2.目が覚めたらエルフでした。
意識は、深い海の底からゆっくりと浮上するように戻ってきた。
最後に感じたのは、夜空のような優しい闇と、「次は、いい恋を」という、誰かの声。あれは、誰だったか。思い出そうとすると、思考に靄がかかる。ただ、不思議と不快な感じはしなかった。
目を開くと、視界に飛び込んできたのは、幾重にも重なる木々の葉だった。
小鳥たちがさえずり、微かに風が心地よい。息をするたびにどこか清々しい気分になる。
空気とは、ここまで美味いものだったのか。
「……ここは」
掠れた声が、自分の口から漏れた。どこか声が高くなったような気がする。
ゆっくりと体を起こすと、驚くほどの軽さに目を見張る。まるで羽毛のようだ。先ほどまで馴染んでいた屈強な体は消え失せ、代わりにしなやかで贅肉のない、少年とも青年ともつかない滑らかな体つきに変わっていた。
自分の手を見る。細長く、綺麗な爪が整然と並ぶ。節々を動かしてみると驚くほど滑らかに動く。
肌を触ると滑らかで、いつかに触った絹のドレスのようだった。なんとも美人な少年のようである。
起き上がり、蹴伸びをしようと腕をあげる。
....何かがおかしい。さらさらとした髪の中に、毛何か尖ったものがあった。混乱しながら自分の頬に触れ、そのまま耳へと指を滑らせた。
「……!」
そこにあったのは、人間のものとは明らかに違う、先端がすっと尖った、長い耳だった。
その事実に思考が追いつかず、呆然と辺りを見回す。
俺が眠っていたのは、巨大な樹の根元だった。周囲には、同じように木々に寄りかかるようにして、十数人の人々が穏やかな寝息を立てている。
彼らは皆、俺と同じように長く尖った耳を持ち、陽光を反射して輝く銀や金の髪、彫刻のように整った顔立ちをしていた。
「エルフ……」
無意識に、言葉がこぼれた。
そうだ、彼らはエルフだ。神話の中に語られ、かつて王国に反旗を翻した末に、人間たちによって狩り尽くされ、絶滅したとされる伝説の種族。
俺の知識――子供の頃に本で読んだ知識が、そう告げていた。
故郷の村の近くにも、彼らが住んでいたという森の遺跡があった。幼い頃、妹と忍び込んで遊んだ記憶がある。よく妹が耳を引っ張ってきて、エルフだと茶化してきたっけ...
だが、目の前の光景は、その知識と完全に矛盾していた。
彼らは生きて、ここにいる。まるで何事もなかったかのように、安らかな眠りを貪っている。
ここは、俺の知る世界ではないのか?
それとも、あの...何者かによって見せられている幻覚なのだろうか?
いや、あるいは――。
あの闇に飲まれる直前、俺は確かに「死」を、あるいはそれに類する「終わり」を受け入れたはずだ。
だとしたら、これは……転生、というやつか?
その存在は伝説の一部としてわずかに知っていたが、まさか実在していたのか...?
転生とは魂を...死から...輪廻から引き剥がすのか...?
いや、そもそも伝説には...なんだ...思い出せない...あれ、伝説って...なんだ?
混乱する頭で必死に記憶の糸をたぐり寄せようとするが、どうにもうまくいかない。
なぜか前世の記憶だけがほとんど思い出せない。
そうだ...仲間と...何か...戦っていた...?
仲間たちの顔は、ぼんやりと霞がかかったように思い出せず、ただ、心の奥底に、何かひどく気まずく、胸が張り裂けるような出来事があったという、感情の残滓だけが澱のように沈んでいる。その正体を探ろうとすると、誰かの「上書きしてあげる」という声が、優しくそれを遮るのだった。
俺は、忘れさせてもらったのだろうか?
あの耐え難い何かを。
そんなことを考えていると、不意に、すぐ傍で眠っていた一人のエルフが身じろぎした。
長く細い睫毛が震え、ゆっくりと、アメジストのような紫色の瞳が開かれる。金の髪を持つ、少女のようにも見える若いエルフだった。
彼女は、寝ぼけ眼でこちらを見ると、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「……ふわぁあ、リオン。目が覚めたのね。おはよう...?」
リオン?
それが、俺の名前なのだろうか。
俺が戸惑って何も言えずにいると、彼女は不思議そうな顔をして口をひらく。
「どうしたの...?また頭でも打った...?」
(...?)
どうやら俺が転生したエルフは相当のおっちょこちょいだったらしい。
彼女は少し呆れるように顔をフッとこちらに向け、ゆっくりと喋り出した。
「...リオン...また記憶失くしたの?....まあいいけどね。とりあえず...私の名前は...シュナ。えーと...あなたの...幼馴染...で...1423歳...で...あなたと...同い...年。....どう?...思い出した...?」
どうやら、このエルフは俺が記憶を無くした仲間のエルフだと勘違いしているらしい。これは好都合だ。
だが、俺は俺だ。エルフにはなっているが転生者だ。
一体どうしようか。このまま記憶を失ったままでいるか...それとも正直に打ち明けるか...
俺が運命を分ける選択を悩んでいる間にも、シュナは全く気にしない様子で俺、俺の顔を眠そうな顔で見つめ続ける。どうやら、エルフの時間感覚が狂っているのは本当だったらしい。
いや、ここで人間と打ち明けても...信じてもらえないか...?
あのエルフは俺を記憶喪失のエルフと考えてるし...そのまま記憶喪失のフリの方がいいのか...?
だが、いずれボロが出るかもだし...いや、ここは男として...その...なんだ、誇り?があるだろ...多分。
よし、転生者だと言うべきだ!!
30分ほど悩んだ末、俺は決心した。
シュナは今だに眠そうにこちらを見つめている。
「えーと。シュナ...?」
「んー....?」
「その...実は...」
「何?...また...人間を脅かしてきた...って話?」
このリオンってエルフは本当にどんなやつだったんだ...
とりあえず、「俺は本当は転生者で、前世は人間の勇者だった」と伝えなければ。
「俺は、その...」
「...俺?それって...お父さんの...マネ?」
ああ、うるさい。なんだお父さんのマネって!いいから話を聞け!?
「いいか..!俺は実は転生者なんだ!...前は人間だったんだ...そうなんだ...その...リオン...じゃない」
「え.........」
やばい、明らかに混乱している。顔が少し歪んだし、困惑で目が細くなっている。
紫色の眼がわずかに光った...よな?不審がられてる...?
やっぱり人間といきなり言うのは不味かったか!?
「...ついに頭が...リオン...人間に憧れているから...って...バレバレだよ...」
え?
いや、違う!!本当に転生者なんだ!人間だし!頭はおかしくない!?
クソッ!これでは何を言っても信じてもらえないぞ!そうだ!!前世の人間に関する話をすれば...!!
「なぁ、えっと...俺は前世に人間として生まれて...それで...えーと...あれ?.......思い出せない?...その、人間だったんだ!!信じてくれ!!!」
「ふ〜ん...それは...都合の良い...転生だね...ふふ...」
嘘だろ...人間だった頃の記憶がもうほとんどない。鮮明なのは「人間だった」ということと、「転生した」ということだけだぞ。これじゃあ何も証明できないじゃないか!?
俺が頭を抱えているとシュナが面白そうに語りかける。
「ま...リオンのこと〜だから↑...あと20年...も...過ぎれば〜思い出す〜↓」
なんだそのイントネーションは!?ふぜけてるのか!?
それに20年過ぎる?長すぎだろ!俺は人間の精神と時間感覚だからエルフよりも...って...つまり...実質寿命が超長いってことなのか!?
これはプラスに考えて良いのか?デメリットではない...のか?
いや、寿命が長すぎて精神に異常をきたすかも?
そんなことを考えているうちに、シュナは優雅に立ち上がり、俺の手を引いた。
「もー...しょうがないなー...モッカイ...村見る...?...これで2532回目だけど...ふふ」
リオンは何回記憶喪失になっていたんだ....
俺は突然の出来事に一瞬理解が追いつかなかったが、どうやら村があるらしい。よく考えてみれば、これだけのエルフがいるんだから当たり前か。
「え?あ、ああ...」
森は心地よく、涼しい風が吹く。他のエルフ達は談笑をしたり、木に登ったりしている。
俺はそのどこかのどかな光景に魅了されながらも道を進む。
それにしても進むのが遅い。その原因は俺の手を風でも握るように軽く引いているシュナだった。
シュナはもはやモジモジしているのか歩いているのかわからないほどのスピードと動作でゆっくりと歩む。他のエルフは普通に歩いていることから、この少女が普通にやばい部類だと直感的に理解してしまった。
...いや遅すぎだろ!!どうすんのこれ!?これじゃあ本当に日が暮れるって!?
もう手解いていい???
こうして、俺は遅過ぎるシュナの歩みにもがき苦しみながら村へと進んでいった。