過ぎた話より 4
「イノックエル、私はシェリーに求婚をしたよ」
カチャーンと、イノックエルの手から離れたフォークが床に落ちる。
本人は、目を見開いたまま固まっていた。
「シェリーも承諾してくれたのでね。近々、式を挙げる予定だ」
まだイノックエルは呆けたままでいる。
が、かまわず話を続けた。
イノックエルがどう思うかになど、彼は興味がなかったからだ。
「式については、これからシェリーと話し合うことにしている」
イノックエルが、あんなくだらない報告をしに来なければ、話し合えていた。
イノックエルの「貴族らしさ」は、時として非常に煩わしい。
彼がどう答えるかを、イノックエルは、想定していたはずなのだ。
(犯人を知っていれば、私がなにもしないはずがない、と考えたのだろうが)
呪いについては過去のことだし、シェルニティは、気にしていない。
シェルニティが気にしていないのなら、彼にとっても、どうでもいい。
直接、間接にかかわらず、シェルニティの命を狙った者とは違うのだ。
(なにをするにしても、“そっと”やってくれと頼むつもりでいたようだ)
犯人は、イノックエルの側室。
となれば、ブレインバーグも消し飛ばされるかもしれない。
そうした恐れが、イノックエルの足を、ここに向けさせたのだ。
(隠さなかったところが、いかにも貴族だな、イノックエル)
彼に隠すことなどできないと知っている。
隠そうとして怒りをかうより、素直に話したほうが安全だと判断したのだろう。
だからこそ、彼は呆れたのだ。
家の前で「命懸け」みたいな表情を浮かべていたイノックエルに。
「式の様式によっては、きみたちにも出席してもらうことになると思うが、その際には、改めて連絡を入れるよ。いいかね、イノックエル」
「え……あ……は、はい……かしこまりました」
彼は、魔術を使い、とっくにイノックエルの落としたフォークを片づけていた。
新しいフォークを、テーブルの上に出してもいる。
イノックエルは気づいていないようだったが、それはともかく。
「お父さまは、反対なさる?」
「ま、まさ、まさか……っ! は、反対、反対など、するわけが……っ……」
イノックエルが、イスから転げ落ちそうになっていた。
シェルニティに「自分を殺す気か」と叫びたいくらいの気持ちでいるはずだ。
さりとて、彼の前では叫ぶことすらできずにいる。
シェルニティは、イノックエルが、婚姻について返答をしないので、反対されていると思ったらしい。
婚姻が解消され、シェルニティは経歴上「婚姻しなかった」ことになっていた。
婚姻解消は、婚姻無効とは違う。
婚姻の無効は、審議を開かなくてもできるし、単に夫が妻に言い渡すだけだ。
言い渡された日から、妻としての立場を失う。
が、実際に嫁いだ経歴は変わらないまま、家から出されるのだ。
誰かの「妻」ではなくなった、という事実だけが残る。
対して、婚姻の解消は審議が必要で、婚姻した日にまで遡り、経歴も抹消されると定められていた。
クリフォード・レックスモアは、シェルニティを娶らなかったことにしたかったに違いない。
己の経歴を、まっさらに戻したかったのだ。
だから、簡単な手段である婚姻の無効ではなく、あえて婚姻解消を申し立てた。
(おかげで、シェリーからも、人妻であった事実は消えたわけだ)
彼は、シェルニティの経歴など些末なことだと捉えている。
婚姻無効であっても、人の妻ではなくなるため、別の男性との婚姻は可能だ。
シェリーを妻に迎えられるのであれば、どちらでもかまわない。
ただ、婚姻解消のおかけで、彼女自身の体裁に傷がつかずにすんで良かったとは思うけれども。
「シェリー、きみの父君は、私の話を熱心に聞くあまり、祝いの言葉を述べるのを忘れていただけさ」
「そ、そうですとも! いや、本当に、おめでたいことにございます!」
彼は、冷たい視線をイノックエルに投げる。
自分ではなく「娘」に向かって言うことがあるだろう、と。
瞬間、イノックエルがハッとしたように、シェルニティに顔を向けた。
やはり、イノックエルの取柄は「察しがいいこと」だ。
「お、おめでとう、シェルニティ」
「ありがとうございます、お父さま」
「公爵様との婚姻で、きっと幸せになれるよ」
シェルニティが、少しだけ困ったように笑う。
イノックエルのわざとらしさに呆れたのでも、照れたのでもない。
わからなかったのだ。
胸が、少しだけ、きゅっとなる。
本当に、彼女が、ほんのわずかにでも憎しみを持っていれば、ブレインバーグを消し飛ばしていた。
シェルニティには、未だ感情が未発達なところがあり、実感が薄いこともある。
そのため、わからなかったのだ。
幸せとはなにか、が。
誰しもが「幸せ」を、日々、実感しているわけではないだろう。
だとしても、彼女の「わからない」は、本当の意味で「不明」なのだ。
実感したこともなければ、どういうものかも知らずにいる。
以前「愛」について語っていた時と同じだった。
「それについては、心配いらないよ、シェリー。いずれ、わかる」
「そうなの?」
「そうとも」
けして、押しつけられたものではなく、彼女自身が「幸せ」だと思うことが大切なのだ。
その日が来るまで、愛をそそぐだけだと、彼は思っている。
急ぐ必要はないし、待つつもりでもあった。
彼は、とっくに「幸せ」を享受しているので。
「ところで、イノックエル。きみは、魔術師を雇っているね?」
「はい。当家では、魔術師を複数かかえております」
「何事かあるたび、きみに来てもらうのは、いささか気が引ける。なにしろ、ここは辺境地だからなあ」
イノックエルの取柄は「察しがいい」ことだけだ。
それでも、ないよりはいい。
「そ、それでは、こ、今後は……魔術師を通じて、ということでも……?」
「私は、ちっともかまわないよ。細々とした手続きのために、きみが足を運ぶ必要などないさ。王宮での仕事に差し障りが出ると、周りもうるさくなるからね」
「お、お気遣い……いたみいります……実は……すでに、少々うるさくなってきておりまして……」
彼は、眉を、ついっと上げる。
今のイノックエルの言葉は、本音だった。
彼に合わせて場当たり的なことを言ったのではない。
「アーヴィの側近について、どうするかって話かい?」
「やはり、ご存知でしたか……王太子殿下が王宮に入られてから5年が過ぎております。そろそろ、側近をお選びいただきませんと……」
アーヴィことアーヴィング・ガルベリーは、ロズウェルド王国の王太子だ。
次期国王となるのは間違いない。
現国王は彼の幼馴染みフィランディ・ガルベリーであり、その1人息子だった。
「ランディも、きみらにせっつかれて嫌な顔をしているだろうねえ」
「ですが……最側近をつけていただかなければ……」
「いざという時に困る」
「…………ありていに申せば、その通りです」
イノックエルは、彼の前では怯えた子ネズミのようになるが、王宮では力を持つ重臣の1人だ。
ことが政に及ぶと、さすがに、しゃんとする。
(仮に、ランディが死ぬようなことがあれば、アーヴィは、すぐに即位しなければならない。その際に、最側近がいないのはまずい、ということだ)
もちろん「現国王の死」をほのめかすのは、不敬に過ぎる。
それでも、政を執る者としての自尊心から、イノックエルは、あえて彼の言葉を肯定したのだろう。
さりとて、彼は政になど関心がない。
シェルニティと穏やかに過ごしたいとの気持ちから、最良の提案をした。
「それでは、今後、どうしても、きみに出向いてもらう必要が生じた時は、王都の屋敷に呼ぶことにするよ」




