嘘つきな自分を認知する
私は嘘つきだ。
帰りが遅く「夕飯が食べられないでしょ!」と母に叱られたあの頃、友人と駄弁ってて〜と、嘘をついていた。
本当は立ち読みしてましたごめんなさい。
ほとんどは、ちゃんと時間に帰ってたけど、ごくたまに遅れてしまった時怒られながら、自分の心を逃す手段は内緒にしておきたかった。
隠したところで、バラしたところで、“他者の傷にはならない嘘“が潤滑油になっていることは多々ある。
と個人的に思ってる。
だから他者の嘘にも、気づかなく痛手がないようなものにまでめくじら立てる気はない。
これは子どもにも言っている、他者を傷つける嘘はダメだし嘘をつくなら上手にちょっとだけ、と。
気の毒なのは、本人は嘘が非常に下手くそで顔に出てしまうタイプなところ。
だので、いっそ正直に洗いざらい話しなさい、と教えている最中だったりする。
それはなぜかというと。
バレるような嘘を本人だけ一生懸命になっても、他人様からは「姑息な卑怯者」としかみてもらえなくなるからで。
これが一度嘘つきかけても正直に話してごめんなさいさえできれば、憎めない愛嬌が出るから。
この愛嬌ってやつは、意外と人を助ける。
し、自分の心に正直であることは苦しさを軽減させる。
ある程度嘘が上手なら、相手にも自分にも傷がつかない範囲ならば嘘も大切……建前ってやつは意外と侮れない。
最低な自分まで全部さらけ出す必要もないけれど(誰にだって最低だと自認する部分ってある、けどそれをも内包しながら、うまい付き合い方を模索しながら、みんな生きてると思ってる)、バレてしまったちょっとのずるさ? とか間違い? とかごまかし? というのは、お互い受け入れて次気をつけようを延々繰り返した方が呼吸が楽になる、人同士の精神的な面積が広がる。
んじゃないかって、考えている。
これが、嘘がバレても嘘を重ねて雪崩のように嘘をつきだして自分の言ってることが正だって認識してしまうと、嘘に埋まって自分が苦しくなる。
けどなぜ苦しいのかも認知できなくなってしまうから、楽な、他人の指摘が全て悪いんだ、っていうところに逃げてしまって結局埋まったまま苦しいまま、人からも呆れられて……。
なんていうのを、SNSで見るに、思ったから。
だから人を傷つけない嘘はちょこっと持ったまま、バレたらきちんとごめんなさいと、心情をちゃんと言語化して伝えること。
そういう少しのズルさをお互いに許容しながら、歩を進めるのもありってこと。
自身も、気づけたらその都度その都度。
これを読んでくれた誰かも、ここで気づいても遅くない。
遅くないんだよって伝えたい。
ちなみに、私の最近の嘘は……実母に聞かれた何やってたの? に「ぼちぼち掃除してたー」と、サボっていたのに答えたこと☆
実母に我が家の汚さは何も影響しないので、やってようとやってなかろうと、痛手はない、かな?
お後がよろしくないようで、ちゃんちゃん(多分古い)




