3.聖女が王都を飛び出しやさぐれるまでの異世界めいた顛末など。(下)
ファリィは異世界の事を何も知らない。日本で生まれ育ち、30過ぎになって会社帰りにコンビニ寄ったら出口にトラックが突っ込んできてあえなくオダブツ。
その後気がついたらなんか異世界っぽいところの農家の4女として転生していた。
そんでこの世界には魔法がある事が割とすぐに分かって、物心つくころにはあちこちに向けて癒しの奇跡などを振りまいていたら巡行の聖職者に認められ、あれよあれよといううちに教会に引き取られ今に至る。
その間ヘンな聖句を覚えたりとか、聖女の修行みたいな奴はみっちり受けさせられたが、一人で生きるに必要な社会常識とやらはまるで教わった覚えがない。
飯は出されたものを食べるだけだし、お金をもらって買い物したような事もないし、自分の着ている服や寝るためのベッドがどのようにして提供されているものかも全く分からぬ。
勢いに任せて王都を飛び出したはいいものの、どうやって生活していけばよいかもさっぱり想像もつかない。
かといって日本人であった昔の記憶も大して役に立たぬ。
ファリィの前世は一人暮らしが長かったから、ワンルームアパートの掃除や洗濯、炊事くらいはいくらでもできる。
しかして、うっそうと生い茂る森の中で自給自足の生活をする方法など知らぬ。
それならば聖女の能力は何か役に立つかというと、まあ浄化や結界などのいくつかの奇跡や加護は重宝しそうなものの、衣食住の根本を支える力としては弱すぎる。
結界って雨風しのげるんでしょうか。浄化すればそこらの雑草は食べれますかね? とりあえず火を熾したいんですが、聖女の力のどの辺を使えばいいのかな?
なんか多分色々無理があるっぽい。
でもまあ聖女の力は恐らく生きるための生命線になるだろうから、これはぜひとも大事にしていきたい。
だが差し当たり目下一番の関心事は食い物であり、更には今夜の寝床である。
特に食事に関しては早急な対応が必要で、せめて何でもよいから飲み物が欲しい。
ファリィは辺りをきょろきょろと見渡すも、見渡す限りの木々の合間に、食い物になりそうなものはいっさい見当たらなかった。
それどころか飲み水になりそうな沢のようなものもない。
ファリィは途端に心細くなり、すっかり重くなった足をそれでも交互に動かして、ともかく何かめぼしいものを探してひたすら前へと進む。
王都の周りは充分に開拓されているとはいえ、ひとたび森に入ってしまえばそこから先は延々と木々の連なりが続く。中世然としたこの世界で、人類の生存圏は驚くほどに少ない。
街道に沿って切り開かれた田畑は少し外れればすぐにうっそうと生い茂る森へと取って代わり、平野部といってもそれなりの丘や谷が高低差となって現れファリィの行く手を阻む。
ただ、都に近い分それなりに人の出入りがあるお陰で、木々はある程度枝葉が払われ歩きやすくなってはいるのだが、事情の分からぬファリィにはそんな事などさっぱり分からぬ。
蜘蛛の巣に何回も引っかかり、身体中がなんだかべとべとする。大きな体の蜂の羽音に驚き、慌てて飛びのいた際に足を引っかけ転び、衣服にべっとりと土がつく。
むき出しの足元に何かちくりと痛みを感じ、ハッとなって見てみるとヒルらしき生き物がへばりついていた。「ヒッ!」思わず小さな悲鳴を上げたファリィが聖なる力を全身に巡らせると、ヒルはぼとりとファリィの身体から剥がれ、後に残った血吸いの跡が見る見る間に癒されてゆく。
ファリィはその気になれば聖なる力をずっと纏い続けることが出来るから、ヒルや蚊などはこれで防ぐことが出来るようになる。それでも一度覚えてしまった生理的嫌悪感だけはいつまでたってもべっとりとこびり付く。
「あーっ!」ファリィは大声で叫んだが、返ってくるのは野鳥の鳴き声ばかり。
この時点でファリィは自分が完全に間違えた事をはっきりと自覚した。
後先考えずに仕事を辞めて逃げ出して。
でも何の準備もしていなくて。
こういう時、物語の主人公ならどうやって切り抜けるんだろう?
日本にいたときさんざん読んだ、ネットで無料で読める、シロートの書いた安っぽい三文小説の女主人公たち。
例えば追放された聖女がなんか隣国の王子様とばったり出くわしてなんか気に入られてそのままお妃様になったりなんかして。
ねーよ! こんな森の中で王子様との出会いとかねーよ!
つーかそもそも他力本願過ぎんだろ! なんだよ王子様って! そもそもありえねーよ!
あるいはなんか失意のもとに死んじゃって、気がついたら幼少期に死に戻りして、次は間違えないようにコツコツ準備して計算づくで逃げ出して。
いやーそもそも今命を失って確実に死に戻れる保証ってあるんかい? このまま死んでそれでお終いとかだったら泣くぞ!
小心者の自覚のあるファリィにはとてもこのまま死ぬ度胸などない。
「あーっ!」ファリィは再び大声で叫んだが、今度は鳴き声を返す野鳥すらいない。
叫んだところでどうにもならないとファリィは再び歩き出す。
あたりが次第に薄暗くなってゆく中、ファリィは小川のせせらぎを耳にして、音のする方へと駆け寄った。
森が少しだけ開けた場所には木々の間を縫うようにして清流がちょぼちょぼと流れていた。
ファリィは安堵に思わずへにゃりと相好を崩す。
水さえあればとりあえず最低限の飢えは凌げるし、数日以上は生きて行ける。惜しむらくは塩がないので水だけでは先々身体に異常を来たす恐れがあるところだが、そんな心配は後ですればいい。
ファリィは清らかな水の流れに心躍らせつつも、両手でこれを救い口に運ぶと、さっそくごくごくと飲み干した。ファリィの手は森の中で木々などに手をつくことで汚れていたが、なに、浄化の奇跡があれば衛生上は何の問題もない。
ファリィは空腹を紛らわそうと何度も水を口に運んでいるうちに、ふと気づいてしまった。
あたりに森林のオゾンの香りとも清流の瑞々しい香りとも違う、汚らわしい排泄物のにおいが漂っていることに。
ファリィは慌ててあたりを見渡し、少し離れた上流の岩場の上に、獣が落としていったと思しきそれを目にしてしまった。
半分固形を留めた獣の糞は一部が岩場から崩れ、明らかに川の流れるところにまでかかっている。
今ファリィがごくごく飲み干した水は、どう見ても『それ』より川下にあり影響を受けているものと見受けられる。
「お、おえええええっ!」ファリィは反射的にえずいていた。
飲んでしまった! 飲んでしまった! 飲んでしまった!
ファリィは何度も吐き、せっかくたまった腹の中の水は全て川へとぶちまけられた。それでもえずきは止まらず、夜の帳が静かに落ちる中、何度も何度も吐き続けた。
更には浄化の奇跡を何度も何度も何度も、自分の身体に振りかけた。
山の清流などが怖いのがまさにこれである。いかに奇麗に見えても上流に何があるか分からない。特に死骸やら糞やらといった汚物があると、どれほどきれいに見えてもその水は確実に汚染されている。
だから煮沸消毒が欠かせぬのだ。
特に怖いのが寄生虫だ。寄生虫の卵などは菌類などと違ってあからさまに味を悪くする元にはならないため、舌に触れて異常に気付けない場合がほとんどだ。
美味しいからきれいな水だと勘違いして飲んでいると、あっという間に腹の中で孵化して腸内が奴らの住処へと様変わりする。
これを事前に避けるのであれば、地下水が直接染み出している岩清水。あるいは同じく地下水を直接汲み上げる井戸水。
これらは地下経路を辿る中で十分にろ過されている可能性が高いから、まだ安全に口にすることが出来る。とはいえ絶対ではないから煮沸消毒は本来必須ではある。
ところで中世然としているこの世界で、煮沸などといった概念自体がそもそも存在しないから、ファリィが聖女として貴族街に出入りしていたころは何度も寄生虫退治に付き合わされた。
よほど小ぎれいにしている立派なお貴族様であっても、ほとんどの場合が腹の中に虫を抱えているものなのだ。
薔薇の香りを振りまく美しい公爵夫人も、少女と見まごうばかりの可愛らしい伯爵令息も、みな腹に虫を抱えて苦しんでおり、浄化の奇跡でこれらを殺してやるだけでファリィは何度も感謝されたものである。
ただ半年もするとまたお呼ばれされ、麗しの姫君が再び寄生虫に悩んでいる様につき合わされるたびに、ファリィは何度も幻滅させられもしたのだが。
ファリィは彼ら彼女らの事を馬鹿だなあとどこか見下していたのだが、事ここに至っては自分も所詮は同じ穴の狢なのだと思い知らされる。
彼らは衛生概念に乏しいが、ファリィだっておんなじくらいのバカものだ。奇麗な水ひとつまともに調達できないのは彼らも自分も同じなのだ。
それでもファリィは水を飲まなければこの先まともに生きていくことも出来ぬ現状については分かるから、改めてのろのろと立ち上がり、せめてという事で小川を少しばかり上流まで進み、水源地と思しき水溜まりが見つかったのでそこで改めて掬った水を口に含んだ。
何度も浄化を重ねがけし、用心深くゆっくりとすするようにして。
水は本来とても美味しく感じられる味ではあったはずが、先ほどの獣の糞がどうしても頭にこびりつき、ファリィはとても安心して飲めたものではなかった。
夜の帳はすっかり落ち切り、辺りは暗闇が支配していた。
ファリィはへたり込むように近くの岩場に腰を下ろすと顔を上へ上げる。木の葉の切れ目の向こうに広がる圧倒的な夜空は、天井を埋め尽くす星々の輝きに満ちている。
もしファリィの心に少しでもゆとりがあったのなら、きっと美しいと感動することが出来ただろう。だが今のファリィには何の感慨もなかった。ただただ白い光の点があちこちにばらまかれていると、そんなつまらない感想しか思い浮かばなかった。
ファリィはそのままごろんと身体を横たえた。
今日はもうこのまま寝よう。
ごつごつした岩肌はとても気の休まる寝床ではなかったが、それでも厚手の生地で作られた聖女のローブがあればまあ寝れないこともない。
だいたい異世界のベッド事情なんて言うものは綿だの羽毛だのは殆どなくて、木板の上に布を被せる程度か、せいぜいあっても藁を敷き詰めるくらいのものなのだ。だからファリィは固い寝床には慣れている。
だからファリィは岩場の上でもいつものように眠れるだろうと安直に考えたのだが、30分もしないうちにとんでもない間違いであることに気付いた。
寒すぎるのである。夜になり深々と冷え込む中、岩というものはびっくりするくらい冷たくなる。 ファリィは凍える身体に耐えきれずに飛び起きた。
それで、これではいかんとのろのろと動き回り、近くの大木の根元に腰かけるだけのスペースを見つけると、幹に寄りかかる様にして身体を押し込んだ。
これならまあ、何とか仮眠くらいは取れるかな?
だが一瞬の安堵も即座に消し飛んだ。何やらもぞもぞと手の甲を這うような感触があり、思わず目を開けて見てみると、げじげじか何か多足生物がファリィの手の上で懸命にうねうねと足を動かしていた。
「ヒッ!」小さな悲鳴とともに手を払い、聖なる結界の力を最大限に発動させる。ファリィにとって少しでも不快に感じるものを全て押し出す強力な結界。
すると、ファリィを中心にものすごい数の虫がぞろぞろと放射線状に這い出てくる。アリやら羽虫やらバッタやらノミやらげじげじやらダンゴムシやら、とにかくたくさん。
「ひいぃぃぃっ!」ファリィの身体中の毛が逆立つ。ブツブツと鳥肌が立って、訳もなく全身に痒みを覚える。
虫どもはファリィのそばから全ていなくなったが、それでもファリィは自分が座るこの場所がとても安全になったとは信じられなかった。
さりとて他の場所に移動したところで状況はどうせ変わらない。ファリィはどこにも移動できぬまま、全身を駆け巡るおぞけに耐えながらも、まんじりとも出来ぬ夜を過ごした。
永遠とも思える長い夜が明け、やがて朝日が昇ってくる。殆ど一睡もできなかったファリィは、一周回って空腹を感じなくなった腹をさすりながらも諦めて立ち上がる。
近くを流れる小川のせせらぎは美しいが、だがここには食い物がない。
一晩の間にあれこれ考えをまとめたファリィは、川を下って村を探し、駄目もとで保護を頼もうと決意を固めていた。
教会の奴らに捕まると色々面倒そうだが、小さな村ならそもそも司祭などいないところがほとんどだし、ヤバくなったらまた逃げればいいのだ。
ただともかく、例えば塩だとかナイフだとか火打石みたいなものだとか荷物を運ぶリュックだとか水を入れる革袋だとか雨ガッパだとか場合によってお金だとか、そういったものを調達するのに人里に下りなければどうにもならない。
それで、人間の文明は基本的に川沿いに発展するものだから、この小さな川も下っていけば少しづつ大きくなって、どこかで人の住む集落かなにかにぶつかるはずなのだ。だから川沿いを河口に向かって移動するのは賢いやり口であるように、ファリィには思えた。
ファリィは知らなかったのだ。川の脇に沿って移動するのは状況によりけりで、特に起伏の激しい地形では水に濡れた岩場などはピッケルやザイルなどの山登り用の装備があっても危険が高い。
あるいはそうでなくとも、川沿いの植物は発育が悪く密集して生えておりとても先に進めなかったりと様々な困難を伴う。
川を下る発想自体は正しくとも、川から少し離れた場所を並行して歩くような工夫が必要になってくるのだが、サバイバル経験の全くないファリィにそんな知識があるはずもない。
ファリィは濡れた岩場に足を滑らせ怪我を負ったり、沼地にハマって足元がぐずぐずになったり、ある程度開けたと思ったら川辺に群生した背の高い草に行く手を阻まれ前に進めなくなったりとさんざんな目にあった。
おまけに道中で見つけた木の実だの草だの食べれそうなものについては、どれも口にするとやたら渋かったり異様に酸っぱかったりと、とても食べられたものではなかった。
野山の食料は知識のないものにとってはどれが毒だか分からない。下手をしては命を縮めるだけだとファリィは諦めるしか他になかった。
更には飲み水についても苦労があった。
水筒になるものを持たぬファリィは喉が渇くたびに川の水をそのまま飲むしかない。
ファリィには浄化の奇跡があるから、手で救った水の滅菌処理・解毒処理はものの数秒で完璧に出来る。だがしかし、味については何の変化もない。
川の水特有の生臭いにおいと吐き気を催す味はいくら浄化を重ねても変わらずで、しかも下流に行けば行くほど味は悪くなってゆく。
それでもファリィは水くらいしか腹に入れるものがないので、泣く泣く諦めて定期的に川の水を口に含むしかなかった。
最初に見た獣の糞の事などこの際忘れて、クソマズイ川の水で飢えをしのぎつつ、じりじりと川下へと歩を進めるファリィである。
寝不足で頭が回らない中、それでもじりじりと川沿いを移動し、あたりが暗くなったら木のうろだとか岩の影だとか身体を預けて休める場所を探し、座るような姿勢で仮眠をとっては朝を待ち、日の出とともに再び移動を開始する。
そんな絶望的な二日間を経て、三日目の夕暮れ前にそれなりの規模の村落に辿りついた時には、ファリィは安堵のあまり思わず崩れ落ちそうになった。
村は王国内のあちこちで見かけるような一般的な造りで、外周を土魔法で作り上げた土くれの高さ3mほどの壁がぐるりと囲み、その内側に田畑や家々があるものと見受けられる。土くれの壁は魔法の力で固められており、おいそれと乗り越えられないようになっているのだ。
川は壁の下をくぐるトンネルを通じて村の中へ引きこまれていて、穴の途中に木杭で柵が作ってありイノシシなどの獣の侵入を拒んでいる。
ファリィが村の中に入るには壁をぐるりと回って入口を探さねばならないが、壁の周りは安全のため10mほどの幅を開けて木々が全て切られており、空いたところに草がぼうぼうに生えていて、簡単には歩けそうにない。
せっかく村に辿りついたのに、今日のうちに中に入れないのなんて悲しすぎる!
ファリィはいっそこの土壁ゴリ押しで乗り越えてやろうかと悪い考えが頭の片隅をよぎる。
高さは3m程もあるが、なんとなくだが身体強化の奇跡を使えば乗り越えられそうな気がするのだ。
なに、壁の向こう側については心配することはなにもない。この世界の一般的な村の土壁は反対側はなだらかな下り坂になっているのが常なので、ともかく勢いをつけて飛び上がってしまうだけでよいのだ。
よし、やるか!
ファリィは邪な決断をして、直後に慌てて首を横に振る。
いやいや違う、そうじゃない。不法侵入をしてしまうと村人たちはファリィを敵と認識するだろう。それではまずいのだ。
出来ればファリィは彼らと友誼を結びたいのだ。理想は村の片隅に住まわせてもらうことだが、そうでなくとも友好的に食料や生活必需品を分けてもらって、対価として聖女の力を使って彼らを癒すなどして、お互いにウィン・ウィンな関係を築きたいのだ。
その為には正規の手順をもって中に入らなければならない。
ファリィは諦めて外周の外側を大きく回り、どうにか村の入口まで辿りつく。あたりはすっかり暗くなっており、土壁の切れ目になっているところに木で出来た大きな門が備え付けられており、この門は完全に閉まっていた。
思わず舌打ちしそうになるファリィであったが、ここでちょっとした奇跡が起こる。建付けの悪い隙間だらけの木の門扉の向こうから、手に明かりを持った村人らしき人物が近づいてくるではないか。
見回りか何かだろうか? いずれにせよありがたい!
ファリィは逸る心を抑え声を上げる。
「もし! 村の人! どうか門を開けてください! 旅のものです! 中に入れてほしいのです!」
その声を聴いた村人らしき男は足早になって門の前まで駆け寄ってきてくれた。それから門越しに声を掛けてくれる。
「大丈夫かっ!? あんた! このあたりは暗くなるとバケモノが出て危ないんだぜ! よく無事にここまでたどり着けたな……。」このあたりで男の口調が少しばかり怪訝な雰囲気となる。
「……あんた? なにもんだ? 随分とみすぼらしい格好で、まるで着の身着のままって様子じゃないか。あんたほんとに旅の人か? 見るからに怪しいじゃないか。」
扉の隙間から覗き込むようにしてジロジロとファリィを舐めまわすように見つめてくる村の男。
何やら怪しくなってきた雲行きにすっかり慌ててしまうファリィだったが、ともかく弁明を試みる。
「これにはっ! じ、事情があるのです! ともかく中に入れてください! 飲まず食わずで歩き通しだったのでもう限界なのです! もし!」
村の男は値踏みするようにじろりと目を光らせてから、静かにこうつぶやいた。
「銀貨1枚。」
「は?」ファリィは思わず変な声が出た。
「村のもんと縁故のないよそもんは一泊銀貨1枚で受け入れる取り決めになってる。金があるなら入れてやるよ。銀貨1枚だ。」
「は?」ファリィは重ねてヘンな声が出た。もちろん銀貨なんてあるわけがない。だがそれ以前に男の提案は妥当なものなのかすら判断がつかない。
教会では金銭と直接かかわりのない生活を続けていたので、この異世界における貨幣の価値も経済の仕組みもよく分からない。村に逗留するに銀貨1枚が正当な交渉なのかも判断がつかない。
ファリィは頭が真っ白になってしまう。
そんなファリィはしどろもどろに交渉を試みる。
「お、お金は持ち合わせがありません! け、けれどもこう見えて私は神の癒しの使い手なのです! 皆さまのお力になれると思います! どうか休ませてくださいまし!」
必死なファリィに対し、男は無常だった。
「なんかオメェは胡散臭ぇ。わりぃが村に入れるわけにはいかねぇ。残念だがよそを当たりな。」
そう言い残すと、踵を返し村の奥へと戻っていってしまう。
「もし! 助けてください! 中に入れてください! 飲まず食わずで困っているのです! もし!」
ファリィはあらんばかりの声を張り上げたが、扉の隙間越しに遠ざかる男の背中姿はあっという間に闇夜に紛れて見えなくなった。
残されたファリィは。
ファリィは一人、じっとうつむき地面を睨みながら、唇を噛みしめた。
こんなちんけな木の扉、聖なる力で吹き飛ばす事くらいは簡単に出来るだろう。しかしてこの手の扉は大抵、魔術的な防御が掛けられていることがほとんどで、ファリィがこれを壊してしまうと村の入口はモンスターや野盗に狙われ放題になってしまう。
だから扉を壊して無理やり押し入るわけにはいかない。
だからファリィは決意した。
よし。忍び込もう。
今のファリィにはとにかく生きるために必要なものが足りなすぎる。
これを調達するのに最悪盗みを働いたところで今さら良心の呵責も覚えぬ。王都から逃げ出したのはせいぜい3日前だが、それ以前の2年の従軍でファリィもそれなりに酷いものを何度も見せつけられた。
日本に住んでいたころのお花畑思考はとうの昔に捨てた。
よし。盗もう。
ファリィは自らに身体強化の聖術を施すと、3mもの高さの土壁をひょいっと楽々飛び越えた。
やさぐれ聖女のやさぐれ生活の始まりである。