第10話 『奪還者、灰の森に立つ』
翌朝。
リオは、布団の温もりの心地良さを全身で感じながら、未だ目を閉じていた。
しかし、まどろみの中、隣にあるはずの温もりがないことに気づき、ゆっくりと目を開けた。
「……アメリア?」
毛布をめくると、彼女の姿はなかった。
慌てて起き上がり、辺りを見渡す――。
薪は新しくくべられていて、湯の入った鍋が火にかけられていた。
いつもと変わらない朝の景色――のはずなのに、胸の奥がざわつく。
扉の外へ出ると、森の縁に小さな背中が見えた。
「……アメリア」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返る。
その表情は、どこか遠くを見ているようだった。
「おはよう、リオ。……心配させちゃったね、ごめん」
「ううん。でも、驚いた。……一人で外に出るなんて、珍しいから」
アメリアは小さく笑った。けれど、その瞳の奥には笑みがなかった。
「夢を見たの。あの頃の夢……処刑される、直前の記憶」
「……」
「台の上に立たされて、あの人に背を向けられて……みんなが私を“狂ってる”って叫んでた。……でも、一番怖かったのは、自分でも“おかしくなってた”って、気づいてたことだった」
リオは何も言わず、彼女の隣に立った。
アメリアは肩を震わせながら、つぶやく。
「今、幸せなのよ。本当に。でも、ね……もしまた、私が狂ったら、あなたまで巻き込んでしまうかもしれない。そんなことを、思ってしまうの」
「……アメリア」
「怖いの。あなたを、失うのが」
その声が、風に乗って消え入りそうになる前に――
リオは彼女の肩を強く抱き寄せた。
「俺は、どこにも行かない。どんなアメリアでも、見捨てたりしない」
「でも――」
「たとえ、世界中が君を敵に回しても。……俺だけは味方でいるって、決めたんだ」
アメリアの瞳が潤む。
「リオ……リオ……私、あなたが……」
その時だった。
――カンッ!
乾いた金属音が、森の奥から響いた。
アメリアがびくりと身体を強ばらせる。
「いまの、音……?」
「金属が、岩か何かに当たったような……剣か、槍か」
リオの脳裏に、昨日の“気配”が蘇る。
もはや気のせいではない。誰かが、近くにいる――しかも、武装して。
「早く小屋に戻ろう。扉の鍵を閉めて、少し様子を見……」
その言葉が終わるより早く。
――ドンッ!
今度は、扉を叩くような重い音が、小屋のほうから響いた。
リオとアメリアは、顔を見合わせる。
「……来た、みたいだね」
「リオ……っ」
彼女の手が、リオの腕をぎゅっと掴む。
「大丈夫。俺が、守るから」
それは、決して誓いの言葉ではなかった。
ただ、目の前の彼女に対して“今、必要な真実”を伝えただけだった。
リオは腰の袋から、掃除用の長柄ブラシを取り出す。
柄には、自分なりに工夫した金属板が巻かれており、即席の武器になっている。
扉に向かって、ゆっくりと歩き出す。
その背に、アメリアの細い声が重なった。
「……リオ。お願い、無理だけはしないで」
「うん。でも――君を守るためなら、何だってする。アメリアはここにいて。」
リオはそう告げて、扉の前に立つ。
一瞬の静寂。そして、呼吸を整えて、扉を開け放った。
そこでリオが見たのは――
フードを被った三人の人物と、その中心に立つ、金髪の青年だった。
その男は少し驚いた素振りをしたが、冷静を装い口を開く。
「これはこれは、久しぶりだね、アメリア。……いや、“令嬢”と呼ぶべきかな?」
アメリアの顔が、見る間に青ざめる。
「――フェリスク……!」
その名は、決して忘れることのできない、“元婚約者”の名だった。
リオの隣にいたアメリアの身体が、わずかに震える。
扉の前に立っていた男――フェリスク=ユーベルは、変わらぬ端整な顔立ちで、ただ静かに、アメリアを見ていた。
「やっと見つけたよ、アメリア」
その声は、かつて彼女が何度も夢に見た“優しさ”に似ていた。
けれど今は、その響きの裏に、底知れぬ冷たさを感じる。
「どうして……ここが分かったの?」
アメリアが一歩、後ずさる。
その視線に怯えが滲んだのを、リオは見逃さなかった。
フェリスクの視線が、今度はリオへと向けられる。
獲物を見定めるような、無感情な眼差しだった。
「お前ら、アメリアに関わるのはもうやめろ!」
リオが一歩前に出ると、フェリスクは肩をすくめて笑った。
「……王都では、“処刑されるはずの狂人令嬢が逃げ出した”と、ちょっとした話題だよ」
その言葉に、アメリアの顔色がさらに悪くなる。
「嘘……そんな……!」
「アメリア。……君を迎えに来たんだよ。俺の手で、最後まで責任を取るために」
「今さら、何を……っ!」
アメリアの声が震え、叫ぶように割れた。
「私を処刑台に送ったのは、あなたよ! “忠誠も、愛も、全部狂気だ”って――!」
「そうだ。あのときは、そう判断するしかなかった。命を失う所だったからな」
フェリスクの声は、変わらず穏やかで、それが余計に不気味だった。
「けれど……あの夜、君が逃げ出した後、胸が空っぽになった。」
フェリスクの身勝手な言い分に、リオの理性という薄氷が割れ、怒りと嫉妬の入り交じった怒声がその下から噴き上がった。
「クソ野郎がっ……!自分で!自分で死刑台に送っておいて何をっ!」
それは、怒声と言うよりも、魂が剥き出しになった音だった。
しかし、フェリスクは "返事をする価値もない" と言わんばかりの表情を、一瞬だけリオに向け続ける。
「君のいない世界が、あれほど味気ないとは、私も思っていなかった――」
アメリアの膝が、力なく揺らぐ。
リオはそっと、その肩を支えた。
「……もう遅いよ。私はリオに拾われて、ここで、生きてるの。あなたのいない世界で」
「そうか。……なら、壊すしかないな。その“世界”を」
リオの前に、フェリスクがゆっくりと歩み出た。
ただの“話し合い”ではない。明確な敵意と、“奪還”の意思がそこにあった。
リオはアメリアを背に庇い、低く息を吐く。
「……アメリアは、もうお前のものじゃない」
「お前のものでもないだろう」
「ちがう。……俺たちは、“お互いを必要としている”」
フェリスクの目が、一瞬だけ揺れた。
だがすぐに、それを掻き消すように冷笑を浮かべる。
「なら、試してみようか。――どちらが、彼女に相応しいのかを」
彼が外套の奥から、一本の杖を抜く。
魔導士か――
リオも静かに、小屋の柱にかけてあった箒を手に取る。
「……アメリア。後ろにいて。絶対に、離れないで」
「リオ……」
アメリアが、彼の背中をそっと掴む。
そこにある温度が、恐怖の中で、たった一つの灯だった。
フェリスクの杖が、青白く光を帯びる。
魔力が空気を裂き、周囲の気温が一気に下がった。
「“凍牙の槍”」
鋭い氷の槍が、いくつも空中に現れ、リオへと放たれる――!
「“掃除術・風掃き”。家政夫の必須スキル、掃き掃除で、どんな魔法も掃き返してやる。」
リオの箒が弧を描いた瞬間、旋風が巻き起こり、氷槍をまとめて吹き飛ばす。
「ふん……言うだけの事はあるようだな……異端者め」
フェリスクが歯噛みする。
だが、リオは淡々と構えを取り直す。
「俺は……この手で、アメリアの“居場所”を守る。それだけだ」
そして、二人の間の空気が、ぴたりと張りつめた。
闘いの火蓋が、切って落とされる――。
◆次回予告
第11話「それでも君に、“幸せ”を選ばせたい」