二話 胸の奥に届くもの
金の勘定ばかりを追いかけていると、気づかぬうちに心が痩せ細ってしまう――それこそが一番恐ろしいことだと、久幸は思っていた。
儲けとは、自分の懐を温めるためだけのものではない。本当の意義は、人の顔に笑みを浮かべさせることにある。喜ばせることの本質は、金額の大小ではない。数字の多さではなく、相手の胸の奥にどれほど近づけるか――そこにすべてが懸かっている。
だが、胸の奥に近づくことは簡単ではない。長い歳月をかければできるかもしれないが、それでも難しい。
そんなとき、彼の耳に浮かんだのは長老の言葉だった。
「人の心を知るのに必要なのは時間の長さではない。一瞬で胸の奥に届く深さだ。目の前の人を、どこまで喜ばせることができるか。それに気づけば、金儲けはやさしいものだ」と。
その言葉を胸に刻み、久幸は決めた。
――期待に応えること。喜んでもらうこと。
それを自らの基本方針とし、顧客の心に寄り添うことを第一に掲げ、倒れかけていたビジネスを少しずつ、しかし確実に立て直していった。
彼はまず、従業員たちとの距離を縮めることから始めた。一方的に指示を出すのではなく、一人ひとりの顔を見て声をかけ、悩みや提案を聞く。すると、現場の雰囲気は徐々に和らぎ、自然と笑顔が戻ってきた。
顧客対応にも変化があった。メニューをただ出すのではなく、顧客が何を求めているのかを感じ取り、丁寧に対応するようになった。顧客から「他のレストランはこちらの希望をあまり聞いてくれないが、このレストランは違う」と笑顔で言われるようになり、従業員は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
その対応がすぐに売上に直結しなくても、心を満たすサービスを積み重ねた。手書きのメッセージカードを添えることや、メニューに小さな工夫を加えること。顧客はその心遣いに気づき、少しずつ信頼と笑顔を返してくれた。
こうしてレストランは、一歩ずつだが確実に立て直されていった。売上は徐々に回復し、何よりも従業員と顧客の間にあたたかい信頼の循環が生まれたのである。
彼のもとに、古くから付き合いのある業者がやってきた。年季の入った作業着姿で、どこか疲れた表情をしている。注文は少量で、利益になるものではなかった。かつてであれば、形式的に応じて終わらせていただろう。
だが、その日は違った。業者の声の調子や目の陰りに気づき、世間話を交えながらゆっくりと話を聞いた。やがて彼は、ためらいながら打ち明けた。
「最近、客足が減って……もう店を畳もうかと考えているんだ」
久幸はしばし黙し、それから穏やかに問いかけた。
「どんなお客さんに、一番喜ばれてきましたか」
業者は考え込み、やがて顔を上げた。
「やっぱり、長年の常連さんたちだな」
その言葉に、久幸は彼らの店に似合う特注の小さな飾り札を提案した。常連客に「自分だけの一点物」と思ってもらえるような工夫だ。
数か月後、業者は再び笑顔で久幸を訪ねてきた。
「不思議なもんだな。あれをきっかけに常連さんが戻ってきて、新しい客まで増えたよ。あんたのおかげだ」
主人の目尻に刻まれたしわは、苦悩ではなく喜びの証に変わっていた。
ある雨の日のことである。閉店間際の店に、濡れた服のまま入ってきた親子がいた。幼い子は泣きじゃくり、母親は困り果てていた。
かつての久幸なら「営業時間外です」と追い返していただろう。だが今の彼は違った。
「まずは体を温めましょう」
そう言って厨房に走り、暖かいスープとビーフシチューを急いで用意した。湯気立つ器の前で、子どもの泣き声はしだいに小さくなり、母親の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……心も体も温まりました。お会計をお願いします」
「はい、ここはレストランです。慈善事業ではありません。そしてあなたはお客様です。ですのでお金はいただきます。でも特別メニューでしたので、お代は五十円です」
母親は最後まで恐縮してはいたが、満面の笑みでその場に崩れ落ちた。この五十円で、彼女の心に深く刻まれていった。
その瞬間、久幸は悟った。
――自分の変化は、数字では測れない。人の胸の奥に触れられるかどうか、それがすべてなのだと。
長老の言葉が胸の奥で重なり、今度は彼自身の信念として刻まれた。
店先の窓越しに、あの時の親子が今日も笑顔で手を振ってくれた。その小さな手のひらを見つめながら、静かに思う。
「これこそが、本当に求めていた儲けなのだ」と。
長老の言葉は、もはや誰かの教えではない。
それは久幸自身の信念となり、街の小道や雨上がりの光にそっと溶け込み、静かに、しかし確かに広がっていく。
そして、街の片隅で見つけた小さな光にそっと顔を向けた。
温もりは目に見えずとも、確かに存在する。
人の胸の奥に触れたその瞬間、世界は静かに変わるのだ――そう思いながら、ゆっくりと歩き出した。
雨上がりの街には、まだ見ぬ温かさが満ちている。
季節はゆっくりと、秋へと傾いていく。酷暑から解き放たれた空気は、肌にやわらかく触れる。朝露に濡れた草の匂い、風に揺れる小枝のささやき。ふと、心にそっと触れることがある。
手をかけ、心を向ければ、ささやかなものでも応えてくれる温もりがある。風や光が、ほんのわずかに返すような、静かで確かな喜び。だが、その温もりは、いつの間にか当たり前になってしまう。誰かの小さな配慮や、与えられた恵みも、心の奥に沈み、色を失っていく。
雨上がりの街を傘を傾けながら歩いていた。湿った舗道を踏みしめる足音は、空気に吸い込まれていく。季節の匂いが雨に濡れて立ち上り、空気はひんやりとしていた。濡れた舗道に映る街灯の光、小さな葉に残る水滴、遠くから聞こえる子どもの笑い声。すべてが、ほんのわずかな手間と心遣いで、世界を少しだけ柔らかく、温かく変えることができると教えてくれているようだった。
久幸はいつもの床屋の前で足を止めた。窓越しに見える椅子、鏡に映る薄暗い空間。扉を押すと、小さなベルが控えめに鳴った。店内の空気は外の湿り気とは異なる、閉じた温かさを帯びていた。
店主は少し申し訳なさそうに告げる。
「今月から四千円になりますが、よろしいですか」
その代わり、髭剃りも顔パックもマッサージも、時間をかけて丁寧に行うという。自分の技術を安売りせず、値段に見合った仕事をする――店主の誇りだった。
彼は静かに頷いた。このひとときのためなら、安いのかもしれない、と。店主はわずかに笑みを浮かべ、肩の力を抜いたように丁寧な手つきでカットを始める。髭を剃り、パックとマッサージを施すその時間は、日常から切り離された小さな幸福だった。鏡に映る自分の顔が、少しずつほぐれ、心までほのかに温まる。
しかし半年も過ぎると、四千円という値段が当たり前になり、丁寧さは静かに色褪せていった。手つきには以前の軽やかさはなくなり、シャンプーも二度洗いから一度洗いになった。かつての鮮やかな温もりは影を潜める。彼は、あの丁寧さをもう二度と味わえないことを悟ったのかもしれない。その床屋に足を運ばなくなった。
月に一度の贅沢は、単なる散髪の時間ではなく、少しだけ世界が柔らかく見えた時間だったのだ。失われたものを惜しむよりも、覚えていることの温かさを抱きしめるほうが、心はずっと軽くなる――そう思った。
数字や利益の計算では決して測れない、目に見えぬ価値。人の胸の奥に触れる深さこそが、彼が求めていたものだった。
彼は静かに、しかし確かな気持ちで思った――
「儲けとは、人を喜ばせること。その喜びが、巡り巡って自分の心を満たすのだ」と。
その日の空は、やわらかく澄んでいた。彼の胸の奥にも、光のような静かな喜びが差し込んでいた。
雨に濡れた街の匂い、遠くで揺れる葉のざわめき、誰かのささやかな笑顔――それらすべてが、ひとつひとつ静かに心を満たしていく。久幸は、目に見えぬ温もりを抱えながら、そっと歩みを進めた。世界は何も変わっていないようで、しかし確かに柔らかく、優しく輝いていたのだった。