第一話 霞と貘
ここではない、とある世界の片隅に、それはそれは奇妙な図書館がありました。
その図書館が貸し出しているのは、ニンゲンの夢。
ニンゲンは「見たい」と願う夢を見るために、この図書館に夢を見せてくれる『本』を借りに訪れるのです。
図書館の館長は、「夢を喰らって生きる」と云われる妖怪、「貘」。しかし、この貘は夢を食べるだけではなく、夢に干渉することもできるのです。
この物語は、そこで働くニンゲンと、一匹の妖怪が織り成す、不思議な不思議なお話し……
*
「また延滞ですか」
はぁ、と一人の少年が深い溜息を吐く。少年は忌々しげに、パソコンの画面を見詰めていた。モニターにはズラリと本の名前、そして延滞者のリストが隙間なく並んでいる。
少年ーー霞は苛立ちを隠さず、大きな音を立ててキーボードを乱暴に叩いた。
「今日は日曜日だからね。二度寝しているニンゲンが多いんだよ。だから、夢の続きを見ようと『本』を延滞してしまうんだ」
忙しなくパソコンを操作する霞の隣で、この図書館の館長である青年ーー貘は、優雅に茶を啜りながら、にこやかにそう言い聞かせた。
貘の金糸のような髪は、窓から差し込む朝日に照らされ、キラキラと輝きを放っている。その姿は幻想的でもあり、また奇妙な柔らかさを醸し出していた。
「全く、督促状を何枚も書く俺の身にもなって下さいよ」
本日2度目の溜息。それは言うまでもなく、仕事をしない館長に向けてのものだった。
「ああ、督促状を書かなくても大丈夫だよ。眠りから醒めれば、直ぐに戻ってくる」
「いや、そうじゃなくて。お茶を飲んでいる暇があったら手伝え、と言っているんです」
キーボードを叩く手を止めた霞は、横目で貘を睨んだ。
貘は霞からさっと視線を逸らす。拒絶の証だ。
ーーこの面倒くさがり屋め。
霞の舌打ちが、閑散とした館内に響き渡った。
このように館長であるはずの貘が、霞に仕事を押しつけるのは日常茶飯事である。
「貘さん、手伝って下さい」
「だから、督促状は書かなくても大丈夫だと……」
「この前もそう言って、すぐに本が戻ってきましたか?」
霞の眉間に深い皺が寄った。ばつが悪いとでも思ったのだろうか、貘はかくんとうなだれる。
「すぐには戻ってこなかったけれど……」
「返却されたのはそれから2週間後、でしたよね」
じとっとした視線が貘に纏わりつく。「蛇に睨まれた蛙」とはこのことだろうか。しかし、蛙は何とか眼前の蛇から逃れようと足掻いた。
「でっでも! 戻ってきたから結果オーライじゃないか!」
「戻ってきたのは126冊中53冊です。残りの73冊は未だに返却されていません」
うっと呻き声を上げ、貘は言葉に詰まった。
更に追い撃ちをかけるように、霞は言葉を続ける。
「それに……この前、貘さんが仕入れてきた本ーー『悪夢』に分類される本ですよね? 悪夢の本の貸借は基本的に禁止されているはずですが。これは一体どういうことでしょう?」
貘の視線が右へ、左へと落ち着きなく、キョロキョロと動いた。
悪夢、と称される本が貸借禁止なのには、勿論理由がある。
通常の『夢』の本は、個人でコントロールをすることが可能だ。例えば、「この夢はもうここまででいい。これ以上は見たくない」と願えば、夢の途中でも、その世界から抜け出すことができる。
しかし、悪夢の本に至ってはそうにはいかない。本が持つ負のエネルギーが、夢を見ているニンゲンに纏わりつき、コントロールを不可能にさせるのだ。悪夢を見るニンゲンは、「見たくない」と強く願っても夢の中から抜け出せなくなってしまう。ーーただ、『夢』を自在に操り、干渉することができる貘を除けば。
「貘さん、俺は昨日、久しぶりに悪夢を見ました」
びくり、と貘の肩が震えた。
「大量の蜘蛛に囲まれる夢をみたんです。……俺が蜘蛛を大の苦手としていること、知っているのは貘さんだけなんですよ」
じめじめとした霞の声は、蛇の様に地を這う。
そして、とどめの一声。
「俺にたちの悪い悪戯をするために、悪夢の本を仕入れたんですよね?」
お手上げ、とでも言うように、貘はぽりぽりと頬を掻いた。
「……だって霞君、この前私が楽しみにとっておいたプリン、食べちゃったから……」
「仕返しに悪夢を見せた、と?」
こくりと幼い子供のように、貘は頷いた。
本日、3度目の溜息。
「……子供ですかアンタは。あの後、ちゃんとプリン買ってあげたじゃないですか。どれだけ引きずっているんですか」
「溢れんばかりの蜘蛛に怯える霞君は、最高に面白かったよ」
「最低です。アンタ、本当に最低です」
開き直った様にそう言い放った貘に対し、霞は心底げんなりとした。
突如、 霞の脳裏に昨日の悪夢が蘇る。
自分を取り囲む幾多の蜘蛛。大きいのも、小さいのも、種類も豊富だ。右を見ても、左を見ても、逃げ場などない。その内の一匹がベタつく糸を垂らし、自分の頬に降りてきて……
ここまで思いだして、ぶるぶると霞は頭を振った。
ーーああ、吐き気がする。
「……お願いしますから、二度としないで下さい。幾ら夢に干渉できて、悪夢を止めさせることができる貘さんでも、アレだけは……本当に……」
許せません、と蚊の鳴くような声で恨みがましく霞は呟いた。その顔は心なしか、青白いように見える。
貘はそんな霞の姿を見て、額に手をあてた。
流石にやり過ぎただろうか。
「ごめんごめん、もうしないよ」
苦笑いを浮かべて、霞の薄い肩に手を置いた。
だが、霞はそっぽを向いて、視線をモニターに移す。
「絶対に許せません」
ーーこれは面倒なことになってしまった。
「じゃあ、どうしたら許してくれる?」
「貘さんが仕事してくれたら許します」
「いやだね!」
そう言い放った貘の顔は、いっそ清々しい程に輝いていた。
*
カタカタとキーボードを叩く音が館内に響いている。
舌打ちをしながらパソコンを操る霞の隣では、未だに茶を嗜む貘の姿があった。手伝う気は皆無の様である。
「あれ……?」
延滞者リストのとある部分に、霞の目が止まった。
本のタイトル:おくりもの
ジャンル:童話
貸出日:白木蓮の年 宵の月
「白木蓮の年っていったら……えーっと……」
「5年前、だね」
いつの間にかモニターを覗き込んでいた貘が、ぽつりと呟いた。
5年前の本が今もなお、返却されていない。
何故、今まで気がつかなかったのだろう。
「貘さん、これって……」
貘に目配せをすると、彼は無言で頷いた。どうやら、考えていることは同じ様だ。
「『借りパク』ってヤツだろうね。……霞君、出かけるよ」
「いってらっしゃい」
「何言ってるの。君も一緒に本を取り返しに行くんだよ」