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一章 アムネシア

 暗闇のなかに、煌々と輝く二つの球体が見えた。一つは赤黒く、一つは金色だ。それが何物であるかを意識することもなく少女は理解する。これは月だ、と。重なり合い、ずれ始めている月の周囲で無数に輝く星々を眺め、自分は今、夜空を眺めているのだと気がついた。


 自分、という意識だけが、ただそこにあるような。実体のない感覚。瞼を開いた覚えもなく、身体の感覚もなく、濃紺に彩られた夜空だけが見えていた。指先を動かしてみようとかすかに指を動かしてみて、ようやく身体があるのだと言うことを実感し少女はそろりと上体を起こす。


 あたりは空以上に深い闇だった。二つの月に照らされた木々のシルエットと、地面に触れている下半身に伝わる感触から、深い森の中なのだと言うことが知れた。やわらかい草地なのだろう。雨が降ったあとなのか、葉がしっとりと濡れていたが、身体に触れてみると着ている洋服は濡れてはいなかった。


 深い闇を一時、ぼんやりと見つめる。しだいに心に感情が戻り始めると同時、草木がざわりと音を立てた。一瞬にして張り詰める緊張感。不快な鼓動が一つ。はやりはじめた心臓の音とともに恐怖が全身に広がり始め、音を立てることさえ怖くなってしまう。自分はなぜこんなところにいるのだろう。ここはどこなのだろう。いったいなにがあったのだろう。思考しかけて。思い至るのは、何も思い出せないと言う事実だ。


 わからない……。何も。頭に衝撃を受けた、ということなのだろうか。考えてみても、思い出すことはできなかった。ただただ名前だけがある。アリス、という名前だけが今持てる全てだった。


 まずは現実を受け入れなければならない、とアリスは胸に手を当てて深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。とりあえず自分について深く考えることをやめた。それから、どうすればいいのだろうと思考してみて、今暗闇のなかで闇雲に森の中を歩き回るよりも、この場所で息を殺し、陽が昇るのを待った方が良いという判断をする。森の中であるということは、生物が潜んでいる可能性があり、危険な生物と遭遇した際に逃げれるだけの足下の安全性も確保できる状況ではなかった。せめて火を焚きたかったけれど、ポケットの中を探ってみても、火をつけられるような道具は持っていなかったから、今できることはそれしかないように思えた。仕方なくアリスは樹木の根元に移動して、腰を下ろし、蹲る。


 何も思い出せないけれど、こことは違う世界にいたような感覚だけはあった。だから、この世界に朝というものが存在するのかもわからなかった。陽は昇るだろうか。明るくなったら、とりあえずどうしようか。方角もわからないだろうし、歩き回ってみるしかないだろう。水と食べ物の確保が安全性よりも優先だ。


 違う世界に来たということは、自分を捜索している人間がいるとは考えにくかった。まずは数日この森の中で迷いながら出口を探す必要がある、とアリスは思考していた。たぶん、自分は今までこういう経験をしてきたことがないのだろう。身についた知識というものがなかったから。陽が昇ったら感覚任せに川沿いを歩くことを決めて目を閉じた。






 眠るというよりは、思索にふけるようなまどろみだった。レム睡眠と呼ばれる中途覚醒状態が何時間も続き、とりとめのない支離滅裂な夢が頭の中で動き回っていたが、陽が昇るのを感じてアリスは瞼を持ち上げた。


 この森の中に生物が存在しなかったのか、単に運がよかったのか、何者にも襲われることなく夜を生き延びることができたことに安堵する。ゆっくりと立ち上がり、怪我がないことを確認する。着ている洋服の上着も脱いで確認してみて、これは制服だ、と思った。深緑色の丈の短いブレザーの内側に、どうやらコーヒー色の丈の長いカーディガンを着ていたらしい。スカートはブレザーと同じ色の地に黄色いラインが入っていた。赤い髪を左耳の上で団子にくくったアリスにはとてもよく似合っていたが、アリス自身が認識できることではない。自分はどこかの学校に通っている生徒だったのだな、と推測し、やはり思い出せずに、アリスはぼんやりと思い至る。おそらくこの記憶の喪失は、知識の喪失ではないのだろう。思い出の喪失なのだ。


 アリスは歩き出し、森の中の拓けた草地を進みながら注意深く観察していった。まずは川を探さなくてはならない。先へ進むほどあたりが明るさを増していく。太陽の下で見る森は静謐でいながら、夜よりもずいぶん穏やかな場所に見えた。優しく駆け抜けていく風で草木がわずかに揺れている。橙や紫、桃や黄色の見たことのない花があちらこちらで咲き乱れていて、森の中は存外色彩豊かだった。思わず見とれて立ち止まっていると、背後で草木が大きくざわめいた。


 緊張し、瞬時に振り返る。そこにいたのは見たこともない生物だった。


 金色と銀色の蛇のような頭が二つに、巨大な翼。脚は恐竜のような筋肉質な腿にかぎ型状の爪を生やしていた。目だけが爛々と赤く、舌がちょろちょろとでたりひっこんだりしている。それを見るなり、アリスは恐怖で固まってしまった。喉元で引きつったようにとまってしまった悲鳴を飲み下すこともできず、死ぬ、という危機感と恐怖だけが爆発的にせりあがってくる。幸いまだ目は合っていないようで、気付かれないうちにどこかへ隠れようと、数歩ずつ後ずさりした。それ以上、どうしたらいいのかまったくわからなかった。走ったところで刺激するだけかも知れないと思うと、むやみに駆け出すこともできない。ゆっくり距離をとりながら今できることは何かを思考するだが、鼓動が激しくなるに従い、思考が乱れてうまく答えが出せない。


 じりじりと後ずさり、距離を取ろうとしているうちに、金色と銀色の頭をした化け物にアリスは気づかれてしまった。それは怯えている彼女の心理を察知したかのように唐突に耳をつんざくような奇声を発して騒ぎ出した。アリスの心臓は大きく跳ね上がり、悲鳴となって口から飛び出した。


「いやぁ!来ないで!」


 取って食われる、と身がまえたが、うすらと目を開くと、化け物はすぐに襲っては来ずに騒ぎ続けていた。それを見て、アリスは瞬時に犬の遠吠えを思い出す。恐怖が臨界点に達していた彼女は反転し、転げるように前方へと駆けだした。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。走って、走って。走るほどに心臓の鼓動は激しく胸を打つ。息が上がり、吐き気がしてきても、止まることはできない。だが途中で脚がもつれ始め、ついにはしたたかに地面に身体を打ち付けてしまう。転倒し、顔を上げた視界に広がっていたのは狭く入り組んだ木々の群れだった。もう駄目だ。もう、助からない。どこにも逃げ場なんて。  


 絶望に目の前が暗くなった刹那、翼のある化け物だから上空から襲われる危険もあるのだということにふと思い至る。同時にひらめく、樹木を使えば良い、という直感的な答え。


 樹木ならば。もしかしたら。


 化け物の巨体の障害物となり、上空からも地上からもわずかながらに身を守ってくれるかも知れない。


 急いで立ち上がろうとしたアリスの反応に、奇声を上げた化け物の鋭いかぎ爪が襲い来る。重たい衝撃に地面が地響きをあげ、爪が地面をえぐったそのわずか半歩先にアリスは間一髪転がり避けて、無我夢中で立ち上がり、森の中へと駆け込んだ。


 ※


 聴き慣れたオルゴールの音が鳴り響いて、ジェイはベストのポケットからアンティークな懐中時計を取り出した。細かな意匠を凝らされたその蓋を開けると、蓋の裏側は鏡面になっていた。鏡面には、銀色の長髪に、横髪をゆるく青い宝石で括った人物が映り込んでいた。外見からは女性か男性か判別がつかない中性的な人物であったが、その薄い唇が開いた。


「9784115369284。アリスは、ロレッカの森の中腹から急速に北東に向かって移動している。このエリアに多く生息する魔物の情報は必要か?攻略が必要な場合にはフェアリーに情報を運ばせよう。アリスを保護し次第、カレルノ地方にあるマグバーレンという街に滞在後、世界図書館まで連れてきてくれ。お前が一番近い。頼んだぞ」


 簡潔に必要な情報だけを話し、鏡面からその人物は消えた。声は男性のものだ。シルディーナ、という名の彼は、魔法省という部署に所属しており、Jとは職務上連携関係にあった。Jは彼の話を聞いたあと、ポケットに懐中時計をしまいこみ、走り出した。


 Jがいるのは、まさにアリスのいるロレッカの森の中腹だったのだ。先ほどの彼とは常に連絡を取り合いながら、アリスを保護するために探し回っていた。この森の魔物はそれぞれのレベルでいえばそれほど高くないのだが、仲間を呼び合って群れで襲ってくる特徴があった。Jは魔物がざわめく気配を感じ取り、気配を追いかけるようにして先を急ぐ。異世界から訪れる人間のたいていは丸腰で、戦う術を持たない。発見が遅れたことで命を落としたケースは今までにいくつもあった。


 走る詰めるJの真横からふいに紫色の目をした二角の巨大なウサギの魔物が二体飛び出してくる。急いでいるときというのは、どうにも物事がスムーズには運ばない。Jはウサギの懐まで一気に入り込むと、刹那、あらかじめ自身の身体にかけてあった反発魔術に対して魔術道具を用いた。


 呪縛の魔術道具だ。本来ならば、罠を張り、そこに脚を踏み入れた魔物を捕らえるという道具なのだが、それを彼はあえて反発魔術をかけた自身に向けて使う。一気に入り込んだ敵の懐で使うことによって、罠を仕掛ける手間、時間、エネルギーの消費を抑えることができるからだ。


 魔術の反発によって呪縛に捕らわれた一体目の二角ウサギを隠れ蓑にしてJは二体目の攻撃を防ぐ。その巨体が邪魔で二体目の二角ウサギの攻撃は届かない。それならば、と正面に回り込もうとする二角ウサギの眼前に、Jは大腿に装備したガンベルトから抜き取った銃で閃光騨を撃ち放った。辺り一面に強烈な光りが走り、白く塗りつぶされる。その白色の世界の様子が反発魔術をかけてあるJには変わらずに見えていた。視覚を奪われた二角ウサギの肉体に腰の鞘から引き抜いた刀を突き刺す。森中に響き渡る咆吼。痛みに崩れ落ちる二角ウサギの巨体を一気に引き裂くことはできないと判断したJは身を引きつつ腕を切り落とした。ふたたび放たれる魔物の咆吼を耳にしながら、Jは呪縛の制限時間を計算していた。コストを削減し、ハイペースで魔物を追い込んだため、かなり時間に余裕がある。これなら魔術が行使できるだろう。地響きをあげて地面にたたきつけられた二角ウサギと捕捉されている二角ウサギ、二体の魔物に向けて、Jはゆるりと手の伸ばす仕草をした。唱え始める呪文は魔術構築のための補助。脳内に描き出すのは魔方陣。円を描きそのなかに魔術を構築する〈指示〉となる紋様と数式を描きこんでいく。この魔術公式を組む段階に時間が必要となるため魔術を行使する者たちの多くは、一人では基本的に旅をしないのだ。冒険者を雇い、冒険者に盾の役割を引き受けてもらいながら術を行使する。もしくは罠を張る形で術を行使する。Jは異例であった。


 構築した脳内の魔方陣は、中心の魔素―力を借りる根源―を決定することであとは発動させるのみとなる。

 Jは最後の魔素を決定し、発動の呪文を唱える。

「モルド・ヴィラ・エルスファンエルス……」


 二角ウサギの周囲に魔方陣が浮かび上がり、輝きを帯びた。同時に地面から鋭くギラついた無数の氷の槍が出現し、魔物たちの肉体を勢いよく串刺しにした。槍が消失し、無数の穴から大量の血を吹き出した二角ウサギが激しい地鳴りとともに地面に倒れ込む。けれど今は確認する時間も惜しい。Jは再びアリスがいるだろう方角に向かって走り出した。



 歩を進めるごとに魔物の気配が濃くなっていくから、方角は間違いが無いのだろう。問題はどれくらいの数の魔物が集まっているかどうかだった。数分先へ行くと魔物の騒ぎが大きくなった。もうすぐそこなのだ。木々の密集した中へ入り込み、ようやくJは赤い髪の少女を発見した。アリスという少女の運が悪かったのか、よかったのか、幸いにして大物三体以上の群れはまだできていなかった。


 アリスが魔物の視線を引きつけているうちにJは遠間から魔術公式を構築する。しかし大物三体の魔物はアリスに集中しているが、小物四体がJの存在に気づいた。大物の数は少ない方だとはいえ、小物の魔物も厄介であった。リスほどの小さな魔物なのだが、このチルミィという名の魔物はグループで人を襲う傾向があり、精神干渉能力を持つ。歌を歌うことで対象の気力を奪い、恐怖という感情を植え付けてくる。反発魔術の効果が効いている状態のJには効かないが、本来ならアリスには有効なはずだった。Jはアリスを一瞥すると共に瞬時に観察し、よくこの状態で彼女は耐えていたものだと感心した。アリスの今の状態は、目の前の大物によって恐怖が臨界点を達しているだろう。そんな状態で気力を奪われれば絶望し行動できなくなるかパニックを起こし思考が停止する。けれど彼女は木々を盾に、大物であるシェリデンという魔物の攻撃を防ぎながら少しずつ後退していた。おそらく、彼女に何か計算があるわけではない。生きる意思の強さと諦めない心がそこにあるだけなのだ。


 Jの反発魔術の効果によって逆に恐怖状態になり行動不能になったチルミィのグループを無視してJは頭の中で魔術の公式を描いていく。中心の魔素を決定したところで、発動の呪文を放つ。モルド・ヴィラ・エルスファンエルス。彼の静かな発声と共に強烈な刺激臭と煙が辺り一面に立ちこめてアリスとJの存在を魔物たちから隠した。反発魔術の効果が持続しているJの他は、どこに何があるのかさえ見ることができない。当然ながらアリスも何が起きたのかわからず煙の中を呆然と見つめたあと、走って逃げようとした。その腕を引っ張り、抱き寄せて口を塞いだJは「……し。声を出さずに。このまま大人しくしていてください」アリスの耳元に声をかけ、うなずいたのを確認してから彼女の体を横に抱き上げた。瞬間、アリスの口から息を詰めたような音が聞こえたが、かまわず、走り出す。刺激臭と煙の濃さでしばらくの間、魔物たちはこちらの居場所を特定することができないだろう。



 アリスを地面に下ろしたのはかなり下まで下山してからとなった。Jは安全だと確認できる場所まで来てから、シルディーナに連絡を取った。懐中時計の蓋裏の鏡面に映し出された青年の姿を見てアリスは驚いていたが、人物に驚いたのではなく、おそらく蓋の裏が通信機器となっていることに対してなのだろう。シルディーナにアリスの保護を報告し、街に向かうことを伝えると、彼は安堵の表情でアリスの姿を確認し、無愛想ながらも「安心するといい。その男はお前を助けるためにそこにいるんだ。共に街に向かえ、詳しいことはその男に聞けばいい」とJに全てを丸投げして通信が切れた。


「……自分では何も説明しませんか。……いつものことですが」


 小さく吐息をついたJに、アリスが頭を下げる。


「あの、助かりました。どうもありがとう」


 ぎこちない表情を浮かべて礼を言うアリスの様子を見て、先ほどまでよりはいくぶん落ち着いたようだとJは判断する。抱きかかえていたときは歯の根がかみ合わず、震えが止まらない状態だった。記憶を失った異世界来訪者――通称アムネシアが、あんな状況のなかを助けが来るまで乗り切ったのだ。無理もなかった。迫り来る死を前にして生きる希望を失わない強い少女だと彼は感じていた。


「……いえ、彼が言っていたように、僕は君を保護するためにここにいるんです。何もわからない中、よく頑張りましたね……」

「保護?」

「そうです……この世界には君のように記憶を失い、別の世界から訪れる人間が大勢います。珍しいことではありません。僕たちは、君のような人々をアムネシアと呼び、保護して、失った記憶を探すのが仕事なんですよ」


 失った記憶について何かを知っていると思ったのだろう。アリスは慌てた様子でJの腕を掴み、身を乗り出して「どうして記憶がないのかを知っているの!?」と聞いてきた。でも、Jは首を横に振る。「原因は調査中ですが、君たちアムネシアのことに関しては、一〇年以上経た今も解明されてはいません……わかることと言えば、満月が二つ重なるとき、世界をつなぐ扉が開く、ということだけです」


 Jの静かな声に、アリスは希望を失ったように視線を落とす。けれどそれからもう一度、何かに気付いた様子でJの目をまっすぐに見据えた。


「記憶を探すって、言った、よね?この無くなった記憶は取り戻せる……ってことなのかな?」

「そうです」Jはうなずく。「君の記憶はこの世界に散らばってしまったもの。取り戻すことは可能です。……案内したい場所があります。ついてきてもらえますか?」

「……」

「……怖いですか?」


 命を助けてくれた人間に対して警戒している、ということを申し訳なく感じているのかも知れない。アリスは黙り込んだまま、手を固く握りしめたまま胸元に添えて、うつむいてしまった。おそらく彼女にとってはまだ安全だとは言いがたい状況なのだ。Jとしてもそれは想像に難くないが、アリスはなかなか慎重な人間なのだと言うことを知った。命の危機を感じたあとだからこそ、人は助けてくれた人間に対して警戒心を解きやすいものなのだが、彼女はまだ警戒を解いてはいなかった。


 黙り込んでしまったアリスを見つめたのち、Jはゆっくりと歩き出す。


「わかりました。君が安心できるかはわかりませんが、僕たちの職務、所属する機関、そしてこの世界のことについて歩きながらお話ししましょう」


 Jは振り返らない。保護することはJの職務のひとつでもあるが、それ以前に生きる道を選択するのはアムネシア自身だ。アリスが選択する道に任せるつもりで、アリスの先を歩む。アリスもその様子で決断したのだろう、「ありがとう」と言って駆け足でJに追いつき、横に並んだ。


 ひとまず森を抜け、街道に出て、石畳でできた路面を踏みしめながらJは訥々と語り始めた。


 ※


 この世界は、アルマティカという世界なのだという。神様がいて、この世界に存在する書物と記憶を管理している。神様に記憶と書物に関する仕事を託されているのが世界図書館という機関で、彼はその世界図書館の中の探索司書異世界担当者という地位についているという説明をしてくれた。

 彼の主な仕事は、世界中をめぐり異世界者たちの失ってしまった記憶を取り戻すことだという。異世界者というのは、この世界に入り込んだ時点で管理番号が与えられ、この世界の一員として認識されるが、未だ解明されていない二つの月の影響で記憶が砕かれ、それらが世界中散らばってしまうのだと言った。その記憶の欠片の場所を探知、特定できるのが彼のいう探索司書異世界担当者なのだそう。

 彼の所属する世界図書館は、そんな異世界から訪れる者たちを保護し、この世界で生きていけるよう支援したり、記憶を取り戻す手伝いをすることを役割のひとつとしていらしい。アリスは話を聞きながら、素直にそれを受け入れ、記憶を取り戻せるなら取り戻したいという意思を彼に伝えた。彼の話を聞いて、自分の名前を知っていたことも合点がいき、そこでふと、アリス自身は彼の名前さえ尋ねていないことに気がついた。


「あ……、と、ごめんなさい!自分のことで精一杯で、あなたの名前も聞いてない……!」


 慌てて謝るアリスに、Jが立ち止まって微笑する。口元だけが笑っているような、独特な笑みだった。 


「J・フェルディンと言います」

「Jくん、でいいかな?」

「はい」


 彼の声は、どこまでも穏やかで冷静だ。説明を聞いているときから、心を落ち着かせるような声質だと思っていたけれど。名前を聞いてようやく、最後まで残っていた緊張の糸が緩むのを感じた。やはり何者かわからない、素性が見えない人間より、名前のある個人という認識の方が人は安心できるものなのかもしれない。細められたJの穏やかな緑色の目に、出会った当初に受けた印象よりもずっとやわらかな印象を覚えた。

 アリスは、Jと出会ってから今まで彼を作り物のようだ、と感じていたのだ。それはあまりにも彼の雰囲気が異質だったからだ。彼の容姿はしっかりとした体型ではあるが、中性的なものだ。鏡面に映し出されていたシルディーナという男性もそうだったから、この世界には多い傾向の顔立ちなのだろう。紫色のアシンメトリーな短髪と切れ長で穏やかな緑色の目。紅く色づいた薄い唇。それ自体はアリスにとってそれほど関心のないものだった。でも、Jはシルディーナと比べても、人間味を感じさせないようなところがある。綺麗だ、と表現できるくらいに孤独で、どこか浮世離れした異様な雰囲気を彼は持っていた。


 失礼ながら、正直なところ、少し怖かったのだ。少々のことで怒り出すような風には見えないし、残酷そうな人物にも見えなかったのに。人間ではありえない底知れないものを持っているような浮世離れした雰囲気が、アリスに緊張感を与えていた。


 アリスは内心ホッと息をついて、かすかに笑う。


「よろしくお願いします、Jくん」

「はい」


 心なしか、Jが先ほどより深い笑みをたたえてこちらを見ているような気がしたけれど。


 彼が歩みを再開し始めたので、アリスも置いて行かれるまいと慌ててあとを追った。


 一緒に歩き出してからすぐに気づいたことの一つに、Jの歩く速度が意外と速いということがある。そして彼は、歩調を合わせる気がない。女性と一緒に歩いたことがないのか、彼の性格の問題なのかはわからないけれど、Jはついてくる気のない人間を置いていってしまうような気配があった。とはいえ、アリスには異性と付き合った記憶さえないのだ、どんな男性が一般的かなどわからない。素直に男の人はそういうものなのかとその感覚を受け入れていた。


 今は彼以外に頼るものがないのだから仕方がない。でも。


 しばらく歩いたところでとうとうアリスはJに声をかけた。


「あ、あの、Jくん。ちょっと待って」


 アリスはすこし駆け足気味にJに追いつき、彼のジャケットの裾を掴んだ。裾を引っ張られ、立ち止まったJが振り返る。


「はい……どうかしましたか」

「あの、ごめんなさい、Jくん、足、速くって。わたし、さっきから追いつくのがやっとで……」


 アリスはすこし息が上がっていた。


「ああ……」とようやくJが気づいたようにうなずいた。「すみません……速いですか。一人で旅をしていると自然と無駄なエネルギーを消耗しない歩き方になってしまっていて……つい」


 ううん、とアリスは首を横に振る。


「Jくんの速さできっと旅をする人たちは普通なんだよね。ペースを乱してごめんなさい。でも、わたしJくんに置いて行かれるんじゃないかって不安で」


 大丈夫ですよ、とJは口元に笑みを浮かべる。


「先ほど話をしながら君に手渡したものを覚えていますか?」

「え?うん」


 一緒に歩き始めてすぐにJがくれたものがあった。小さなまるっこい鈴だ。歩き回っても音が鳴ることもなく、彼がなんの効果も教えてくれなかったために、ただ制服のポケットにしまいこんでいた。


 いったいなんだったのだろう、と改めて鈴を取り出し、アリスはJにそれを見せた。


「この鈴?」

「そうです。それは僕とアリスをつなぐものになっていて、僕が離れようとすると、君が引き寄せられる仕組みになっているものです。結界の役割も担っていて、どちらか、あるいは両方に危険がせまったとき、両者の脳内に鈴の音を届ける役割を持っています。この鈴を持っている限りは、置いていくことも、置いて行かれることもありません。そういう魔道具の一つです。お守りだと思ってもらえればわかりやすいかと……」

「魔道具?」

「アリスの世界には魔術という概念がなさそうですね。アムネシアの記憶喪失は知識の記憶喪失ではないので」

「うん、そう、なんだと思う。Jくんって魔法使いなの?」


 Jが考え込むような表情で口元に指を当てる。


「どうやら、アリスの世界にも魔法、魔術、と言った概念はありそうですね……。魔術進歩がないと言うことなのだろうか?」


 最後は独り言のように呟いた。


「僕たちの世界――このアルマティカには、魔術という概念と発達した能力が存在します。複雑な魔術においては人間しか行使できませんが、魔術開発というのが進んでいて、道具のなかに魔術公式、と呼ばれる、仕組みを構築することができるんです。道具はその仕組み表のなかにある指示に従ってあらゆる効果を発揮します」


 アリスはうう、と頭を悩ませたあと、ようやくのこと、一つの言葉を絞り出す。


「つ……つまり。プログラムってことなのかな?」


 伝わらないだろうか、と不安になったけれど、どうやらJに伝わったようだ。Jがうなずき、


「そうですね。そちらの世界ではプログラムという言葉が一般的のようです」ですが、と言葉を続けた。「こちらの世界ではプログラムというのは機械の設計にのみ使う言葉になりますね。魔術構築、という概念は、機械ではなく、世界そのものに干渉するプログラムと言える。世界の一部にこちらが作った仕組みを干渉させ、現出させる力のことです」


 魔術の概念自体を知らず、魔術を見たこともないアリスにとっては難解な話だったが、なんとか飲み込むことができた。つまり、世界そのものに干渉するプログラムを魔術、と呼んでいるのだろう。この世界は、世界そのものをプログラムすることができるということなのだ、と理解して、アリスは目を輝かせた。恐怖も喉元すぎれば熱さを忘れる。不安もないではないが、胸が躍るのも感じていた。


「Jくん!その魔術は、わたしも使えるようになったりするのかな?」

「勉強次第ですね。時間はかかりますが」


 アリスは嬉しくなって、やや興奮気味に現状を噛み締める。その様子を見ていたJは穏やかな瞳をすこし丸くして不思議そうな顔をしていた。


「さあ、おしゃべりはこのくらいにして街へ急ぎましょう。引力鈴がありますから、無理に追いつこうとしなければ自然と負担なく僕に追いついてこられます。陽が暮れ始めているので、賊の動きが活発化する前に街に到着したいところです」


 言われて顔を上げて見て、空一面が橙色に染まりつつあることに気がついた。賊とJは言ったけれど、この世界には盗賊も多いのかも知れない。アリスは言われたとおりに自分のペースで歩き始めた。


 ※


 目的地に到着したのは、空が完全に濃紺の帳に覆われたあとだったが、賊に襲われることもなく、無事にたどり着くことができた。もしも賊に襲われJが死んでしまったらこの先どうなるのだろう、という不安にも時折襲われたものの、アリスの本質は前向きだ。心配事を深く考えるよりも今できることを精一杯やろう、と歩き続けた。


 Jの言ったとおり、無理に彼に追いつこうとしなければ引力鈴という魔道具は実に負担なくアリスをJのもとまで運び込んでくれた。彼の背中が小さくなったなと感じるところまで行くと、アリスは自然に彼の元へと吸い寄せられていく。歩き疲れて自力で歩けなくなったあたりからは、引力鈴の力に頼っていた。


 アリスは木の香りに包まれた温かな部屋へ案内されると、ふかふかとしたベッドの前まで歩き、どさり、と身体を横たえた。


「引力鈴を使ってもだいぶ疲れたようですね」


 背後からJの穏やかな声追いかけてくる。木製の床を軋ませながら、Jがアリスの横たわるベッドの前をを通り過ぎ、隣のベッドへと移動する。寝台がふたつと、テーブルが一つ。椅子が二つ配置されている程度の、けっして広いとは言えない簡素な作りの部屋だったけれど、アリスはそれだけでもう充分だった。あの危機的な状況から脱し、さらに眠る場所がある。それだけで。


 アリスは疲れ切り、ベッドの上から身体を動かすのも困難な状態にあった。その横でJがジャケットを脱いで椅子にかけ、ベストを脱ぎ、シャツのボタンをはずしていく。ぼんやりとその様子を眺めていたアリスはJがネクタイを外し、シャツを脱ぎ捨てたあたりでぎょっとした。


「ま、待ってJくん!どこまで脱ぐの!着替えるなら、わ、わたし部屋からでたほうがよくないかな!」


 半裸のJが、ふと気がついたというような表情で振り返る。


「ああ……そうでしたね。気になりますか?」


 Jの回答はどこかずれている。年頃の娘がこんな間近で男性の裸など見たら普通は動揺せずにはいられないではないか。そもそもいきなり年頃の娘の前で服を脱ぐだなんて。警戒心だって抱かずにはいられない。


「Jくん着替えるなら、わ、わたし部屋の外で待ってるよ!」


 頬を紅く染めて慌てて立ち上がるアリスから視線すら外し、鞄の中から紙切れを数枚出して、指をスライドし始めたJは、「そうですね。気になるようでしたらそうしてください」と言ったきり無言になった。


 アリスはJのマイペースさや無頓着さにやや苛立ちを覚えたけれど顔には出さなかった。今、彼に嫌われてしまうわけにはいかない。生き延びるためには、彼の力が必要なのだ。そう自分に言い聞かせ、部屋の外へと飛び出した。できるだけ彼の機嫌を損ねないように静かに扉を閉めて。







 


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