酷評と暴言〜何のために我々は“評しよう“、と思うのか〜 【ドラマ】あんぱん【感想・ネタバレこみこみ話】
ドラマ『あんぱん』を、時折流し見しつつも、全編通して鑑賞している。
フィクションでありきっと細部のエピソードや、語られる言葉の数々はご本人のものでないにしろ。
そこにはきっと、先生が自分の生にかけてやっていた仕事の片鱗があるのでは。
と思ったからだ。
そんな中、ダブルヒロイン的主人公の一人のぶ、の姉、蘭子がライター? の仕事をしている場面になった。
ダブルヒロイン的主人公の片割れ、たかしが、徴兵された先でお世話になった八木さんのところで、キャッチコピーの仕事をしているらしく、その原稿と、映画評の載った雑誌を差し入れ? に持ってきたらしかった。
八木さんはもらわなくとも、蘭子の仕事した雑誌はチェックしていたらしい。
雑誌を手に取らずおもむろに席を立つと、サイフォンのある低い棚へと向かい、コーヒーを入れだす。
そしてこう言うのだ、
「初めのころは良かったが、近頃は……」
続けて、
「君は、映画が好きで映画評を書くようになったんだよね?」
と。
どうも八木さんから見て、蘭子の映画評は貶し成分が多くなっていると感じたよう。
「独自の視点で作品そのものを批評するのはいいが 注目されれば それでいいのか?」
「監督や俳優をこき下ろして 楽しいか?」
「そんな見方をして 一番不幸になるのは 映画を愛している君なのに。」
※アルファポリスでは作品場面スクショを載せています
蘭子は反論する。
いわく、
「賞賛しても読者の目を引きませんから」
「世間はそういうのを喜ぶんです」
と。
蘭子のような理由でなくとも、世の中にはいろいろな理由で、媒体で、形態で、さまざまな評が溢れています。
インターネットが普及し、誰でも気軽にネット環境を持ち運べる機能のあるスマホが台頭し。
ほぼ全スマホユーザーがいち批評家、のような時代がやってきています。
以前、「読んだ部分のみならいざ知らず、他者からの又聞きだけで自分の評を組み立て喧伝」していた人を見かけたことがあります。
何のためか、といえば……どうも、自分のラノベ摂取危険論を補強するため? だったようでした。
何かについて語るのに、特に資格は要りません。
言語を理解し、また書くことができ、現代ではネット環境があれば簡単に全世界へと発信することができます。
手軽に、できる。
そして世界と繋がり、場合によっては賛同が、とてもたくさん得られる。
同好の士を見つけるに、これほど素敵な機能はない、という側面があると思っています。
けれど一方で、簡単に商品や作品……どころかそれを開発した人や作り上げた人たちを、とても軽く「正義や正当な要求と思い込んで過激に暗く追求する」こともできてしまう。
そんなふうにも感じていて。
何がきっかけだったかというと。
それは、ある評……感想とその一連の受け止めが変容していく様を見たから、でした。
いつだったかはもう覚えていませんが。
ある奴隷を題材として取り扱った作品への、感想でした。
「○○奴隷を作中に出しているが扱いが酷いと感じる。きっと作者も他人をこう扱いたいから酷く書くんだろう」
おおよそ、このような感じだったかと思います。
無論、この「作者も他人をこう扱いたい」というのは決めつけであり、感想から逸脱した人格攻撃です。
批判の声が上がったようで、謝罪があったと記憶しています。
ですが、しばらくして。
ご本人が振り返ったところによると「ただの感想を言っただけなのに攻撃が沢山来た」と、いう受け止め方になっていたようです。
例えば小説などの題材は、本人の思いがのっている場合もあれば、全くもって関係がなく、ただ取り扱ってみたい題材なだけ、という場合も多々あるかと思います。
「本人がそうしたいから」なのであれば、ミステリやホラーなどで人を酷く扱う(なにせ死ぬ、バッタバッタ人が死ぬ、軽く死ぬ)作家さんたちは皆、人を酷く扱いたい思いを抱えているのでしょうか。
その思いが暴走して、人を実際に殺めてしまうのでしょうか。
そんなわけあるかい!
と、裏手ツッコミが入るくらい、あり得ないことなのはほとんどの人にとっては共通認識かと思います。
人をフィクションの中で描きたい、極限の命を描きたい、そうなった場合、結果、題材や物語の中での人物の扱いがハードモードになる。
だってそこで本能が目覚めるんじゃん。
みたいな感じではないでしょうか。
違ったとしても、そんな「誰かを自分の思い通りにしたい」だなんて後ろ暗い思いというか怨念のこもった作品って、無数に存在し続けられるでしょうか?
私は、無理だと考えます。
ある種の危険思想が世に蔓延しているならば、その思想は必ずリアルでもぶつかり、死人が出る。
今現実は殺伐としているでしょうか?
私が見て、感じている現実は、まだ暖かいです。
凍てついた場所がある現実もあることは知っています。
けれどそんなに、北斗の拳のように世紀末感があり過ぎてるでしょうか?
SNSにて生成AIの台頭でディープフェイク等を使い、煽られ、人と人との分断は進みつつはあります。
そういった現実は、確かにあります。
ですが触れる人の温もりは、まだ、そこに存在している。
作品にて扱う題材は、人やキャラクターや世界を浮かび上がらせる装置です。
フィクションなのでドラマティックに、なされます。
ドラマには苦難や辛酸もつきものです。
その酷さだけを見て、作者の属性や人となりを決めてかかる。
何のための、作品感想でしょうか。
作品から作者を推察……では飽き足らず決めてかかる、その理由は何でしょうか。
それは本当に評でしょうか。
生身で、その作者を見たことも声を聞いたことも考えを尋ねたこともないのに?
確かに、取り扱う題材から推察できる事柄はあります。
例えば私なら、少女漫画的展開が好きなのかもな、とか。
王子の愛が重いけどちょっと行動が荒唐無稽っぽいから、笑かしに行きたい人なんだろうなすべりがちだけど、とか。
作品の属性というかくせというか、多く取り扱う題材で持っている考えがチラリとわかることはあるかもしれません。
だけどそこまでです。
それ以上でもない。
推測の域をでない。
それを感想として書いて、確かに、気に入らない思いを共通して持っている人には、代弁されたような気持ちになって刺さるかもしれません。
賛同されたり、面白く感じてもらったりするかもしれません。
歯に絹を着せぬ、という方向性がウケる場合もある。
私を含めて人間はちょっと粗忽者です。
おっちょこちょいと、暗い話を口から出します。
愚痴を言いたい時もあるし、相手に文句を言いたくなることもあります。
ちょっとくらいそれを共有して、慰めてもらいたい時とか、一緒になってくさくさした気持ちでブランコを漕ぎ合いたい時もある。
否定はできない。
けれど、批判はします。
作品だけを見ての、作者への性格断定……それも貶す方向は「暴言」だと思います。
作品内の人物に関する感想なら、扱いが酷くて見ていられない気持ちになった、とかで十分感想として機能します。
それが作品にマイナスに寄与していたなら、相応の理由を具体的に述べるだけで済みます。
そこまでで評である、と私は考えます。
作者の人格にまで言及する必要や、しなければならぬ理由など、存在しないのです。
何よりも。
作品を読了した時。
SNSという全世界と繋がる場所で、その作品について語ることで。
やりたかったことは何ですか。
目的は何でしたか。
誰かと作者の性格について貶し合いたいと思ったのですか。
その作品について、語りたかった思いはなかったのですか。
せめて、自分はこいつの悪口を言ってやる! と思って書いた、という自認が持てませんか。
人を貶めておいて、いえいえこれは評ですよ? という顔をして素知らぬ顔をしているのは、卑怯ではないですか。
何より、自分で自分が何言っているか分析できなくさせる第一歩と考えますし、その状態へと片足を突っ込むと、認知機能の観点から危ういのではと感じます。
今この時からで良いので、言葉の点検の癖をつけることをお勧めしたいと思います。
ドラマの話に戻しますが。
蘭子は、八木さんのいうことが本当ならば、映画が好きで、好きだからこそ雑誌の読者に紹介したいと書いていたのでしょう。
俳優への貶しは、映画が好きで読者に紹介したいと思ったときに、その魅力が伝わるでしょうか。
監督をただただこき下ろした時に、その映画の至らなかった部分という点は、正しく相手に伝わるでしょうか。
いいえ、決して伝わりはしない。
なぜなら、そこにあるのは評ではなく暴言だからです。
暴言はそれを望む人には「その場で消費する公開処刑の如き娯楽」として、望まない人には「人の悪口を言う感じの悪い人だなという印象」として、伝わるでしょう。
具体性をもって。
ここのこういった部分が、人物の行動原理としてそぐわずチグハグであった。
このシーンのどこそこの部分で、作品の年代と全く違う小物があって割と大きめに映り興を削がれた、せめてこれこれという小物ならよかっただろう。
そう書けたなら、酷評ではあっても、それは評として誰かへと伝わるでしょう。
少なくとも、私はそう思いました。
というふうに。
『あんぱん』の蘭子と八木さんのシーンを見て、つらつらと考えたのでした。




