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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

邪眼

作者: 青山 高峰

 各駅列車を待つひととき、それが筒井聡にとって最高の時間だった。


 駅の階段を上ると、静かな明るい陽がホームを赤々と染めている。鞄から大学ノートサイズのスケッチブックと鉛筆を取り出し、ゆっくりと辺りを見回した。ホームには、首を折るようにしてスマホをいじる背広を着た中年の男。顔程の大きさもある本を舐めるようにして読む小学生。猛スピードでスマホの上で指を動かしている女子高生などでごった返している。


 こんなにも人がいるというのに――。どの顔もどの表情も同じに見える。いつものクセで鉛筆の頭を噛んだ。


 ホームでのデッサンは、この春、高校を卒業し、美術学校に入学してからの習慣だが、今は、絵を一日でも早く、上手くなる必要がある。今度、展覧会があるからだ。全員の絵を無条件に飾ってくれる小学校の文化祭とは違い、出展するのに安くはない費用がかかる。貧乏学生にとって痛い出費だ。適当に描いた結果、入選すらしなかったという爆死はしたくない。とはいえ、この展覧会は美術関係者も注目しており、そこで入選することは絵を描く者にとって一つの確実な階段を上ったことを意味する。


しかし……聡は鉛筆を握りしめた。入選なんて、当然のことだ。最初からそんなレベルを目標にしていない。だいたい趣味や道楽で絵を描いている連中とは違うのだ。さらに上、俺はプロの絵描きを目指しているんだから。出展費なんて、賞さえとれれば元がとれる。パリへの留学費用まで出してくれる賞まである。そうなれば元がとれるどころの話ではない。絶対に賞をとりに、

「いってやる」

 思わず声が出た。そのせいで、近くで電車を待っていた若い女性が不審そうな顔を向け、そそくさと離れて行った。かまうもんか。賞さえとれれば、向こうから寄ってくる。親父だってきっと頭を下げてすり寄ってくるに違いない。親父のことに頭がいったせいで、急に気が滅入った。


 幼い頃から、親父は怖い存在で、一度も眼を合わせてもらった記憶がない。そのくせ怒られることは日常茶飯事で、おもちゃを欲しがったというだけで「欲をかくな」と怒鳴られ、お菓子を食べている子を見ただけで「他人様をそんな眼で見るな」と殴られたことさえあった。そのせいで俺は人の目を見て話せない。それだけじゃない、人をまともに見ることさえできない。 


 でも、大好きな絵を描く時だけは別だ。


 鉛筆を握り変え、また周囲をそれとなく見回した。すると、ホームのヘリに佇む少年の姿に目がいった。

 中学生くらいだろうか。

 背筋を伸ばし、詰襟を着た小さな体がホームに突き刺さるようにして立っている。その大きな眼は、シャンとした雰囲気とは裏腹に、闇を飲み込んでいるようだ。遠くを見つめているようでも、何も見つめていないようでもあった。それが暮れなずむホームの中でひと際目を引いた。思わず鉛筆を走らせた。少年の眼差しを、輪郭を身体からにじみ出るような曇りなき漆黒を紙に殴りつけるようにして描いた。

 通過電車が来るというアナウンスがやけに大きく響いた。

 通過電車の後は各駅電車がすぐ来るはずだ。待って、あと少し、もう少しだけ――。  


 ふと少年が顔を向けた。眼があった瞬間、少年の瞳に冷たい氷のかけらが浮いた気がした。次の瞬間、少年はやってきた電車に飛びこんだ。

 金属を削るようなブレーキ音。そして大きな嫌な音――。


 それからどうやって帰ったのかよく覚えていない。ただ十一時過ぎにアパートに着いた時、スケッチブックと鉛筆を握りしめたままだった。アパートの階段を上っていると、隣室の中村優斗が出てきた。 


「おお、ようやく帰ってきたか。もうっ、聡遅いから寝落ちするとこだったぞ」

 高校時代からの腐れ縁である中村のいつもの能天気な声が響いた。

「おうおうっ、無視して行くな。お前にいいものやろうと待ってたんだから」

 通常、青い顔をしていたら、どうした? とか聞きそうなものだが、中村は明るい調子で続けた。

「喫茶店のコーヒー無料券なんだけどさ。期限が明日まででさあ。あった、これ、これ」

 ポケットから出てきた中村の左手を見つめた。

 くしゃくしゃの“コーヒー一杯無料”と書かれた紙を丁寧に広げている。その左手の甲の中央には大きな三角形の火傷の痕がある。なんでも子供の頃、アイロンでイタズラをしていて火傷したらしい。本人には言えないが、奇妙な親近感を覚え、密かに中村の左手をデルタ地帯と呼んでいる。そのデルタ地帯が券を聡に握らせた。 


「いい、いらない。別の友達にやれよ」

「友達なんていないだろ、俺もお前も」

 ここまでハッキリ言われると、逆に清々しい。

「礼はいいから。俺が用事あって行けないだけで、無駄にすんのもなんだから」

 なんだからって、なんなんだか知らないが、中村は聡が目を合わせなくても気にしないたちだけあって、こっちのことなどおかまいなしだ。しかしそれは至極ありがたいことでもある。そもそもこの築三十年のアパートも中村の伝手(つて)で住まわせてもらえている。親族が経営しているからということで、保証人を立てずに、入居させてもらえた。時々おしゃべりが過ぎてうるさいこともあるが、中村は実に便利な奴といえる。

「それじゃ、おやすみ。あっ、その喫茶店は意外と穴場で空いているからお前向きだと思う。特に人間観察の好きな聡には窓際の席を薦めるよ」

 頷くと、中村の部屋のドアが閉まる音がした。俺が有名になったら、絵の一枚でもプレゼントしてやるさ。ドアに向かってつぶやいた。

 中村との会話で一瞬明るくなった気持ちも、床に就き、夜闇が濃くなると吹っ飛んだ。

嫌なものを見てしまった。

大蛇が全身を這い上るように、後味の悪い感覚が蘇ってきた。あの音が、色が、瞼に張り付いて離れない。


 それは翌朝のさわやかな空気の中でも消えなかった。見上げれば雲のかけら一つない五月晴れだ。母の葬式を済ませた日の藍色の空によく似ている。 

 母は、俺の七つの誕生日ケーキを買いに出かけた時、トラックに轢かれて死んだ。豪雨の夜だった。トラックの運転手は母が飛び出してきたと主張していたらしいが、未だに母が自殺なのか事故なのか分からない。ただ、

「アイツがわがままを言わなければ、死なずに済んだのに」

 と、通夜の席で父が言っているのを聞いてしまった。言葉がなかった。しかし責められるのはもっともだという気がした。こういうケーキじゃなくて、違うのが食べたい、そう言ったのは自分だ。あんなこと、言わなければよかった。そうしたら酷い雨の中、母が外に出ることはなかった。自殺か事故かという理由より母がいなくなった事実と、それは全て自分のせいなのだという罪悪感に苛まれた。

 母が亡くなってからは、親父との溝が深まっていった。高校卒業と同時に家を飛び出したことで、その溝は決定的なものとなった。


 バイトに行く前、中村からもらったコーヒー券を手に喫茶店に入った。

 6つテーブルが並べてあるだけのこざっぱりとした店だが、確かにあまり混んでいない。と言うよりガラガラだ。入口が分かりづらいせいか、場所はいいのに客が一人いるだけだ。窓際のソファ席に陣取り、コーヒーを注文すると、鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。するとその姿がぼんやりと窓ガラスに映った。


 背ばかり高く、痩せぎすで血の気のない青白い顔、目だけがギョロギョロと黒目勝ちだ。咄嗟に眼を逸らした。決して見られない顔ではない、はずだ。現に高校時代、名前の知らない女の子から二度ほど告白されたこともある。そういうゲームがあるから本気にしない方がいいとも思ったが、あの子たちの感じは本物だ。嘘だとは思えない。しかし話したこともないのに告白するってことは、自惚れかもしれないが、俺はなかなか悪くない顔なんだろう。

 

 そんな変な推論みたいな言い方になるのは親父のせいだ。鏡で自分の顔を見ていると、親父から、よくこっぴどく叱られた。鏡を割られたことすらある。なぜそこまで怒るのか未だに判然としない。それでも条件反射と言うべきか、しつけの賜物と言うべきなのか、今も自分の姿を直視できないでいる。


 運ばれてきたコーヒーを口にすると、苦みが口中に広がった。

 いつか親父に認められたい。いつのころからか、そう思うようになった。しかし、父はいつだって非情だった。テストで百点を取っても、運動会の短距離走で一位になっても、まるで汚いものでも見るように眼を逸らす。どんなに頑張っても存在すら認めてもらえない――。


 コーヒーをまた口にふくむと、スケッチブックを開いた。

 親父を認めさせて、人生を変えたい。そのための展覧会だ。とにかく絵を描く。今はそれが人生の大事に思えてならない。

 

 大きくとられた窓からは林立する高層ビル群と、遠くには教会の尖塔が見える。確かに抜群の景色だ。視線を落とすと、T字路が見える。信号に合わせ、人が動いたり止まったり。車が動いたり、止まったり。目には見えない都会のリズムに合わせているようだ。この景色を描いて展覧会に出すのもいいかもしれない。なんだか街の息づかいを感じる。鉛筆を走らせた。その時、信号が赤になって人の流れが止まった。ふと最前列で待つ白いトレンチコートを着た二十代前半の女性が目についた。母もあの最期の日、白いコートを着ていたっけ……。

 風景画を描き始めていたページをめくり、突き動かされるように鉛筆を走らせた。細い肩まで伸びた黒髪。筆で描いたような細い眼と熟したサクランボのような唇。ふとその柔かそうな唇が動いたように見えた。


 誰かと話しているのだろうか。

 立ち上がって窓ガラスに近づいた。すると突然、女性が顔を上げ、目があった。一瞬、愁いを帯びた黒目が白濁したように見えた。鉛筆を走らせようとスケッチブックに視線を戻した瞬間、重いブレーキ音が耳を貫いた。ハッとして顔を上げると、あの女性が立っている場所に車が突っ込んでいた。足元から力が抜け、ソファに座り込んだ。


 一度ならず二度までも……。

 眉をひそめた自分の顔がコーヒーに映った。急いで目をそらすと、一気にコーヒーを飲み干し、バイトに向かった。


 厨房でのバイトはひたすら料理をしているだけで、余計なことは考えずにすんだ。しかし夜家に帰ると、妙な考えが浮かんできた。

 デッサンのモデルに選んだ人が亡くなるなんておかしい。偶然にしてもありすぎる。いや、そもそも偶然なんて世の中に存在しないっていう奴もいるくらいだ。だとしたら必然? 急に首元が寒くなる気がした。

 インターホンの音で目が覚めた。無視する気でいたが、あまりにしつこいので出てみると、中村が立っていた。

「寝起きか。ならちょうどいい」

 何がちょうどいいのか、と聞き返す間もなく、

「ファミレスの食券もらってさ。朝食につきあえよ」

 にこにこと微笑んだ。

「いい、食欲ないから」

「言いたいことは分かる。なにも野郎二人で食いに行くことはないってんだろ。確かに、彼女がいりゃあ、お前は誘わない。さっ、行こう」


 そこはなかなかこじゃれた店だった。こげ茶色の床、効果的に壁に配された鏡、美しく飾られた花。ファミレスといわれて来たが、ファミリー客は一人もいなかった。そもそも客が一人しかいない。ふと何か違和感のようなものを覚えたが、

「よくここの無料券が手に入ったな、とか思ってんだろ」

 という中村の声で、かすかに浮かんだ考えがかき消えた。

「実はこの店のオーナーシェフと俺の親父が友達でさ。店を新しく出すってんで、無料券をくれたってわけ」

 自慢しているつもりだろうか。それとも羨ましいとか言って欲しいのだろうか。

「そんな難しそうな顔すんな。ここでの飲食は今日一回限り無料だ。俺のおかげで」

「わかったよ」

 やけに恩着せがましい言い方にムッとしたところに、ビーフカツサンドが運ばれてきた。赤みの色が轢死した少年や女性を思い起こさせた。

「遠慮すんなよ、最近元気のないお前にこっそりご馳走してやるとかそういうんじゃないから」

 ハッとした。中村は気づいていたのだろうか。


「減量中ってわけじゃないんだろ、元気がないのは」

「ああ」

「働き過ぎか。いい加減、学費くらい出してもらえばいいのに」

「無理だ! 反対されるに決まっている」

 中村が大きなため息をついた。

「なら少しは食べて元気出さないと」

 気の進まないまま一切れ取った。中村の言うことは悔しいけど、いつでも正しい。


「よし、食いはじめたか。それにしても、さっきは心配したぞ。顔色は悪いし、寝起きにしたって、幽霊でも見たような顔してるし」

 “幽霊でも見たような”という言葉に引っかかった。

「おいおい、マジで見たんじゃないよな。おっ、図星か。話してみろよ、何を見た」

 その言葉に促されるように、思い切ってここ二日ばかりの間に起きたことを打ち明けた。

「そりゃお前、ヒーローじゃないか」

 中村は感に堪えたような大声を出した。


「何バカなこと言ってんだよ。俺がヒーローなわけないだろ」

「いや、考えてみろ。もしお前が無意識にせよ、人の死を感じる力があるなら、それって、つまり、死ぬ人を止めることができるんじゃないのか」

 中村の言葉が心の奥底の何かを打った。

 死を止められる?

「デッサンしたくなった人に声をかけて、未然に死を防ぐ。そんなことが出来たらマジですごいよ。そういう奴を人はヒーローって呼ぶんだよ」


 俺がヒーロー? 人を助けるヒーロー。ヒーローだって!

 心の奥で反芻した。親父に疎まれ続け、影の中でひっそり生きてきた自分が人を助ける。ヒーロー……。

「おい、どこ行くんだよ」

 中村の声が追ってきたが、構わずファミレスを出た。

 道路脇のプラタナスの葉がより青く輝いて見える。自分の背が何センチか高くなったような気がした。地球上の全ての人から必要とされれば、もう親父に認められることにこだわらなくてもいい。自然と頬と口元が緩んだ。産まれて初めて笑った気がした。


 その夜、親父がスマホに電話をかけてきた。何度電話しても出なかったことを怒鳴っている。しかしいつもの動揺はなかった。何も答えないでいると、かすれた声で、今どこにいるのかを尋ね、やがて決めつけるように言った。

「お前は坊主になるしかないんだ」

 何を言っていやがる、と思った。


「いいか、お前は坊主になるしかない」

 もう一度言われた。

「なんだよ、それ」

「もう話はつけてある。あとはお前が孝光寺に行けばいいだけだ。孝光寺は知っているな。母さんの葬式をしてくれた住職がいる寺だ」

 心臓が凍りついた。重い氷の塊を突然背負わされた気がした。


「そんなの知るかよ」

 自分でも驚くくらい低い声が出た。

「親父の従弟だか鳩子だかの寺に子供がいないのをいいことに、結局、俺を厄介払いしたいだけじゃないか」

「親に向かって何てことを言うんだ。お父さんはいつもお前のことを心配して」

「もう心配しなくていいよ。俺はヒーローとして生きていくんだから」

「何言ってるんだ、お前は仏門に……」

 乱暴にスマホを切った。

 熱い涙が冷たい頬を伝った。


 黒い雲が低く立ち込めている。今にも降り出しそうだ。一瞬、傘を取りに家に引き返そうとして止めた。スケッチブックと鉛筆で手はもう塞がっている。土曜の早朝の通りは穏やかで、人もあまり多くない。ここまで早く出てくることもなかったが、なんだか落ち着いて寝ていられなかった。


 行くあてのない足は自然とあの喫茶店へと向いていた。あそこから見える景色を描いて展覧会に出そう。グレージュがかった街並みの絵も悪くない。その時、信号が赤になり足を止めた。ふと舌打ちを聞いた気がした。隣を見るとパーカーにジーンズ姿の学生らしき男が苛立たしげに貧乏ゆすりをしている。突き出たおでこに唇、ギョロついた眼が魚を思わせる。


 気づくと、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。ふいに男がこちらに首をひねった。その途端、男の顔色が一変した。明らかな恐怖がそこにあった。

 信号が青に変わると、男は一目散に駆けだした。小さくなっていく男の背中を見つめ、血の気が引いた。デッサンに選んだ人間は死に近いはずではないか。

「待ってください」

 男の背中を追って走り出した。男は通行人を突き飛ばすようにして走って行く。それは走るというより逃げているように見える。


 しかし一体何から? 何から逃げているというのだろう。

 男を追いながら、不思議な疑問にとらわれた。自分はただ危険を知らせてあげようとしているだけなのに。

 冷たい雨が降り始めた。雨に打たれながら、夢中で叫んだ。

「待ってください」

「来るな。来ないでくれ」

 男は怒鳴りながら、歩道橋を上って行く。誰に向かって言っているのだろう。錯乱しているのだろうか。後を追って歩道橋を上ったところで、男は向こう側の階段を降りはじめた。 


「待ってください」

 息をはずませながら懸命に叫んだ。

「あなた危ないんです」

 男が肩越しに振り返った。黒目が奇妙な鈍色を帯びている。

「止めろ、追って来るな、このし……」

 男の足がもつれ、階段の上を踊った。

「危ない」

 悲鳴に近い声が出た。男の両手が空中を泳ぐようにかき、雨のアスファルトへと落下した。

一瞬の出来事だった。 


「大丈夫ですか」

 ガクつく足で懸命にかけ寄り、アスファルトを血で染めている男の側にひざまずいた。

「しっかりしてください」

「……まだ……死にたくない」

 男は目を閉じたまま、悪夢にうなされるようにつぶやいた。

「大丈夫ですよ。今すぐに救急車呼びますから」

 スマホを取り出していると、男の眼がカッと見開かれ、目を覗き込まれた。

「寄るな、死神」

 そう言うと、男は力なく眼を閉じた。


 しにがみ?

 一瞬それが何を意味するのか分からなかった。

 しにがみ……死神!

 確かにそう言った。それも自分に向かって……あの茜色のホームで男の子は自殺し、信号待ちの女性は車に刎ねられ、この男は今、階段から落ちた。

急に心臓を素手で殴られたような気がした。もしかして自分は死を未然に防ぐヒーローじゃなくて……恐ろしい考えが頭の中を駆け巡った。


 死神だったんだ!!

 救急車のサイレンを聞きながら、フラフラと立ち上がった。

 ふわふわと空中を彷徨っているような気がして、どこをどう歩いているのかさえ分からない。ただ地上の全てが白い膜で覆われたように、霞んで見える。


 ふいに耳元で名前を呼ばれた気がした。

 腕を掴まれ、振り向くと親父が立っていた。

「すまなかった」

 俺を見止めると、親父が深々と頭を下げている。ぼんやりとその姿を見つめた。

「どうして謝るの?」

 声が震えた。親父はまだ頭を上げない。やはり自分を見てくれないんだ。でもそれも当然かもしれない。

「謝るのは、きっと俺の方だよ。知ってた?俺ってさ、死神なんだって」

「誰がそんなことを言ったんだ」

 親父が慌てて顔を上げた。それで反射的に顔を背けた。

「ちょっと前まで、世界中の人から愛されるヒーローになれると思ってたのに……俺のせいで人が死んだ」

「止めなさい」

 親父の強い声が飛んだ。

「どうして? だって事実でしょ。俺のせいで母さんだって死んだ」

「止めなさい」

「親父だってそう言ってたじゃないか。まあ、こんなんじゃ親父が俺を嫌うのも無理ないよ。本当、何で産まれてきちゃったんだろう」

「そんなことを言うな」

「でも事実じゃないか」

「事実がいつも正しいとは限らない。親戚連中にそう言ってお前を無理やり手元で育てることにした私が間違っていたんだ」

 親父の頬が濡れている。


「どういう意味? 俺は親父の子じゃないの」

「正真正銘、私の子だ。しかし本来私たちの手で育ててはいけない、邪眼をもつ子だったんだ」

 どこかで雷が轟いた。

「邪眼をもつ子って?」

「邪眼とは人に災いをもたらす目や視線のことだ。私の家系には何代かに一人、邪眼をもつ子が産まれてくるんだ」

「それが俺?」

 親父が辛そうに頷いた。

「邪眼をもつ者は寺で育て、そして将来は必ず仏門に入れなければいけないとされている。それが邪眼を封じる唯一の方法なんだ」

 突然の告白に混乱し息苦しさを覚えた。


「本当なの?」

 やっと言葉が出た。

「何で今まで言ってくれなかったの? 何故こんな大切なことを黙ってたの」

「言えなかった。ようやく授かった子供に、そんな話……出来なかった」

 親父があえぐように息を継いだ。

「お前、言ったよな。寺に入れたがるのは、私の従弟の寺に子供がいないからだって。同じことを私も言ったよ。お前が産まれた時に……」

 親父の頬が新たな涙で濡れた。

「お前が二十歳になるまでは、どうしても、手元に置いて育てたかったんだ。私のわがままを許してくれ」

 親父がしぼり出すように続けた。

「しかし、それが返ってお前を委縮させ、傷つけてしまった……」

 親父がまた頭を下げた。ここまでまじまじと見たことはなかったが、頭には白いものが出始めている。子供の頃はあんなに大きいと思っていた体も今は小さく見える。いや痩せたのかもしれない。


「わかったよ。俺、坊主になるよ。坊さんになれば、もう誰を見ても大丈夫なんだよね」

「曾祖父もそうだったらしいから間違いない。行こう。いい加減、このままじゃ風邪をひく」

 親父が背を向けて歩き出した。

 いつの間にか雨が小降りになっている。丸みを帯びた親父の背中を見つめながら言った。

「ずっと親父に嫌われているんだと思ってた」

「そんなはずないだろ」

「坊主になったら、俺、親父を見ていいんだよね? 怒らない?」

 親父がふり返らずに、強く頷いた。その背中が小刻みに震えている。親父の背中を追うようにして歩き出した。

 絵描きにもヒーローにもなれなかった。

 しかし、そんなことはもうどうでも良かった。これから新しい人生が始まる。そう思うと穏やかで心地がいい。何より嬉しかった――。


 そのせいで、通りの反対側からずっと聡を見ていた男に気が付かなかった。男はズボンのポケットからスマホを取り出すと、耳元に当てた。

「はい、ご用命通りに。今回は階段から落ちましたので、恐らくは再起不能かと。さらに本日は思いがけずもう一つの障害物も取り除けました。えっ、友達? いえ、私には友達はいません。ええ、ええ。展覧会の絵の出展日まで、あまり時間がないのは存じ上げております。しかしお任せください。私には邪声がありますから」

 男は、スマホを切ると、無造作にポケットに突っ込んだ。そして左手の甲にある三角形の火傷の痕をそっとなでると、静かに歩き出した。              

(了)

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