A79B09:最後の審判 / 逸脱者の秩序
キノコは今、すべてを遠く感じている。森林にいながら木々は目に入らず、野次馬が集まれども人は目に入らず、目立ちすぎる亡骸も背景のひとつになる。仲間たちの声だけがよくわかる。キメラとノモズが重要な話をしていて、その行く末はキノコ自身に懸かっている。
「過去を失ってはいけません。解体し保存するため、キノコさんに頼み込みます。どうかよろしくお願いします」
「キノは保存してもいいし『不本意な失敗』で壊してもいい。キノの意思が最優先だ。他の誰も指図なんかできない。アナグマだけじゃないぞ。世界の総意ですら、キノひとりに跪く」
視線がキノコに集まる。キメラも、ノモズも、やや遠くからクレッタと各国の要人も、景色に溶け込んだヨルメも。文句を言うにはキノコは活躍しすぎた。自分でもわかっている。背負う覚悟がある。あったはずなのに。
「キノコさんに従います。そこは同意します。ですが決して、責任までは押し付けません」
「それは私も同意する。キノだけじゃない。私が背負うにもでかすぎる。ノモズもだろ」
「平気です」
「強がりだな。助かるが」
「強がりだろうと、言葉にしました。私に責任があります」
キノコの負担を肩代わりするために手を尽くす。ユノアも起き上がれば加われるが、このまま死を演じるか、選べるのは片方だけだ。先のどさくさに紛れてバイザーを根本で割った。破片がどこへ飛んだのやら、まだ誰も気づいていない。この先に機会はない。今は死んでおく。
土に耳が触れている。土は空気よりも音をよく運ぶ。キノコの足音が動く。ちょうどいい位置に砲塔がある。接続用の突起部が座るに適した高さになる。キノコはここに体重を預けた。
「ノモズさん」
キノコが呟く。次の言葉を探している。必要な情報がどこにあるか、動揺した頭を落ち着けようとしている。
「ゆっくりでいいんですよ。いつまででも待てます。私も、皆も」
戦場での緊張が解けて普段の穏やかな喋りに戻る。キノコも取り戻すため、深呼吸とストレッチで体から戻す。感情は体にも紐付いている。人間は全身で思考している。これまで物事を考えるときの姿勢や仕草がどこにあったか、手探りで思い出す。ペンがほしい。顔を振り、手近な木の枝を見つけた。考えをまとめるときはいつも右手にペンがあった。設計図でペンを走らせて、途中のチェックポイントをメモに記しながら、言葉にならない範囲まで図で表していた。今は木の枝を空中に走らせる。手が、前腕が、肩が、今は思考の時だと確信する。
「ノモズさんの考えを聞かせて。残すと残さないの違いを。残したらどんな使い方ができるか」
ノモズは隣へ寄り、地べたに座った。土は耕されて柔らかく、尻を受け止めて絡みつく。普段ならば優雅に、お上品に、都会的な位置取りをしていた。今だけは野に戻る。汚れは洗えば片付くが、人間関係は洗えない。正面から向き合うよりも横並びに。見下ろすよりも同じ高さから。キノコと対等であると示す。行動は言葉より重い。
「記録を残すと、後の世代が確認できます。今日この日の出来事を、誰が何をしてどうなったかを。似た状況を見つけて、同じ悲劇を防ぎます。今は見えなくてもやがては、ロストテクノロジーに匹敵する技術が生まれます。そんな時に記録があれば、先例から学ぶ教材になります」
ノモズは言葉を終えたら黙って待つ。受け止めるだけでも時間が必要だ。次へ進む材料にするにはさらに。右手の木の枝が踊る。キノコは確かに思考を進めている。ノモズが携帯食と水を渡す。キノコはいつも考えながら食べたり飲んでいた。口や舌への刺激も必要だ。
「ノモズさんだけではできない?」
「信憑性が足りません。今日を生きた人々はやがて代替わりして、知らない世代が主役になる頃に疑念が生まれます。そんな技術がなぜ失われたのか、本当はすべて作り話じゃないかと考えます。それらへの回答を残せるのがキノコさんです」
遠くではご老人どもが苛立ちを見せて、クレッタが宥める。もっと遠くでは拠点の椅子に戻る者もいる。顛末を知るには部下からの報告で十分だ。あんな小さな子供などと吐き捨てる者には、キメラが強い目線で抗議する。手空きでなかったおかげで仕事は増えずに済んだ。
木の枝が踊る。お菓子が崩れて混ざる。キノコの考えが進む。自らの考えと受け取った考えを合わせて、衝突した部分を作り直す。足りない部分を探す。顔をあげて次の材料を求める。
「キメラおねえちゃん」
ノモズと反対の隣には砲塔があるので、斜め前で三角座りをした。急には立ち上がれない、乗り出しもできない、無防備な姿勢を曝け出す。これまで座敷でキノコと遊ぶときも同じ姿勢だった。習慣は変わらない。変えようとしても前回を思い出す。
「ノモズさんの理由があって、それでも破壊するなら、どんな理由があるかな」
キメラには伝わった。自分の考えを出したいのに、反応を恐れている。キノコは必要とあれば通すための理屈を作れる奴だ。そのくせ自分ごとになると他とぶつからない範囲に留めてしまう。わがままが下手な奴だ。賢いくせに、賢さを後ろ盾にできない。
「私の昔話になるが、嫌いな物なんて見たくもないだろ。私がアナグマに来た理由がそれだ。ここでは嫌いなものを見ないで過ごせる。好きなものと遠くにあるものだけだ。好き嫌いなんて側から見れば些事だ。自分でもそう思う。だが決して、小さな負担を無視してはいけない。毎日毎日、朝から晩まで、目に入る度に気分が悪くなる。それで消耗した分を癒やすために時間を使う。そんな日々を続けるのが不可能とまでは言わんが、本当は最初から消耗しなければ、もっと有意義に生きられる。だったら捨ててしまえばいいんだ。物も、人も、故郷も。私が生きるために、私の邪魔なんか誰にもさせない。アナグマは居心地がいいよ。似たもの同士だから、受け入れてくれる」
言葉を終えた。キノコは左手を伸ばして、キメラの服を掴む。キメラは手の汚れを確認して、大丈夫な指で撫でる。
「きのがその理由でこれを捨ててもいいと、本気で思うの」
「思う。ノモズだろうと文句は言わせないさ。苦しい場所では生きられない」
「本当に?」
「アナグマは事実を言うのが仕事だ。私もそれに忠実にしてる。どんな決断だろうと受け入れる」
目を見て言う。キメラの本気を伝える。外野の範囲はこれだけだ。記録か、抹消か。キノコはどちらを選んでもいい。ただし、後悔してはいけない。反感を恐れて記録してはいけないし、一時の気まぐれで抹消してもいけない。明確な意思が必要だと。
キノコの存在はアナグマに大きな影響を与えた。技術部の進歩は元より着実だったが、飛躍的にしたのはキノコだ。本人の腕もちろん、周囲が張り切るおかげでもある。諜報部でもキノコをだしにした活動がある。外部の生の声が届いたおかげで動向はさらに拡大する。実働部はお守りとして人形を持ち出す。対外浸透部では架空の仕送り先や思い出話に使う。一人への依存を避けるために候補がいくらでもある中で、あえてキノコを選ぶ。人気の賜物だ。いなくてもアナグマは成り立つが、いたほうが面白くなる。
「決めた」
キノコは立ち上がった。皆が見守る中心でミクロコスモスの前に向かう。破れた穴を見上げる。万が一に備えてキメラは立ち上がる。次の一言を待つ。決めた後でも口に出すまでには乗り越えるべき堤防がある。
「きのの答えは」
記録か、抹消か。よりよい選択肢を見つけて、足りなければ作り、日々を整えてきた。アナグマはずっとそうして生きてきた。その果てがたったの二通りに収束する。どこを探しても、何を作れても、第三の答えは決してない。
手を握り、震えている。見上げていた頭は徐々に下がり、呼吸の荒さが遠くでもわかる。ノモズが片足を浮かせたが、キメラが手で制する。今じゃない。まだ。
「やっぱりいやだよ。これは」
震えた声を絞り出す。力を込めずには吐き出せない。少しだけ声を大きくする。もっと力が必要になる。もう少し大きくする。頭が揺れる。大粒の涙が落ちる。
「見るだけでもか気分がわるいんだ。理由はわかってる。確信はさっき。まだ誰にも言ってないし、これからも言いたくない」
小さな体で向き合う。見守るしかできない。歯痒くても最後まで待つ他は妨害にしかならない。
「残すのはいやだ。消してしまいたい。正面に向かうと強くそう思う。だけど、残す意味がある。だけど、忘れたいものを思い出す」
逆説は限りなく続く。どちらを選んでもいいが、どちらを選んでも悪い。出すしかない。選ぶための一歩を。
「だけどさ。それで消したらだめなんだ。きのは次のきのを作っちゃあいけない。きのはアナグマだよ。もしアナグマにも見捨られたら、怖いよ。こいつは、ミクロコスモスは、きのなんだ。居場所がなかった頃の、きのなんだ」
言葉は言葉だけでは生まれない。必ず意思や感情を乗せている。乗り物が運転手や乗客を乗せるのと同じく、言葉にも運転手がいる。乗客を目的地へ送り届ける。悲痛な叫びは、小さな願いは、キノコから離れて目的地へ届く。キメラの耳に。ノモズの耳に。死んでいるはずのユノアの耳に。この場にいる全員の耳に。
「きのはあいつらと違うって思ってた。意地悪なんかしないって思ってた。間違いだったよ。きのは特別なんかじゃない。嫌なものを追い出したいんだ」
キノコは振り返った。ちょうど太陽が正面から照らす。眩しさも無視して目を開ける。仲間を見つめる。目から真下に光の筋が浮かぶ。
「それでも、きのにはアナグマがいる。一緒なら強くなれる。ミクロコスモスは、全ての記録は、いつまでも残すよ」
ノモズは眼鏡をずらした。キメラは不恰好な笑みで胸へ招いた。やや離れてクレッタや各国の見知らぬ連中も、片手にはハンカチーフがあった。
小さな勇者を讃える旗には、どれも共通の模様があった。