第3話「彼女の過去、彼の秘密――静寂の中で触れ合う傷」
朝――。
目が覚めると、隣には誰もいなかった。
昨夜、リオと隣り合って火を見つめたあのぬくもりは、夢のように消えていた。
(リオ……)
アメリアは起き上がり、小さなため息をつく。
何もないのが当然だった。
けれど、それが少しだけ、寂しい。
キッチンでは、すでにリオが朝食の準備をしていた。
湯気の立つスープ鍋。トーストの焼ける匂い。
平凡で、でも温かくて、安心できる――“彼の日常”。
「おはよう、アメリア。よく眠れた?」
「……うん。ありがとう」
思わず、少しだけ口元が緩む。
この人の声を聞くたびに、心が軽くなるのはなぜだろう。
「今日さ、ちょっと出かけようかと思ってるんだ」
「出かける……? どこに?」
「薬草が切れててさ。森の奥のほうまで少しだけ。危ない場所じゃないけど、念のため、君は留守番でも――」
「……わたしも行くわ」
ぴしゃり、と割り込むような返答だった。
アメリア自身、なぜそんなに強く言ってしまったのかわからない。
けれど、頭より先に心が叫んでいた。
(置いていかれたくない)
それが“依存”とわかっていても、止められなかった。
リオは驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと微笑んだ。
「そっか。じゃあ、ふたりで行こう」
「……うん」
(リオの隣にいたい)
それは昨日より確かで、強い衝動だった。
だが――その森の奥で、アメリアは“彼の過去”と、“自分の過去”を見つめることになる。
森はしっとりとした静けさに包まれていた。
差し込む陽光。落ち葉を踏む音。
アメリアはリオのすぐ後ろを歩きながら、ふと“息をすること”を思い出していた。
王城にいたころ、こんなふうに自然の中で呼吸することなどなかった。
彼女の人生は、いつも誰かの“期待”と“愛”の檻の中だったから。
「アメリア、あれ見て。あの青い葉、リュミエラっていう薬草。軽い熱にも効くんだ」
「へえ……綺麗」
しゃがみ込んでリオが摘み取る姿は、どこまでも穏やかで、
この森すら、彼に守られているように思えた。
アメリアは、その隣で小さく呟いた。
「……処刑の時。怖くなかったわけじゃないの。むしろ……ずっと、震えてた」
「……うん」
「でもね、それより、哀しかったの。誰も、わたしを“愛してる”って言わなかった」
リオの手が止まる。
「最後まで、わたしは“誰かの理想”でしかなくて……だから、自分が壊れても、愛されたくて、縋って……それで、あんなふうに」
「……アメリア」
彼女は小さく笑った。
「愛がほしかっただけなのに、どうして人って、そう簡単に見捨てられるのかしらね」
その問いに、リオはすぐには答えなかった。
けれど、やがてぽつりと口を開く。
「……俺も、似たようなもんだよ」
「え?」
「元の世界でさ。俺、“空気”だったんだ。目立たない、誰にも期待されない。寂しくもあったけど、それが楽だと思ってた。でも転生して――神に“力”をもらったとき、正直、困ったんだ」
「困った?」
「うん。だって、“期待される”んだよ。勇者になれだの、救世主だの、魔王を倒してくれだのって」
「全部、俺が望んでない“理想”だった」
その言葉に、アメリアは息を呑む。
「……あなたも、壊れそうだったの?」
「……ああ。壊れてたかもな」
ふたりは、静かに見つめ合う。
似ていた。
“理想”に押し潰され、“誰かの都合”で形を変え、“本当の自分”を失った――ふたり。
その沈黙の中、アメリアの手が、そっとリオの袖に触れた。
「でも、今は……壊れてない、わよね?」
リオは優しく微笑んだ。
「君が、そばにいてくれるから」
その一言が、深く、胸に染みた。
リオの言葉――「君が、そばにいてくれるから」。
それは、誰よりも欲しかった“肯定”の声だった。
アメリアの胸の奥で、何かがはっきりと形を成した。
(……わたし、この人が好き)
心が静かに、でも確かにそう告げていた。
依存でも、錯覚でもない。これは、“本当”の想いだと、今ならわかる。
けれど。
「ねえ、リオ。……もしわたしが、また“狂ったら”どうする?」
吐き出すような問いだった。
「また誰かを縋って、誰かを傷つけて……あなたのことも、壊してしまったら……?」
それは彼女自身が、最も恐れていることだった。
“愛した人を、自らの手で壊してしまう未来”が、どこかにあるのではないかという漠然とした恐怖。
リオは少しだけ視線を伏せて、そしてまっすぐにアメリアを見た。
「もし、君が“狂った”って思っても――俺は、君を否定しないよ」
「……え?」
「人間なんて、完璧じゃない。愛し方を間違えることもあるし、弱さにすがることもある。
でもそれって、“生きてる”ってことだろ?」
その言葉に、アメリアの視界がじんわりとにじむ。
「俺は、君が壊れても……何度だって、一緒に直していくよ。
君が、“君を嫌いにならないで”って願う限り、絶対に、そばを離れたりしない」
「……そんなの……ずるい……」
涙が、ぽろりとこぼれ落ちた。
今まで誰にも、そんなふうに“許された”ことはなかった。
“狂わないで”と押しつけられたことはあっても、
“狂ってもいい”なんて言ってくれた人は、リオが初めてだった。
(この人の隣でなら、生きていける)
そう確信した瞬間だった。
リオがそっと、彼女の涙を指でぬぐう。
「泣かせるつもりはなかったんだけどな……」
「泣かせたの、リオのせいじゃないもん……自分でも、よくわかんないのよ」
「それでいい。……今は、“わからない”を、ちゃんと感じてる君が、俺は好きだよ」
“好き”――その一言が、アメリアの胸に深く染みわたる。
もう、この人から離れたくない。
そう思った。
薬草採集を終え、ふたりは小道を戻っていた。
アメリアの頬にはまだ赤みが残っていて、リオはそれを気づかないふりをしていた。
照れ隠しのように、彼女はポツリと呟く。
「……ありがとう、リオ。さっきの言葉、本当に救われたの」
「俺のほうこそ。君に必要とされることが、こんなに嬉しいなんて思ってなかった」
「ふふっ、変な人」
「言われ慣れてる」
そんな他愛ない会話が心地よかった。
だが――その緩やかな時間は、唐突に終わりを迎える。
カサリ、と草の音。
「……誰かいる」
リオが瞬時に前に出る。その動きに、アメリアの背筋が凍った。
森の奥、木陰から、ぼんやりとした影がふたつ。
全身をフードで覆った人物たち。無言のまま、こちらを見据えている。
「アメリア、後ろに下がって」
「……誰? 追っ手?」
リオはゆっくりと腰に差した、薬草採取用の鎌を抜き、両手で構えた。
その仕草に、彼がただの家政夫ではないことが、改めて浮き彫りになる。
「“監視者”か、それとも……違う勢力か」
男たちは無言のまま、手に杖を構えた。魔術師。しかも、手慣れている。
「アメリア――下がれって言ってるだろ!」
リオが叫んだ瞬間、火花のような魔力の衝撃波が走る。
その爆風で木々がざわめき、アメリアは思わず地面に膝をついた。
「くっ……!」
「大丈夫、すぐ終わらせる」
そう言ってリオは、アメリアを背に庇いながら、矢のように突進した。
「収穫術:瞬採の舞薬草を刈ったばかりだが、邪魔な雑草も刈っとかないとな」
伸び散らかした雑草を刈るように、リオの高速連撃が放たれる。
その動きは、本当に舞うようでアメリアは見惚れていた。
(この人、本当に“ただの家政夫”じゃない……)
そう思う間にも、リオはもう一人の男の額を鎌の柄で突き、戦闘を終わらせていた。
敵は呻き声を上げながら地面に沈み、そのまま意識を失う。
静寂が戻る。
「……終わった」
「リオ……」
アメリアは呆然としながらも、リオの背にすがるように近づいた。
彼の背中は、温かくて、そして――少し、怖かった。
「ごめん。……あまり見せるつもりはなかったんだけど」
「……いいえ。ありがとう。わたしを、守ってくれて」
その言葉に、リオは静かに微笑んだ。だがその目は、何かを深く秘めていた。
(彼にも、まだ言えない“過去”がある……)
(でも、わたしも――知りたい)
アメリアは、リオの背中を見つめながら、そっと胸に誓った。
(この人となら、どこまでも堕ちていける。
たとえ、それが恋じゃなくても――共にいられるなら、それでいい)
◆次回予告
第4話「“愛”の定義と、ふたりの境界線」
──“愛してる”とは、どこからが本物で、どこまでが依存なのか。
心の距離が近づくほど、触れたくなる“互いの輪郭”。
ふたりの関係に、ひとつの転機が訪れる。