第2話「家政夫と令嬢の同居生活、始まりは依存の香り」
「……リオ、わたし、ここにいても……いいのよね?」
朝靄の差し込む小屋の窓辺。
アメリアは、まるで確かめるようにそう訊ねた。
昨夜、あれほど涙を流したのに、まだ胸の奥はふるえている。
逃亡者。反逆者。捨てられた令嬢。
そんな自分が、誰かの隣にいてもいいのか。まだ、怖い。
「いいもなにも……君がいてくれると、助かるんだよね」
リオは朝のスープを鍋でかき混ぜながら、さらりと答えた。
「洗濯物、増えてきたし。あと、窓拭いてくれると嬉しい。地味に手が回らなくてさ」
「……そういうこと?」
「そういうこと」
リオは笑う。あまりに自然体で、ふつうで、優しくて。
その“普通さ”が、アメリアには逆にくすぐったくて、目が潤んだ。
「ふふっ……ありがとう」
「何が?」
「わたしを、“ただの女の子”として扱ってくれること」
それは、貴族として生きてきた彼女にとって、あまりにも新鮮で、やさしい世界だった。
見返りを求めず、命令もしない。期待も、叱責も、ない。
まるで空気のように、リオはそっと隣にいてくれる。
(こんなふうに……誰かと暮らす日が来るなんて)
(わたしの居場所が……本当に、ここにあるのなら)
彼女は、小さく息を吸い込んだ。
「ねえ、リオ。わたし、ここで何か“役に立ちたい”の」
「おお、やる気だ。頼もしいじゃん」
「わたし、お裁縫と……お茶の作法と……あと、ちょっとした薬草の知識もあるの」
「それはめちゃくちゃ役立つ。今日から副家政婦決定だな」
「……ふふっ」
アメリアは笑った。ほんの少しだけ、本当に少しだけ、心の霧が晴れていく気がした。
「……ねえ、リオ。なんで家政夫なんてしてるの?」
朝食の片づけを終えたアメリアが、窓辺の拭き掃除をしながら尋ねた。
転生者――この世界に異世界から来た人間である彼が、王都の冒険者や貴族ではなく、田舎の家政夫をしている理由。
どんな力を持っているのかもわからない。
処刑場で見せた調理器具による戦闘すら、彼にとっては“日常の延長”だった。
だが彼は、ごく自然な口調で答えた。
「……うん、なんか俺、派手に戦うのとか苦手でさ。
世界救うとか、勇者になるとか、そういうのも……向いてない」
その横顔は、どこか寂しげで、でも穏やかだった。
「料理したり、掃除したりして、隣で誰かが『ありがとう』って笑ってくれる。
それだけで、なんか――生きてていい気がするんだよね」
「生きてて……いい」
アメリアの胸が、静かに波打った。
(それは……きっと、わたしがずっと欲しかった言葉)
彼女は思わず、手を止めてしまう。
布を握ったまま、じっと彼を見つめて。
「じゃあ……わたしが、ずっと隣にいたら……」
「うん?」
「わたしが、毎日『ありがとう』って言ったら……」
「……そりゃあ、嬉しいに決まってるけど」
「それって……『生きてていい』って、思ってもらえるかな」
それは、少しだけ震える声。
けれど、目は真っ直ぐだった。
リオは少しだけ目を見開いて、それからふっと笑った。
「うん、すごく。……でも、それなら俺も言うよ」
「……?」
「アメリア、ありがとう」
「……!」
「今日も、いてくれて。隣にいてくれて、助かってる。ありがとう」
心の底に、静かに降りてくる言葉だった。
何よりも優しくて、でも何よりも“効いた”。
(この人の言葉は……すごく、温かい)
それが恋なのか、憧れなのか、依存なのか。
今の彼女には、まだわからない。
けれど――
(この人のそばにいたい)
その想いだけが、胸の奥で、確かに息づき始めていた。
日が高くなるにつれ、アメリアの胸の奥に生まれた“何か”は、ゆっくりと輪郭を帯びていった。
(この気持ち……何なの?)
見つめたくなる。
声が聞きたくなる。
ほんの些細なやり取りに、胸が跳ねる。
(ねえ、これが恋? それとも――ただ、依存してるだけ?)
わからない。
けれど、どうしようもなく、彼に触れたくて――たまらなかった。
午後。
リオは庭先で薪を割っていた。白いシャツの袖をまくり、鍛えられた腕が斧を振り上げる。
その姿に、思わずアメリアは息をのんだ。
(男の人って……こんなに、格好良かったっけ?)
処刑台に現れたときも、彼はまるで夢の中の騎士みたいだった。
でもこうして日常の中にいる彼は、もっと“現実的で”、もっと“惹かれる”。
「……アメリア?」
「ひゃっ、は、はいっ!?」
いつの間にか見つめすぎていたらしい。
リオがにっこりと笑いながら、額の汗をぬぐった。
「水、もらえると嬉しいなーって」
「っ、も、もちろん! すぐに!」
慌てて井戸水をくんで戻ると、リオは感謝の言葉とともに、がぶがぶと飲み干した。
喉を鳴らして、水滴を拭う――その仕草すら、彼女の心をかき乱す。
たまらず、彼女は口を開いた。
「リオ。……わたし、あなたのこと、もっと知りたいの」
彼の手が止まった。
「君、さっき“役に立ちたい”って言ってくれたよね?」
「……うん」
「だったら、俺のことじゃなくて、自分のことを知ってほしい。
何が好きで、何が嫌いか。何に笑って、何に泣くか。……まずは、そこから」
「……どうして?」
「恋でも依存でも、相手に全部預けたら壊れるだけだよ。
アメリアが“君自身”を取り戻したら、その時あらためて、俺のことも見てよ」
――優しさが、残酷だった。
(そんなふうに、待たれるなんて……ずるい)
好きになってもいいって言われるより、
“好きになるのはもう少し先でいい”って言われるほうが――苦しい。
でも。
「わかった。……ちゃんと、自分を見つける」
たった一歩ずつでも、前に進みたい。
それは、彼に縋るためじゃなく――彼と並んで歩くために。
夜。
焚き火の明かりが揺れる小さな小屋の中で、アメリアはひとり、毛布にくるまっていた。
リオは隣の部屋で寝ている。
壁一枚。その距離が、やけに遠く感じる。
(“まずは、自分を知ってほしい”……)
優しいくせに、まっすぐで、踏み込ませてくれない。
だからこそ、リオという存在が、彼女の中でどんどん大きくなっていく。
(ねえ、リオ。わたし、あなたに触れてほしいの)
(愛されたい。……愛したい)
(だって、あなたの声が、体温が、視線が――心地よすぎて、もう戻れない)
そう思った瞬間、思わず毛布の端を噛みしめた。
胸が、張り裂けそうなくらい苦しい。
(こんな気持ち、知らなかった)
(こんなふうに、誰かの隣で“生きたい”なんて思ったこと、なかった)
彼の手に触れたい。
彼の名前をもっと呼びたい。
彼の目に映りたい。
(でも……今のわたしじゃ、駄目なんだよね)
その瞬間、小屋の扉が静かに軋んだ。
「アメリア、起きてる?」
「リオ……?」
薄明かりの中、彼の姿がそこにあった。
「夜、冷えるなって思って。毛布、もう一枚持ってきた」
「……ありがとう。でも、もう温かいわ」
「そっか」
彼はそれでも笑って、毛布をそっと足元に置いた。
そして、帰ろうとした――その背に、彼女は叫んでいた。
「待って!」
リオが振り返る。
アメリアは立ち上がり、ためらいがちに、けれど確かな意志で一歩ずつ近づいた。
「お願い、少しだけでいいから……そばにいて」
その声は、泣き出しそうに震えていた。
でもそれ以上に、強くて、真剣だった。
リオは少しだけ迷ったあと、静かに頷いた。
「わかった。……隣、座っていい?」
「うん……」
ふたりは、火のそばで並んで座った。言葉はなかった。
でも、それでよかった。沈黙が、ふたりを包んでいた。
やがて、アメリアはぽつりと呟いた。
「こうしてると……人間に戻れた気がするの」
「戻るんじゃなくて、今が“本当の君”なんじゃない?」
「……そうだといいな」
火の粉がはぜ、影がゆらめく。
その夜、アメリアは心の奥で、何かが芽吹いたことを知った。
それはまだ、恋とは呼べない“渇望”。
でも確かに、そこにあった――生きたいと願う、初めての想いが。
◆次回予告
第3話「彼女の過去、彼の秘密――静寂の中で触れ合う傷」
──笑顔の裏に隠された過去と、転生者が抱えるこの世界への違和感。
交錯する傷と想い。すれ違う心は、それでも寄り添えるのか?