第7話『この気持ちが壊れる前に、あなたの全部が欲しい』
リオが戦いを終えて戻ってきた夜。
アメリアは、湯上がりのまま薄いナイトドレスを身に纏い、寝台の上で膝を抱えていた。
リオは彼女の隣に腰を下ろし、濡れた髪にそっと指を通す。
その仕草は、まるで儀式のように静かで、やさしかった。
でも――だからこそ、アメリアは苦しかった。
「……ねえ、リオ」
ぽつりとこぼした声は、思っていたよりも掠れていた。
「どうした?」
リオは、手を止めない。
彼の指先が、アメリアの髪をゆっくりと梳きながら、ぬるい夜の沈黙を和らげていく。
「あなたが……さっき、私の手を握ってくれたとき。すごく、すごく嬉しかったの」
「うん」
「でも、同時に、心臓がぎゅっと痛くなったの。……怖かった。あなたが、いつかどこかに行ってしまうんじゃないかって」
淡々と話すつもりだった。
けれど、思いのほか声が震えてしまう。
それは、抑え込んでいた不安が、形を持って口から零れていくようで――
「リオ。私、あなたの全部が欲しいの。心も、過去も、笑顔も……誰にも渡したくない。独り占めしたいの。ひとつ残らず、全部、全部……!」
リオの指が止まった。
ふと、アメリアの目が潤んでいることに気づき、彼はそっと顔を覗き込む。
「アメリア。……それは、ただの嫉妬じゃないんだな?」
「うん。違うの。私、自分でもわかってる。こんなの、おかしいって。愛しすぎて、苦しくなるなんて――ねえ、どうして……?」
唇が震えていた。
感情が胸の奥で暴れて、呼吸さえも浅くなる。
けれどリオは、アメリアの手をとり、そっと包み込むように握った。
「この間は、前世の記憶であんな事を言ってしまった……けど、おかしくなんかない。俺は、そう言ってもらえて……嬉しいよ」
「……え?」
「今はそう思える。お前が“俺の全部が欲しい”って思ってくれるなら、俺は――全部、お前にあげるよ」
「俺たちなら、どんな形であっても幸せになれる……そう思わないか?」
息を飲む。
まるで、自分の願望を肯定されたようで、アメリアの胸に熱がじわりと広がる。
「……ほんとうに、いいの?」
「いいんだよ。俺の心も、過去も、身体も――全部、お前のものだ。だからもう、怯えなくていい」
そう言って、リオはそっとアメリアの頬を両手で包み込むと、ゆっくりと顔を近づけた。
触れるだけの、優しい口づけ。
それは誓いでもあり、鎮魂でもあり――
何より、今ここにいるアメリアだけに向けられた、たったひとつの温もりだった。
彼女の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
アメリアは、リオの隣で目を覚ました。
彼の腕の中で眠るのは、これが二度目。でも、昨夜とは違う。確かに心が、ほんの少し変わっていた。
ぬくもりを感じるたびに、胸の奥が満たされていくような……そんな幸福感と、そして少しの怖さ。
――私は、こんなにもこの人を欲しがってる。
それが恋だと分かっていても、やはりアメリアは戸惑ってしまう。
“愛されたい”ではなく、“独占したい”という感情が、どこか危ういものに思えたから。
「……起きてるんだろ?」
低く、優しい声が頭上から降ってくる。
リオはすでに目を覚ましていて、腕をほどくことなくアメリアの背を撫でていた。
「ん……うん。起きたばかり」
「じゃあ、しばらくこうしてようか」
リオの言葉に、アメリアはこくりと頷いた。
静かな朝。こうして並んでいるだけで、心が安らぐのに――。
「ねえ、リオ……」
「なんだ?」
「昨日……私、ちょっと変なこと言ってたよね。全部が欲しいって。……あれ、本気なんだけど、やっぱり普通じゃないよね?」
リオは答えず、アメリアの頬に唇を寄せた。
一度、二度と優しくキスを落とし、ようやく囁く。
「普通かどうかなんて、俺には関係ない。お前がそう思ってくれることが、俺には嬉しい」
「……ほんとに?」
「俺は転生者だ。別の世界の記憶を持って、ここに来た。常識なんて最初から壊れてる。だから――お前のその気持ちも、ちゃんと受け止めたい」
アメリアは瞬きを繰り返し、彼を見上げる。
「リオ……。ねえ、前に言ってたよね。あなたの“前世”のこと。少しだけ、聞かせてくれない?」
リオの瞳が、少しだけ揺れた。
しばらく沈黙が流れたあと、彼はゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……そうだな。そろそろ話しておくべきかもしれない」
布団の中で、二人の手が指先で絡まる。
過去に踏み込むには、少しだけ勇気がいる。
でも――彼女の求めに、リオは逃げなかった。
「俺の前世は、日本って国の学生だった。家族はいたけど、愛情を感じた記憶はあまりない。孤独で、空っぽだった」
「……孤独、だったの?」
「そう。でも、だからこそ、お前に惹かれたのかもしれない。お前は、自分を押し殺すくらい、人を想うことができる。……たとえその想いが重くても、俺には――羨ましいくらいだった」
アメリアは、言葉を失って彼を見つめた。
リオの瞳には、静かな痛みと、あたたかい光が同居していた。
それが、どこまでも真っ直ぐで……まるで、彼のすべてを教えてくれるような、そんなまなざしだった。
「……ありがとう、話してくれて」
アメリアは、リオの手をぎゅっと握ったまま、言葉を絞り出す。
その声には、かすかな震えがあった。
「リオが、ずっと孤独だったなんて……想像もしなかった。だって、あなたはいつも優しくて、私のこと、たくさん助けてくれて」
「でも、それはきっと……お前がいたからだよ」
「え?」
リオは、アメリアの指を絡めるように握り直す。
「俺はお前に出会って初めて、“誰かを守りたい”って本気で思った。役に立ちたいとか、必要とされたいとか……そういうのじゃなくて、ただ、お前に泣いてほしくないって思ったんだ」
その言葉に、アメリアの喉奥から、小さなすすり泣きが漏れる。
「ずるいよ、リオ。そんなこと言われたら、もう……私は、あなたから離れられなくなっちゃう」
「離れなくていい。俺も、もう離れられないから」
それは誓いにも似た、静かな鎖だった。
求め合うだけじゃない。
依存でも執着でもいい――この感情が真実なら、それでいい。
アメリアはリオの胸に顔をうずめ、その体温を貪るように感じた。
ぬくもりが、心のすき間をひとつ、またひとつと埋めていく。
「ねえ、リオ」
「なんだ?」
「私、これからきっと……あなたに甘えすぎて、縋って、わがままになって、苦しめてしまうかもしれない。だけど、それでも……」
「それでも?」
アメリアは顔を上げ、真っ直ぐに彼を見つめた。
その瞳には、覚悟が宿っていた。
「私、あなたのこと、愛し続けるから。壊れるくらいに、狂おしいほどに」
リオは小さく笑って、アメリアの頬を包む。
「上等だ。俺も、お前以外なんて、もう見えないから」
二人の唇が再び重なる。
これは愛なのか、それとも依存か。
その境界は、もはやどこにもない。
ただ確かなのは――ふたりはもう、互いなしでは生きていけないということだけだった。
次回予告
第8話『穢れた街と、ひとときの逃避行』
アメリアとリオの関係が深まる一方、アメリアを処刑しようとした貴族派の残党が、ふたりの居場所を嗅ぎつけようとしていた――
そして、リオが“家政夫”であることを逆手に取った策略が、ふたりの平穏を揺るがすことに……!