1.最終決戦でフラれた...
玉座の間は、死んだ神殿のように静まり返っていた。
紫紺の炎が、壁に彫られた堕天使たちの顔を不気味に照らし出し、その影がまるで生きているかのように蠢く。空気は重く、硝煙と魔素の匂いが鼻をついた。
永劫とも思える静寂の中に、四つの人影があった。
一人は、伝説の聖剣を手に、その黄金の髪を炎に輝かせる「勇者シュバルト」。彼の双眸には、人類の希望と悲壮な覚悟が宿っていた。勇者として、四人のリーダーとして勇者パーティを率いてきた。真の勇気を持つ少年だ。
一人は、古文書の知識と星々の運行さえも操るほどの魔力を秘めた「大魔法使いクル」。黒曜石のような瞳は、眼前の脅威を冷静に分析している。その計算力で幾度となく勇者たちの危機を救い、勝算を生み出してきた。
一人は、山脈をも砕くと噂される戦斧を担ぐ「戦士カイ」。その鋼の肉体は、仲間を守るための揺るぎない城壁だ。無数の死線を潜り抜け、その覚悟と力は勇者パーティの鉄壁の壁として構える。
一人は、敬虔な祈りで奇跡を紡ぎ、幾多の死線を癒しの光で照らしてきた「聖女チャルテス」。純白の法衣は、この穢れた空間で唯一の清浄な光を放っている。彼女の教えで王国の国民は希望を取り戻し、勇者たちの安寧と勝利を約束してきた。
五年。すべてを犠牲にして、彼らはここまで来た。故郷を、青春を、平穏な日常を。すべては、玉座に座す万魔の王を討ち、世界に光を取り戻すために。妹の仇を取るために。
世界の存亡を賭けた最終決戦。
俺、勇者シュバルトの心臓は、張り裂けんばかりに鼓動していた。握りしめた聖剣の柄が、汗でじっとりと湿る。だが、不思議と恐怖はなかった。カイが傍らに立ち、チャルテスが後ろに控えている。彼らの絶対的な信頼が、俺を「勇者」たらしめていた。
「必ず、人類を救う」
その使命感が、俺のすべてだった。魔物に焼かれた故郷の村で、幼い妹を守れなかったあの日の誓いから、俺の旅は始まった。王に謁見し、聖剣を授けられ、仲間と出会い、そして今、ここにいる。
「……」
だが、そんな俺の感傷を切り裂くように、視界の端に映る幼馴染の横顔は、氷のように冷え切っていた。魔法使いのクル。彼女だけは、昔からそうだ。俺が感情を昂らせるたび、一歩引いた場所から、まるで愚かな生き物でも見るかのように俺を見つめる。その瞳の意味を、俺はずっと、ずっと知りたかった。
――死ぬかもしれない。いや、ここで死ぬ覚か悟だ。
だからこそ、伝えなければ。後悔だけは、したくない。
彼女の冷静さに惹かれ、その力に何度も助けられた。いつの日か彼女を意識してしまうようになった。
この五年間の旅路で、何度も言葉は喉まで出かかった。だが、「勇者」という仮面がそれを許さなかった。仲間たちの手前、世界の命運を背負う者として、個人的な感情は押し殺すべきだと信じていた。
しかし、今は違う。死を覚悟した今、俺は「ただのシュバルト」として、彼女に向き合いたい。
俺は聖剣の切っ先を、玉座で退屈そうに頬杖をつく魔王へと真っ直ぐに向けた。
「魔王! 貴様の好きにはさせない! 俺が、俺たちが、この世界の光を取り戻す…!!!」
「フンッ!その威勢、いつまで保つのかな、勇者よ」
魔王が嘲笑う。だが、その声はもう俺の耳には届いていなかった。
己の決意を高らかに叫び、その勢いのまま、俺はクルへと向き直った。その時、背後で、カイとチャルテスが「「イケ…!」」と息を呑み、俺の覚悟に力強く頷いてくれる気配がした。恥ずかしながら、俺の思いは仲間にもダダ漏れだったのだろう。
「クル…!聞いてくれ! この戦いが終わったらじゃない、今だからこそ伝えたい! 俺はずっと、君のことが……!」
さあ、言うんだ!俺の、五年分の想いを!
瞬間、彼女の細い眉が、侮蔑の形にピクリと吊り上がった。
俺の言葉を遮ったのは、絶対零度の声だった。
「……は? 何を言っているの、この状況で?」
「ク…ル…?」
空気が、凍てついた。
いや、彼女の視線が、空間そのものを凍結させたのだ。
「正気? 目の前に魔王がいるのよ。人類の存亡が、この一瞬に懸かっているの。そこで吐く言葉が、それ? ……TPOという概念、学習しなかったの? 心底、失望したわ」
畳みかけるような正論が、俺の心を寸刻みに切り裂いていく。それは聖剣の斬撃より鋭く、どんな呪いよりも残酷だった。俺はここまで強大な攻撃を受けたことはなかった。
「大体、あなたのそういうところが本当に無理。昔からずっと思っていたけれど、いつも、いつだって、自分だけが物語の主人公。周りがどれだけ現実的な問題処理に追われているか、考えたこともないでしょう。……悪いけど、ドン引き。ハッキリ言わせてもらうわ。あなたの率いる『勇者ごっこ』には、もう、うんざりだったのよ」
ドン引き。
勇者ごっこ。
その二つの言葉が、俺の世界を構成する法則を破壊した。
使命感も、仲間との絆も、死線を越えてきた五年間の冒険も、彼女に捧げた淡い想いも、すべては俺一人の滑稽な自己陶酔だったのだと、宇宙の真理のように突きつけられた。
信じていた輝かしい世界が、足元からガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
これが、本当の俺...?
カラン……。
魂の半身だと信じていた聖剣が、力なく手から滑り落ち、甲高い音を立てた。
意思とは無関係に膝が折れ、俺は床に両膝をついたまま、もう何も考えられなかった。
「……あ……」
思考が停止する。目の前が真っ白になる。
「そん…な…シュバルト…」
「クル! 嘘だと言ってくれ…! なぜ…シュバルトを…!」
背後で、ガシャン! バタッ!と、何かが崩れ落ちる音が連続して響いた。
振り返る気力もなかったが、視界の端で、二つの影が砕けるのが見えた。
カイは、自慢の戦斧を取り落とし、その巨躯を震わせている。「俺の力は…シュバルトという太陽があってこそ輝くのに…」と、絶望の顔で虚空を掴んでいる。
チャルテスは、聖書を胸に抱いたまま四つん這いに崩れ落ちていた。「神よ…なぜです…私たちの信じた光が…こんな形で…」と、その祈りはもはや神には届かない。
俺という偶像の崩壊は、俺を信じてくれた仲間たちの心をも、ドミノ倒しのように破壊してしまったのだ。
玉座の間に、膝をつく俺と、信仰を失い抜け殻となった仲間たちが転がる。あまりにシュールで、悲惨な光景だった。
その地獄の静寂を、けたたましい怒声が引き裂いた。
「はぁ〜〜〜〜〜っ!? 何あの女! ありえないんだけど!! 最っ低!!」
見ると、玉座にいたはずの魔王が、その豪奢な椅子を蹴り飛ばし、わなわなと震えながら地団駄を踏んでいた。その怒りの矛先は、明らかに俺ではなく、先ほどまで俺を罵倒していたクルに向けられていた。
「正論言っとけばいいと思ってんじゃないわよ! 空気が読めないのはどっちよ! こっちは最高のシチュエーションで待っててあげたっていうのに! あんたはもう消えなさい!」
「え…」
魔王が指を鳴らす。その瞬間、氷の表情を崩さないでいたクルの足元に、空間の亀裂が走った。彼女は声を上げる間もなく、歪んだ次元の彼方へと吸い込まれて消えた。不思議と、何も感じなかった。幼馴染なのに。好きだったのに。
「床に転がってる戦士と聖女も邪魔!!」
「「え?」」
カイとチャルテスもまた、抵抗する間もなく音もなく空間の歪みに飲み込まれる。
広大な玉座の間に、俺と、怒り心頭の魔王だけが残された。
彼女はずかずかと俺の前に歩み寄ると、ハイヒールを鳴らしてその場にしゃがみこんだ。その瞳は、意外なほど優しかった。
「……あーもう、わかる。わかるわー。正論パンチがいちばん心にクるよね……。あいつ、マジでないわー」
そのギャルのような軽い口調と、的確すぎる同情の言葉が、なぜか麻痺した心にじんわりと染み渡った。
ああ、そっか。俺、振られたんだ。五年間、ずっと好きだった子に、最悪の形で。
もう、生きていてもしょうがない。生きる希望がない。仲間は失った。魔王に勝てるわけがない。
「もしもーし? 生きたまま死んでるみたいな顔してるけど、平気?」
魔王は立ち上がり、俺を見下ろした。その姿は、世界の敵というより、なんだか達観した人生の先輩のように見えた。
「うん、もう終わりにしましょ。こんな最悪な記憶、上書きしてあげる」
彼女の右手に、きらきらと輝く闇が集まっていく。それは破壊の魔力のはずなのに、時折きらめく魔素の粒子が、まるで満天の星空のようで。不思議と、綺麗だと思った。
「ほんっと、見る目ないわよね、あんた。……じゃあね、勇者クン」
その夜空のような闇が、そっと俺の額に触れる。
「次は、もっといい女、捕まえなさいよ。そんで、今度こそ、最高の恋をしなさい」
ああ、そうか。
次は、いい恋を……。
それが、俺がこの世界で考えた、最後の事だった。
痛みも、悲しみも、あの耐え難いほどのドン引きされた気まずさも、すべてが優しい闇に溶けていく。
意識が、ゆっくりと、静かな黒へと沈んでいった。