつぶって深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。そしてこちらもしっかり男の目を見つめる。声が枯れないよう一つ咳払いをして、はっきりとこう言った。
「貴方の膝の上で寝ている女の記憶を読みに来ました。何故俺の家族が壊れたのか、それを知りたいんです。」
SFというものを初めて書くのでグダグダしそうな予感が…。
が…頑張ります!