A82EP3:自由の操舵手
アナグマの技術部が集まる工房から少し離れた位置に、キノコ専用の小工房がある。名目上は旧工房のはずでも特別な理由もなしには大きい方が有用なので、実質的な専用だった。今は看板を改めた。ミクロコスモスの解析のため、何日も篭りきりで作業している。たまに誰かが水と食糧とお菓子を運び込み、ついでに経過報告を含む伝言を交わす。
その役目をノモズからキメラへ任せる日が来た。ミクロコスモスの解読がそろそろ終わる。文章にして石碑に刻み、大聖堂の中央に置く日を知らせる。一般公開を以て復興の仕上げとする。
「キノ、入るぞ」
扉を押し開け、配膳台を引いて入れる。キノコは椅子で休憩中なので、正面に置く。すぐに食べられるように。小さな体でも、膨大な情報が渦巻く中でたった一人で向き合い続けた。器はあまりに大きい。
「キメラおねえちゃんだ。いい所に来てくれた」
普段の元気がなかった。つい数日まで作業の合間に外で元気な姿を見せていたと聞いている。ならば理由は新しい情報にある。別の椅子がないので、キメラはしゃがんで目線を合わせた。
「見たくない何かか」
「うん。本当かどうかはわからないけど」
内容を記した紙の山からひとつを渡した。本文と注釈によると、ミレニアとミクロコスモスが別の思考を持っていながら境界が曖昧になりつつある部分らしい。アナグマも他人事ではない。共同体は思考が似る。どこかで問題が起こる可能性は大いにある。
「もっと下のとこ」
示した内容はごく短く、また明らかだった。ミレニアのクローンの子孫のうち一人がキノコである可能性を示唆している。体の小ささにも説明がある。どこかの段階で成長が止まった例が並んでいる。
「きのがさ、もしこれから問題を起こしたら」
「大丈夫だ。私がいる。ノモズもいる。技術部のあの、仲がいいあいつもいる」
「セイカさんね」
「キノは大丈夫だ。これからも選べる。こいつに対して選んだように」
残骸になったミクロコスモスを見下ろす。小分けになった部品のそれぞれがコードで繋がり、キノコが用意した機器が内容を読み取る。選択肢はどこにでもある。見落としているだけだ。コードを切断してもいいし、繋ぐ数を増やしてもいい。部品を破壊しても、修理しても、拡張してもいい。これまで集めた材料すべてが候補にある。
「もし迷ったら相談しろ。まずは何を相談したらいいかわからないと相談しろ。キノにはそれができる」
「きのなら。そうだね」
紙の並びを整えた。迷いのひとつを振り切れた。選んだ者は自らを全うする。選べなかった者が見れば略奪も同然だが、消滅よりは残るものが多い。今日を生きたものもやがて別の誰かに明け渡す日が来る。未来へ渡せるものを増やすために業ごと引き受ける。気づいても気づかなくても、受け継いできたすべての業を抱えている。気づいたら重荷として投げ出す者もいる。抱え続けられる者になれ。
「きのならできる。きっと、ずっと」
キノコは立ち上がる。椅子にキメラを座らせて、その膝に座り直す。いつもと同じく頭を撫でた。作業続きの頭は脂が乗っていた。
「この後はお風呂に入ろうな。流してやる」
「やったあ! キメラおねえちゃんすき!」
はしゃぐ頭が下顎に当たりそうで、ぎりぎりで避けた。
「ところでキノ、ひとつ気になる話がある」
「なに?」
「アズートが採取した山頂付近に外来種が咲いてたそうだ。本来は適さない環境らしい。それを改めて確認したら、その一面の花はまるごと枯れていたんだと」
キメラは配膳台の下を示した。
「オオハルシャギク。あいつが好きな花だ。オリジナルも同じかはわからんが。私はどことなくミクロコスモスを失った結果な気がする。歪んだ因果が元に戻ったわけだ。予想だがな」
ミレニアへの黙祷。キメラは誰にでも欠かさない。供養はしてやる。もしキノコが本当に血縁者ならば、名実ともに大聖堂の中央にいる。実質的に一番いい場所だ。
「キノもだぞ。これから変わるかもしれない。現に今、大きくなってる」
これまで伸びなかった背が伸びた。キノコにとって、新たな可能性の象徴になる。
キノコは立ち上がり、目と同じ高さに見える範囲を比べて回った。机、ドアノブ、キメラの腰。
次へ移るごとに顔の明るさが増していった。
(了)
最後までありがとうございました。
次回作にもご期待くださいな。