第4話「“愛”の定義と、ふたりの境界線」
帰り道、アメリアは無言だった。
森の風はすでに冷え始めており、春の終わりを告げるように静かだった。
リオの隣を歩きながら、彼女はふと、自分の手のひらを見る。震えは、もうない。
「さっきの……」
彼女が口を開くと、リオがふと立ち止まり、振り返った。
「大丈夫だった?」
その目はまっすぐで、嘘のない色をしていた。
戦闘のあとでも、彼は変わらない。“リオ”のままだ。
だが、だからこそ――アメリアの胸には、ある想いが浮かぶ。
「どうして、そんなに優しくできるの……?」
「え?」
「わたしは……リオの過去も、強さの理由も、なにも知らないのに。……それでも、こんなふうに、守ってくれるの?」
リオは少しだけ困ったように笑った。
「理由なんて、いるかな? 大事な人を守るのに」
その一言が、また胸を締めつける。
「でも、わたし……まだ“本当の意味”で、リオに何も返せてない。守られてばっかりで、ただ甘えてるだけで……」
「アメリア」
名を呼ばれて、彼女は自然と顔を上げる。
リオはやさしく、けれどどこか覚悟のこもった声で言った。
「“愛してる”って、言葉だけじゃ足りないって思うときがある。
でも、だからって、返そうとしなくていい。“いまの君”が、そばにいるだけで、俺は十分だから」
その瞬間、アメリアは――限界だった。
「リオ……」
名前を呼び、彼に抱きついた。
彼の胸の中で、涙が止まらなかった。
「愛されることが、こんなに怖いなんて……知らなかったの」
「怖がっていいよ。俺も、怖いから」
「リオも……?」
「ああ。……だって、君が俺を必要じゃなくなったらって、考えると、怖くてたまらない」
その告白は、アメリアの心の奥に、深く染みわたった。
依存かもしれない。歪んでいるかもしれない。
けれど――それでも、確かに、温かかった。
(リオとなら……愛を、もう一度信じられる気がする)
夜――。
屋敷に戻ってから、アメリアは眠れなかった。
ベッドの中、薄暗い天井を見つめながら、彼の言葉を何度も反芻する。
(“今の君が、そばにいるだけでいい”……そんなふうに言われたの、初めてだった)
今までは常に“期待”をかけられていた。
婚約者のアルフレッドからは、貴族令嬢としての“完璧”を。
家族からは、婚姻を通じた家の“利益”を。
愛された記憶は、一度もない。
けれどリオは――わたしの価値を、“存在”そのものに見出してくれる。
(でも、それって……わたしにとっての“愛”なの?)
考えれば考えるほど、答えは遠くなる。
思わずベッドから起き上がると、静かな廊下を抜けて、階下のキッチンへ足を運んだ。
灯りのともる明かり窓。
そこには、相変わらずの手際で紅茶を淹れているリオの姿があった。
「……眠れなかった?」
彼は、アメリアの足音に気づいていたようだ。
振り返りもせず、やさしく問いかける。
「……うん」
素直に答えると、彼はもう一つのカップに紅茶を注ぎ、差し出した。
「熱いから、気をつけて」
「ありがとう」
アメリアはそれを受け取り、椅子に腰掛ける。
しばしの静寂。
リオの横顔は、炎のゆらめきに照らされ、どこか寂しげにさえ見えた。
「ねえ、リオ」
「うん?」
「わたしたちのこの関係って……“恋”なのかな?」
その問いに、リオはわずかに目を見開いた。
だが、すぐに笑って、首を傾げた。
「それは……アメリアが決めることだと思うよ」
「わたしが?」
「そう。“恋”って、相手の言動や距離じゃなくて、自分の中の感情で決まるもんだろ?
だから俺は、君の心が決めたものを、受け入れるよ」
「ずるいな、それ……」
アメリアは、微笑みながら紅茶に口をつける。
苦くて、甘い。まるで、今の気持ちそのもののようだった。
(わたしは、たぶん……恋をしている。
でもそれと同時に、この人がいないと生きていけないって思ってる)
それが“愛”なのか“依存”なのかは、まだわからない。
けれど――
「ねえ、リオ。……わたし、ずっとそばにいてもいい?」
「うん。君が望む限り、何度でも迎え入れるよ」
その言葉に、アメリアは小さく笑った。
(それなら……もう少しだけ、夢を見てもいいよね)
深夜。
キッチンの静けさに包まれたふたりの間には、紅茶の香りと、微かな鼓動だけが残っていた。
「ねえ、リオ」
アメリアの声は、いつになく慎重だった。
「……ん?」
「その……リオの部屋、どんな感じなの?」
唐突な質問に、リオは一瞬、首を傾げる。
「俺の部屋? まあ、簡素だよ。ベッドがひとつと、作業机と……あと、棚に本が少し。家政夫だから、余計なものは持たない主義」
「ふぅん……そっか。……じゃあ」
一瞬の躊躇。
だが、その視線はまっすぐだった。
「今夜、そこで……一緒に寝てもいい?」
沈黙。
時間が止まったような感覚のなかで、リオはカップを置いた。
「……本気?」
「うん。……なんて言えばいいか、わからないけど。リオの温もりを、今夜はちゃんと感じていたいの。ちゃんと、ここにいるって、実感したいから」
その瞳に、偽りはなかった。
欲望でも、気まぐれでもない。
“確かめたい”という、切実な叫び。
リオは、長く息を吐いた。
「……アメリア」
ゆっくりと、彼女の手に、自分の指を重ねる。
「俺のベッドは狭いよ。君が貴族だったこと、忘れてしまいそうになるくらい、みすぼらしい」
「平気。あなたのそばなら、どんな場所でも安心できる」
その言葉に、リオは一瞬、瞳を伏せ――そして笑った。
「……わかった。じゃあ、ちゃんと責任もって迎えるよ」
夜の帳のなか、ふたりは階段を上がった。
リオの部屋は本当に簡素だった。
けれどアメリアには、それが“家”のように感じられた。
ベッドに入ると、背中合わせで横になる。
ほんの少しの距離。
でも、その隙間があるからこそ、触れたいと願える。
「リオ……」
「うん」
「わたしね、誰かとこうして寝るなんて、初めて」
「俺もだよ」
ふたりの声が、重なる。
まどろむような静寂のなか、アメリアはそっと背中を向けていたリオに、腕を回した。
少しだけ驚いた気配。だが、すぐに彼の手がその腕を包む。
「ありがとう、アメリア」
そう囁かれて、彼女は瞼を閉じた。
(わたし、リオのこと……好きなんだ。たぶん、きっと――ずっと)
朝。
鳥のさえずりが、静かに窓を揺らしていた。
アメリアが目を覚ますと、すでにリオは起きていた。
けれど――彼はまだ、隣にいた。
ベッドの縁に腰掛け、外をぼんやりと眺めていたその横顔は、どこか遠い世界を見ているようだった。
「おはよう、リオ」
そっと声をかけると、彼は少し驚いたように振り返った。
「……おはよう。よく眠れた?」
「うん。……久しぶりに、悪夢を見なかった」
アメリアは微笑む。けれどその笑顔には、まだ影があった。
彼女は体を起こし、ベッドの上で膝を抱えるようにして、リオの背中にそっと寄り添った。
「ねえ、リオ。あなたのこと……もっと知りたい」
リオは少し黙ったあと、ため息をつくように笑った。
「……俺の過去なんて、知っても面白くないよ。前世の記憶があって、でも何も偉いことはしてない。ただ、普通の会社員だっただけ」
「それでもいいの。あなたの“普通”が、わたしには特別に思えるから」
その言葉に、リオは一瞬、表情を止める。
そして、ゆっくりと、語り始めた。
「俺は――失敗したんだ。ひとつの恋を、大事にしすぎて、壊してしまった。
相手のすべてを受け止めようとして、結局、自分の心まで壊れて……逃げるように、転生したんだ」
静かに、淡々と語られる後悔。
それは、リオのなかにある“恋”と“愛”への恐れそのものだった。
「もう二度と、誰かを同じ目に遭わせたくないって、そう思ってた。だから最初、アメリアのことも……なるべく距離を置こうとしたんだ」
「……うん、なんとなく気づいてた」
「でも、それができなかった。気づいたら、君のことばかり考えてた。君が泣いた夜も、怒った日も、全部、俺の中に残ってる」
「リオ……」
「こんな俺を、まだ好きでいてくれる?」
それは、ひどく弱くて、不器用な問いだった。
アメリアは、迷わず彼に抱きついた。
「好き。……大好きよ。どんな過去があっても、それでも“今のあなた”を、わたしは愛してる」
リオの腕が、彼女をしっかりと抱きしめ返す。
この抱擁のなかに、依存かもしれない、過去の傷かもしれない。
けれど、それでも――たしかな想いがあった。
(それなら、わたしたちは“正しくなくてもいい”。
恋じゃなくても、愛じゃなくても、この人の隣にいたい)
そう、アメリアは願った。
◆次回予告
第5話「“恋人”になった朝、最初の喧嘩」
初めて一緒に過ごす朝。
小さなすれ違いが、ふたりに初めての「痛み」を与える。
愛し合うふたりに訪れる、“不安”という試練――