第5話「“恋人”になった朝、最初の喧嘩」
――その夜
リオの部屋の薄暗い灯りのなか、ふたりは並んでベッドに腰掛けていた。
まるで壊れもののようにお互いに触れることすらためらっていたが、沈黙のあと、リオがぽつりとつぶやいた。
『……アメリア。君と、こうしていられる時間が、俺にとっては……本当に、特別なんだ』
『……わたしも。リオといると、苦しかったはずの胸が、ふっと軽くなるの』
リオはゆっくりとアメリアの手を取った。
ひどく慎重に、まるでそれだけで壊れてしまいそうな手つきで、彼女の指をなぞる。
『俺と……恋人になるか?』
小さな声だった。 でも、アメリアにはそれが世界で一番確かな音に聞こえた。
『うん。恋人になりたい、リオと』
彼女がそう答えると、リオはそっと彼女の頬に手を添え、目を閉じた。
唇が触れる寸前で一度止まり、許しを問うように目を開いた。
アメリアは頷く。
そして、ふたりの唇が、静かに重なった。
熱くはなかった。激情もなかった。だが、どこまでも静かで優しい―― そんなキスだった。
指を絡め、額を合わせたまま、小さな声でふたりは誓い合った。
『これからは、隣にいるよ』
『わたしも。……あなたをひとりにしない』
ようやく“恋人”という名の温もりを手に入れたのだ。
ーーーー
朝の陽光が差し込むなか、アメリアは目を覚ました。
隣には――もう、リオの姿はなかった。
(あ……)
少しだけ、胸がきゅっと痛んだ。
けれど、それは寂しさというよりも、“現実”への切り替えの痛みだった。
起き上がると、かすかに焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
階下へ下りると、いつものようにエプロン姿のリオが、慣れた手つきで朝食の準備をしていた。
「おはよう、アメリア」
「……おはよう」
互いに微笑み合う。
それは、昨夜交わした“愛してる”という言葉のあとだからこその、少しだけぎこちない笑顔だった。
ふと、アメリアは昨夜を思い出す。
なのに、朝になって現実に戻ると、ふたりの距離はどこかぎこちない。
「今日は、君の好きなジャムパンにしてみたよ。あと、ハーブティーも。胃に優しいやつ」
「……うれしい。ありがとう、リオ」
アメリアはテーブルに座り、湯気立つパンを口に運ぶ。
やさしい味が、心を満たしていく。
だが――それと同時に、ふとした不安が胸をよぎる。
「……リオ。わたしのこと、“恋人”って思ってくれてる?」
リオは少しだけ手を止めて、こちらを向いた。
「……思ってるよ。昨日の夜、そう言ったじゃないか」
「でも……さっきも、普通に“アメリア”って呼んだし、なんだか距離が変わってない気がして」
「それって、名前の呼び方で判断する事なの?」
その返答は、アメリアにとって少し刺さるものだった。
「……わたし、リオにはもっと特別に扱ってほしいの。わたしだけを見て、わたしだけを大切にしてほしい」
彼女の言葉に、リオは目を伏せる。
「アメリア。それって……“愛されてる証拠”を、証明し続けろってこと?」
「……っ、そういうつもりじゃ――」
「呼び方がどうであれ、俺の気持ちは変わらないよ。"ロズベルク様"なんて他人行儀な呼び方をしている訳じゃないし……」
その言葉が、決定的だった。
アメリアの手が、テーブルの上で震える。
昨夜の温もりが、遠ざかっていくようだった。
「そっか。……わたしの“愛し方”って、重いんだ」
「そうじゃない、ただ――」
「いいの。わかったわ。……期待したわたしが、バカだっただけ」
そう言って、彼女は席を立つ。
背を向ける彼女に、リオは何も言えなかった。
(……どうして、こんな朝になるの? たったひと晩、幸せだったのに)
アメリアの心に、また黒い影が広がっていった。
アメリアは部屋に戻っても、心のざわめきが収まらなかった。
昨日あれほど確かだったリオとの距離が、今は遠くに感じる。
(わたし、間違ってたのかな……?)
“恋人”という言葉がほしかっただけじゃない。
ただ、彼の愛を、確かな形で感じたかっただけなのに。
自分の“愛されたい”が否定された気がして、胸に深く突き刺さっている。
他人の言葉が、こんなにも心を傷つけるなんて思ってもみなかった。
そのとき――小屋の玄関をノックする音が響く。
アメリアが反応する前に、リオが足早に応対に向かう。
しかし玄関から聞こえてきた声に、彼女は耳を疑った。
「失礼、アメリアはこちらにおられるか?」
その声――聞き覚えがある。
忘れることなどできるはずがない。
かつての婚約者。彼女を断罪台へと追い詰めた、貴族の青年――
「フェリクス……!」
彼女の唇から、かすれた名前が漏れる。
階段の上から見下ろすと、堂々とした姿で立っている彼の姿が目に入る。
背筋を伸ばし、淡い笑みを浮かべたその表情は、あの日と何一つ変わっていないように見えた。
だが、リオの態度は違った。
「帰れ。アメリアは、あなたに会う必要はない」
「ふむ……それは、彼女自身が決めることでは?」
「彼女は今、俺と暮らしている。“俺の大切な人”なんだ。簡単に踏み込ませるわけにはいかない」
リオの声には、確かな怒りがにじんでいた。
アメリアは息をのむ。
その“守るような言葉”は、彼の口から自然と出たものなのだろうか。
(……リオ。わたしのこと、“恋人”って思ってくれてる?)
自信が持てなかった想いが、ほんの少しだけ、心の底で明るく光った。
「アメリア。誤解があるのなら、それを解きに来ただけだ」
フェリクスは落ち着いた口調でそう言い、帽子を取った。
だが、アメリアの胸に込み上げてくるのは“赦し”ではなかった。
むしろ――
「どうして、今さら顔を見せに来たの?」
静かに階段を下りながら、彼女は言った。
「処刑台に立たされた私に、最後の一言もなく背を向けたあなたが……今さら何を?」
フェリクスの表情が、わずかに揺らぐ。
「私は、気付いたんだ。お前が…」
「帰って。二度と、私の前に現れないで」
フェリクスの言葉を遮るように、口を開いたアメリアの声には、怒りも、恨みもなく。ただ冷たく、静かな拒絶があった。
フェリクスは何かを言いかけたが、そのまま唇を噛みしめ、踵を返す。
玄関の扉が閉まる音と共に、ようやく静寂が戻ってきた。
アメリアはその場に立ち尽くしたまま、小さくつぶやく。
「リオ……ありがとう、わたしのこと、守ってくれて」
リオはアメリアのそばに近づき、そっと彼女の肩に手を添える。
「俺も、さっきは言いすぎた。……“恋人”になったからって、すぐに正解が出せるわけじゃない。でも、ちゃんと向き合っていくよ」
その言葉に、アメリアの瞳に涙がにじむ。
「うん……。わたしも。ちゃんと、向き合いたい……リオと」
夜が訪れ、屋敷の静けさが深まるころ、アメリアは一人、自室で窓の外を見つめていた。
リオとのすれ違いを乗り越えたはずの気持ちが、まだ揺れている。
愛されている実感に胸は震えるが、その裏で過去の傷は決して消えていなかった。
(あの夜のこと……忘れられない……)
悪夢が、鮮明に蘇る。
かつての婚約者フェリクスに裏切られ、誰からも信じてもらえず、孤独と絶望に押しつぶされそうになったあの夜。
「助けて……」
心の中で叫び続けている自分がいる。
そのとき、不意にドアのノックが聞こえた。
「アメリア……大丈夫か?」
リオの優しい声に、彼女は涙をこらえながら振り向く。
「……リオ」
彼は静かに部屋に入り、そっと隣に座った。
「夢を見てたんだな」
アメリアは頷き、震える手をリオの手に重ねる。
「怖かった……でも、リオがいてくれて、少し安心した」
リオは彼女の手を握り返し、誓うように囁いた。
「これからは、どんなに暗い夜でも、俺がそばにいる。お前は一人じゃない」
その言葉に、アメリアの心はじんわりと温かく満たされていく。
二人は寄り添いながら、ゆっくりと深い眠りへと落ちていった――
◆次回予告
第6話「揺れる絆と新たな脅威」
「恋人として歩み始めたアメリアとリオ。だが、過去の傷と依存体質がふたりに新たな試練をもたらす。
そして、リオの秘密が明かされる夜――。
お互いを信じられるか?二人の絆は、深まるか、それとも壊れてしまうのか……?」