秤にかけたら 2
「嘘……嘘よ、そんなの……嫌……」
わけのわからない感情が、あとからあとから、あふれてくる。
彼の言葉に、シェルニティは、すべてを理解した。
キサティーロは、執事を辞めるのではない。
「嫌よ、キット!! どうしてっ?! そんなことってないわっ!! あなたが、いなくなるなんて!! なぜ、あなたが死ななければならないのっ?!」
なにもわからなくなるほど、混乱している。
あるのは、こんな感情はほしくない、という気持ちだけだ。
初めて王都の屋敷に行った時、キサティーロは、シェルニティを、なにも言わず受け入れてくれた。
ブレインバーグともレックスモアとも違う対応をしてくれたのだ。
それは、彼と一緒だったからかもしれない。
けれど、とても自然に「普通」に扱ってくれている。
キサティーロは無表情だが、優しい人だ。
完璧な執事であり、相手に気遣わせない気遣いのできる人でもあった。
彼に苦言を呈し、困った顔をさせる、物申す執事のキサティーロが好きだ。
シェルニティの大事な人の1人にもなっている。
「どうにかして! お願いよ!! どうにかできるのでしょう?! あなたには、大きな力があるのだから、キットを助けられるのでしょう?!」
自分でも、理不尽なことを言っていると、頭の隅ではわかっていた。
できるのであれば、彼は、あんなふうに怒鳴ったりはしない。
彼だって、動揺している。
平気なわけではないのだ。
頭ではわかっているのに、心がついてこない。
シェルニティは、初めて感情に支配され、我を失っている。
なぜかはわからないけれど、自分の大事な人だけは大丈夫だと、思い込んでいたからだ。
それは、理屈や知識に裏打ちされたものでは、けしてない。
無意識の決めつけに過ぎなかった。
大事な人の「死」を意識したくなくて。
シェルニティの未発達な感情は、これまで、どこか上の空。
もとより、彼女には大事な人が少なかったのだ。
観察し、推測はしていても、感情は反応しておらず、他人事でしかなかった。
レックスモアが吹き飛ばされた時も、親身になって心配したりはしてはいない。
シェルニティが自分を薄情だと思うのは、ほとんどの人との距離が遠いからだ。
両親も含め、他人よりも他人だったことが影響している。
そのため、どうしても「自分のことのように」は思えずにいた。
だが、キサティーロは違う。
他人事にはならない。
まさに、シェルニティにとっては「自分のことのように」なのだ。
そして、そんな相手を初めて、失う。
彼女は「死」を理解していた。
リンクスが死にかけて、いっそう、実感もしている。
もうキサティーロとは話せなくなるのだ。
もうキサティーロは、紅茶を淹れてはくれない。
もうキサティーロに、出迎えてはもらえなくなる。
屋敷に行っても、キサティーロの姿は、ない。
この世界のどこにも。
想像しただけで、体の震えが止まらなかった。
勝手に、涙が、ばたばたと、シェルニティの目からあふれる。
シェルニティが頭を振るたび、小さく周りに飛び散った。
「シェリー、シェリー、ごめんよ、すまない……すまない……シェリー」
シェルニティを抱きしめている彼が詫びている。
日頃、直接的な謝罪の言葉を口にしない彼が、繰り返し、謝っていた。
けれど、シェルニティは、彼に詫びてほしくないと感じている。
彼女は、彼に「お願い」など、ほとんどしたことがない。
そして、願えば、必ず、彼は叶えてくれた。
その彼が、謝っている。
キサティーロを助けられないからだ。
シェルニティの心も、頭の中もぐちゃぐちゃになっている。
その頭の中に、声が響いた。
(お心を、お鎮めください、シェルニティ様)
シェルニティは、すべての動きを止めた。
怒鳴るのも、喚き散らすのも、忘れる。
涙だけが、勝手に、こぼれ落ちていた。
(……キット…………)
即言葉で、キサティーロが話しかけてきている、ということだけが、わかる。
シェルニティも、心の中でだけ応えた。
(以前、お訊きしたことを、もう1度、お訊きいたします)
周囲の景色は見えてはいても、目に映ってはいない。
キサティーロの声は、即言葉を通していても、いつも通りだった。
(シェルニティ様は、旦那様を愛しておられますか?)
(ええ、もちろんよ)
(ともに人生を過ごされたいとお考えですか?)
(そうでなければ、愛してはいないわ)
以前、森の家でした会話と、そっくりそのまま同じだ。
その時には、シェルニティの気持ちなんて、お見通しのはずのキサティーロが、そんなことを訊く意図がわからずにいた。
(日常には、多くの悲しみや寂しさが、存在しており、楽しいことばかりではありません。それでも、お2人は、人生をともにされるのです)
(でも……あなたがいなくなるなんて……とても考えらないの……)
あまりにも突然に過ぎて、受け入れられずにいる。
しかも、遠くに越すだとか、旅行に出るだとかいった話ではないのだ。
(人は誰でも死にます。人である限り、その者の善悪にかかわらず、遺される者がどう感じるかにもかかわらず、いずれは必ず訪れます)
誰の上にも「死」は、降ってくる。
予期していようがいまいが、どこかの時点で、やってくる。
キサティーロは、そう言いたいのだろうか。
(私は、我が君にも、何度か苦言を呈してまいりました)
唐突に、話が変わった。
キサティーロの話しぶりは変わらない。
なのに、雰囲気がやわらかくなった気がする。
(ですから、我が君の伴侶になられるシェルニティ様にも苦言をひとつ)
苦言と言われているのに、そんな感じはしない。
ひどく優しいものが伝わってくる。
(躊躇わないでください)
なにを、と、キサティーロは言わなかった。
キサティーロは、躾に厳しいのだ。
すべてを教えてはくれないのだろう。
「解」は、自分で導くものであると。
(……わかったわ……キット……)
シェルニティの中に吹き荒れていた恐慌がおさまっていく。
納得したというより、わからなければならない、と思ったからだ。
これがキサティーロの選択であり、それを否定することはキサティーロ自身をも否定することになる。
キサティーロの完璧さを、シェルニティは疑わない。
(私がシェルニティ様に苦言を呈したことは、どうか我が君には、ご内密にお願いいたします)
(そうね……彼、今よりもっと過保護になりそうだもの)
キサティーロの、あのささやかな笑みを思い出す。
目の前にいるキサティーロは、無表情だったけれども。
(私、あなたのことが大好きだったわ。あなたは、私の大事な人だった。あなたが完璧で、とても優秀な執事だったって、ずっと覚えておくわね)
(…………やはり、シェルニティ様には、敵いませんね)
私的なことを話すのも苦手なようだったが、褒められるのも苦手らしい。
これほど完璧なキサティーロにも、苦手なことがあるのだ。
ふつっと、キサティーロの気配が消える。
即言葉が切れたのだろう。
シェルニティは、心の中でつぶやく。
(ええ、キット。私は、躊躇わないわ。彼を愛し続けることも……)
大事な人を守るために、犠牲をはらうことも。




