『ねちねちと、問う ―ある学者の果てなき対話―』という番組を見て、つらつら考えたこと(7月30日)
『ねちねちと、問う ―ある学者の果てなき対話―』(ETV特集)を視聴しました。
番組内容は、以下です。
引用はじめ――――
初回放送日:2025年5月17日
「課題解決って言いすぎちゃう?」「コスパ・タイパとかばっかり」「本当に大切にしたいことは何?」。大企業の幹部や経営者に、数時間にわたり「問い」を投げかける京都大学准教授の宮野公樹さん。「学問とは何か」を研究し、成果主義や合理主義に陥りがちな現代の企業人や研究者に本質的な問いを立てることを促してきた。思考停止に陥らず、時に組織の論理から離れ、“自分のものさし”を捉え直す、果てなき対話。語り:又吉直樹
引用おわり――――NHK ETV特集 ねちねちと、問う ―ある学者の果てなき対話― https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/M2KGKM8W84/ (参照:2025.5.30)
全編を、本腰入れて視聴したわけではないのですが。 印象的なというか、自分で答えをなんとなし見つけていたというか。 言語化せず、日常にするりと取り入れていたことが、番組で言語化されていたので感想だったり、それに付随したよしなしごとを書きとめておこうかな。 と思ったので、書いてみます。
まずは、言語化されていた部分の引用をば。
引用はじめ――――
(世の中には「社会のものさし」と「自分のものさし」があるという図、それによる評価の違いの解説)
社会が悪い 自分が悪い 自分の努力が足りない そういう責任論の話じゃない。
あ〜あ 俺は やっぱり果てまで考えた結果 どうしても これをしたい。
これをしないと俺ではない。
そういう納得が得られる。
それはやっぱり 自分の人生を生きてることになるんで こっちのままだと 他人の人生 生きてる。
ああ 金持ちになった方がいい シェア上がった方がいい。
他人…。
自分の人生を生きることが幸せでなくて何ですか?
納得。
ほら やっぱり 幸せと納得はきれいに一致しますよ。
引用おわり――――『ねちねちと、問う ―ある学者の果てなき対話―』(ETV特集)より(※画像引用はnoteにてしております)
納得が幸せにつながる。 これ、私がよく使っている「しょうがないを受け入れる」とかととてもよく似ていて。 その時その時の、逃げられない状況ってあるんですよね。 立場として子供であるとか、家庭の事情とか。 生活環境、選んだ仕事。
逃げられない状況は自分から発生したことか、それとも他者から発生したことか。 自分にできる範囲は何か、他者ができる範囲は何か。 その他者に声は届くか否か。 変えられる部分と、変えられない部分。
それら全てを織り込んだ上で、どうしても目の前にやってくるんですよ。 選べ、と。 選び取って次へと歩を進めなければならない、と。 結構きついですし、あわよくば逃げていたいですよね。 誰かに強制されたんだとか、時代のせいにしたくなったりとか、親のせいだったりとかにしたい。 私はしたかった、というより昔はしていたんだと思います。 境遇を呪っていた。
けれど、私にやってきていた境遇は、私由来ではなくて。 親が悪いわけでもなくて。 ただただ、運というか宿命というか運命というか。 そういう悪戯な、他者とか時代の選択の玉突き事故でしかなくって。 しょうがないことでした。
何かのせいにした方が楽な時ってあります。 実際、他者からの理不尽はある。 そういうのは、その人のせいにしたっていいんです。 正しく……というか、なするんではなくって、きちんとその人がやったことを抽出してその人が原因である、という評価はするべきなんです。 それは例えば親が原因だとしても。 親という属性でなく、その人個人で見た時にろくでもない行動しかしない人は、悲しいかな存在するので。
が、まぁそういう原因がはっきりしている場合もあれば。 誰の責でもなく起こることは起きてしまうのが人生で。 その場合、しょうがないことをいくら恨んでも変わらないのです。 ならばその時に、その状況下でのなるべくの選択をしたかどうか。 それは自分のものさし、であったかどうか。 っていうのが予後を決めるのかもしれないなと、この番組を見て、連想的につらつらと思い返したり、あらためて思考を見つめてみたりした次第です。
選択ということ。 自分が、何を選び取るかということ。 取捨選択の、主体は何か、誰か。
しょうがないことは存在していて。 そんな状況下で、他の条件で選べるだろうもっと幅のある選択肢の中にしか最上の選択はなくて。 なんてことは、人生でザラにあって。
選ばされたとかいう場面があることもあるけれど。 そういった場合を除き、選べる立場であるならばその逃れられない条件の中での自分にとっての最善とか、ちょっとでも納得できる選択肢を「自分で選んだ」という感覚。 この部分が、後悔が少なかったり、後悔したとしても結果を受け入れられたり。 そもそもの「選択して行動した」という経験値が、少しずつ好転を呼び込んできたりもして。 ということは、あると思っています。
他人軸自分軸、という言葉が昔に流行りましたが。 社会軸と個人軸、みたいなのもあって、きっとそれは家族軸とか、団体や組織にもそれぞれあって。 どこを重ねるか、歯車が合わなさすぎた時にどっちを選ぶか。 そんな時に、何を軸として選んだ方が納得できるか。 というと、結局自分がしたいこと、なんだろうなって。 そう思いました。
それは勿論、社会のために自分の力を使いたい、と「自発的に思った」ならばそれは社会軸と自分軸の二軸が自分の中にある人なのです。 ちゃんと重ねて、選んでいる。 プロもそうですね、社会の求めるレベルへ自分の能力を高めて社会的評価の軸で自分を評価してもらうことを「自発的に選んで」世界の舞台に立っている。 ……とはいえ、お受験ママや習い事親的な境遇もあったりするので、一概には言えないところですが……当人の気持ちとか自発的? な、納得が得られていない場合、どれだけ社会的地位を築いても人生において綻びが出る、というのを時々テレビなどで見る気がしています。 誰がとかは出しませんが。
というのを、改めて、思考したきっかけは……Xでたま〜に目にする、自分の現状を「どうだ凄いだろ」と、他者からみれば満足だろう言葉で紹介するのに、一日最低一回は誰かだったり何かだったり、創作だと特定の属性他者を叩いたり、投稿サイト等場所叩いたりジャンル叩いたり、に費やし続けている人。
ずっと、不思議だったのです。 現状を自慢したいくらい、充足している。 そんな状況で、他者を必要以上に叩く、その理由ってなんだろう? と。 叩いた相手と違って自分は〜と続ける言葉、それを発する理由ってなんだろう? と。 代替案も、代替行動もなしに、ただ言葉で……人格攻撃とか入れ込みながら他人ぶっ叩いてて、その一応の問題提起に対して自身一歩踏み出すのさえ始めていないのに、何故満足できるんだろう? と。
自分の人生に、納得と共に道を切り拓いた人って、大抵攻撃性低いのですよ。 もちろんそれは問題提起しない、ということではなくって。 きちんと問題提起とか自分がそれにどう関わろうとしているかとか、関われない立場であってもその発言の可能範囲(無責任なら何にでもどうだって言えるのですが、そこのところちゃんと理解していると言い方が違う)をきちんと、把握してその範囲でおさめている。 自分さえできていないことを、強い言葉で他者に向けて詰ったりしないのですよね。 相手の事情とかも、きちんと知った上で発言している気配を、選ぶ単語とか、物言いから感じるといいますか。
返して、不必要に他人を叩く人。 自他境界が曖昧な気配を、感じる時もあるので複合的要因でそういう状態になっている、のかもしれませんが……。 それを差し引いても。 何を求めてるんだろう? というのがイマイチ見えてこない。
もしかしたら、物差しがごっちゃになっている、また他者の能力と自分の能力とがごっちゃになっている、のかもしれないなぁと、番組を見て思いました。 自分の物差しでやって、自分の物差しで評価すれば良いところを、社会的物差しではかっても不幸なんですよね。 結構社会的物差しってどんどんキツくなっていて。 旦那も「勉強しなくていいと思って就職したら、ガラリと世の仕組み(※ぼかしてます)が変わって、ずっと勉強だし新しい技術とかの進歩がはやすぎで」など言っていたのですが(頑張ってついていってる時点で凄いと思う)、実際一生涯勉強という業種は、当たり前のように存在しています。 多分現代においては結構な業種がそうなのでは、と個人的に推測しています。 今、求められる能力ってきっとすごく高度です。
そこに自分の物差しでやったことを、全世界に社会的物差しですごいと思えと声高に言っても、他者には他者の、別業種には別業種の、いろいろな物差しがあるので……評価はカラい。 そしてその他者評価などの物差しは、変えろと言って変えられるものでもない。
評価に納得できないので、不満にもなる。 そりゃ、ぶつくさ言いたくなるってものです。 気持ちはわからないでも、ない。
かといって、私には私の物差しがあるので、その状態をよしとは思わないですが。
切り分け方……思考の切り分け方をもっと広く知ってもらえたらなぁ。 そんなことを考えます。
が、大抵こうやって書いて読んでいただいて気付く人って、既に他でうっすら気付きつつある人とかで、届けたい人には絶対に届かないのですよね。 切ない。
それすらも、それぞれの人が選んでいる「選択の結果」でもあるので。 そしてそれは私の責任の範囲外なので。
私は私の責任の範囲内。 私は私の物差しと社会的物差し、家族の物差し、友人の物差し、ネットの知人(友人というのは烏滸がましいかなという、チキンSoulが呼ぶのを躊躇わせるのです笑)の物差し、などを知ったりしながら。 納得できる選択を、日々少しずつ、コツコツと。 これからも積み重ねていけたらいいかな、となんとなしに、再認識した今日です。
……それにしても、文章内にそれだのこれだのそのだのが無駄に多すぎだなぁ(個人賞応募作品を下読みしてもらい、有難くも指摘をいただいた)、気付くとクセ強すぎて笑える。




