別れの時
ラヴェンダーが去った客間では、2人の男が沈黙の中にらみ合っていた。
「アンタ、前にラヴェンダーの店にいた人だよね?」
「おや、礼儀から学ばないといけないな。小公爵様と呼べ。」
ギロリと睨みつけるヘクターと、ニコリと笑うアール。
「何を企んでいる?僕を通してラヴェンダーに取り入ろうというつもりなら、そうはいかな…」
「これだからお子様は困るな。」
ヘクターの言葉を遮ったアールは、やれやれと肩を竦めた。
「この件はラヴェンダーの希望だ。どうやらラヴェンダーにとって、君はとても大事な“弟”らしい。君の身の安全と教育面の支援を切望していたよ。この件を断るという事は、ラヴェンダーの厚意を無碍にするということだ。」
フンと鼻で笑ったアールは、紅茶を一口飲む。
「僕の身の安全と教育面の支援…?」
「あぁそうだ。国家魔道具師の打診を断り続けていたラヴェンダーが、君の面倒を見ると言った途端、二つ返事で了承したんだ。よっぽど弟が心配なんだろうな。」
(僕のせいでラヴェンダーが…?)
「自分のせいでラヴェンダーが犠牲になる、などとは思わないことだ。心配するな。ラヴェンダーの事は私に任せろ。」
アールの挑発的な言葉に、ヘクターは顔を顰めた。
「貴族のアンタが?ハッ!何言ってんの。」
「まぁ良い。せいぜい我が家で学べ。そしてお前が如何にラヴェンダーの足かせになっているか自覚しろ。なぁ、ヘクターよ。」
見下すように不敵な笑みを浮かべるアールを、ヘクターは睨みつけた。
客間に戻ったラヴェンダーは、二人の何とも言えない雰囲気になかなか言葉を発する事が出来なかった。
「ヘクター、今日は一旦戻って荷物を準備しておきなさい。明日迎えをやるからね。貴重品だけ持ってくれば良い。大抵のものはこちらで準備するから。それと、父上は俺の推薦であるラヴェンダーを見込んでこの件を了承している。一目会って行ってくれ。」
「もちろんです。ヘクターを預かって頂くんだもの。」
「どうせならこのまま泊っていく?」
ジロリとアールを睨みつける。
「あはは、さぁ父上の所へ行こう。」
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ユーゴ・バンフィールド公爵は、アールと同じく赤い髪と目の、威風堂々とした姿だった。
髪はオイルで丁寧に後ろに撫でつけ、屋敷にいるにも関わらず正装に身を包んでいる。
背丈はアールと同じくらいだが、ガッシリ筋肉の付いた体のおかげでアールの1.5倍ほどに見える。
睨みつけるように鋭い目は、燃え上がっているように見えた。
「君がラヴェンダーだね。アールから話は聞いている。魔道具も見させてもらったよ。君のような人間が国に貢献してくれることを嬉しく思う。」
「公爵様に認めて頂けて光栄です。この子の件も了承いただいて…」
鷹揚に頷くユーゴ。
「君がとても大事にしているそうだね。ヘクター、良い家族を持って幸せだな。」
赤い目がゆっくりとヘクターの方を向く。
「はい。ラヴェンダーと一緒にいられることが何よりの幸せです。」
どう猛な肉食獣のような視線から目も逸らさずに、ヘクターは挑戦的な言葉を吐いた。
「はっはっは!度胸はあるようだな。ようこそバンフィールド家へ。我が家は君を歓迎しよう。」
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日が沈み始めた頃、二人は再び公爵家の馬車でトートンの街へ戻った。
お互いの自室に入ろうと扉を開けた時、ラヴェンダーは口を開く。
「ヘクターが了承してくれて良かった。とても良い環境で勉強できるし、安全な場所にいてくれるから安心だわ。」
扉のノブをぎゅっと握ったヘクターは、何も言わずに部屋に入ってしまった。
ラヴェンダーも自室に入り着替えを済ませる。
疲れの為かあまり食欲が出なかったが、ヘクターに何か食べさせようとキッチンへ出てきた。
そこにはヘクターが立っていた。
「何か簡単なものを作るよ。」
深いホーロー鍋をグルグルとかき回すヘクターを、椅子に座ってぼんやりと見ていた。
二人は無言で食事を済ませると、各々入浴を済ませ早々に部屋に入る。
(明日はいよいよ、ヘクターが旅立つ日。)
想像すると胸が締め付けられるようで、ラヴェンダーはぎゅっと目を瞑った。
* * * *
地面に小さな両手と膝をついたラヴェンダーは、上を見上げる。
そこには、朝焼けに照らされた金髪に、とろける蜂蜜のような金の目のマントの男が立っている。
“ああ、これは夢だ”とラヴェンダーは思った。
『良いか。侮られたくなければ賢くなれ。他者を軽んじる人間になりたくなければ思慮深くなれ。そして如何なる時も、絶望せず凛として前を向け。』
男の声は、ラヴェンダーの体に染み込んでいった。
ラヴェンダーがいくら口を動かしても声が出ず、男は足早に遠ざかっていく。
* * * *
バッと体を起こすラヴェンダー。
ラヴェンダーの目から、涙が一筋頬を伝った。
落ち着いて見渡すと、そこはトートンの自室だった。
「そろそろ真実を話せという事かしら…。」
窓の外に目をやると、日が昇り始めたようだ。
ノロノロとダイニングへ向かい、コップに入れた水をグイッと飲み干す。
いつもなら先に起きて、ダイニングで朝食を作っているヘクターの姿はそこにはない。
コップをテーブルに置いたラヴェンダーは、何となく書庫に向かった。
既に魔道具店は閉じているし、国家魔道具師の仕事が始まるのは1週間後なので、時間に余裕がある。
書庫の窓際にはヘクターのお気に入りのチェアがあって、窓の枠にはかなりくたびれた一冊本が置かれていた。
何となくその本を手に取ったラヴェンダーは、チェアに腰掛けるとページをめくる。
『勇者ヘクターの冒険記』
これはヘクターの愛読書だ。
元々ラヴェンダーが持っていた本で、書庫にしまい込んでいたのをヘクターが見つけたのだ。
『これ読んでも良いの?』
幼いヘクターは、自分と同じ名前が記された本に興味を持ったようだった。
ヘクターは、こんなにも本が擦り切れるほど読んでいたのだ。
「それ、貸して。」
突然聞こえた声に慌てて振り返るラヴェンダー。
書庫の扉の前に、ヘクターが立っていた。
「おはようヘクター。それって、この本?」
「うん。その本好きなんだ。貴重品だけ持ってこいって言われたから。」
手元に視線を落としたラヴェンダーは、立ち上がってヘクターに歩み寄るとスッと本を手渡した。
「これはあげるわ。むしろ、あなたが持っているべきなのかも。」
本を受け取ると、ヘクターは大事そうに抱きしめた。
「時々見に来るからね。やつれてたら承知しないから。ちゃんとご飯は食べる事。」
昨夜は泣いたのかもしれない。
薄っすらと赤くなった目で睨みつけるヘクターに、胸が締め付けられた。
「分かっているわ。ヘクター、あなたこそ体に気を付けて。」
ヘクターは、本をリュックにしまうと、向きを変えて玄関に向かった。
「それじゃ。」
扉がバタンと閉じられる。
部屋に静寂が訪れた。
これで良かったのだ、とラヴェンダーは自分に言い聞かせる。
「ヘクター。あなたを幸せにするのが私に与えられた唯一の役割だった。でも、むしろあなたが私に幸せをくれたみたい。どうかヘクターの歩んでいくこれからが、幸せいっぱいでありますように。」
神様なんていないと思っていたラヴェンダーは、この時ばかりはと神に祈ったのだった。